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ハズレスキル《帰り道》しかないF級探索者、遭難したS級パーティを全員連れて帰ったら救難依頼が殺到しました  作者: ころもぐら


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第179話 山の上から聞こえる鐘

次の日の朝、俺は救難受付へ向かう前に、フェナと駅前の小さな道具屋へ寄った。以前から使っていた携帯用の水筒の蓋が緩くなり、鞄の中へ水が漏れることがあったからだ。救難の仕事に比べれば、ずいぶん平和な用事だったが、売り場に並んだ色とりどりの水筒を見ているうちに、どれが自分に合っているのか分からなくなった。


「ナオトさん、選ぶ基準が増えていませんか。最初は漏れないものが欲しいとおっしゃっていましたよね」


「そうなんだけど、せっかくなら軽い方がいいし、洗いやすい方がいい。熱い飲み物も入れたいと思ったら、候補が増えちゃって」


 フェナは棚から一つ取り、蓋を開けて中を覗いた。口の広さを確かめてから、俺へ差し出す。


「これなら、手袋を外しても開けやすそうです。今までのものより少し大きいですけれど」


「フェナは何か欲しいもの、ないの?」


「私は……」


 彼女は答えかけ、通りの向こうから聞こえてきた鐘の音に顔を上げた。時刻を知らせる教会の鐘ではない。低い金属音が三度、間を空けて響き、商店の店主が軒先から空を見上げている。山側の空には雲が薄く掛かっていた。


「山の観測所で鳴らす鐘です」と店主が教えてくれた。「風が強くなる前に、試験で鳴らす日があるんですよ。昔は麓の畑まで聞こえたそうです」


 この町から見える山の稜線に、古い観測所があることは知っていた。山腹に荷物用の索道が伸び、頂上近くには石造りの建物が残っている。以前は魔力を含んだ風の流れを調べていたが、設備の老朽化で一部が閉鎖され、今は少人数で改修作業をしているらしい。俺たちの仕事とは縁がないと思っていた場所だった。


「きれいな音ですね」とフェナが言った。


「うん。山の上からだと、こんなところまで届くんだな」


 店を出る時、彼女はもう一度鐘の方を見た。俺は新しい水筒を鞄にしまい、少し遅れて歩き出した。たった数分後、その音の意味が変わることになるとは思わなかった。


 受付に着くと、瀬川さんが入口の時計と電話の表示を交互に見ていた。普段は忙しい時でも声を落ち着かせている人なのに、俺たちの姿を見つけると、机を離れて廊下まで来た。


「久世さん、フェナさん。相馬さんが今、山側の管理事務所と連絡しています。お二人が来たら会議室へ、と」


「山側って、観測所ですか」


「ええ。観測所の改修班三人が、昨夕から山上に残っています。今朝までは予定どおり作業できていたそうですが、麓へ戻る予定の索道が停止しました」


「歩いて下りられないんですか」


「それを確認しています。徒歩の作業路はあります。ただ、途中の吊り橋で、風の影響を受けたという報告が入っています」


 会議室には相馬さんと、山の管理事務所から来た作業服の男性がいた。机の上に置かれた地図は、地下の図面と違って、山肌を横切る細い線が何本も描かれている。等高線の密な場所を指で追うと、尾根の左右で谷の深さが違うことが分かった。俺は地図の端にある小さな橋の記号を見つけ、手を止めた。


「三人の内訳を確認します」と相馬さんが言った。「観測所の主任一人、設備担当一人、荷物の搬送を手伝っている作業員一人。全員成人。午前九時四十分の連絡では、三人とも建物内にいました。現在、主任とは断続的に通話できますが、ほかの二人の声はまだ直接確認できていません」


「負傷者は?」


「主任は、設備担当が足首を痛めた可能性があると言っています。詳しい状態は未確認だ。搬送担当は無傷と聞いているが、これも主任経由の情報だ」


 管理事務所の男性は、索道の運転記録を開いた。風速計が異常値を示し、安全装置が停止したという。無理に再起動すれば搬器が揺れ、途中で止まるおそれがあるため、運転の再開は認められていない。索道が使えない場合は徒歩路で下りる手順だが、その道には古い吊り橋が一か所ある。


「昨日、橋の北側の固定金具に緩みが見つかりました」と男性が説明した。「立入禁止の表示は設置済みです。補修班が確認するまで橋を使ってはいけない。ところが、山上の作業員が持っている経路図には、まだ橋が通行可能と書かれています」


「連絡は?」と相馬さんが尋ねた。


「今朝、無線で伝えようとしました。ただ、風で中継アンテナが揺れたのか、返答を最後まで確認できませんでした。主任は橋が使えないと理解しているようですが、別の経路を案内できていません」


