第191話 湖に現れた階段
朝、玄関で靴紐を結んでいると、フェナが小さな密封袋を持ってきた。昨日、鐘葉林から戻った俺の靴底に挟まっていた結晶の粒だ。袋には彼女の字で日付と採取場所ではなく「靴底に付着」と書かれている。現地で拾ったものではない、と区別したかったらしい。
「鈴も入れました。ナオトさん、二つとも返してから、お昼の買い物に行きましょう」
「そうしよう。今日の仕事はまだ入っていないしな」
フェナは窓辺の黄色い花を見てから、布の小袋を腰に結んだ。市場で買った焼き栗の殻はもう片づけてある。青い縁の皿も洗われ、棚に二枚並んでいた。俺はその光景に見慣れてきたことを少し嬉しく思いながら、彼女と部屋を出た。
ギルドの受付で瀬川さんに袋と鈴を渡すと、彼女はまず封の状態を確かめ、結晶を専門部署へ回す手続きを取った。鈴の方は貸出簿に返却時刻を書くだけで済んだが、表面の白い粉を勝手に拭き取らずにいたことを聞くと、職員用の箱へ分けて置いた。
「昨日はお疲れさまでした。鐘葉林の入域制限は予定より早く始まりました。調査班からも、久世さんたちには感謝を伝えてほしいと言われています」
「全員戻れたのは、篠崎さんたちが判断してくれたからです。美波の手首はどうなりましたか」
「再診は午後だそうです。本人は午前中、訓練場へ顔を出すと言っていましたが、剣を持たせないよう相馬さんが念を押していました」
俺が苦笑すると、瀬川さんは机の下から別の封筒を出した。鐘葉林の報告書ではなく、青い紙に湖の絵が描かれている。湖面から石段が現れ、対岸には低い山が連なっていた。
「こちらは救難依頼ではありません。北の鏡月湖で、古い観測施設の調査をする計画が持ち上がっています。久世さんに一度、説明だけ聞いてほしいそうです」
「湖の調査ですか。俺は船を操れませんよ」
「操船は船頭さんの担当です。水位が下がる短い期間だけ、湖の中に石段が現れるそうで、現地の調査責任者が『帰る方向を把握できる人』にも参加してほしいと。ただし、帰還の保証を求めているわけではないと明記されています」
その最後の一文に目が止まった。以前なら、俺の能力が必要だと言われると、何ができるのかを説明するだけで随分時間を使った。今回は依頼書の方に、俺ができないことまで先に書いてある。
「話だけなら聞きます。でも、フェナにも予定があるので、参加はまだ決められません」
隣でフェナが顔を上げた。自分の予定を先に尋ねられるとは思っていなかったのかもしれない。
「私も説明を聞きたいです。湖から階段が出てくるなんて、見たことがありません」
瀬川さんは笑い、午後に調査責任者がギルドへ来ると教えてくれた。俺たちは昼の買い物を済ませてから戻ることにし、受付を離れた。
市場へ向かう途中、訓練場の塀の向こうから木剣が打ち合う音がした。門が開いていたので覗くと、美波が右手首を固定したまま、若い探索者二人の間に立っていた。本人は剣を持っていない。代わりに足元へ白い縄を置き、二人がそこを越えるたびに声をかけている。
「踏み込んだあと、戻る足を残して。相手を追うことばかり考えるな」
若い探索者が勢いよく前へ出ると、美波は左手を上げて動きを止めた。縄の向こうには十分な空間があるのに、後退する時だけ二人の足が絡む。攻める動きは覚えていても、戻るための位置を忘れているらしい。
「久世、見ていくか」
美波がこちらに気づいた。俺はフェナと門をくぐり、固定具を指した。
「今日は休んでいるはずじゃなかったのか」
「剣は持っていない。教えるだけだ。午後の診察で許可が出るまでは、それ以上しない」
「相馬さんに言われたから?」
「半分はな。もう半分は、自分の手が治る前に他人の手まで傷めさせたくないからだ」
美波は若い二人に水を飲むよう指示し、縄を巻き取った。以前の彼女なら、こんな基礎練習を自分の仕事だと思わなかったかもしれない。だが、二人は彼女の話を聞く時、剣を振っている時と同じくらい真剣な顔をしていた。
「湖の依頼、聞いたか」と美波が尋ねた。
「まだ説明だけだ。知っているのか」
「鏡月湖なら昔、護衛で一度行った。湖面が下がると、岸から古い観測台まで石段が出る。ただ、あれは橋じゃない。途中が欠けているし、滑る。潮がない湖なのに、水位の変わり方が妙だと言われている」
「昔の人が作った道なら、《帰り道》で分かるかもしれない。でも通れるかは別だな」
