第181話 霧の中の帰還路
山上の観測所から屋根の異音が報告されたあと、俺たちは管理事務所の小さな休憩室で待機することになった。夜になって風はさらに強まり、窓枠がときどき細かく震える。俺は椅子へ座ったまま、机の上に置かれた無線機を見ていた。通信担当が定刻に山上を呼び、三人の返事を確認するたび、ようやく息を吐ける。返事が遅れると、その数十秒がひどく長く感じられた。
最初の異音は、屋根の外側に取り付けられた古い板が風にあおられたためらしい。山上の三人は建物内の資料室から動かず、窓の小さい奥の部屋で毛布を重ねていた。天井から埃が落ちた場所には近づかず、扉を閉めて待機している。建物の安全を現地で確認できているわけではないが、今すぐ屋外へ出る方が危険だという判断は変わらなかった。
「ナオトさん、少し眠った方がいいですよ」とフェナが言った。
「フェナは?」
「私も交代で休みます。ずっと起きていても、山の風を弱くできるわけではありませんから」
彼女はそう言いながら、紙コップに温かい茶を注いだ。昨日までの仕事が頭から離れないのは、俺だけではないらしい。フェナの目の下にも薄い疲れが見える。俺は受け取った茶を飲み、相馬さんが夜間の連絡を担当する人たちへ引継ぎを終えるのを待った。
「山上は三人。主任、設備担当、搬送担当。最後に全員の声を聞けたのは二十二時十分」と相馬さんが確認した。「次の定時連絡は二十三時。つながらなくても、こちらからの呼びかけを続ける。向こうへ屋外移動を促す指示は出さない」
通信担当が復唱し、記録用紙に時刻を書いた。俺はそのやり取りを聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。誰かが眠る間にも、別の誰かが見守っている。救難に出る人だけが仕事をしているわけではない。地下の現場でもそうだったが、今日はそのことがいつもより身近に感じられた。
横になる前、フェナが俺の隣へ座った。
「ナオトさん。昼間、私は主任さんに、帰ってから話を聞かせてほしいと言いました」
「うん。聞いてたよ」
「もし明日、無事に会えたら、本当に聞いてみたいんです。あの鐘をどうして大切にしているのか。私たちは音しか知りませんから」
「じゃあ、帰ってきたら聞こう。俺も知りたい」
フェナは安心したように頷き、毛布を肩へ掛けた。俺は明かりを落とした部屋で目を閉じたが、すぐには眠れなかった。山の上にいる三人が寒さに耐えているのに、ここで眠っていいのかと思ってしまう。けれど、明日歩くために体を休めることも、今できる仕事の一つだと考え直した。
翌朝、風は昨夜より弱まっていた。空は白く曇り、山の上半分は濃い霧に隠れている。東側の尾根へ向かった巡視員から、夜明け直後に第一報が届いた。下部の階段は通行可能で、風で落ちた枝を撤去すれば進める区間がある。ただし、上部の岩場に設けられた手すりは、現場で固定状態を確認する必要があるという。
相馬さんはその報告だけで出発を決めなかった。巡視員が手すりと足場を確認し、救難用の搬送装備を通せるか判断するまで待つ。山上では設備担当の足の痛みが続いている。自分で歩けると決めつけて、狭い階段へ連れ出すわけにはいかない。
「昨日より風が弱いなら、索道を動かせませんか」と管理事務所の若い職員が尋ねた。
「安全装置が止めた理由の確認と、運転の許可が必要です」と責任者が答えた。「今朝の風速だけで再開は決められません」
職員は頷き、索道の運転盤から手を離した。俺はその様子を見て、彼が昨日より落ち着いていると感じた。焦る気持ちは残っているだろう。それでも、何を確かめなければ動けないかを理解しようとしている。
午前八時過ぎ、東尾根の巡視員から二度目の連絡が入った。上部の手すりは一部を使えないが、別に固定した安全確保用の設備を設けられる場所がある。搬送担当の専門班が現地を確認し、必要な装備を使えば救助活動を進められると判断した。ただし、霧で見通しが悪いため、隊列を短く保ち、道を見失わないことが条件になる。
「行きます」と相馬さんが言った。「ただし、現地の安全責任者が止めたら、その場で止まる。久世は分岐の確認を補助する。フェナは隊列の連絡と、山上の三人の状態確認を手伝ってくれ」
「分かりました」と俺が答えると、フェナも頷いた。
出発の前に、俺は水筒の蓋を確かめた。昨日買ったばかりの水筒は、今朝も鞄の中で漏れていない。こんな小さなことが嬉しくなる自分に少し笑った。フェナはその様子を見て、何も言わずに肩紐の位置を直してくれた。