 俺は昨日の地下保管庫のことを思い出した。図面の古さが原因で作業を止めたばかりなのに、今度は山の上だ。けれど、ここでは机の上で話している間にも、風が強くなっていく。夕方には冷え込み、尾根を覆う雲も濃くなる予報だという。


「徒歩路はほかにないんですか」とフェナが聞いた。


 男性は地図の南側へ指を滑らせた。山腹を大きく回る道があり、昔の水路管理小屋を経由して麓へ戻れるらしい。ただし、現在は作業路として定期的に使われておらず、途中に崩れた石段と低い木橋がある。橋の強度や通行可否は、現場の確認なしに判断できない。


「つまり、地図には線があるけど、今通れるかは分からないんですね」と俺が言うと、男性は頷いた。


「こちらの巡視員が途中まで向かっています。通行できるか確認できたら、救難班へ連絡します。久世さんの能力で、道が使えるか分かるという話を聞いたのですが……」


「それは違います。俺に分かるのは帰る方向と道筋だけです。吊り橋の金具が緩んでいることも、石段が崩れていることも、近づくまで分かりません」


 男性は気まずそうに目を伏せた。相馬さんがすぐに、久世の役割は複数の道が分かれる場所で帰路を見失わないための補助であり、通行の安全判断は現場の責任者が行うと説明した。俺は、その説明を聞いて少し安心した。山では目印が消えることもある。自分の能力が役立つ場面はあるかもしれないが、役立つからこそ、できないことを最初に伝えたかった。


 相馬さんは地図の余白に、今の段階で選べる手段を三つ書いた。索道の再開を待つこと、通行が確認できた徒歩路を使うこと、山上で待機してもらい別の搬送手段を準備すること。どれにも条件があり、決定した手段は一つもなかった。俺が見ていると、彼は紙を少し傾けた。


「久世、帰路を知っているからといって、到着を約束しなくていい。俺たちは山上へ向かうが、途中で引き返す判断もする。そこでお前が『帰れる』と言うと、ほかの者が危険を軽く考える可能性がある」


「俺が言えるのは、戻る向きだけですね」


「そうだ。逆に、道に迷って戻れない時には、遠慮せず言ってくれ。役割を小さく見積もる必要もない」


 俺は地図から目を上げた。能力の限界を説明することには慣れてきたが、役に立ちたい気持ちまで小さくしなくていいと言われるのは、少し久しぶりだった。以前は、F級の俺が同行するだけで誰かの足手まといになると思っていた。今は、危険な場所へ先頭で踏み込む力がなくても、帰る時にできる仕事があると知っている。


 フェナは別の用紙へ、山上の三人が使える飲料水と暖房の燃料、通信が途切れた場合の待機場所を書き込んだ。相馬さんの表とは別の、待つ側のための確認事項だった。


「もし私たちが途中で戻るなら、山の上の方にも理由が必要だと思うんです。『来られません』だけでは、外へ出て迎えに来ようとするかもしれませんから」


 相馬さんはその紙を受け取り、山上へ説明する時に使おうと言った。俺は、フェナがいつの間にか、救助される側の気持ちを先に考えるようになっていることに気づいた。俺たちがどこまで進めるかだけでは、救難の計画は完成しない。待っている人が、どうやって待つかも必要なのだ。


 出発前に、瀬川さんが主任との短い通話をつないだ。雑音の向こうから聞こえたのは、思っていたより年配の声だった。


『三人とも建物の中です。設備の子は足をひねったが、意識ははっきりしている。今は椅子に座らせている。搬送担当が暖房の燃料を見に行っているから、少し待ってください』


「主任さん、こちら救難班です」と相馬さんが応じた。「建物の外へ出ないでください。索道と吊り橋は使用禁止です。暖房と水の残量を確認して、可能なら三人それぞれの声を聞かせてください」


『分かった。鐘は……鐘を鳴らしてもいいですか。麓へ知らせるために』


「鐘を鳴らすために屋外へ出る必要がありますか」


『そうだ。塔の階段を上る』


「それなら今はやめてください。居場所は把握しています。風の中で塔へ上がる危険を増やす必要はありません」


 短い沈黙のあと、主任が了解した。俺は店先で聞いた鐘の音を思い出した。あれは助けを呼ぶ合図ではなく、午前中の試験だったのだろう。もしあの音がもう一度聞こえても、それだけで三人の状態が分かるわけではない。


