第184話 撮らなかった帰還
石を叩く音は、二度目には少し弱くなっていた。三回続き、間を置いて一回。黒硝洞の壁は音を複雑に返すため、どこから聞こえたのかすぐには分からない。それでも、扉の内側で見つかった補助担当は、音の間隔を聞くなり「撮影の人です」と繰り返した。
神代美波さんは彼を責めず、巡回担当に周囲の地形を尋ねた。奥には古い採掘跡があり、床が二段に分かれている場所があるという。音が反響する横穴もいくつか残っていて、聞こえた方へまっすぐ進めば到着できるとは限らない。
「こちらから声を出す前に、魔物の動きを確認したい」と美波さんが言った。「音に寄る種類がいるなら、返事が救助の邪魔になる」
戦闘担当が前方の暗がりを観察し、巡回担当は携帯した地図に現在位置を書き込んだ。俺は入口へ戻る道筋を意識したが、そこに二人の居場所を示すものは何もない。帰り道は分かる。けれど、助けたい人のところへ向かう道は、別の人の知識と目で探さなければならなかった。
補助担当を搬送する班が準備を整える間、フェナは彼の隣に座り、撮影担当との間で使っていた合図を詳しく聞いた。暗い場所では、三回叩いて相手が一回返す。返事がなければ、近づかずに位置を確かめ直す。もともとは撮影の合間に、声が録音へ入らないよう考えたものだったという。
「今、聞こえたのは三回と一回でしたね」とフェナが言った。
「そうです。あいつが、自分で返事まで叩いてるのかもしれない。俺たちが来たって気づいてほしくて」
「それとも、別の音が重なった可能性もあります。私たちも、まだ確かめていません」
補助担当は唇を噛んだが、頷いた。期待したい気持ちを否定しないまま、分かっていないことを残す。その話し方を聞きながら、俺はフェナが山の観測所で主任と話していた時の姿を思い出した。彼女はいつの間にか、相手を安心させるためだけの言葉を選ばなくなっていた。
相馬さんは奥へ進む班と、負傷した補助担当を入口へ運ぶ班の人数を確認した。通信中継器は扉の内側まで設置され、入口との連絡が取れる。これ以上奥へ入る場合には、連絡が途切れた時に戻る位置と時間を決めておく必要がある。美波さんは探索班を短い隊列にまとめ、俺とフェナには後方で帰路と連絡を補助するよう指示した。
「久世、奥で何かあっても、俺たちを追い越すな」と相馬さんが言った。
「はい。俺が先へ行っても、二人を見つけられるわけじゃありませんから」
「それが分かっていればいい。必要な時に帰る道を頼む」
俺は返事をし、足元の石を確かめて歩き出した。背後では、補助担当が搬送具へ移される音がする。彼が無事に外へ戻れるよう願いながら、俺たちはまだ見えていない二人の方へ進んだ。
管理用横穴は、一般開放路とは別の洞窟のようだった。青い案内灯はなく、壁の黒い面が照明を細く反射する。床には古い採掘の溝が走り、その縁に透明な結晶が固まっている。巡回担当は、踏むと砕けやすい場所を一つずつ指し示した。岩の奥から、ときどき水滴の落ちる音がする。石を叩く合図が聞こえなくなると、その水滴まで人の足音に思えた。
先頭の戦闘担当が足を止め、壁の上部を照らした。そこには硝殻が擦ったらしい白い筋があり、細かな鱗片が床へ落ちている。美波さんは手を上げ、全員へ明かりを低くするよう伝えた。
「新しい跡かどうかは分からない。でも、通った可能性がある。音を立てず、足元を確認して進もう」
俺はライトを靴の少し先へ向け、フェナの歩く速さに合わせた。狭い通路では、先頭が見えていても後ろの人が同じ場所を通れるとは限らない。俺たちは間隔を詰めすぎず、角を曲がるたび全員の返事を確認した。
しばらくすると、前方に不自然な明るさが見えた。壁に反射した光ではなく、床の下から弱い照明が漏れている。巡回担当がしゃがみ、岩の割れ目を覗いた。
「下に人がいます。二人……いや、重なって見える。まず声をかけます」
美波さんは周囲を確認し、低い声で名前を呼んだ。返事が来るまで、俺は自分の息を止めていた。
『こっちです! 柊木です!』
声は近いのに、姿は見えなかった。巡回担当が光を遮らない位置から覗くと、床の段差は人の背丈より深く、下には狭い棚状の足場があるという。柊木透真はそこへしゃがみ、撮影担当の体を支えていた。撮影担当は左脚を岩の間に挟まれ、動かすと強い痛みが出るらしい。
「二人とも意識はありますか」と相馬さんが尋ねた。
『あります。俺は大丈夫です。こいつの脚が抜けなくて……すみません、何度も引っ張ったんですけど』
