第188話 鳴らない鈴の森
旧北水路の説明会から三日が過ぎた朝、俺は救難班の待機表に自分の名前がないことを確かめてから、台所の窓を開けた。秋の風が黄色い花の茎を揺らし、フェナが昨日磨いた青い縁の皿に朝日が落ちる。最近は帰宅してからの時間が以前より長く感じられたが、それは仕事が減ったからというより、出動していない時にまで誰かの帰り道を考え続ける癖が、少しずつ薄れてきたからかもしれない。
フェナは小さな布袋から買い物用の硬貨を出し、机の端に三つずつ並べていた。以前なら俺に何を買えばいいか尋ねていたのに、今は自分の欲しいものを選び、その理由まで話すようになった。今日は市場で焼き栗を買うつもりらしい。
「ナオトさんも食べますか。温かいうちに分けた方がおいしいと、お店の人が言っていました」
「もちろん。でも、俺の分まで買うなら、ちゃんと二人分の予算にしておこう」
「はい。昨日、値段を見てきましたから」
嬉しそうに硬貨を袋へ戻す彼女を見て、俺は何も起こらない午前を想像した。だが、端末が鳴ったのは、俺が窓を閉めた直後だった。画面には瀬川さんの名前が表示されている。救難要請なら短い定型文が先に届くはずなのに、今回は『本日中に相談したい案件あり。出動ではありません』と書かれていた。
ギルドの受付へ行くと、瀬川さんは地図の束ではなく、手のひらほどの金属製の鈴を机に置いた。くすんだ銀色で、表面には細かな葉脈の模様が刻まれている。彼女が軽く振っても、鈴は鳴らなかった。
「壊れているんですか」と俺が尋ねると、瀬川さんは首を振った。
「中に舌はあります。けれど、鳴らすための鈴ではないそうです。東部の〈鐘葉林〉で、音を出さないために使われる道具だと聞いています」
鐘葉林。名前だけは知っていた。地下の大空洞に背の高い鉱石樹が群生し、風が吹くと葉のような薄い結晶が触れ合って音を立てる。観光区域もあるが、その先は魔物の繁殖期に立入制限がかかる。探索者の間では景色の美しさより、方向感覚を失わせる反響の方が有名だった。
「現地の環境調査班が、鈴を貸してほしいと言っているんですか」
「逆です。調査班から、帰還支援に協力できる人を紹介してほしいと連絡がありました。今回は遭難者はいません。作業を終えた班が安全に撤収できるよう、撤収経路の確認に立ち会う依頼です」
瀬川さんは、誤解を防ぐように『救難ではない』という欄を指で示した。調査の目的は、鐘葉林の奥で毎年起きる魔物の移動を記録すること。結晶の枝に卵を産みつける〈薄翅虫〉が、季節の変わり目に一斉に羽化するため、数日のうちに通行可能な場所が変わるという。
「通行可能かどうかを俺に聞かれても、分かりませんよ」
「そこは環境技師と護衛の判断です。久世さんには、入ってきた道へ戻る方向を確認していただきたいんです。結晶の音が反射して、標識を見失いやすい区画があるそうなので」
説明は筋が通っていたが、気になる点もあった。環境調査なら地形に詳しい専門家がいる。護衛もいる。それでも俺が必要とされるのは、帰路を確かめる手段が一つ増えるからだろう。逆に言えば、俺が行ったからといって調査班が安全になるわけではない。
「一度、現場責任者から作業範囲と撤収基準を聞かせてもらえますか」
瀬川さんは頷き、隣の部屋へ案内してくれた。そこには相馬さんと神代美波が待っていた。美波は壁にもたれて腕を組んでいたが、俺を見ると軽く手を上げた。
「久世、今回は護衛として私も入る。調査班が危険を見落としたら止めるし、魔物が来れば戦う。お前が先頭に立つ必要はない」
「それなら助かります。俺は帰る方向しか分かりませんから」
「何度も聞いた。だから、分からないことを分かった顔で答えなければいい」
美波の言い方は相変わらず率直だった。相馬さんは机の上に調査計画を広げ、現地の責任者が到着するまでに確認した事項を教えてくれた。調査班は技師二人と記録員一人の三人。護衛は美波と別の探索者一人、帰還確認として俺、補助員としてフェナが同行する予定だという。合計七人で、相馬さんは地上の連絡拠点に残る。
「フェナさんの参加は本人の希望を聞いてからだ」と相馬さんが言った。「無線中継と人数確認を任せたいが、危険区画へ入る以上、断っても構わない」
