第182話 欲しいものを選ぶ日
救難受付へ報告書を提出した翌朝、俺は目覚まし時計より先に目を覚ました。窓の外はまだ薄暗く、通りを走る車の音もまばらだった。山の上に残された三人は無事に麓へ戻り、医療担当へ引き継がれた。そう何度も確かめているのに、眠りの浅いところでは、霧の向こうから鐘が聞こえたような気がした。
机の上には、昨日洗ったばかりの水筒が伏せてある。隣に置いた小さな紙には、フェナの字で「今日は買い物」と書かれていた。仕事の予定ではないものが、こんなにはっきりした文字で残っているのが少しおかしかった。俺は紙を裏返さず、そのまま朝食の準備を始めた。
フェナはいつもより遅く部屋から出てきた。髪をまとめながら台所へ顔を出し、俺が焼いている卵を見て首を傾げる。
「ナオトさん、今日は出動の連絡があったんですか」
「ないよ。休みだから、ちゃんと朝飯を食べてから出かけようと思って」
「それなら、どうしてそんなに早いんですか」
「習慣かな。寝坊するつもりでいると、逆に目が覚めるんだ」
フェナは笑い、皿を二枚出してくれた。二人で食べる朝食に特別な献立はない。少し焦げた卵とパン、昨日の残りの野菜を温めただけだったが、食べ終わる時刻を誰かに急かされないのは久しぶりだった。
山の観測所で会った主任からは、夜のうちに管理事務所を通じて短い伝言が届いていた。足を痛めた設備担当は検査を受けており、詳しい診断はまだ出ていない。鐘の修理も索道の点検も、これから順番に進めるという。俺たちに何かをしてほしいという内容ではなく、「まず休んでください」と結ばれていた。
「主任さんからの伝言、フェナにも見せた?」
「はい。あの人が自分で休むように言ってくれるなんて、少し意外でした」
「そうだな。記録のことを気にして、なかなか部屋を移らなかった人だから」
「でも、帰ってから考えられることが増えたんでしょうね」
俺は頷いた。救難が終わった翌日まで、誰かの仕事を引き受ける必要はない。今日はフェナが欲しいものを見つける日だ。彼女が何を選ぶのか、俺にはまだ見当もつかなかった。
駅前の商店街は、休日の午前中から人で賑わっていた。焼き菓子の匂いが漂う店先では、親子が箱の大きさを相談している。古道具屋の前には修理待ちの椅子が並び、通りの反対側では花屋が色の違う小さな鉢を日当たりのよい場所へ移していた。救難車で通る時には見落としていたものばかりだ。
「どこから見る?」と俺が尋ねると、フェナは商店街の案内図を眺めた。
「最初に、昨日のお店へ行ってもいいですか。そのあと、向かいの生活雑貨のお店も見たいです」
「もちろん。今日は俺が急がせないって約束したから」
「閉店まで迷っても、ですか」
「そこは相談させてほしい」
道具屋の店主は俺たちを覚えていた。昨日買った水筒の使い心地を聞かれ、蓋が漏れなかったと答えると、店主は自分のことのように喜んだ。フェナは棚に並ぶ小さな道具を一つずつ手に取り、重さや手触りを確かめている。彼女が最初に長く眺めたのは、方位を示す古い磁針だった。
「こういうものが欲しいの?」と聞くと、フェナは首を横に振った。
「きれいだと思ったんです。でも、仕事で使うものを買うために来たわけではないですから」
「仕事で使わなくても、きれいだと思うなら買っていいんじゃない?」
「そういう選び方を、まだよく知らないんです」
フェナは磁針を元の場所へ戻した。彼女は救難に必要なものを選ぶ時なら、目的を先に決めて迷わない。防寒具なら温かさと動きやすさ、飲み物なら量と持ち運びやすさ。けれど、自分がただ好きだと思うものには、選ぶための理由を探してしまうらしい。
店主は奥から木箱を持ってきた。中には、小さなガラス瓶や古い金具、手のひらほどの陶器が仕切られて並んでいる。
「うちの店に、目的の決まっていない買い物に来る人もいますよ」と店主は言った。「気に入ったものを見つけてから、置く場所を考えるんです。使い道がないと困る人には、勧めませんけどね」
フェナは少し困った顔をした。俺は何か言いかけて、やめた。欲しいものを選ぶ日なのに、俺が先回りして理由を作ってしまったら、結局いつもの仕事と変わらない。
道具屋を出て、向かいの雑貨店へ移った。店内には布製品と食器、季節の飾り物が並び、窓際に細い一輪挿しが置かれていた。淡い青色の陶器で、口が小さく、一本の花を立てるためだけに作られている。フェナはそれを手に取ると、底を確かめ、光に透かすように傾けた。