「もう引っ張らないでください。医療担当と搬送担当が確認します。今いる場所から動かず、声が届く範囲で状態を教えてください」
柊木は返事をした。彼の声は映像で聞いたものよりずっと低く、言葉の端が震えている。俺は、配信の中で彼が笑っていた顔を思い出した。画面の向こうでは軽く見えたことが、今は一つも軽くない。
撮影担当は意識がはっきりしていたが、左脚の痛みと冷えを訴えた。頭を打ったかどうかは本人にも分からない。医療担当が上から質問し、呼吸や手足の感覚を確認する。柊木は何度も「俺が悪い」と口にしたが、相馬さんは責任の話は帰ってからにして、今は質問に答えるよう伝えた。
「ここへ来るまで、どうしていたんですか」と巡回担当が尋ねると、柊木は途切れ途切れに説明した。三人は一般開放路で撮影を終える予定だった。だが、視聴者の反応が予想より大きく、もっと珍しい景色を見せたいと思った。管理用の扉が開きかけているのを見つけ、赤い表示を読んだにもかかわらず、奥へ進んでしまったという。
『誰かに言われたわけじゃありません。俺が行こうって言った。こっちの方が光がきれいだって。撮影の人は時間を気にしてたのに、俺があと少しって……』
柊木はそこで言葉を切った。俺は彼に何か言う代わりに、相馬さんが医療担当と話すのを聞いた。誰が悪かったかを決めても、今ここで脚が抜けるわけではない。責任を取るために必要なのは、まず生きて戻ることだった。
段差の下へ降りるには、上部の岩に安全確保用の器具を固定しなければならなかった。巡回担当は管理者から古い構造図を受け取り、現地の岩の状態と照らし合わせる。図面には頑丈な支柱が描かれていたが、長い年月の間に表面が欠けており、そのまま使えるとは限らない。搬送担当は別の固定場所を探し、専門の器具で荷重を確かめた。
待つ時間は長かった。下の二人が寒さに耐えていることを考えると、何度も声をかけたくなる。けれど、声をかけるたび柊木がこちらを見上げ、撮影担当の体を支える腕に余計な力が入る。医療担当は、必要な確認以外では静かに待ってもらう方がいいと判断した。
フェナは俺の隣で、小さな布の袋を握っていた。中には替えの電池と留め具が入っている。彼女が袋を開くたび、布の柔らかな音がする。
「ナオトさん、あの人、ずっと撮影担当の方を支えていますね」
「うん。自分の腕も疲れてるはずだ」
「配信の中では、誰かに見せるために話していました。でも、今は見ている人がいなくても、あそこから動いていません」
「それだけで、最初にしたことがなかったことにはならないけど」
「はい。だから、帰ってから話すことがあるんだと思います」
俺はフェナの横顔を見た。彼女は柊木を許すとも責めるとも言わない。ただ、今目の前にある行動を見ている。俺にはそれが難しかった。昼間、自分の能力を笑った声がまだ耳に残っているからだ。それでも、もし柊木がここで撮影担当を置いて一人で逃げていたら、俺は別の怒りを抱いたかもしれない。人を一つの場面だけで決めるのは、簡単で、危うい。
搬送担当が固定具の準備を終えた時、通路の奥で石が擦れる音がした。さっきの硝殻とは違い、低く長い音が続く。美波さんは振り返り、戦闘担当を奥へ向かわせた。黒い壁の隙間に二つの光が浮かび、やがて硬い鱗の重なる背中が現れる。硝殻がもう一匹、狭い通路へ這い出してきたのだ。
「搬送班は作業を止めないで。こちらで押さえる!」
美波さんが叫ぶと、戦闘担当が盾を構えた。硝殻は光へ向かって頭を振り、壁へ突起を擦りつける。砕けた結晶が床へ散り、鋭い音が反響した。俺はフェナと一緒に、搬送班の邪魔にならない位置へ下がった。狭い場所では、戦闘班が一歩下がる余地さえ必要になる。
魔物が盾へ体当たりした瞬間、足元の小石が跳ねた。美波さんは正面から受けず、壁の出っ張りを避けて横へ動く。もう一人の戦闘担当が魔物の進路を塞ぎ、硝殻の頭が狭い岩の間へ向いたところで、二人が連携して動きを止めた。短い戦闘だったが、岩に武器が当たる音はいつまでも続いているように感じられた。
俺はその間、入口へ戻る道筋を意識し続けていた。硝殻が通路を塞げば、分かっている道でも通れなくなる。だから、退路を示す必要が生じた時には、今使える場所を巡回担当と一緒に確認しなければならない。俺が何度も周囲を見回していると、フェナが小さく声をかけた。
「ナオトさん、私はここにいます。後ろの通路も、今は空いています」