「その通り。お前が帰る方向を言えても、足場が崩れるなら止まるしかない。依頼主にも、そこを分かってもらえ」
フェナは美波の手首を見つめ、遠慮がちに尋ねた。
「美波さんは行かないんですか」
「行かない。悔しいけど、今回は休む方が仕事だ。フェナ、もし参加するなら、久世の返事だけで決めるな。お前が何を見たいか、何が怖いかも言え」
「はい。私、湖を見たいです。でも、泳げません」
美波はすぐに笑わず、頷いた。「それは大事な情報だ。水に入らずに済む計画なのか、船に乗るなら救命具はあるのか、最初に聞けばいい」
俺も頷いた。フェナが泳げないことは知っていたが、依頼書を見た時にはそこまで考えが及ばなかった。帰る道のことを聞かれると、つい自分の能力の話に意識が向いてしまう。
市場では根菜と乾燥豆を買い、昼には屋台の温かい麺を食べた。フェナは店先に並んだ湖の絵葉書を見つけ、鏡月湖のものを一枚選んだ。そこには、石段の先に細い塔が立ち、塔の上へ二つの月が描かれていた。
「月は一つなのに、どうして二つあるんでしょう」
「水に映った月じゃないか。絵の中では、湖面より上に見えるけど」
「じゃあ、絵を描いた人が間違えたんでしょうか」
店主は会話を聞いていたらしく、昔から「二つ目の月を見た者は帰りを忘れる」と言い伝えられているのだと教えてくれた。旅人を怖がらせるための話だろうと笑っていたが、フェナは絵葉書をしばらく見比べていた。
「帰りを忘れるって、家がどこか分からなくなることですか。それとも、帰りたくなくなることですか」
「そこまでは分からないな。湖に行くなら、現地の人に聞いてみよう」
午後、ギルドの小会議室で俺たちを待っていたのは、灰色の外套を着た女性だった。名を榛沢冴子という。古代観測施設の調査を専門とする研究者で、卓上に石段の測量図と古い絵を広げた。相馬さんも同席し、依頼の範囲を確かめる役を引き受けている。
「まず誤解のないように申し上げます」と榛沢さんは言った。「今回の目的は遺物の持ち出しではありません。水位が下がる期間に、岸から見える石段と塔の構造を調べることです。危険なら施設へ入らず、外から測量して終えます」
地図には岸から湖心へ続く石段が描かれ、その先に円形の台座と小さな建物があった。湖面が高い季節にはすべて水中に沈むため、調査できるのは年に数日だけだという。
「水位が下がる理由は分かっているんですか」と俺が聞いた。
「湖底に古い排水設備があるという説と、地下の自然な流路が開くという説があります。ただし、どちらも確定していません。過去の記録では、石段が現れてから再び沈むまでの時間にもばらつきがあります」
「では、戻る時刻はどう決めるんですか」
「湖岸に水位計を設置し、船頭と測量担当が監視します。水位が予定より早く上がれば、私が調査を中止します。あなたの能力で水位を知ろうとは考えていません」
榛沢さんの説明は明確だった。俺が帰路を感じ取れても、水が膝まで来ている石段を歩けるかは分からない。そもそも湖の水が上がる速度も、俺には見えない。彼女はその制約を確認したうえで、施設内部で方向を見失う可能性に備え、帰る方角を別系統で記録してほしいのだと言った。
「同行者は誰ですか」と相馬さんが尋ねる。
「私と、現地の船頭である浦賀俊さん。護衛には鹿島さんが来てくださる予定です。久世さんとフェナさんが加われば五人です。船は湖岸の待機所に置き、石段の調査中は動かしません。万一の時の回収船は別に用意します」
「回収船を出せない風なら、最初から渡らない。そこは契約に入れてください」と相馬さんが言った。
「もちろんです。湖に入るための条件と、撤収するための条件を別々に記します」
フェナは机の図面を指さした。「石段が出ている時は、ずっと歩けるんですか」
「いいえ。途中に欠けた部分があります。浦賀さんが足場を確かめ、通れなければ引き返します。泳ぐ必要のある行動は計画に含めません」
「私は泳げません。救命具を着ても、怖くなって動けないかもしれません」
榛沢さんは彼女の顔を正面から見た。「教えてくれてありがとうございます。救命具は全員着けますし、最初の岸辺で装着を練習します。怖くなったら、その場で言ってください。誰かが笑ったり、遅れを責めたりしないよう私からも伝えます」