俺はフェナへ視線を向けた。彼女は黙って計画書を読み、立入制限の位置を指で確かめてから顔を上げた。
「行きたいです。ただ、音が聞こえなくなる道具を使うなら、皆さんの声が届かない時の合図を決めてください。私が確認できないまま人数を数えるのは怖いです」
美波が小さく笑った。「いい質問だ。現場でも同じことを聞いてくれ」
やがて現地責任者の篠崎という女性技師が到着した。背の高い人で、袖口には白い結晶の粉が残っている。同行する記録員の安堂と、もう一人の技師の三浦も紹介された。俺は名前を手帳に書き留めた。現場では一度聞いただけの名前を取り違えることがあるので、誰がどの役割を担うのかも一緒に記しておく。
篠崎さんは、音のない鈴の仕組みを説明した。鐘葉林の結晶樹は一定の音に共鳴し、その振動に薄翅虫が集まる。鈴は内部の重りで細かな振動を打ち消すため、持っている人の足音や金具の触れ合う音を抑える道具だという。完全に無音にはできないが、繁殖地を刺激する危険を下げられるらしい。
「ただし、これを持てば魔物が襲ってこないというものではありません」と篠崎さんは言った。「大きな衝撃や人の声には効果がありません。群れの位置は私たちが観察し、護衛が危険と判断したら調査を中止します」
「それと、鈴が鳴らないことを確認の合図に使うのは無理ですね」とフェナが言う。
「その通りです。手で見える合図を決めましょう」
話し合いの末、止まる時は片手を肩より上へ上げる、戻る時は腕を二度横へ振る、人数を確認する時は二人ずつ顔を合わせる、と決まった。無線が通じる区画でも、声だけに頼らない。俺は決めた合図を手帳に書き、フェナと向かい合って何度か試した。彼女は真面目な顔で腕を振ったあと、少し照れたように笑った。
午後、俺たちは鐘葉林の入口へ向かった。地上から続く斜坑は広く、運搬車が通れるよう床が整備されていたが、地下へ下りるほど空気が冷たくなり、壁に青白い筋が増えていく。入口の検問所には繁殖期の注意書きが掲示され、帰還予定時刻と入域者七人の名前を登録した。
美波と組む護衛の探索者は寡黙な男性で、名を鹿島と言った。槍を背負い、先頭に立つ前に刃の留め具を布で巻いていた。金属音を出さないための工夫らしい。俺は帰路の感覚を一度だけ確かめた。今いる検問所から地上へ戻る方向は分かるが、その先の空洞に何が待つかは当然分からない。
「久世、緊張しているか」と美波が聞いた。
「少し。救難の時は、誰かを連れて帰る目的がはっきりしていました。今回は調査をやめるタイミングを見誤らないことが大事なんですよね」
「そうだ。成果が出たから帰るんじゃない。帰れるうちに成果を持ち帰る」
美波の言葉を聞いて、俺は腰の装備を締め直した。調査を終える判断は俺の仕事ではないが、戻る時に迷わないよう備えることはできる。役割の境目を確かめてから歩き出すと、余計な力が少し抜けた。
最初の空洞に入った瞬間、俺は思わず足を止めた。天井から伸びた透明な幹が地面近くで枝分かれし、薄い葉が幾千枚も重なっている。わずかな風で触れ合うたび、遠くの水滴に似た音が重なり、音源の位置が分からなくなる。青と金の光が枝の間を移り、地面には揺れる影が細かく散っていた。
フェナは声を出さず、俺の袖をそっと引いた。彼女の指した先では、小さな虫が葉の裏をゆっくり歩いている。羽はまだ畳まれていたが、背には細い銀色の線が見えた。篠崎さんが双眼鏡で観察し、手帳へ印をつける。安堂さんは地面の標識を撮影し、三浦さんが風向計を取り出した。
俺たちは結晶樹を傷つけないよう、決められた通路の端を歩いた。鹿島さんが前方を確認し、美波は列の後ろから周囲を見ている。フェナは数歩ごとに後ろを振り返り、全員の姿を確かめた。調査班の作業は地味で、立ち止まって記録する時間の方が歩く時間より長かったが、俺にはその慎重さが頼もしかった。
奥の観測点に着いた時、篠崎さんは一枚の結晶葉を示した。表面に細かな白い粒が密集している。薄翅虫の卵だという。予定より羽化が進んでおり、数日後と見込んでいた群れの移動が、早まる可能性があるらしい。
「今日はここまでにしましょう」と篠崎さんが言った。「採取はしません。写真と温度の記録だけ持ち帰ります」
安堂さんは残念そうに、奥の暗い林へ目を向けた。「もう一地点だけ測れば、去年との差がはっきりするんですが」