 設備担当の声が通話に入った。痛むのは右足首で、転んだ時に膝も打ったという。自分で歩けるかは試していない。搬送担当は暖房の燃料を持って戻り、三人で建物内にいると答えた。相馬さんは一人ずつ返答を確認し、無理に動かないこと、救難班が到着するまで暖かい部屋に集まることを伝えた。


「三人とも声が聞けましたね」とフェナが言った。


「うん。でも、これからも連絡が取れるとは限らない」と俺は答えた。


 瀬川さんは通話の時刻を記録し、最後に確認できた人数と場所を明確に残した。三人のうち誰かが外へ出たら、その時点で情報が変わる。山の仕事では当たり前のことかもしれないが、俺たちは山へ向かう前から、その小さな違いを大切にしなければならなかった。


 救難班の車には、相馬さんと俺、フェナのほかに、山道に慣れた巡視員が同乗した。医療担当は麓の待機場所に残り、必要な装備を持って別班が追いかける。空は午前中より暗くなり、山へ近づくにつれて道路の端に落ち葉が溜まっていた。車内では巡視員が地図を広げ、標高の高い場所ほど風の向きが変わりやすいと説明した。


「吊り橋へ続く道は、尾根を横切るので風をまともに受けます。南回りの道は木が多い分、風を避けられるかもしれません。ただ、足元は湿っています。石段の崩れ方を見ないと何とも言えません」


「昔の水路管理小屋は使えるんですか」とフェナが尋ねた。


「屋根は残っています。鍵が開くかは管理者に確認しましたが、避難場所として認められているわけではありません。雨風をしのげるかも、行ってみないと」


 相馬さんは頷き、巡視員が安全を確認した場所だけを進むと決めた。俺は車窓から山の斜面を眺めた。道路の向こうに見える谷は、地下の暗闇とは違う怖さがある。どこまでも見渡せるのに、踏み外した先が遠すぎて距離を測れない。フェナは俺の隣で手袋をはめ、指先の動きを確かめていた。


「ナオトさん、怖いですか」


「正直、少し。高いところは得意じゃないんだ」


「私もです。怖い時に怖いと言えるようにしておきます」


 彼女は冗談めかして笑ったが、その手は手袋の縁を何度も撫でていた。俺は「頼む」と答えた。いつも落ち着いているフェナがそう言ってくれたことで、俺も平気な顔をする必要がなくなった気がした。


 車が進める最後の広場に着くと、山上へ続く索道の搬器が谷の上で止まっているのが見えた。空の搬器だったが、金属の枠が風を受けて小さく揺れている。管理者が運転を止めた理由を、説明されるまでもなく理解できた。風が弱まったように見える瞬間にも、谷底から吹き上がる風は不規則に強くなる。


 広場にはもう一人の巡視員が待っていた。南回りの道を途中まで確認し、倒木はあるものの歩行できる区間があると報告する。ただし、水路管理小屋の先にある木橋まではまだ到達していない。橋の手前に落石があり、単独での確認をやめたという。


「ここから先は、橋の状態を見てから決めます」と相馬さんが言った。「無理なら山上の三人には建物で待機を続けてもらう。別の装備と人員を手配する」


「日が暮れるまでに戻れますか」と巡視員が尋ねた。


「戻ることを優先する。暗くなる前に行けるところまで、という考えでは進まない」


 俺はそのやり取りを聞きながら、山上の三人を思った。設備担当は足を痛め、主任は建物の暖房を気にしている。待たせることにも危険はある。それでも、急いで橋を渡り、救難班まで戻れなくなったら意味がない。相馬さんの言葉には、簡単には割り切れない重さがあった。


 俺たちは装備を点検し、巡視員を先頭に歩き始めた。道は最初こそ広かったが、杉林に入ると急に細くなる。踏み固められた土の上には濡れた葉が重なり、靴底が滑るたび、誰かが声をかけて足を止めた。俺の《帰り道》は麓の広場へ戻る方向を静かに示している。道が曲がっても、どちらへ帰ればいいかは分かる。けれど、先にある木の根が滑りやすいことまでは教えてくれない。


 しばらく進むと、林の間から吊り橋の一部が見えた。対岸の岩に固定された金具が、遠目にも不自然な角度をしている。橋の入口には赤い布が結ばれ、通行止めの札が風に打たれていた。巡視員はその手前で足を止め、橋へ近づかないよう指示した。


「ここを渡れば観測所へ近いんですが、今日は使えません。南の道へ戻りましょう」


 俺は橋の向こうへ伸びる道を見た。能力が示す帰り道とは別に、地図の線は確かに山上へ続いている。今まで何度も、近い道を選びたくなる人の気持ちを見てきた。ここに立つと、その気持ちが自分にも分かる。目の前に橋があるのだから、渡れば早い。だが、渡れない理由も目の前にあった。