フェナは少し肩の力を抜いた。俺は彼女に無理をさせたくないと思っていたが、参加しない方がいいと先回りして言うのも違う気がしていた。美波が言ったように、何を見たいのかと、何が怖いのかは、同じ人の中にあっていい。
「俺は参加できます。ただし、道が分かるから帰還できるという宣伝には使わないでください」と俺は答えた。
「同意します」と榛沢さんが言った。「調査が成功した時も、あなたの能力だけの成果にはしません。失敗した時にあなた一人の責任にすることもしません」
その言葉を聞いた相馬さんが契約書の一か所に印をつけた。責任の分け方は、きれいな言葉だけでは決まらない。実際の現場で誰が中止を決めるのか、誰が水位を見て、誰が人を数えるのか。細かな取り決めを一つずつ確認するうちに、窓の外の光が少し傾いていた。
会議の終わりに、榛沢さんは古い絵をもう一枚出した。湖の石段を描いたもので、台座の上には細い棒が並び、棒の先には丸い金属板が吊られている。絵葉書の二つの月とよく似た円が、ここにも二つ描かれていた。
「この塔は、月を観測するためのものだったと考えられています。ところが、塔の壁には『帰るものを数えよ』と読める文字が残っているんです。星の観測施設に、なぜそんな言葉があるのか。私はそれを確かめたい」
フェナが身を乗り出した。「月を数えるんじゃなくて、人を数えるんですか」
「そこもまだ分かりません。古い言葉なので、別の意味かもしれない。答えを決めてから調べに行くつもりはありません」
俺はその絵を眺めた。帰るものを数えよ。普段の救難なら、人数を確かめることは当たり前だ。だが、古い天文台に刻まれた文字だと思うと、誰が誰の帰りを待っていたのか、想像が広がった。
翌朝、俺たちは北へ向かう馬車に乗った。美波は見送りに来なかったが、端末には「足場の判断は専門家に任せろ。フェナにも自分の返事をさせろ」と短い連絡が届いていた。俺が画面を見せると、フェナは声を出して笑い、自分の端末にも返事を打った。
鏡月湖へ着いたのは昼前だった。山に囲まれた湖は静かで、岸には葦が茂り、空の雲が水面へ長く映っている。船着場では、日に焼けた男性が縄を巻きながら待っていた。榛沢さんが浦賀さんを紹介すると、彼は俺たちを一人ずつ見て、荷物より先に靴底を確かめた。
「石段は苔で滑る。いい靴を履いていても油断するなよ。今日は水がまだ高いから、下見だけだ。湖を見に来たつもりで歩いてくれ」
岸の見張り台には水位を示す目盛りがあり、前日の線より少し下がっていた。浦賀さんは毎朝その数値を記録し、風と雨の予報も見ているという。俺が湖面を眺めても、どこに石段があるのか分からない。水の色が少し濃い場所が、岸から真っ直ぐ湖心へ延びているだけだった。
「ここに道が出るんですか」とフェナが尋ねる。
「道に見えるものが出る、と言った方がいいな」と浦賀さんは答えた。「古い石段は、歩く人のために作られたのかどうかも怪しい。明日、水がもう少し下がれば分かる」
彼は小舟の舳先を指した。そこには二本の長い竿と、赤い浮きが積んである。石段の端を探るための道具で、人を渡すためのものではない。水が引くまでにできる仕事が、思った以上に多いらしかった。
夕方、岸の小屋で救命具の装着を練習した。フェナは胸元の留め具を自分で締めたあと、俺に背中の紐を確かめてもらった。浦賀さんは彼女を急かさず、水辺へ一歩ずつ近づく練習だけをさせた。波が足元の石を濡らすと、フェナは俺の袖をつかんだが、すぐに離して深く息をついた。
「ナオトさん、明日も怖いかもしれません。でも、今日よりは何が怖いか分かりました」
「それだけでも、来た意味はあったな。明日、渡らないと決めても構わない」
「はい。渡るかどうかは、明日の私が決めます」
練習を終えたあと、榛沢さんは小屋の長机に古い測量帳を広げた。紙の端は何度も濡れて乾いたように波打っている。最後の調査は二十年以上前で、石段が現れた日と消えた日が細かく記されていた。けれど、頁をめくると、ある年だけ日付の横に大きな空白が残されていた。
「記録がなくなったんですか」と俺が聞くと、榛沢さんは首を横に振った。
「その年は調査をしなかったんです。湖の南岸で病が流行して、村の人たちは観測より暮らしを守る方を選びました。後から来た研究者が『貴重な機会を逃した』と書いていますが、私はその言い方が好きではありません」
