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ハズレスキル《帰り道》しかないF級探索者、遭難したS級パーティを全員連れて帰ったら救難依頼が殺到しました  作者: ころもぐら


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第190話 持ち帰らなかった記録

検問所の明かりの下で、薄翅虫の翅が白い雪のように舞っていた。外へ続く扉は見えているのに、そこへ近づくほど虫の数が増える。俺たちは上部斜坑の曲がり角で足を止め、壁の陰に寄った。帰路を意識すると、出口はやはり扉の向こうにある。だが、その方向へ進むべきかどうかは、俺の能力が答えてくれることではなかった。


篠崎さんは携帯灯を手で覆い、群れの動きを観察した。虫は人を追っているようには見えず、天井の白い照明の周りを何度も旋回している。何匹かが壁にぶつかり、透明な翅を落とした。床に積もった翅は滑りやすく、足を取られれば後続の人まで転ぶかもしれない。


「光に集まっているんでしょうか」とフェナが尋ねた。


「その可能性が高いです」と篠崎さんは答えた。「ただ、今の群れが光だけに反応しているとは限りません。結晶の音にも引き寄せられます。照明を消したあと、どう動くか確かめなければ」


美波は右手首を押さえたまま、検問所の職員へ無線で指示を送った。照明を一斉に消すのではなく、外側の誘導灯から順に落とし、群れがどちらへ移るか観察する。暗くなった場合の歩行を考え、検問所の内側には足元を照らす赤い灯りを残す。判断は篠崎さんと職員が行い、美波は人が移動できる状態になったかを見極める役割だった。


『外側の灯りを落とします。そちらは動かず待機してください』


無線の声が聞こえると、俺たちは互いの顔を見た。七人いることを確かめる作業は、これで何度目だろう。だが、同じ人数を数えるたびに、さっきまでと違う状態であることが分かる。安堂さんの記録箱は破れ、美波は手首を痛め、俺たちは予定の撤収時刻を過ぎている。無事という言葉で、すべてを一緒にしてはいけない。


検問所の照明が一つ消えた。白い羽の渦はすぐには動かなかったが、次の灯りが落ちると、群れの外側がゆっくりほどけ始めた。虫は暗い斜坑へ散るのではなく、まだ明るい天井の隅へ集まっていく。篠崎さんは三浦さんへ合図し、風向と群れの位置を短く記録させた。


「今なら通れますか」と俺が尋ねた。


「まだです。扉の手前に虫が残っています。それに、外側の風が強くなれば、群れがこちらへ戻るかもしれません」


彼女は急がなかった。急いでほしいと思っている俺には、ひどく長い待ち時間だった。けれど、先ほど記録箱を失った安堂さんの顔を思い出すと、何かを取り戻したい気持ちが判断を早めてしまう怖さも分かる。俺たちはすでに調査を終えている。ここから先の目標は、七人が地上へ戻ることだけだ。


検問所の職員が赤い誘導灯を点けた。白い翅は赤い光へほとんど集まらず、扉の周囲に細い通路が見えてくる。美波は鹿島さんに先行して足元を確かめてもらい、篠崎さんが移動を許可した。俺たちは二人ずつ間隔を空け、壁際の線を踏むようにして進んだ。


先頭の鹿島さんが扉をくぐり、続いて安堂さんが外へ出た。彼は足を止めかけたが、検問所の職員が腕を伸ばして誘導し、外側の安全区画まで案内する。篠崎さんと三浦さんが続き、フェナが俺を振り返った。


「ナオトさん、次は私たちです。美波さんは後ろにいます」


「分かった。足元を見て進もう」


フェナは小さく頷き、俺の一歩前を歩いた。白い翅が靴の横を滑るたびに、彼女の肩がこわばる。それでも歩幅を乱さず、扉の敷居を越える。俺も後に続き、冷たい地上の風を顔に受けた。遠くで車両のエンジンが動いている。いつもなら何とも思わない音が、結晶の響きとは違う世界のものに聞こえた。


最後に美波が扉へ近づいた時、斜坑の奥から硬い衝撃音が響いた。防護柵が何かに押されたのかもしれない。虫の群れが一斉に舞い上がり、赤い灯りの前へ広がった。美波は足を止め、鹿島さんへ手で合図した。


「扉を閉めて。私が出たらすぐに」


鹿島さんが外側の取っ手を握り、美波が一歩踏み出す。彼女の背後で結晶の破片が床を転がり、数匹の枝喰いが斜坑の暗がりから姿を見せた。俺は声を上げかけたが、鹿島さんの槍が扉の内側へ伸び、魔物の進路を塞ぐ。美波は痛めた右手を使わず、左手で剣の柄を支えながら敷居を越えた。