東尾根の入口には、昨夜の風で落ちた枝が山のように積まれていた。巡視員たちは安全を確認した範囲で道を開き、進めない場所には目印を置いている。俺たちはその後ろを歩いた。昨日の南回りの道とは違い、地面は硬い石と砂利が多く、踏みしめるたび乾いた音がする。霧が濃くなると、少し先を歩く人の背中さえ白く霞んだ。
「声が届く間隔を保ってください」と先頭の巡視員が言った。「見えなくなったら、その場で止まって呼び合います。勝手に追いかけないように」
俺は返事をし、フェナの位置を確かめた。彼女はすぐ後ろで、無線機の音量を調整している。相馬さんはさらに後方の搬送班と連絡を取り、進む速さを合わせていた。俺の《帰り道》は、麓へ戻る向きを変わらず示している。霧で景色が消えても、その感覚だけは揺れない。ただ、見えない足元の石や、霧の向こうにある段差の状態は、やはり分からなかった。
尾根の中ほどに、古い石段が現れた。手すりの一部は錆び、触れるとぐらつく。巡視員は使用禁止の印を付け、別の安全確保用の設備へ隊列を誘導した。俺は階段の下で待ちながら、昨日の吊り橋を思い出した。近い道を見つけることより、使ってよい道を確かめることの方が時間がかかる。けれど、今はその時間が、誰かを帰すために必要だと分かっている。
階段を越えたところで、道が二つに分かれた。右は石垣に沿って緩やかに下り、左は木々の間を上っている。案内板は風で傾き、文字が読めない。先頭の巡視員が地図を取り出したが、霧の中では周囲の目印が見つからなかった。
「左が観測所へ続くはずですが、確信が持てません」と巡視員が言った。「昨日、ここまで来た者はいないので」
俺は二つの道を見比べた。麓へ戻る方向は、右の道の先にあると感じる。だが、右が安全だという意味ではないし、左が観測所へ続くと保証することもできない。
「俺の帰る方向は右です」と俺は伝えた。「ただ、どちらの道が今使えるかは、巡視員さんに確認してもらいたいです」
巡視員は頷き、携帯していた地形図と足元の古い水路跡を照合した。右の道は麓へ下る排水点検路、左は観測所へ向かう旧巡視路で間違いないらしい。さらに少し先の足場を専門班が確認し、左へ進めると判断した。俺は能力が示した帰る向きと、地図に描かれた道の位置が一致したことを覚えておいた。帰る時、霧で分岐が見えなくなっても、迷いを減らせるはずだ。
フェナが小さな声で言った。
「ナオトさん、帰りにここを通る時、同じ案内板が見えるとは限りませんね」
「うん。だから、右が帰る方向だって伝えておく。でも、搬送できるかは別に確認がいる」
「分かりました。私も、道の状態を記録しておきます」
彼女は足元の石垣と木の根の位置を見て、巡視員が許可した範囲で写真を撮った。撮影した場所と時刻を記録し、隊列へ共有する。昨日の若い探索者たちが、入ってきた道の写真を見て引き返したことを思い出した。写真があればすべて分かるわけではないが、記憶だけに頼らずに済む。
観測所の裏門が霧の中から現れた時、俺は思わず足を止めた。古い石造りの壁には苔が付き、屋根の端に取り付けられた板が斜めに浮いている。鐘の塔はさらに奥にあり、今は音を立てていなかった。巡視員が門の周囲を確認し、危険な屋根の下を避けて建物へ近づく。相馬さんが無線で山上の主任を呼ぶと、今度はすぐに返事があった。
『資料室に三人います。扉は開けられます。外には出ていません』
相馬さんは建物の入口で全員を止め、内部の状態を確認する担当だけを先に入れた。俺とフェナは少し離れた場所で待った。建物の中から人の声が聞こえる。ようやく近くまで来たのに、すぐに駆け込めないのがもどかしかったが、屋根の板が風で動くたび、確認の必要を思い知らされた。
安全を確認した通路を通って資料室へ入ると、三人は毛布を肩へ掛けて座っていた。主任は白髪の混じった男性で、無線で聞いた声よりも小柄だった。設備担当は右足を伸ばし、搬送担当がその隣で水を差し出している。俺たちが入ると、主任は立ち上がろうとしたが、相馬さんが座ったままでいいと伝えた。
「三人とも、よく待っていてくださいました」と相馬さんが言った。「これから医療担当が状態を確認し、順番に下山の準備をします。屋外の道は安全を確認した範囲だけ使います」
主任は頷いたが、目は窓の外の塔へ向いていた。俺は、彼がまだ観測の記録を気にしているのだと分かった。フェナがそっと隣へ座る。
「主任さん、麓で昨日までの記録が残っていると確認できました。今日の分はまだ分かりません。でも、全部がなくなったわけではありません」