「その一地点のために、撤収時刻を越えるつもりはありません」と篠崎さんは答えた。「今見えている変化だけでも、立入制限を前倒しする根拠になります」
俺はその会話を聞きながら、仕事を終える決断が成果の少なさを意味しないことを考えていた。帰還の途中で何かを見つけたとしても、それを追わずに戻る判断が必要な日もある。俺たちは予定通り荷物をまとめ、帰路へ向き直った。
その時、空洞の奥から低い振動が伝わってきた。最初は遠くの車両が動いたのかと思ったが、足元の細かな砂が震え、結晶葉が同じ方向へわずかに傾く。篠崎さんが風向計を押さえ、美波が即座に片手を上げた。全員が止まり、鹿島さんは槍を抜かずに前方の枝の隙間を見据える。
青白い光の向こうで、何か大きなものが動いた。葉の影が波のように揺れ、黒い輪郭が幹の間を横切る。俺には魔物なのか、ただの落石なのかさえ判断できなかったが、美波の表情が変わったことだけは分かった。
「鹿島、前へ出るな。全員、静かに下がって」
美波の声は低く、しかし明瞭だった。篠崎さんが撤収の合図を出し、フェナは隣の安堂さんと目を合わせてから俺を見る。七人全員がいることを確認し、俺は入ってきた斜坑へ戻る道筋を意識した。方向は分かる。だが、目の前の通路を通っていいかどうかは分からない。
先ほどまで美しかった林の奥から、硬いものを引きずる音が近づいてきた。結晶葉が一斉に震えたのに、俺たちの持つ鈴は一つも鳴らない。美波が初めて剣の柄に手を置いた時、暗がりから現れたのは、薄翅虫の群れではなく、幹ほどの太さがある節だらけの脚だった。
脚は地面へ沈むように着き、砂を押し上げた。その向こうに続く胴体は結晶樹の影へ隠れている。俺は思わず息を呑んだ。戻る道は分かるのに、今すぐその道へ踏み出せない。そんな当たり前のことを、俺は目の前の巨大な脚から突きつけられていた。
鹿島さんが一歩だけ横へ動き、結晶樹の根元にある低い岩棚を指した。身を隠せるかもしれないが、そこまでの足元には薄い結晶の破片が散っている。踏めば音が鳴る。篠崎さんは岩棚と巨大な脚を見比べ、通路の中央に立ったまま手を横へ振った。合図は「戻る」だが、今すぐ走れという意味ではない。全員が同じ方向を向き、護衛の指示を待つための合図だった。
巨大な脚がもう一度持ち上がると、地面から白い粉が舞った。節の間には鉱石のような硬い殻があり、ところどころに薄翅虫の卵が付着している。篠崎さんが唇だけを動かして何かを伝えようとしたが、声を出すのをためらったらしい。彼女は手帳を開き、短い文字を書いて俺たちへ見せた。
『響甲獣。成体。刺激しない』
俺はその名前を知らなかった。あとで聞けば、鐘葉林の奥に生息する大型の魔物で、結晶樹の根を食べながら移動するという。だが、その時の俺には、地面を揺らす脚と、美波が剣を抜くのを待っているという事実しか分からなかった。美波は目線を動かさず、俺たちへ手のひらを向けた。動くなという指示だ。
響甲獣はしばらく立ち止まり、頭らしい部分を結晶葉へ押しつけた。葉が重なって鳴る音が、急に低くなる。篠崎さんは顔色を変え、三浦さんの肩に触れた。三浦さんは装置の表示を見て、小さく首を横に振る。俺には二人が何を心配しているのか分からず、説明を求めたくなったが、今は声を出せない。
やがて獣の体が奥へ動き、巨大な脚が通路から外れた。鹿島さんが目で合図し、美波が頷く。俺たちは一人ずつ足を運び、来た道へ戻り始めた。枝が揺れる音に紛れて靴底が砂を擦る。フェナは布袋の口をしっかり結び、金具が触れ合わないよう片手で押さえていた。
最初の曲がり角へ差しかかった時、安堂さんの背負う記録箱が低い枝に触れた。軽い音だった。普段なら誰も気にしないほど小さな、乾いた一打。それでも、獣の動きが止まるには十分だった。奥の林から、硬い殻を擦り合わせる不規則な音が返ってくる。
安堂さんは凍りついたように立ち止まった。彼を責める声は上がらなかったが、誰もすぐには動けない。美波が鹿島さんへ短く視線を送り、二人は音のした方向を確かめる。篠崎さんは安堂さんの箱を支え、留め具が外れていないことを手で確認した。
「安堂さん、息をして」とフェナが囁いた。「ゆっくりで大丈夫です。箱は私が支えます」