扉が閉まる直前、一体の枝喰いが飛びかかった。鹿島さんは槍を引き、美波が扉の縁を蹴って勢いをつける。金属板が重い音を立てて閉まり、魔物の爪が内側を引っかいた。職員が施錠を確認し、全員を扉から離した。


「追ってきませんか」と安堂さんが震える声で尋ねた。


「扉の強度は検問所が確認します」と美波が答えた。「私たちは離れよう。ここに残って見張る必要はない」


俺たちは指示に従い、検問所の奥にある待機室へ移動した。そこでは相馬さんが待っていた。彼は俺たちを見るとすぐに人数を数え、職員が持ってきた入域表と照合する。七人全員が帰還したことを確認したあと、美波の手首の状態を尋ね、医療担当へ連絡した。


「久世、フェナ、よく戻った。状況は聞いている。詳しい報告はあとでいいから、まず水を飲んで休め」


相馬さんの声を聞いて、俺はようやく肩から力が抜けた。待機室の椅子に座ると、足の裏がじんじんしている。結晶の床を慎重に歩いていた時には気づかなかったが、思った以上に体へ力を入れていたらしい。


フェナは俺の隣へ座り、布袋から鈴を取り出した。表面に白い粉が付いているが、ひびはない。彼女は振ってみたものの、やはり音は鳴らなかった。


「これがあったから、虫を刺激しないで歩けたんでしょうか」と彼女が尋ねた。


「少しは役に立ったと思う。でも、鈴だけで帰れたわけじゃないね」


「はい。私、あの時、誰かが『これがあれば絶対に大丈夫』と言わなくてよかったと思いました。そう言われたら、信じてしまったかもしれません」


俺は頷いた。能力や道具の役割を大きく言いすぎないことは、現場で何度も教えられてきた。それでも危険な場所では、誰かに全部大丈夫だと言ってほしくなる。今日の俺もそうだった。帰る道が分かっているのに動けない時間が長く、何度も能力を意識し直していた。


医療担当が美波を呼びに来ると、彼女は右手首を見せて簡単に経緯を説明した。診察の結果、骨に明らかな異常は見られないものの、腫れがあるため固定して後日再検査することになった。美波は面倒そうな顔をしたが、処置を断らなかった。


「無理して戦うところまで含めて強いと思われたら困るからな」と美波は言った。「私が止まるべき時に止まらないと、後ろの連中も止まれなくなる」


相馬さんが頷き、鹿島さんにも装備の点検と休息を指示した。鹿島さんは槍の穂先を布で拭き、深く頭を下げた。彼の腕にも擦り傷があったが、本人は気づいていなかったらしい。医療担当が消毒すると、初めて少し顔をしかめた。


調査班の三人は別の机で、持ち帰れた資料を確認していた。安堂さんの記録箱は大きく裂け、中身の紙はほとんど残っていない。端末の写真と一部の数値は無事だったが、手書きの観察図が失われたことを知ると、篠崎さんはしばらく何も言わなかった。


「私の判断が遅かったからでしょうか」と安堂さんが尋ねた。「あの枝に箱を当てなければ、魔物を刺激せずに済んだかもしれません」


「原因は調べます」と篠崎さんは答えた。「でも、音が一度鳴ったから全部が起きた、と今ここで決めることはできません。響甲獣が移動した理由も、羽化が早まった理由も、まだ分からないんです」


「それでも、僕が箱を守ろうとしていたら、誰かが怪我をしたかもしれません」


「そうですね。だから、手を伸ばすのをやめたことも記録しましょう。何を失ったかだけでなく、何をしなかったかを残す必要があります」


俺は二人の話を聞きながら、安堂さんの手元を見た。彼の指には紙を握りしめた跡が残っている。大切な記録を置いてきたことは、簡単に納得できるものではないだろう。けれど、あの場で記録を守るために戻っていたら、俺たちの誰かが帰れなかったかもしれない。そう考えると、失ったものを惜しむ気持ちと、戻らなかった判断を尊重する気持ちは、同時に持っていていいのだと思えた。


相馬さんは現場報告を整理する前に、篠崎さんへ今後の入域について確認した。鐘葉林の観光区域も含めて立入制限を見直す必要があり、少なくとも羽化が落ち着くまでは新たな調査を行わないという。保守扉と防護柵の点検も、魔物の動きが収まってから専門班が行う。俺たちが再び中へ戻る予定はない。