「ありがとう。自分だけで全部見ようとしてた」
彼女は頷き、通信担当へ後方の状態を伝えた。美波さんたちが魔物の動きを完全に止め、周囲を確認したあと、搬送作業が再開された。
固定具が使えると判断されると、搬送担当の一人が安全確保を受けて段差の下へ降りた。医療担当が柊木と撮影担当へ声をかけ、挟まった脚を無理に引かず、周囲の石の状態を確認する。撮影担当は歯を食いしばっていたが、説明を聞くたび短く返事をした。
岩の間には、撮影機材の脚部が折れて挟まっていた。撮影担当の脚は、その上に倒れ込んだ石との間で動けなくなっている。搬送担当は器具を使って荷重を支え、医療担当の指示を受けながら、脚へかかる圧力を少しずつ減らした。柊木は手伝おうとしたが、今はその場で体勢を保つ方が安全だと言われ、何度も頷いていた。
「俺、何もしてないみたいで」と柊木が呟いた。
「ここまで支えてくれたでしょう」と撮影担当が答えた。声は弱いが、はっきりしている。「だから、今は言われた通りにしてくれ。お前が動いたら、こっちも怖い」
柊木は唇を結び、支えていた手の位置をゆっくり変えた。二人の間に、それ以上の言葉はなかった。俺は上から見守りながら、彼らが何年一緒に仕事をしてきたのか知らないことに気づいた。映像では柊木の顔ばかり映っていたが、その向こうで画面を支えてきた人がいる。今日、初めてその人の声を聞いた。
脚の周囲が確保されると、撮影担当は搬送具へ固定された。段差の上へ引き上げる間、搬送班は何度も角度を調整し、岩の縁へ体が当たらないようにした。柊木は最後まで下に残り、撮影担当が上へ運ばれるのを見てから、自分も安全確保を受けて上がった。
「三人目を確認」と相馬さんが無線へ告げた。「これから入口へ戻ります。負傷者二名、歩行可能者一名。全員の状態は医療担当が確認中」
俺は人数を頭の中で数えた。先に運ばれた補助担当が一人、今目の前にいる撮影担当と柊木が二人。三人が見つかったことは確かだが、洞窟から出るまで帰還とは言えない。
通路を戻る頃には、作業中に舞った細かな粉が空気へ漂い、照明の輪郭がぼやけていた。巡回担当は足場を確かめながら進み、俺は後方で《帰り道》が示す向きを伝える。地図にある短い横穴へ入れば入口へ近づけるように見えたが、搬送具が通れる幅かどうかは現場で判断する必要がある。専門班が確認し、結局、来た時と同じ広い通路を使うことになった。
「近道じゃなくていいんですか」と柊木が尋ねた。彼は撮影担当の搬送具の隣を歩いていた。
「通れると分かっている道を使います」と巡回担当が答えた。「今は速さより、全員が出られることを優先します」
柊木は何か言いかけ、やめた。俺は彼の横を通り過ぎる時、短く声をかけた。
「俺の能力で分かるのは、帰る方向と道筋だけです。だから、今みたいに道の幅や足場を確かめてもらわないと、誰かを連れて帰れません」
「……分かりました」と柊木は答えた。「動画で、ひどいこと言いました」
「その話は、外に出てからにしましょう」
俺がそう言うと、彼は顔を上げた。昼間の俺なら、今すぐ謝ってほしいと思ったかもしれない。でも、ここで言葉を重ねれば、彼はまた自分の顔を見せることに意識を向けてしまう。今は隣を運ばれている人を見ていてほしかった。
一般開放路の青い灯りが見えた時、柊木は一度だけ足を止めた。撮影担当が「どうした」と尋ねると、彼は小さく首を振った。
「外の人に、何て言えばいいか考えてた。でも、今はそれどころじゃないよな」
「そうだな。まず俺を病院へ連れていってくれ」
撮影担当の返事に、柊木は泣き笑いのような顔になった。俺は前を向き、入口へ戻る道筋を確認し続けた。
黒硝洞の外では、救難班の帰還を待つ人たちがまだ集まっていた。警備員が通路を空け、医療担当が負傷者を車へ移す。撮影担当は脚の検査のため搬送され、補助担当も別の車で医療機関へ向かうことになった。柊木はその場で本人確認と簡単な問診を受け、詳しい事情の聴取は後日行われると説明された。
人垣の向こうから「配信はどうなった」「もう一度撮って」と声が飛んだ。柊木は反射的にそちらを見たが、手元に端末はない。彼は一度口を開き、結局、何も言わずに撮影担当の乗った車を見送った。
相馬さんは管理者へ、閉鎖区画の扉を再び使用禁止にすること、洞窟内に残された機材の回収は安全確認後に行うことを伝えた。事故の原因調査はこれからだ。俺たちが今ここで言えるのは、三人の所在が確認され、医療担当へ引き継がれたということだけだった。
