第187話 道がなくなったあと
旧北水路の閉鎖工事が延期された翌日、瀬川さんから届いた連絡には、俺の出動予定が書かれていなかった。代わりに、管理者が地区の人たちへ説明する場を設けるので、前回の立会いに参加した者として話を聞いてほしいとあった。救難班の業務とは別の依頼で、参加するかどうかは自分で決められるという。
俺は端末を机に置き、フェナへ画面を見せた。彼女は文字を最後まで読み、俺の顔を見上げた。
「ナオトさんは、行きたいですか」
「少し迷ってる。俺が行っても、道路を造れるわけじゃないし、古い機械も直せない。何か言えば、また俺の能力が話の中心になりそうで」
「でも、あの女性は、話を聞いてほしいと言っていました。ナオトさんが全部答えなくても、聞きに行くことはできると思います」
俺は頷いたが、すぐに参加すると返事はしなかった。昨日の調査で分かったのは、扉の向こうの設備が現役の水路とつながっている可能性があるということだけだ。閉鎖を取りやめると決まったわけではないし、地区の人が遠回りをしなくて済むようになったわけでもない。未解決の話に顔を出すことが、誰かの期待を膨らませるだけなら避けたかった。
朝食のあと、相馬さんへ電話をかけた。彼は俺の心配を聞くと、意外そうな声を出した。
『お前に何か決めてほしいわけじゃない。あの場にいた人が、何を見て何を聞いたかを話せれば十分だ。言いたくないことまで言う必要はない』
「じゃあ、能力を使った結果だけ話してもいいんですね」
『それでいい。ただし、閉鎖の判断は技師の仕事だ。お前が安全だと言ったことにはならないよう、俺も同席する』
俺は参加すると答えた。電話を切ったあと、フェナは新しい皿を洗いながら「私も行っていいですか」と尋ねた。彼女が何を話したいのか聞くと、昨日の調査で管理者が立ち止まった時のことではなく、最初の立会いで地区の女性が「帰りたい」と言えたことを伝えたいのだという。
「それを話して、何が変わると思う?」と俺は聞いた。
「分かりません。でも、あの方は閉じる道を最後まで見られなかったんじゃなくて、自分で戻ることを選んだんです。私は、その違いを覚えておきたいです」
俺は返事をし、二人で管理棟へ向かった。何かを変えられるかどうかだけを基準にしたら、俺たちが昨日見聞きしたことは、きっとほとんど話せなくなる。話す価値があるかどうかは、結果が出る前には分からないのだろう。
管理棟の会議室には、前回より多くの人が集まっていた。地区代表の男女に加え、交通担当の職員、近くの商店で働く人、通学路を管理する人、施設の技師たちがいる。俺とフェナは相馬さんの隣に座り、話が始まるのを待った。会議室の後ろには、古い荷車の札が一枚、透明な袋へ入れて置かれていた。
管理者は最初に、坑道の閉鎖方針そのものは変わっていないと説明した。天井の変形が進み、日常的な通行を再開することはできない。ただし、閉鎖工事の方法と時期は、現役水路につながる設備の調査が終わるまで決め直す。古い扉の向こうの装置は、かつて上流側の水を一時的に逃がすためのものだった可能性が高いという。
「今も同じ働きをしているんですか」と商店の男性が尋ねた。
「それは確認中です。昨日の圧力の記録から、現役の設備と無関係ではないと考えています。だから、止めたり壊したりせず、外側から調べています」と設備技師が答えた。
誰かが、そんな古いものを放置していたのかと声を上げた。管理者は否定せず、台帳の引継ぎが十分ではなかったことを認めた。ただし、現場で分かった以上の危険を断定することも避けた。会議室にはしばらく重い空気が流れたが、相馬さんは誰かを責める議論へ進む前に、今後の調査の予定を確認した。
設備技師は、古い点検記録にあった「下流側確認後、操作」という言葉の意味を説明した。かつては水を逃がす前に、下流の作業場へ連絡し、人が水路から離れたことを確かめていたらしい。装置が自動で動くようになってからも、何らかの連絡手順が残っていた可能性がある。現在の水路には別の警報設備があるが、古い管との関係はまだ調べなければならない。
「昔の人が危険を知らなかったわけじゃないんですね」と地区代表の女性が呟いた。