「……そうか。若いのが調べてくれたんだな」
「はい。帰ったら、詳しく聞けると思います」
主任は長く息を吐き、毛布の端を握り直した。彼の手は冷えていたが、目ははっきりしている。医療担当が三人を順番に診て、設備担当の足首は体重をかけずに搬送する方針になった。詳しい診断は地上の医療機関で行う。主任と搬送担当は歩行できる状態だが、疲労が強いため休憩を挟みながら進むことになった。
搬送の準備をしている間、主任が俺へ声をかけた。
「君が《帰り道》の探索者か。ずいぶん若いんだな」
「はい。久世直人です」
「昨日、鐘が鳴っただろう。私が鳴らしたと思われたかもしれないが、塔には上がっていない。風で古い打棒が動いたんだろう。前から直さなければと思っていたのに、後回しにしていた」
「俺たちも、最初は誰かが鳴らしたのかと思いました。でも、分からないまま決めつけなくてよかったです」
「そうだな。音は届いても、事情までは届かない」
主任は少し笑った。俺はその顔を見て、昨日の無線で彼が観測室を離れたがらなかった理由を、今なら少しだけ理解できる気がした。ここで長い時間を過ごし、鐘の音を聞きながら仕事を続けてきた人にとって、建物はただの職場ではないのだろう。
下山の準備が整うと、搬送班は設備担当を専用の搬送具へ固定し、階段の幅と曲がり角を一つずつ確認した。霧はまだ濃いが、風は朝より弱くなっている。俺は隊列の前方で巡視員と一緒に分岐を確認し、フェナは主任と搬送担当の歩く速さを見ながら声をかけた。相馬さんは全体の動きを調整し、誰かが遅れたらすぐに止まれるよう、間隔を保たせた。
最初の石段を下りる時、搬送班が一度足を止めた。担架を通す角度を変える必要があり、固定具を調整するという。俺は前へ進まず、巡視員の指示で安全な広がりに待機した。主任はその様子を見て、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「私たちのために、こんなに時間をかけてもらって」
「時間をかけないと帰れない場所もあります」と俺は答えた。「俺の能力でも、ここを簡単に通れるようにはできません」
「帰る道が分かるのに、か」
「はい。分かるだけです。でも、帰る方向を見失わずに済むなら、その分、足元を確かめる時間を使えます」
主任は俺の言葉を聞き、しばらく霧の向こうを見ていた。やがて、そういう仕事もあるんだな、と小さく言った。俺は返事をせず、搬送班が再び動き始めるのを待った。
分岐へ戻った頃には、霧がさらに濃くなっていた。行きに見えた石垣の端が白く霞み、傾いた案内板はほとんど見えない。先頭の巡視員が道を確認しようと足を止める。俺は麓へ戻る方向を指し、行きに確認した排水点検路の位置を伝えた。
「右へ下る道です。ただ、今朝通った時と状態が変わっていないかは、確認をお願いします」
巡視員は足元の石と、フェナが記録した写真を照合した。さらに少し先まで確認に行き、搬送具を通せることを確かめてから、隊列へ進む合図を出した。俺は胸の奥で、帰る方向を示す感覚がはっきりしているのを確かめた。能力は道を選んでくれない。それでも、みんなが安全を確かめた道を、帰る方向へつなぐことはできる。
途中、設備担当が痛みに顔をしかめ、搬送班が再び止まった。医療担当が固定具と体勢を確認し、少し休んでから進むことになった。主任は隣へ座り、設備担当へ何か話しかけた。俺には声が届かなかったが、設備担当が小さく笑ったのが見えた。搬送担当は水を差し出し、三人の間に昨日の無線では聞こえなかった普通の会話が戻っていた。
「ナオトさん」とフェナが俺を呼んだ。「昨日、鐘の音を聞いた時、私は誰かが外へ出たんじゃないかと思って怖くなりました。でも、今は三人の声が聞こえます」
「うん。顔も見える」
「帰るまで、まだ気は抜けませんけど」
「そうだね。ここからも、ゆっくり行こう」
フェナは頷き、隊列の後ろへ戻った。俺は彼女の背中を見送りながら、怖い時に怖いと言うと約束したことを思い出した。今日は、怖さがなくなったわけではない。けれど、その気持ちを隠さずに動ける仲間がいる。
麓の広場へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。管理事務所の職員たちが駆け寄ってきたが、相馬さんはまず、搬送班が安全な場所へ設備担当を移すまで道を空けるよう頼んだ。主任と搬送担当はそれぞれ本人確認を受け、医療担当の問診へ進む。設備担当も搬送具のまま確認され、地上の医療機関へ向かう準備が整った。三人の帰還が、声だけでなく一人ずつ確かめられた。