「それ、気に入った?」
「はい。でも、うちには花がありません」
「花屋は通りの向こうにあるよ」
「花は枯れますよね」
「枯れるね。水も替えないといけないし」
フェナは一輪挿しを戻そうとして、もう一度手元へ引き寄せた。
「救難の道具は、使えなくなる前に点検して交換します。でも、花は使い切るものじゃないんですよね。きれいな間、見ていてもいいんでしょうか」
「それが花を飾るってことだと思う。俺も詳しくないけど」
「じゃあ、これは仕事のためじゃなくて、帰ってきた部屋のために買いたいです」
彼女は店員へ一輪挿しを渡し、割れないように包んでもらった。会計を済ませる間、俺は窓から見える花屋の店先を眺めていた。帰ってきた部屋のため、という言い方が、なぜだか胸に残った。俺は今まで、部屋を休む場所としか考えていなかった。フェナはそこへ、帰る理由になるものを一つ増やそうとしているのかもしれない。
花屋で黄色い小さな花を一本選び、商店街の端にある喫茶店へ入った。フェナは紙袋を椅子の隣に置き、何度も中を覗いている。俺がその様子をからかうと、彼女は「割れていないか確かめているだけです」と真面目な顔で答えた。
店員が注文を取りに来た時、隣の席の男性がこちらを見た。三十代くらいだろうか。作業服の上に薄い上着を羽織り、スマートフォンの画面と俺の顔を交互に見比べている。目が合うと、男性はためらいながら立ち上がった。
「失礼ですけど、久世直人さんですか。《帰り道》の」
「そうですけど……」
「やっぱり。山の観測所の救難に参加したって、昨日から話題になってますよ。うちの職場でも、帰れる道が分かる探索者がいるって」
男性は悪気のない様子で画面を差し出した。そこには、救難班が観測所の麓へ戻ってきた時の写真があった。俺とフェナ、相馬さんの姿が遠くから撮られている。設備担当の搬送具は写っていないが、見出しには「どんな場所からでも必ず帰れるF級」と大きく書かれていた。
「これ、俺たちが出したものじゃないです」と俺は言った。「必ず帰れるなんて、言えません」
「えっ。でも、道が分かるんですよね」
「帰る方向や道筋は分かります。ただ、崩れた道を直せるわけでも、魔物を避けられるわけでもないです。昨日も、現場の専門の人たちが安全を確かめてくれたから帰れたんです」
男性は画面を見直し、少しばつの悪そうな顔をした。
「そうなんですね。見出しだけ読んで、すごい能力だと思ってました。娘が来月、学校の見学で浅い探索区画に入るので、こんな人が付き添ってくれたら安心だって、家で話したばかりで」
「見学なら、引率の方が決めた安全手順を守ってください。俺の名前より、その方が大事です」
男性は何度か頷いてから席へ戻った。俺は注文した飲み物が来ても、しばらく口をつけられなかった。悪意のある言葉なら反論できる。けれど、安心したい人が、見出しの短い言葉を信じてしまうことまで、俺には責められなかった。
「ナオトさん、今の方、謝っていましたね」とフェナが言った。
「うん。俺も言い方がきつかったかな」
「いいえ。知らなかったことを知ったんですから、きっとよかったと思います。ただ……」
「ただ?」
「同じ画面を見ている人が、みんなここへ来て聞いてくれるわけじゃありません」
フェナの言葉に、俺はもう一度写真を思い出した。遠くから撮られた小さな姿の中に、吊り橋の金具も、落石で引き返した時間も、夜通し無線をつないだ通信班も写っていない。あの一枚だけを見た人には、俺たちが何を諦め、何を待ったのか伝わらない。
喫茶店を出る時、さっきの男性が立ち上がって声をかけてきた。
「さっきの話、家でもちゃんと伝えます。娘には、安心するために誰かの名前を借りるんじゃなくて、自分でも説明を聞けって言います」
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、男性は少し笑った。スマートフォンをしまう手つきが、来た時よりゆっくりしていた。
商店街を抜けたところで、瀬川さんから電話が入った。休みの日に連絡してくる人ではない。俺はフェナへ目で断ってから通話を取った。
『久世さん、急にすみません。出動をお願いする段階ではないんですが、確認したいことがありまして』
「どうしました?」