「知っていたから、手順を作ったんでしょう」と技師が答えた。「ただ、手順を残すだけでは足りません。今の設備に合っているか、誰が確認するかまで決める必要があります」
俺は二人の会話を聞きながら、古い金属板を思い出した。あの短い言葉を読んだ時には、ただの注意書きに見えた。けれど、そこには下流で働く誰かの姿があったのだ。設備が動けば、その先にいる人へ影響が及ぶ。帰路を示す能力がなくても、危険な場所から人を離すために考えられた手順が、ずっと前から存在していた。
説明が一区切りすると、交通担当の職員が新しい地図を机へ広げた。旧北水路の坑道を通らずに市場へ行く場合、川沿いの道路を回ることになる。歩く距離は地区によって大きく変わり、診療所へ通う人には負担が増える。職員は代替交通の候補として、小型車両の運行と既存路線の経路変更を挙げたが、費用と利用者数の確認が必要だという。
「また数字ですか」と商店の男性が言った。「道を閉じるのは決まっているのに、代わりの話だけ何か月もかかるんじゃ困ります」
交通担当は反論しかけたが、地区代表の男性が手を上げた。
「だから、今日は私たちも数字を持ってきました。使っていた人が少ないと言われたままにしたくなかったので」
男性が広げた紙には、地区の住民が書いた行き先と曜日、移動手段が並んでいた。市場へ行く人、診療所へ通う人、向こう側の家族を訪ねる人。毎日ではないが、決まった日に道を必要とする人がいる。徒歩だけでなく、荷車を押す人もいた。
俺は一枚ずつ目を通し、そこに自分の知らない生活がいくつもあることを知った。昨日まで、旧北水路は閉鎖予定の古い坑道というだけの場所だった。だが、地図に書かれた線の向こうには、朝の買い物や家族の見舞いがある。通れなくなることで失われるのは、距離だけではない。
「この人数なら、小型車両を試験的に走らせる検討はできます」と交通担当が言った。「ただ、全員の時間に合わせられるとは限りません。どの時間帯が必要か、もう少し話を聞かせてください」
地区代表の女性は頷いたが、すぐに一つ付け加えた。
「私たちが使いたいのは、便利な車だけじゃないんです。自分の足で行ける人には、歩く道も残してほしい。車に乗れない事情がある人もいますから」
交通担当は地図へ目を落とし、川沿いの歩道の状態を確認すると答えた。そこは幅が狭く、荷車や車椅子で通れるかどうか、現地で確かめなければならないという。俺は反射的に、帰り道なら自分が案内できると言いかけた。けれど、すぐに口を閉じた。目的地へ行く道を選ぶことも、歩道の幅を判断することも、俺の能力ではできない。
代わりに、相馬さんが話を振ってくれた。
「久世、前回の立会いで、帰路の確認について話せるか」
俺は頷き、坑道の手前区画から全員が戻った時のことを説明した。俺の能力で入口へ戻る道筋は分かったが、亀裂のある場所を避ける判断は技師が行ったこと。古い案内と現在の退出経路が一致しない場所があり、現場で確かめる必要があったこと。八人全員が帰ったのは、俺一人の力ではなかったこと。
「ですから、今の川沿いの道についても、地図に線を引くだけでは分からないことがあると思います」と俺は続けた。「実際に使う人と一緒に歩いて、どこが通りにくいか確かめる必要があるんじゃないでしょうか」
交通担当はメモを取り、地区代表へ現地確認の協力を求めた。俺はそれ以上話さなかった。今言えたのは、自分が見た範囲のことだけだ。けれど、前に出て答えを決めなくても、会議の役に立てるのだと分かって少し肩の力が抜けた。
フェナが話したのは、そのあとだった。彼女は地区代表の女性へ目を向け、最初の立会いで途中から戻ったことを覚えていると伝えた。
「私、あの時、最後まで行けなかったと思ってほしくないんです。怖くなったから戻ると、ご自分で決められたんですよね」
女性は少し驚いた顔をしたが、やがて頷いた。
「そうね。あそこから先へ進んだら、昔の景色を見られるかもしれないと思った。でも、怖かった。自分が思っていたより、ずっと怖かったの」
「戻ってもいいと言える場所があることが、大事だと思いました」とフェナが言った。「新しい道を考える時にも、途中で休んだり、引き返したりできる場所があるといいなと思います」