若い職員は主任の前で立ち止まり、何か言おうとして言葉を失った。主任はその肩へ手を置き、先に謝った。
「心配をかけた。記録のことばかり考えて、無理をするところだった」
「俺も、主任なら大丈夫だって言ってしまいました。ちゃんと待ってもらう方法を考えずに」
「お互い、帰ってから考えることが増えたな」
二人は少し笑った。俺はその横を通り、相馬さんへ全員の帰還確認が終わったことを伝えた。索道はまだ止まっており、吊り橋も使えない。観測所の改修作業がいつ再開できるかは分からない。それでも、三人が地上へ戻ったという事実だけは、はっきりしていた。
搬送担当は、医療車へ向かう設備担当の背中を見送りながら、俺に小さく頭を下げた。
「昨夜、あいつが足を痛めたのは、自分のせいだってずっと言ってたんです。俺たちが荷物を急いで運んだからだって。でも、あいつが転んだ瞬間を俺は見ていないし、何が原因かまだ分からない。戻ってから、ちゃんと話を聞いてやりたいと思います」
「そうですね。今は、足を診てもらうのが先だと思います」
「はい。あいつ、昨日から何度も『迷惑をかけた』って言ってました。俺も何て返せばいいか分からなくて」
俺は少し考え、今ここで正しい返事を見つけなくてもいいのではないかと伝えた。搬送担当は目を伏せ、やがて頷いた。
「そうですね。帰ってきたんだから、話す時間はありますよね」
彼はそう言って、主任のところへ戻った。俺は三人が一緒にいた資料室を思い出した。山上では、何もかもが急ぎの問題に見えた。けれど、帰ってきた今なら、急いで答えを出さなくてもいいことがある。助ける側の俺たちにも、そんな時間を大切にできればと思った。
フェナは主任のところへ戻り、鐘について尋ねた。主任は、昔は観測が終わると鐘を鳴らし、麓で待つ人へ仕事が終わったことを知らせていたと教えてくれた。誰かが帰ってくる時間を知るための音でもあったという。
「今は機械が知らせてくれることも多いが、鐘を聞くと、ああ今日も終わったんだなと思うんだ」と主任は言った。「でも、あの打棒は直さないといけない。風で勝手に鳴る鐘じゃ、待つ人を安心させられない」
「また使えるようになったら、聞いてみたいです」とフェナが答えた。
「その時は、ちゃんと安全を確認してから鳴らすよ。山の下で聞いていてくれ」
主任はそう約束した。フェナは嬉しそうに頷き、俺の方へ戻ってきた。
救難受付へ戻る車の中で、俺は新しい水筒を開けた。中の飲み物はすっかりぬるくなっていたが、喉を通ると妙においしかった。フェナも一口飲み、窓の外へ目を向ける。山の稜線にはまだ雲が掛かっている。鐘の音はもう聞こえない。
「ナオトさん、今日は帰ってきたら何をしますか」と彼女が尋ねた。
「まず報告書かな。そのあと、できれば温かいものを食べたい」
「昨日は水筒を買うだけで、ずいぶん迷っていましたね」
「そうだった。結局、ちゃんと役に立っただろ?」
「はい。でも、選ぶのに時間をかけたことより、分けて飲めたことの方が嬉しかったです」
俺は返事に迷い、少しだけ窓の外を見た。山の上では、帰る道が分かっても、そこを歩けるかどうか分からなかった。俺たちは何度も立ち止まり、待ち、別の人の判断を借りて、ようやく三人を連れ帰った。その途中で、フェナが怖いと言い、俺も怖いと答えた。以前の俺なら、誰かを助ける人間は迷ってはいけないと思っていただろう。
「フェナ。今度の休み、また道具屋に付き合ってくれる?」
「また何か買うんですか」
「いや、今度はフェナの欲しいものを見たい。昨日、俺の買い物だけで終わっちゃったから」
彼女は少し考えてから、笑った。
「それなら、まずお店を一周してから決めます。ナオトさんみたいに、候補を増やしてもいいですか」
「もちろん。でも、閉店までには決めような」
フェナは楽しそうに笑い、相馬さんが運転席から「その前に二人とも休めよ」と声をかけた。俺たちは顔を見合わせ、揃って返事をした。
山上の鐘は、いつか修理が終わればまた鳴るだろう。その時、俺は今日の霧と、分岐で立ち止まった時間を思い出すかもしれない。誰かを連れ帰る仕事は、近い道を急ぐことではない。帰る先で待っている人へ、ちゃんと顔を見せられるように、一歩ずつ進むことだ。俺は鞄の中の水筒が倒れていないか確かめ、窓の外に流れる街を眺めた。今日も俺たちは、帰ってきた。