柊木が俺のところへ来たのは、周囲の人が少し落ち着いてからだった。派手な上着には黒い粉が付き、袖口の糸がほつれている。彼は俺の顔を見て、言葉を探すように息を吸った。
「久世さん。俺、あなたのことを知らないのに、動画で勝手なことを言いました。帰れる道が分かるだけなら簡単だって。自分が道を選ぶ時に何を見落としているか、考えてもいなかった」
「俺も、あなたの動画を見て腹が立ちました」と俺は答えた。「でも、今日のことを映像だけで全部決めるつもりはありません。助けに戻ったことも、入ってはいけない場所へ進んだことも、両方あったんですよね」
柊木は目を伏せた。
「はい。俺が入ろうって言いました。撮影の人は止めたんです。それでも、面白いものを見せれば、みんな喜ぶと思って」
「その人たちに説明するなら、まず一緒に入った二人と話してからにしてください。俺へ謝るより、そっちの方が大事だと思います」
柊木は長い間黙っていたが、やがて小さく頷いた。彼が次にどんな映像を出すのか、俺には分からない。今日の出来事を反省しても、失った信用がすぐ戻るとは限らない。それでも、これから選べることは残っている。
美波さんが俺たちのところへ来て、柊木へ医療担当の確認を受けるよう促した。彼が去ったあと、彼女は俺の肩を軽く叩いた。
「久世、よく我慢したな」
「言いたいことは、まだありますけど」
「それでいい。言いたいことがあるのと、今言うべきかどうかは別だから」
俺は頷き、救難車の方へ歩いた。フェナは入口の脇で、昼間買った布の袋を鞄へしまっている。顔を上げた彼女へ、俺は帰ろうと声をかけた。
部屋へ戻った時、窓辺の黄色い花はまだ咲いていた。朝より少しだけ首を傾けていたので、フェナが水の量を確かめ、花瓶の向きを変える。俺は救難用の鞄を置き、手を洗ってから新しい皿を二枚並べた。
「夕飯、遅くなったね」と俺が言うと、フェナは首を振った。
「遅くなりましたけど、食べられます。何にしますか」
「簡単なものにしよう。今日はもう、難しいことを決めたくない」
「それなら、卵と野菜を焼きましょう。朝と似ていますけど」
「同じでもいいよ。皿は新しいし」
フェナは笑って、俺の隣へ立った。台所に小さな音が戻ってくる。黒硝洞の壁が返した鋭い音とは違い、包丁がまな板へ触れる音や、湯が沸く音は、どこから聞こえるのか確かめなくても分かる。
食事の途中、フェナがふと思い出したように言った。
「ナオトさん、今日は三人とも帰れましたね。でも、映像に映っていた三人と、洞窟で会った三人は、少し違って見えました」
「うん。俺たちも、画面に映ったら違って見えるかもしれない」
「私、今日のことを全部覚えていられるか分かりません。でも、撮らなかったことにも、大事なものがありました」
「たとえば?」
「撮影の方が、柊木さんに『今は言われた通りにして』と言ったことです。あの時、柊木さんは初めて、自分の声より誰かの声を聞こうとしていました」
俺は箸を止め、段差の下で二人が交わした短い会話を思い出した。あの場面は配信されていない。誰かが切り抜いて広めることもないだろう。それでも、あの言葉があったから、柊木は自分の手を離すことができた。
「俺は、帰る道が分かるだけの探索者だけどさ」と俺は言った。「今日みたいに、帰る途中で人が変わることもあるんだな」
「はい。でも、帰ってきたら終わりではないんですね。明日から、その人たちがどうするかは、その人たちが決めることです」
フェナはそう言って、皿の縁の青い線を指でなぞった。俺は窓辺の花を見た。帰ってきた時に見えるものを、彼女が自分で選んだ。今日の洞窟では、誰かが見せたい映像のために進む道を選び、別の誰かが仲間の声を聞いて立ち止まった。俺の能力が示す道筋は、どちらの選択にも答えをくれない。
食事を終えたあと、フェナが一輪挿しのそばへ小さな布の袋を置いた。仕事で使ったものを片付け忘れたのかと思ったが、彼女はそのままにしておきたいと言った。
「今日、自分で選んだものが二つとも役に立ったので、少し嬉しいんです。明日になったら、また鞄へ戻します」
「そうか。じゃあ、今夜はそこに置こう」
俺は明日の予定を確認しようとして、端末を手に取るのをやめた。今夜くらいは、帰ってきた部屋にいる時間を、誰かの画面の外へ置いておきたい。フェナが洗った皿を拭き、俺はその隣で棚の扉を開けた。窓辺の花は、まだ黄色かった。