交通担当は、川沿いの歩道に休憩できる場所が少ないことを認めた。地区代表の男性が、昔は水路の脇に腰掛ける石があったと話す。女性は、それなら新しい道にも座れる場所を考えてほしいと言った。会議室の空気が、少しだけ変わった気がした。遠回りを減らすという大きな話から、途中で一度腰を下ろせるかという具体的な話へ移ったのだ。
昼過ぎ、会議はいったん終わった。結論はまだ出ていない。坑道は引き続き通行禁止で、閉鎖工事は設備調査が終わるまで延期。代替交通と歩道の確認は別の担当者が進めることになった。誰も拍手しなかったが、地区代表の男性は資料を丁寧に鞄へしまい、交通担当へ次の話し合いの日程を尋ねていた。
廊下へ出ると、地区代表の女性が俺たちを呼び止めた。彼女はフェナへ、戻ると決めた時のことを覚えていてくれてありがとうと言った。
「私は、途中で怖くなったのが少し恥ずかしかったんです。昔は一人で何度も通った道なのに。でも、あの時の私は、もう昔の私じゃないんですよね」
「私も、怖い時があります」とフェナが答えた。「だから、帰りたいと言ってくださって、よかったと思いました」
女性は笑い、フェナの手に触れかけてから、そっと引っ込めた。フェナもそれに気づいたようだったが、何も言わずに頭を下げた。相手の気持ちを全部知ったふりをしない、その距離が心地よかった。
管理棟の外では、地区代表の男性が若い作業員と話していた。作業員は閉鎖の延期を聞き、坑道がまた通れるようになるのではと期待していたらしい。男性は、工事が遅れたのは安全を調べるためで、通行再開が決まったわけではないと説明していた。
「でも、昔はみんな使ってたんでしょう」と作業員が食い下がった。
「昔使えたから、今も使えるとは言えないよ」と男性は答えた。「俺だって、あの道が好きだった。でも、好きな道で誰かが怪我をしたら、もっと嫌だ」
作業員はしばらく黙り、やがて自分も川沿いの歩道を見に行くと言った。荷物を運ぶ時に困る場所なら、いくつか知っているという。男性はそれを聞き、初めて明るい顔になった。
俺は二人の会話を聞きながら、閉じるという決定が、誰かの記憶まで否定するものではないと分かり始めた。危険な道を残さないことと、そこで暮らした人の思いを残すことは、両立できるのかもしれない。もちろん、そう簡単に片付かない人もいるだろう。だからこそ、話し合いを続ける必要がある。
駐車場の端へ歩く途中、さっきの若い作業員が地図を持って追いかけてきた。川沿いの歩道を少しだけ見てほしいという。正式な調査は後日だが、管理棟から見える範囲にも荷車が通りにくい場所があるらしい。相馬さんは、今日は通行の可否を判断しないことを確認し、道路へ出ない歩道の手前までなら一緒に見ると答えた。
作業員が示した場所には、古い欄干と新しい柵が重なる狭い角があった。人が一人歩く分には困らないが、荷車を押すと車輪の片側が段差へ寄ってしまう。俺は普段なら気にも留めず通り過ぎそうな幅を、作業員は指で示しながら説明した。
「ここで一度荷物を下ろして、車だけ先に向きを変えるんです。軽いものならいいけど、野菜の箱が多い日は二人いないと難しい。だから、旧北水路の方が遠回りでも楽な日がありました」
「地図だと、こちらの方が広く見えますね」とフェナが言った。
「そうなんです。線の太さは、荷車の幅と関係ないですから」
俺は欄干を見て、技師が坑道の天井を確かめていた姿を思い出した。ここでも、安全に通れるかどうかは見た目だけでは決められない。車椅子や大きな荷車が通れるか、雨の日に滑らないかは、専門の担当者と実際に使う人が確かめる必要がある。
作業員は、少し先の坂も見てほしいと言いかけ、すぐに自分で首を振った。
「いや、今日はここまででいいです。次の確認の時、担当の人に案内します。僕が知ってることも、全部じゃないんで」
その言い方が、昼間の地区代表の男性に少し似ていた。昔の道を使ってきた人と、今の荷車を押している人では、知っていることが違う。どちらか一人が全部を説明しなくても、話を持ち寄れば地図の線は少しずつ現実に近づく。
フェナは段差の手前にしゃがみ、車輪が通ったらしい細い擦り跡を見た。作業員は、自分がいつも同じ場所を通るので石が少し削れたのだと話した。
「ここにも、道の跡があるんですね」とフェナが言った。