浦賀さんは湯を沸かしながら、南岸の集落は今も残っていると教えてくれた。病が収まったあと、村人は湖へ戻ったものの、石段の上を歩くことは禁じられたという。誰かがそこで事故に遭ったからではなく、観測に来る人が増え、漁のための舟を勝手に使われるようになったからだ。
「俺の爺さんは、舟を貸せと言われるたびに腹を立てていた。調べることが悪いんじゃない。戻ってくる時間を決めず、舟を借りたことまで忘れる人が嫌だったんだ」
「今回も村の方に迷惑がかかるなら、やめるべきですか」とフェナが尋ねた。
「やめるかどうかは、迷惑の中身を聞いてから決める。村の人は湖を見に来るなとは言っていない。岸の道を塞ぐな、漁具に触るな、舟を勝手に動かすな。その三つを守れれば、話は違う」
フェナは自分の手帳を取り出して書き留めた。俺はその文字を横から見て、彼女が仕事の注意事項ではなく、誰かの暮らしに関する約束として受け取っていることに気づいた。ギルドの契約書にも同じような項目はあるが、浦賀さんが爺さんの話をすると、そこに人の顔が見えてくる。
榛沢さんは帳面の最後に挟まれた薄い紙を示した。そこには湖の石段と、塔から岸へ伸びる一本の線が描かれている。線の先には、小さな丸がいくつも並んでいた。地図記号にしては不揃いで、子どもが描いたようにも見える。
「これは何ですか」
「分かりません。昔の調査員は船の位置を記したのではないかと考えています。でも、岸の近くにこんな数の舟を並べる理由が見当たらない。私は、塔の仕組みと関係があるのではないかと思っています」
浦賀さんが紙を覗き込み、意外そうな顔をした。「これ、舟じゃなくて灯りじゃないか。うちの村では冬に湖へ小さな灯籠を浮かべる。帰ってこなかった人のためじゃない。漁を終えて戻る人に、岸の位置を知らせるためだ」
「灯籠なら、水の流れで動いてしまいませんか」と榛沢さんが聞く。
「動くさ。だから、舟から見た灯りの位置を一つで決めるなと教わる。山の形と岸の火と、いくつか合わせて見るんだ。昔の人だって同じだったんじゃないか」
俺は自分の能力について話そうとして、やめた。帰る方向を知ることと、目に見える目印を重ねて確かめることは似ているようで違う。俺の《帰り道》を持たない人がどうやって湖から戻ってきたのか、その方法を知る方が、ここでは大事な気がした。
「ナオトさん」とフェナが小声で言った。「灯りを一つだけ信じると、動いた時に困りますね」
「そうだな。明日も、俺の言う方向だけを信じないでくれ。浦賀さんの水位と、榛沢さんの図面と、自分の足元を見てほしい」
「はい。私は、みんなが何を見て決めたのか、聞きながら歩きます」
彼女はそう答え、手帳の端に小さな灯籠の絵を描いた。紙の上では灯りは動かない。けれど、明日の湖では、水も光も人の思い通りにはならないだろう。俺は自分の荷袋から救命具の確認札を取り出し、名前の下に「途中で中止を申し出てもよい」と書き足した。誰かの許可がなければ戻れないと、思い込まないためだった。
日が沈むころ、湖の中央で水面が細く割れたように見えた。浦賀さんが目盛りを見てから、双眼鏡を榛沢さんへ渡す。葦の向こうで、濡れた石の角が一つ、また一つと現れ始めていた。夕焼けを受けた石は赤く光り、湖の中に誰かが静かに階段を並べているようだった。
「思ったより早い」と浦賀さんがつぶやいた。「今夜は雨が降らないはずだが、明日の水位は朝まで分からん。予定を前倒しするかどうか、数字を見て決めよう」
俺は湖の中へ延びる石の列を見た。まだ誰もそこを歩いていないのに、向こう側へ続く道が生まれたように感じる。しかし俺の《帰り道》は、これから行く場所の答えをくれない。ここで立ち止まっている限り、俺が知っている帰路は、背後の小屋と馬車道へ戻る方向だけだった。
湖面には本物の月が一つ昇っていた。水の揺れの中にもう一つ、薄い月が浮かぶ。絵葉書の謎は、ただの反射だったのかもしれない。フェナは二つの光を交互に見つめ、明日現れる石段の先へ目を移した。
「ナオトさん。あの階段、どこへ行くんでしょうね」
「それを調べに来たんだ。帰り方だけは、みんなで確かめながらな」
風が葦を揺らした。岸の小屋から夕食の匂いが流れてくる。俺たちは湖を背にして歩き始めたが、フェナは一度だけ振り返った。水面の二つの月はまだ並んでいて、現れかけた石段の間に、淡い光を落としていた。




