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ハズレスキル《帰り道》しかないF級探索者、遭難したS級パーティを全員連れて帰ったら救難依頼が殺到しました  作者: ころもぐら


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第180話 音の届く場所

山道を下りる途中、鐘はもう一度だけ鳴った。さっきより短く、途中で音が詰まったような響きだった。巡視員は歩みを止めず、谷の向こうに見える塔を一度だけ振り返った。あの音が人の手で鳴らされたのか、風で揺れたのか、俺たちには判断できない。山上からの無線がつながらない今、確かめるために危険な橋へ向かうわけにもいかなかった。


 先頭の巡視員が落ち葉を避けて足場を選び、相馬さんは最後尾で全員の歩く速さを揃えていた。俺の《帰り道》は麓の広場へ続く道筋を示しているが、行きに見つけた崩れかけの斜面へ戻る道も、地形としてはそこにある。帰る方向が分かることと、歩いていい場所が分かることは違う。俺は巡視員が選んだ道を見失わないよう、フェナのすぐ後ろを歩いた。


「ナオトさん、さっきの鐘の音、少し変でしたね」と彼女が言った。


「うん。最初の音と違って、何かにぶつかったみたいだった」


「主任さんが鳴らしたと決まったわけではありません。でも、あの音を聞いて、誰かが危ないことをしているんじゃないかと考えてしまいます」


「俺もだよ。そう考えると、戻っていることが間違いみたいに感じる」


 フェナは一歩先の木の根を跨いでから、俺を振り返った。


「間違いかどうかは、まだ分かりません。私たちが落石の場所でけがをしたら、山の上へ伝えられることもなくなります」


 分かっているつもりだった。それでも、鐘の音が頭の中で鳴り続ける。俺は背負った鞄の肩紐を握り直した。昨日の地下保管庫では、誰も入らない判断ができた。今日は人が待っている。判断の重さが違うからといって、通れない道が通れるようになるわけではないのに、気持ちだけが急いでいた。


 麓の広場に戻ったのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。索道の搬器は相変わらず谷の上で止まり、風に揺れる音が駐車場まで聞こえてくる。管理事務所の人たちが俺たちを見ると、一斉に立ち上がった。誰かが山上の三人を連れていると期待していたのかもしれない。俺たちだけだと分かると、空気が少し重くなった。


「南回りの道で落石がありました」と相馬さんが先に報告した。「現場の巡視員が通行不可と判断しました。吊り橋も使用禁止のままです。山上の三人には待機を続けてもらう必要があります」


「でも、夕方から風が強くなるんですよ」と管理事務所の若い職員が言った。「夜になれば気温も下がります。観測所の暖房がいつまで使えるか、まだ分からないでしょう」


「だから、暖房と水をもう一度確認します。道が使えないから何もしない、という意味ではありません」


 相馬さんは落ち着いた声で答え、通信担当へ山上への呼びかけを頼んだ。受信機からは細かな雑音だけが聞こえる。職員は何度も周波数を合わせたが、主任の返事はなかった。俺は窓の外の山を見た。雲が低くなり、塔の上半分はもう見えない。午前中、店の前で聞いた鐘が遠い出来事に思えた。


 管理事務所の責任者は、机に広げた図面の吊り橋へ赤い印を付けた。さらに南回りの落石地点へ別の印を付け、眉間に深い皺を寄せる。


「東側の尾根からなら、観測所へ近づけるかもしれません。昔、火災巡視に使っていた道があるんです」


「今も通れるんですか」と相馬さんが尋ねた。


「今年の春に一度、巡視員が途中まで入っています。ただ、その先の階段は使っていません。図面には残っていますが、現況を確認していない」


「なら、今すぐ三人を通す道としては扱えません。東側を調べる人員を手配してください。風が強い時間に尾根へ入れるかも含めて判断してもらいます」


 責任者は頷いたが、隣の若い職員は納得しきれない様子だった。彼は観測所の主任が長年ここで働いていること、山の天気を誰より知っていることを繰り返した。だから少しくらい危ない道でも、自分で下りられるはずだと言いたいらしい。


「主任が丈夫なのは知っています」と巡視員が答えた。「でも、今は足を痛めた人もいる。主任が一人で歩けるかどうかと、三人が一緒に下りられるかは別の話です」


 若い職員は唇を結び、椅子へ戻った。俺は彼を責める気になれなかった。親しい人が山上にいれば、待つより動きたくなるだろう。俺だって、フェナがあそこに残っていたら、同じように言ってしまうかもしれない。