「毎日通ってると、勝手につくんです。別に誰かに見せようと思ってるわけじゃないけど」
俺はその言葉を聞き、旧北水路の壁に残った荷車の傷を思い出した。古い坑道の中だけでなく、今使っている道にも、人の暮らしが少しずつ跡を残している。いつかこの角が広くなれば、擦り跡は消えるかもしれない。それでも、困っていた人がいたことを知っていれば、消えたあとも意味は残る。
相馬さんは作業員へ礼を言い、交通担当に位置と状況を伝えるよう勧めた。俺たちは欄干から離れ、管理棟の方へ戻った。能力を使って帰る方向を確認する必要もない短い道だったが、俺は今朝より少しだけ周囲の幅や段差を気にして歩くようになっていた。
帰りの車へ乗る前、相馬さんが俺たちを呼んだ。
「今日は助かった。お前たちが前に出すぎなかったのがよかった」
「何もしなかったみたいですけど」と俺が言うと、相馬さんは笑った。
「そういう日もある。救難班の人間がいつも主役になる必要はない。自分たちで道を決められる人がいるなら、その人たちの仕事を邪魔しない方がいい」
フェナはその言葉を聞いて頷いた。俺もようやく、胸の奥にあった小さな焦りを手放せた気がした。帰る道が分かるという力を持っていても、誰かがどこへ行くべきかを決める力まで持っているわけではない。そこを間違えなければ、俺はもっと人の話を聞けるのだろう。
夕方、二人で市場へ寄った。フェナは根菜のほかに、小さな鉢植えを眺めていたが、今日は買わなかった。家の窓辺には黄色い花があるし、世話をする場所を考えてから選びたいのだという。俺はその慎重さが彼女らしいと思い、また来ようと答えた。
部屋へ戻ると、窓辺の花は少しだけ開き方を変えていた。フェナは水の量を確かめ、青い縁の皿を二枚並べる。俺は買ってきた野菜を洗いながら、今日の会議で見た地図を思い出した。旧北水路を通る線は消えるかもしれない。けれど、その代わりに誰かが新しい線を引こうとしている。
「ナオトさん」とフェナが呼んだ。「私、帰る場所って、道だけで決まるわけじゃないと思いました」
「どういうこと?」
「昨日の方は、昔の道へ戻りたかったんだと思います。でも、今は別の道を考えている。私も、前は帰る場所を決めるのが少し怖かったです。決めたら、ほかの場所へ行けなくなる気がして」
俺は手を止め、彼女の顔を見た。フェナは窓辺の花を見つめながら続けた。
「でも、ここに帰ってきたいと思うことと、外へ出て自分で選ぶことは、同じ日にできるんですね。今日はそれが嬉しかったです」
「俺も嬉しいよ」と答えると、彼女は少しだけ笑った。
俺には、フェナがいつかどこへ行きたいと思うのか分からない。その時、俺の能力が役に立つかどうかも分からない。ただ、彼女がここへ戻りたいと思っている今を、大切にしたい。帰り道が分かることと、帰りたい場所があることは、似ているようで違うのだろう。
夕飯ができた頃、端末へ一通の連絡が入った。瀬川さんから、旧北水路の設備調査が正式な専門案件として引き継がれ、救難班の待機は解除されたという知らせだった。俺は了解と返信し、端末を伏せた。これで俺たちが現場へ戻る理由は、ひとまずなくなった。
食卓へ向かう前、俺は窓辺の一輪挿しの向きを少し変えた。花は最初、フェナが帰ってきた時に見えるように置いたものだった。今は俺も、扉を開けた時にその色を探している。二人で使う皿も、何気なく並べるようになった。いつの間にか変わったことは、わざわざ記録しなければ消えてしまうわけではない。毎日の手つきや、相手が戻るのを待つ気持ちの中に、少しずつ残っていくのだと思った。
フェナが皿を運び、俺は食卓の椅子を引いた。窓辺の花は、玄関からでも見える位置にある。今日、旧北水路を閉じるかどうかの答えは出なかった。けれど、閉じたあとに困る人がいることを、もう誰も知らなかったことにはできない。
俺は温かい皿を受け取り、フェナへいただきますと言った。帰る道を探す仕事を続けるために、帰ってきた場所で食事をする。そんな当たり前の時間を、これからも簡単には手放したくなかった。
明日もまた、俺の知らない道で誰かが困るかもしれない。だからといって、今夜の食事を急ぐ必要はなかった。俺は箸を取り、フェナが今日の市場で見つけた野菜の話を、最後まで聞いた。