安堂さんは何度か瞬きをし、かすかに頷いた。彼が顔を上げた時、美波は片手で低い姿勢を指示した。俺たちは結晶樹の根が作る陰へ移り、獣が通路を横切るのを待った。音の出る足場を避ける判断は篠崎さんと護衛が行い、俺は曲がり角の先が検問所へ戻る方向であることだけを伝えた。
しかし、通路を横切ったのは獣一頭だけではなかった。枝の向こうで小さな光が次々に浮かび、空気に白い粒が舞い始める。卵から出たばかりの薄翅虫が、獣の体からこぼれるように羽ばたいていた。翅が結晶に触れると澄んだ音が広がり、さらに奥の葉が応える。空洞全体が巨大な楽器になったようだった。
篠崎さんは時計を見て、今度は声に出して言った。
「予定より早い。羽化が始まっています。群れが広がる前に、検問所へ戻らなければ」
「走れば間に合いますか」と安堂さんが尋ねた。
「走ると音で集まる可能性があります。速度は護衛と相談します。今は落ち着いて」
篠崎さんの言葉は慎重だった。安全な方法が分かっているわけではない。分からないまま、危険を増やさない選択を重ねているのだ。俺は手のひらに汗をかきながら、自分の能力に意識を向けた。帰路は変わらず見えている。最初の空洞を抜け、標識のある斜坑を上がる。それだけは確かだった。
ところが、最初の空洞へ続く狭い通路の向こうから、低い衝撃音が響いた。鹿島さんが先を覗き、すぐに手を上げる。床の一部が落ち、通路を横断するように結晶の枝が倒れていた。獣が根元を踏み抜いたのかもしれないが、原因は分からない。倒れた枝は人の背丈より高く、葉の一枚一枚が触れ合って細かな音を立てている。
「ここを越えるのは危険だ」と鹿島さんが言った。「枝が割れたら、もっと大きな音になる。下の床も状態が分からない」
美波は俺を見た。「久世、帰路はどうなっている」
「検問所へ戻る方向は、この先です。けれど、枝を越えられるか、ほかの通路が通れるかは分かりません」
「それでいい。今必要なのは、その違いだ」
篠崎さんは予備の通路図を取り出した。図面には観測用の横穴が一本描かれていたが、普段は使わず、足場の点検記録も古い。横穴へ入れば結晶樹の密集地を避けられる可能性がある一方、先が崩れていれば引き返す時間を失う。誰も簡単には決められなかった。
フェナが七人を順に見渡し、安堂さんの箱を支えたまま言った。
「今、全員ここにいます。だから、別々に探しに行かないでください。見えなくなったら、私には数えられません」
その言葉に、美波は頷いた。「分かった。二手には分けない。篠崎さん、横穴の入口だけ確認できるか」
「確認はできます。でも、進むかどうかは状態を見てから決めます」
美波は鹿島さんに背後の警戒を任せ、自分は前方の倒木ならぬ倒れた結晶樹を見つめた。剣を抜けば枝を切り払えるかもしれない。しかし、音に反応する魔物がすぐ近くにいる。強い力があれば解決するという場面ではなかった。
俺は図面の横穴を見たあと、もう一度帰路の感覚を確かめた。自分が入ってきた道へ戻る筋道は、頭の中で変わらず続いている。その先に障害物があることは、目で見て初めて分かった。もし横穴へ入れば、そこから帰る道も把握できるのかもしれないが、横穴自体の安全を保証する力はない。
奥から響甲獣の重い足音が戻ってきた。結晶葉が一斉に揺れ、通路の天井に白い粉が降る。美波は俺たちを岩壁側へ寄せ、篠崎さんに決断を促した。
「調査は終了だ。ここからは撤収だけを考える。横穴の入口を確かめて、危険なら戻る。私が獣を引きつける必要が出ても、勝手に先へ進むな」
俺は頷いた。来た道を知っているだけでは足りない場面で、何をすればいいのか。まずは七人が七人のまま動けるようにすることだ。フェナが安堂さんの箱を持ち直し、篠崎さんは地図を畳んだ。俺たちは鳴らない鈴を握りしめ、まだ誰も安全を確かめていない横穴の方へ、慎重に足を向けた。
振り返ると、最初に見た結晶樹の金色の光は、もう虫の翅に隠れていた。数時間前には静かだった場所が、俺たちの都合など関係なく姿を変えていく。景色の美しさを覚えて帰りたいと思ったのは本当だが、そのために誰かを危険へ置き去りにするわけにはいかない。俺は前を行くフェナの背中を見失わないよう歩幅を合わせ、最後尾の美波が合図を返したのを確かめてから、横穴の暗がりへ目を向けた。