 通信担当が古い設備台帳を持ってきた。そこには、観測所の鐘についての記載があった。鐘は昔、気象観測の開始と終了を麓へ知らせるために使われていたが、塔の外側に風圧で動く試験用の打棒も取り付けられている。現在は使われていないはずの装置で、強風時に勝手に鳴る可能性があるという。


「朝の三回は、定期試験の操作です」と担当者が説明した。「ただ、午後の一回が誰の操作かは分かりません。打棒が外れかけているという話も、以前から出ていました」


「鐘が鳴ったから人が塔へ出た、と決められないわけですね」とフェナが言う。


「はい。逆に、勝手に鳴ったと決めてしまうこともできません」


 相馬さんは台帳の写しを受け取り、山上へつながった時に確認する項目へ加えた。鐘の原因を調べるためだけに塔へ登らせないことも、改めて共有する。俺は、耳に残っていた音が少し違って聞こえ始めた。音が同じでも、その向こうで起きていることは一つではない。だからこそ、知りたい気持ちだけで先へ進んではいけない。


 通信担当は別の方法を提案した。観測所へ向けた古い有線回線は断線したままだが、麓の東側斜面に臨時の無線中継器を設置すれば、山上と直接つながる可能性がある。中継器の設置場所までは舗装された管理道路が続き、風を避けられる斜面の窪みもあるという。ただし、現地の通信品質は測ってみなければ分からない。


「俺たちが行ける場所ですか」と俺は尋ねた。


「設置そのものは通信班の仕事です」と相馬さんが答えた。「久世とフェナは、現地での連絡が成立した場合に、山上の人へ状況を伝える役割を手伝ってほしい。人数と体調を確かめる声が一人でも増えれば、聞き違いを減らせる」


 俺は頷いた。橋を渡れなかった自分にも、まだできることがある。フェナはすでに、山上の三人へ確認する質問を小さな紙へ書き始めていた。水の残量、暖房の燃料、足を痛めた人の状態、室内の安全、そして誰も塔へ出ていないか。彼女は書き終えると、最後に一行を付け足した。


「『助けが来るまで、何をして待てばいいか』も伝えたいです。質問だけして切ってしまったら、相手はまた不安になりますから」


 相馬さんはその紙を見て、順番を変えようと言った。まず安全な場所に三人がいることを確かめ、次に待機の指示を伝え、それから細かな状態を聞く。無線が途中で切れても、最も大事な言葉が残るようにするためだ。


 東側の管理道路は、山の斜面をゆっくり登っていた。俺たちは通信班の車の後ろを走り、途中から歩いて小さな見晴らし台へ向かった。谷を挟んで観測所の建物が見えるはずだったが、雲の中に白い壁がぼんやり浮かぶだけだった。地面は濡れておらず、風も林の中では弱い。さっきの落石地点とは違い、足元を確かめながら進める。


 通信班の担当者は三脚を立て、細長いアンテナを山上へ向けた。端末の画面には数字が並び、彼は何度も角度を変えながら受信状態を調べる。俺には数字の意味がほとんど分からなかったが、彼が「まだ声を通せる状態ではない」と言うたび、山上の三人が待っている時間を思った。


「ナオトさん、あの人、手が冷たそうです」とフェナが囁いた。


 通信担当者は手袋を外し、小さな端子を接続していた。指先が赤くなっている。フェナは持参した温かい飲み物を差し出そうとして、作業の邪魔にならない位置で待った。接続が終わると、担当者は礼を言って紙コップを受け取り、一口飲んでから作業へ戻った。


「こういう時、声をかけるのも難しいですね」とフェナが言う。


「うん。早くしてほしいと思ってるのに、急かしたら手元が狂うかもしれない」


 俺たちは見晴らし台の端へ移り、必要な時に呼ばれるまで待った。遠くの山肌で木々が波のように揺れている。風は見えないが、通り過ぎた場所の葉が一斉に動くことで、ようやく形を想像できた。塔の鐘は鳴らない。鳴らないことが安心の証拠でもないと、今は分かっている。


 やがて端末から短い呼び出し音がした。通信担当者が片耳の受話器を押さえ、相馬さんへ合図する。


『……こちら、山上観測所。聞こえますか』


 主任の声だった。相馬さんは自分の名を告げ、山上の人が屋内にいるか尋ねた。主任は三人ともいると答えたが、言葉の途中で雑音が入る。通信担当者はアンテナの向きをわずかに直し、もう一度同じ質問を送った。