『昨日の山の写真に、あなたの名前を付けて投稿した人がいるようです。今朝から受付に問い合わせが増えていて、その中に「久世さんがいれば帰還は保証されるのか」という質問がありました』
「さっき、喫茶店でも聞かれました。俺はそんなこと言ってないです」
『ええ、こちらも承知しています。問題は、別の探索者が、その見出しを引用して配信の告知を始めたことです』
瀬川さんは、画面の送り先を尋ねてから短い映像を送ってくれた。歩道の端に寄り、俺は音量を下げて再生する。派手な照明の前に、若い男性が立っていた。名前は柊木透真。探索区画での活動を映像にしている配信者だという。
『帰れる道が分かるだけで英雄扱い? だったら俺たちだって、ちゃんと地図を見れば帰れるだろ。今度の配信で確かめてやるよ』
男性は笑いながら、背後に置いた洞窟の写真を指さした。黒く光る岩肌と、入り口近くに取り付けられた青い照明が見える。
『黒硝洞の一般開放区画で、帰り道を見失わずに戻る。それだけじゃつまらないから、視聴者に進む方向を決めてもらおうかな。帰ることなんて、そんなに難しくないって見せたいんだ』
映像はそこで切れていた。フェナが俺の顔を覗き込む。
「何の映像ですか」
「俺の能力を試すみたいなことを言ってる人がいる。黒硝洞って、聞いたことある?」
「入口の浅い区画は見学もできます。でも、奥は季節によって入域条件が変わると聞きました」
俺は瀬川さんへ、動画の内容を確認したと伝えた。彼女はすでに管理者へ連絡しており、一般開放区画の範囲を越えた撮影をしないよう、配信者の登録窓口を通じて注意を出しているという。
『ただ、告知は拡散されています。もし久世さんご本人へ連絡が来ても、直接やり取りせず受付へ回してください。能力の説明は、こちらでも文書にして出します』
「分かりました。でも、注意が届けばそれで終わりますよね」
『そう願っています。今のところ救難要請ではありません。お休みを続けてください』
通話が終わったあと、フェナはしばらく黙っていた。俺は画面を閉じ、彼女の持つ紙袋を見た。薄い青の一輪挿しは、今日の朝、彼女が自分で選んだものだ。俺の名前がどう扱われようと、その買い物を台無しにしたくなかった。
「帰ろうか」と俺が言うと、フェナは首を振った。
「もう一軒、見たいお店があるんです。ナオトさんが気になるなら、先に戻ってもいいですけど」
「気になるよ。でも、俺が今ここで画面を見続けても、何か変わるわけじゃない」
「じゃあ、一緒に行きましょう。せっかくの休みですから」
彼女は紙袋を抱え直し、通りの先へ歩き出した。その背中を追いながら、俺は自分がいつの間にか、呼ばれればどこへでも行かなければならないと思い込んでいたことに気づいた。誰かが勝手に期待したことまで、引き受ける必要はないはずだった。
最後に立ち寄ったのは、商店街の奥にある小さな仕立て屋だった。店頭には丈夫な布の鞄が吊られ、どれも新品なのに、持ち手の色や縫い目が少しずつ違う。フェナは入口で足を止め、使い込まれたような茶色い鞄を見ていた。
「これは新品なんですか」と彼女が尋ねると、店の女性は作業台から顔を上げた。
「布は古いものを使っているけど、鞄としては今日が初めてよ。倉庫に眠っていた帆布をほどいて、縫い直したの。前は何を包んでいた布か、私も知らないわ」
フェナは内側の縫い目を指でなぞった。俺も横から覗くと、補強の糸が何本も重なっている。見栄えだけなら、もっときれいに仕上げられそうだったが、女性は力のかかる場所だからと説明した。
「どこか一か所が傷んだら、全部捨てるしかないんですか」とフェナが聞いた。
「いいえ。直せる場所なら直す。ただ、直したから絶対に破れないとは言わないわね。次に使う人には、重いものを入れすぎないでって伝えるの」
俺は思わず笑ってしまった。今日一日、耳に入る言葉がみんな俺の能力の説明に聞こえる。女性は不思議そうにこちらを見たので、俺は事情を話さず、すみませんとだけ答えた。
フェナは鞄を買わなかった。その代わり、端切れを縫い合わせた小さな布の袋を選んだ。中に硬いものを入れても当たりにくいよう、薄い綿が挟まれている。
「一輪挿しを入れるには小さいよ」と俺が言うと、彼女は首を振った。
「花を持ち帰るためじゃありません。仕事の時、ポケットに入れている小物がいつも混ざってしまうでしょう。これは使うために買います」