「ナオトさん」とフェナが呼んだ。「向こうで何か光りました」


 彼女が指したのは観測所の塔だった。雲の切れ間から白い壁が見え、窓らしい場所に淡い光が動いた。反射か、誰かが灯りを向けたのかは分からない。俺たちはその場で立ち止まり、巡視員が双眼鏡を取り出すのを待った。


「窓の内側に人影があるようです。ただ、誰かまでは分かりません」と巡視員が言った。


 相馬さんは無線を取り、山上へ呼びかけた。返答はすぐにはなかった。風が木々を鳴らし、吊り橋の下で細い金属音が続いている。数十秒後、主任の声が途切れ途切れに届いた。


『こちら……三人、室内。窓から……見えたか。設備の子が……』


 そこで雑音が入り、声が消えた。相馬さんが呼び直したが、返答はない。俺は思わず橋へ目を向けた。目の前の谷は広く、向こう側の建物は近いようで遠い。


「橋へ行かないでください」とフェナが、俺ではなく巡視員の後ろにいた若い補助員へ声をかけた。補助員は反射的に一歩踏み出していたが、足を止めた。彼は観測所の主任と親しいらしく、無線が切れたことで顔色を変えていた。


「すみません。声が聞こえた気がして……」


「気持ちは分かります。でも、ここからでは何が起きたか分かりません。確認できる場所まで戻りましょう」とフェナは言った。


 相馬さんは全員の位置を確かめ、南回りの道へ移動すると告げた。俺はその時、フェナが少し震えていることに気づいた。自分も怖いと言ったばかりなのに、彼女はほかの人の一歩を止めるために声を出したのだ。


 南へ回る道は、予想以上に傾斜がきつかった。谷へ下るにつれて風は弱まったが、代わりに沢の水音が大きくなる。木々の隙間から見える空は、灰色の雲に覆われ始めていた。巡視員は落石のあった場所で立ち止まり、斜面の状態を調べた。拳ほどの石が道に散らばり、その上に新しい土が乗っている。


「上から落ちてきたばかりかもしれません。ここは一人ずつ通るより、まず斜面の動きを確認した方がいい」と巡視員が言った。


 俺たちは安全な広がりへ下がった。相馬さんが管理事務所へ連絡し、上部の作業路に人を入れないよう頼む。落石の原因はまだ分からないが、上で工事が続いていれば危険が増える可能性がある。管理側からは、すでに全作業を停止していると返答があった。


 その時、林の奥で鈍い音がした。誰かが木を叩いたような、腹の底へ響く音だった。巡視員が顔を上げ、全員へ低い姿勢を取るよう指示する。次の瞬間、斜面の上で枝が折れ、土と小石が道へ落ちてきた。


 大きな崩落ではなかった。それでも、足元の土がわずかに動くのを見て、俺は息を止めた。フェナが俺の腕を掴み、相馬さんが補助員を後ろへ引く。石は数秒で止まったが、沢の水音が戻ってきても、誰もすぐには立ち上がらなかった。


「全員、けがはないか」と相馬さんが声をかける。


 順番に返事が返る。俺も無事だと答え、フェナの手がまだ腕にあるのを感じた。彼女は気づいて離そうとしたが、俺はその前に小さく頷いた。あの一瞬、掴んでくれなければ、俺は動く土を見つめたままだったかもしれない。


「ここは通れません」と巡視員が言った。「南回りも、今の状態では安全を確認できない」


 相馬さんは迷わず、麓へ戻って別の方法を検討すると決めた。山上の三人を助けに来たのに、まだ半分も近づけていない。悔しさが胸に残ったが、反対する理由は見つからなかった。俺の能力は、帰る方向をはっきり示している。そのことが、今は少しだけ救いだった。


 引き返し始めた時、風に乗って遠くから鐘が鳴った。朝に聞いたものと同じ、低く澄んだ音が一度だけ谷を渡る。相馬さんが立ち止まり、巡視員が観測所の塔を振り返った。


「さっき、鐘を鳴らさないよう伝えましたよね」と俺が言うと、相馬さんは無線を握り直した。


「伝えた。だが、誰が何のために鳴らしたかは分からない。まず人数と居場所を確認する」


 鐘はもう鳴らなかった。雲の向こうに塔の先端が隠れ、俺たちは落石の道から離れて、来た道を下り始めた。山上の三人は建物にいるはずだ。けれど、その『はず』を確かめる声は、まだ返ってこなかった。

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