『三人、建物内です。外へは出ていません。鐘は、たぶん風です。塔の扉は閉めています』


「了解しました。塔へは上がらないでください。徒歩路は二か所とも現在使えません。こちらで別の経路を確認しています。救難班が到着するまで建物内で待機してください」


 主任は短く返事をした。声が届いたというだけで、俺の胸の奥が少し緩んだ。相馬さんは続けて、設備担当と搬送担当の声を順番に聞いた。二人とも返事をし、足を痛めた設備担当は腫れが強くなっているが、意識ははっきりしていると話した。歩かせて状態を試すことはしていない。


「水は十分あります」と搬送担当が答えた。「ただ、暖房の燃料が思ったより少ない。建物の外壁に隙間があって、風が入ってきます」


「今いる部屋を変えられますか」と相馬さんが尋ねた。


『奥の資料室なら窓が小さいです。古い毛布もあります。でも、主任は観測室を離れたがらなくて……』


 無線の向こうで誰かが何か言った。主任の声が重なり、通信が一瞬途切れる。俺は相馬さんの顔を見た。彼はすぐに判断せず、通信が戻るのを待った。


『観測室には記録装置があるんです』と主任が言った。『停電になれば今日の観測が消える。何年も続けてきた記録で、ここで途切れたら……』


 相馬さんは落ち着いた声で、装置の状態と人の安全を分けて尋ねた。記録装置は非常用電源で動いており、今すぐ人が操作しなければ止まるという説明ではない。主任自身も、どのくらい持つかは分からないという。


「今、装置のために観測室へ残る必要は確認できていません」と相馬さんが言った。「人が暖かい場所へ移る方を優先してください。装置のことは管理事務所へ伝えます」


『でも、ここで止めたら、今までの仕事が無駄になるかもしれない』


 主任の声が、さっきより近く聞こえた。俺は水筒を握ったまま、何も言えなかった。仕事を途中でやめて帰った探索者の顔が浮かぶ。帰ることが正しいと頭で分かっても、自分が守ってきたものを置いていくのは怖い。まして何年も続けてきた仕事なら、その重さは俺には測れない。


「主任さん」とフェナが、相馬さんの許可を得て声をかけた。「私は救難班のフェナです。記録を大事にしてこられたことは、今のお話で分かりました。でも、主任さんが寒い部屋で倒れたら、その記録を説明できる人がいなくなってしまいます」


『……君は、観測の仕事を知っているのか』


「詳しくは知りません。だから、何が大切なのかを教えてほしいです。私たちは、主任さんたちが戻ってから聞くこともできます。今、ここで全部を守ろうとしなくても、続ける方法を一緒に考えられませんか」


 無線の向こうで長い沈黙があった。風の音が受話器を通り、まるで山の中に立っているように聞こえる。俺はフェナを見た。彼女は受話器を握る手に力を込めていたが、言い直そうとはしなかった。


『分かった。資料室へ移る』と主任がようやく答えた。『ただ、記録装置の電源がどうなったか、麓で分かったら教えてほしい』


「必ず確認を依頼します。分からないことは分からないとお伝えします」と相馬さんが答えた。


 俺はその言葉を聞いて、ほっとした。約束できないことを約束せず、それでも相手を一人にしない。救難の仕事を始めた頃、俺には難しかった話し方だ。


 通信が続いている間に、三人は毛布と飲料水を資料室へ移した。設備担当を無理に歩かせず、二人が椅子ごと運べる範囲で移動を手伝ったという。椅子を持ち上げた時に痛みが増したため、そこで一度休み、搬送の仕方を変えた。医療担当が無線に入り、体勢と痛みの変化を確認する。俺たちは現地の状態を見られないので、できる指示には限りがある。それでも、三人が同じ部屋に集まり、声を掛け合える状態になったことは確認できた。


 山上の主任が資料室へ移ったあと、管理事務所から記録装置についての問い合わせが入った。非常用電源は観測室の機械だけを動かす仕組みで、建物全体の暖房とはつながっていないという。装置を止めずに人が移動できると分かり、若い職員は肩を落とすように息を吐いた。


「主任、あの記録のために何度も休日を返上していたんです。去年、観測が一度途切れた時、ひどく落ち込んでいて。だから、今回も無理をするんじゃないかと……」


「そういう事情があったんですね」と俺は言った。


「でも、さっき俺は『あの人なら一人で下りられる』って言いました。自分が心配だから、あの人に無理をしてほしいみたいな言い方でした」


 若い職員は足元の砂利を見つめた。俺は返す言葉を探したが、簡単な慰めは浮かばなかった。山の上で働く主任のことを、彼は俺たちよりずっと知っている。その人が大事にしてきたものも知っているから、何かを守りたいと思ったのだろう。