「久世、お前の能力で保守扉の向こうが出口だと分かったのは助かった」と相馬さんが言った。「だが、そこを通る判断は現場でできたのか」


「篠崎さんたちが床と扉を確認して、美波たちが魔物を止めてくれたからです。俺だけなら、扉の前で立ち尽くしていたと思います」


「それでいい。報告書にも、その順番で書いてくれ」


俺は頷いた。自分の役割を小さく書くことが謙遜になるわけではない。できたこととできなかったことを正しく残せば、次に同じ場所へ入る人が何を準備すべきか分かる。今日は帰路を把握できたことより、その道を通れるかどうか別の人が確かめてくれたことの方が、俺には大きく感じられた。


その後、篠崎さんの許可を得て、俺たちは検問所の監視室へ移った。大きな窓の向こうに空洞が見えるわけではなく、壁には振動計の波形と温度の推移が映し出されている。職員が過去の記録を並べると、今年の羽化は例年より早いだけでなく、空洞の奥から入口側へ移動する順番も違っていた。


「この変化を予測できたんですか」と俺が尋ねると、篠崎さんは正直に首を振った。


「去年までの記録だけでは難しかったと思います。だから今日、調査に入りました。でも、入ってみたら、想定した条件そのものが変わっていた。調査の続行より撤収を選んだのは、そのためです」


三浦さんは画面の端にある温度の線を指した。数日前から地下水の流れが少し変わり、空洞の一部で気温が上がっていたという。薄翅虫の羽化と関係している可能性はあるが、ほかの要因も考えられる。安堂さんは自分が失った観察図のことを思い出したのか、唇を引き結んだ。


「その変化をもっと早く記録できていれば、今日の危険を減らせたかもしれません」


「そうかもしれません。でも、結果を見てから『予測できたはず』と決めるのは違います」と篠崎さんが答えた。「次はどの情報を先に集めるべきか、そこを考えましょう」


俺は監視画面の白い線を見つめた。自分の能力は帰る道を示すが、何日後に道が塞がるかは教えてくれない。未来の危険を減らすには、地道な観測や記録が必要だ。今日の調査班が持ち帰った数値は少なくても、撤収を決めた理由まで残せば、次に入る人の助けになる。


監視室を出ると、検問所の受付に小さな親子が来ていた。母親らしい女性は観光区域の予約票を持ち、明日の見学ができるか尋ねている。職員が立入制限の前倒しを説明すると、隣の少年は手にした冊子を胸へ押しつけた。


「結晶の木、見たかったのに」と少年が言った。


女性は困った顔で少年の肩に手を置き、職員へいつ再開するか聞いた。職員はまだ時期を約束できないと答えた。少年は納得できない様子だったが、母親が『危ない時に入るのは違うでしょう』と言うと、黙って冊子を開いた。


俺はその場を通り過ぎようとした。けれど、フェナが立ち止まり、少年の冊子に描かれた結晶樹を見て声をかけた。


「私も今日、初めて見ました。とてもきれいでしたよ。でも、奥の方では虫がたくさん飛び始めて、今は入らない方がいいと決まりました」


少年は彼女を見上げた。「虫って、怖いの?」


「きれいな羽をしています。でも、たくさん集まると歩けなくなることもあります。見たい気持ちと、今行かない方がいい気持ちは、両方あってもいいと思います」


少年は少し考え、冊子を閉じた。「じゃあ、来年も見られる?」


「私には分かりません」とフェナは答えた。「だから、また見られるように調べている人がいるんです」


母親は礼を言い、少年の手を引いて帰っていった。フェナは見送ってから、俺の顔を見た。


「ナオトさん、あの子に『絶対に見られる』って言いたくなりました。でも、言わない方がいいと思ったんです」


「うん。楽しみにしていたことを諦めさせるのはつらいけど、守れない約束をするよりいい」


「私も、今日の朝は焼き栗を楽しみにしていました。もし帰れなかったら、食べられなかったんですね」


彼女は笑いかけたが、すぐに真面目な顔へ戻った。俺も返す言葉を探し、結局、今日は帰れたのだから食べに行こうと答えた。先のことを全部保証する代わりに、今できる約束を一つだけする。そんな小さな選び方なら、俺にも続けられそうだった。


夕方、調査班の三人が帰る前に、安堂さんが俺たちのところへ来た。彼は破れた箱の中から、一枚だけ残っていた観察用の紙を取り出した。結晶樹の葉を描いた図で、端に小さな虫の姿がある。ほかの紙と一緒に散ったはずなのに、箱の底へ挟まっていたらしい。