「さっきは仕事のためじゃないって言ってたのに」
「今日は、好きなものを選んでいい日なんですよね。好きなものの中に、使えるものがあってもいいはずです」
そう言われると、返す言葉がなかった。俺は朝から、自分が考えた「フェナの休日」という形へ、彼女を当てはめようとしていたのかもしれない。欲しいものを選ぶのは彼女なのに、俺は花を買ったらそれで十分だと勝手に思っていた。
店を出る前、女性は布の袋を渡しながら、ほつれたら持っておいでと言った。フェナは礼を言い、手のひらの上で袋を折りたたむ。薄い布が小さく収まるのを見て、彼女は満足そうに頷いた。
「ナオトさん、今日は三つも選びました」
「そうだね。まだ迷ってるものはある?」
「あります。でも、全部今日決めなくてもいい気がします」
俺はその答えを聞いて、ようやく今日の買い物が終わったのだと思った。選ばなかったものが残っていても、次にまた来ればいい。そう思える日があることを、俺たちは少し忘れていた。
午後、二人で部屋へ戻ると、フェナは一輪挿しを窓辺へ置いた。花屋で買った黄色い花は、思っていたより背が高く、最初は少し傾いてしまった。彼女は水を入れ直し、茎の長さを店員に教わった通りに調整した。花がまっすぐ立つと、部屋の印象がほんの少し変わった。
「これ、帰ってきた時に見えますね」とフェナが言った。
「うん。玄関からでも見える」
「何も置かなくても困らない場所ですけど、置いたら嬉しい場所になりました」
俺はその言葉に返事をする前に、彼女がもう一つの紙袋から取り出したものを見た。雑貨店で最後に選んだ、二人分の小さな皿だった。縁に青い線が一本入っていて、形は少しずつ違う。
「これは?」
「今朝、ナオトさんが卵を二つの皿に分けていましたよね。うちの皿は大きさがばらばらなので、同じくらいのものがあったらいいと思ったんです」
「自分の買い物なのに、俺の分まで?」
「私が欲しかったのは、一緒に食べる時の皿ですから」
フェナは少し照れたように笑った。俺は何と言えばいいか分からず、皿を受け取って裏側の釉薬を眺めた。救難の仕事で人を連れ帰る時には、帰る場所があることを当然の前提にしてきた。でも、帰った先で誰と何をするかは、その人によって違う。フェナにとっての帰る場所が、ここで少しずつ形になっていることが嬉しかった。
夕方まで、俺たちは片付けと洗濯をして過ごした。携帯端末は机の端に伏せて置き、必要な連絡だけ確認する。窓辺の花に日が当たり、薄い影が壁に伸びていく。休みを休みとして使うことが、こんなに意識の要る仕事だったとは思わなかった。
日が傾きかけた頃、端末が短く震えた。瀬川さんからではなく、救難受付の一斉連絡だった。俺は皿を拭いていた手を止め、画面を開いた。
『黒硝洞・一般開放区画の入域者について所在確認中。登録者三名。予定帰還時刻を超過。管理者が連絡を試みています。救難班は待機準備をお願いします』
続けて、別の通知が届いた。昼間の配信者が公開していた映像の切り抜きだ。画面の中で柊木透真は、黒く光る壁の前に立ち、視聴者へ向かって笑っていた。背後の通路には、立入制限を示す赤い表示が半分だけ写っている。彼は誰かに呼ばれて振り返り、手元の灯りを下へ向けた。そこで映像が乱れ、音だけが数秒続いた。
『待て、そこは――』
言葉は途中で途切れた。次に聞こえたのは石の擦れるような音で、画面は暗くなった。投稿には、演出だろうという声と、本当に事故ではないかという声が入り交じっている。どちらの言葉も、画面の向こうにいる三人の状態を教えてはくれなかった。
「ナオトさん」とフェナが呼んだ。彼女は俺の端末を覗かず、手にしていた皿を静かに置いた。「出動の準備をしますか」
「まだ待機の連絡だ。でも、準備だけはしておこう」
俺は頷き、救難用の鞄を取り出した。フェナは窓辺の花へ目を向けてから、必要な装備を点検し始める。昼間、誰かが俺の名前を使って約束した「必ず帰れる」という言葉が、今になって重くのしかかった。俺には誰かの居場所を見つける力も、危険な道を安全にする力もない。だからこそ、もし出動するなら、できることとできないことを最初から分けなければならない。
窓辺の一輪挿しには、黄色い花が一本立っていた。帰ってきた時に見えるように、とフェナが選んだ花だ。俺はその色を覚えてから、瀬川さんからの次の連絡を待った。