「主任さんが帰ってきたら、記録の続きを一緒に考えられますよ」とフェナが言った。「今は、帰ってきたあとにできることを残しておきませんか」


 職員は顔を上げた。フェナは、観測所で使っている記録の保管場所と、麓で見られる写しがあるかを尋ねた。職員は事務所の端末を開き、過去の観測値が毎日夕方に転送される仕組みを見せてくれた。ただし、今日の分はまだ届いていない。彼は画面を指しながら、装置が止まった場合に何を失うのか、初めて自分の言葉で説明した。


「主任に、データのことを聞かれたら、これを伝えてもらえますか。全部が消えるわけじゃない。昨日までの分は、ここにもあります」


 相馬さんは情報を確認し、次の通話で主任へ伝えると約束した。俺は、山の上から見えない麓の画面に、誰かの長い仕事の積み重ねが残っていることを知った。今日の記録が途切れる可能性は消えない。それでも、失うものを正しく知れば、守るために無理をする必要があるかどうかも考え直せる。


 日が傾くにつれ、見晴らし台の風が強くなった。通信班はアンテナの固定を追加し、交代で受信を続ける準備を始めた。相馬さんは俺たちに、麓へ戻って夜間の連絡体制を整えるよう指示した。俺はすぐに頷いたが、フェナは山上の塔をもう一度見た。


「主任さんたちへ、次の連絡の時間を伝えてもいいですか」と彼女が尋ねた。


「いい。決めた時刻にこちらから呼びかける。ただし、天候でつながらない可能性も伝えてくれ」


 フェナは受話器を受け取り、次の確認予定と、返答がなければ慌てて外へ出ずに屋内で待ってほしいことを伝えた。主任は、分かったと答えた。最後に搬送担当が「水を温めておきます」と言い、設備担当の小さな笑い声が聞こえた。三人が同じ部屋にいるのだと、俺はその声でようやく実感できた。


 麓へ戻る車の中で、俺は新しい水筒を開けた。朝、道具屋で迷った末に買ったものだ。蓋は片手で開き、湯気が細く上がる。フェナへ差し出すと、彼女は少し驚いた顔をした。


「ナオトさんが使うために買ったものですよね」


「今は二人で飲めればいいよ。さっき、主任さんと話してくれてありがとう」


「私、余計なことを言ったかもしれません。仕事の大切さを知らないのに、離れた方がいいなんて」


「知らないって、ちゃんと言ってた。あの人の話を聞きたいとも言った。それで十分だったと思う」


 フェナは水筒を両手で持ち、少しずつ飲んだ。窓の外では、雲の切れ間から夕日の色が見え始めている。山上はまだ寒いだろう。俺たちが帰る車の中で温かい飲み物を飲めることに、申し訳なさもあった。


「ナオトさん。もし私が、帰りたくないと言ったらどうしますか」


「理由を聞くよ。それから、一緒に帰る方法を考える」


「理由を聞いても、納得できなかったら?」


「それでも、勝手に置いていかない。相馬さんたちにも相談する。俺一人で決めて、あとでフェナに怒られるのは嫌だから」


 彼女は声を立てて笑った。朝、道具屋で何を買うか迷っていた時より、少しだけ表情が柔らかい。俺もつられて笑ったが、すぐに山の方へ目を戻した。笑っている間にも、三人は待っている。


 管理事務所へ着くと、東側の巡視員から新しい報告が届いていた。尾根の下部は通行できるが、上部の階段には風で落ちた枝が積もっている。夜間の進入は危険で、明るくなってから現場の確認を続けるという。救難班は山上の待機を維持し、医療担当と通信班が夜通し連絡を支えることになった。


 俺は地図の東側へ書き込まれた新しい印を見た。そこには「未確認」と小さく記されている。通れると決まったわけではない。それでも、今日の午前中には知らなかった道の状態が、少しずつ明らかになっていた。


 その時、通信担当が部屋へ駆け込んできた。山上から短い連絡が入り、資料室の外で大きな音がしたという。屋根の一部が風にあおられた可能性があり、三人はまだ室内にいるが、天井から細かな埃が落ちているらしい。


「外へ確認に出る必要はありません」と相馬さんが即座に指示した。「まず、三人がいる部屋の状態を聞いてください。移動するなら、建物内で安全を確認できる範囲だけです」


 通信担当が走り戻る。俺は立ち上がり、フェナと顔を見合わせた。山の上の鐘はもう聞こえない。けれど、音が消えたからといって、風が止んだわけではなかった。

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