「全部は残りませんでした。でも、これだけは持ち帰れました」と安堂さんが言った。「箱を捨てなかったおかげです。あの時、皆さんが僕を止めてくれたから、こうして見せられます」


フェナは紙へ目を落とし、細い線をしばらく眺めた。「きれいですね。これを描くのに、時間がかかったんでしょう」


「ええ。去年の記録と比べて、翅の形が少し違うことに気づいたんです。確かめたいことはまだありますが、次はもっと安全な方法を考えます」


安堂さんは紙を箱へ戻さず、硬い板に挟んだ。俺はその手つきを見て、彼が何かを取り戻したというより、失ったものを抱えたまま次の仕事へ進もうとしているのだと感じた。すべてを取り返せるわけではない。それでも、帰ってきたからこそ、次にできることがある。


帰り道、フェナは市場へ寄りたいと言った。俺は少し驚いたが、彼女は朝から焼き栗を買うつもりだったことを覚えていたらしい。危険な場所から戻った日に、いつもの予定を続けていいのか迷ったが、彼女は首を振った。


「今日は怖かったです。でも、怖かったから、楽しみにしていたことまでやめなくてもいいと思うんです。ナオトさんが疲れているなら、明日にします」


「俺も食べたい。今日は温かいものがいいな」


市場には夕方の人が行き交い、焼き栗の香りが通りへ流れていた。フェナは自分の硬貨で二人分を買い、紙袋を大切そうに抱えた。俺たちは店の脇にある長椅子へ座り、殻を割りながら少しずつ食べた。地下の結晶樹が鳴らす音は美しかったが、今は屋台の人の声や荷車の車輪の音の方が心地よい。


「ナオトさん」とフェナが言った。「私、今日のことを、怖かっただけの日にしたくありません」


「うん。俺もそう思う」


「自分で行きたいと言って、途中で戻ることを選べて、最後まで人数を確かめられました。美波さんみたいに戦えなくても、できることがありました」


俺は栗の殻を紙へ包み、彼女の顔を見た。フェナは俺が返事をするのを待っていたが、褒めてほしいというより、自分の言葉がどう聞こえたか確かめているようだった。


「そうだね。安堂さんが動けなくなりかけた時、フェナが声をかけてくれた。俺だけなら、何を言えばいいか迷っていたと思う」


「私も迷いました。でも、あの方が箱を落とした時、怒られると思っている顔をしていたから」


彼女は紙袋の底に残った小さな栗を一つ取り、半分に割った。「帰る時に必要なのは、道だけじゃないんですね」と言って、片方を俺へ差し出す。俺は受け取り、温かいうちに食べた。言葉を急いで返さなくても、彼女が伝えたいことは分かった気がした。


部屋へ戻ると、窓辺の黄色い花は朝と同じ場所にあった。フェナは鉢の土の乾き具合を指で確かめてから水を少し足し、鈴を机の上へ置いた。ギルドへ返すまでは布袋に入れておくつもりだったが、今日は目につくところに置きたいという。


「音が鳴らないのに、ずっと覚えていそうです」と彼女が言った。


「何を?」


「皆さんの声です。止まって、戻って、数えて。鈴の音がなくても、聞こえたことがたくさんありました」


俺は頷き、明日の返却予定を端末へ記した。今日の調査で得られたものは、持ち帰った記録だけではない。置いてきた紙や、開けられなかった扉や、危険だから通らなかった場所も、次に誰かが判断するための手がかりになる。俺が《帰り道》で知るのは、あくまで帰る方向と道筋だけだ。それでも、その道を選ぶ人の声を聞くことはできる。


鍋が煮えるまでの間、俺は玄関に置いた靴の泥を落とした。地下で踏んだ砂が溝に残り、細い白い結晶が一粒だけ引っかかっている。持ち帰ったつもりのないものが、こんなところに付いてきたのかと思うと不思議だった。俺はその粒を紙へ落とし、素手では触らず、小さな袋に封じて明日ギルドへ渡すことにした。鐘葉林の生き物や結晶を勝手に持ち出してはいけない。帰還したからといって、現場との関わりが完全に終わるわけではないのだ。フェナは袋に日付を書き、俺が置き忘れないよう端末の横へ並べてくれた。


夕食の支度を始めると、フェナは青い縁の皿を二枚並べた。俺は彼女の隣で野菜を切り、鍋の湯気が窓を曇らせるのを眺めた。地下の空洞で何度も帰路を確かめたのに、ここへ戻った今は、能力を使おうという気持ちにならない。帰ってきたと分かるのは、玄関の位置ではなく、彼女が自分で選んだ皿を食卓に置く音が聞こえるからだった。



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