第177話 空白の勤務表
川沿いの施設から先に地上へ戻った作業員は、翌朝、いつもの時間に目が覚めた。目覚ましが鳴る前だった。昨夜は寝ついた記憶が曖昧で、何度か起きて水を飲んだ。枕元の端末には、相方から短い連絡が一件届いている。医療担当者の確認を受けて休んでいること、詳しい検査の結果はまだ聞いていないこと、仕事の話は今日はしないでほしいことが書かれていた。
彼は画面を二度読み、返信を打ちかけてやめた。大丈夫か、と聞きたい。しかし、相方は自分の状態を今の時点で説明できるとは限らない。返事を急がせたくもなかった。結局「連絡ありがとう。返事はいらない。ゆっくり休んで」とだけ送った。送信の表示が出ると、端末を裏返して机に置いた。
台所には昨夜の食材がそのまま残っていた。相方が家で夕飯を作ると言っていたのを、地下の入口で笑って聞いた。彼自身も帰りに買い物を頼まれていたが、救難が終わる頃には店が閉まっていた。冷蔵庫を開けても食べたいものが浮かばず、冷たい水だけを飲む。昨日は自分だけ先に地上へ戻った。あの判断が間違いだったとは思わない。それでも、時計の針があの曲がり角を通る時刻に戻るなら、何か別の言葉をかけられたのではないかと考えてしまう。
会社からの電話は八時を少し過ぎた頃に鳴った。今日は現場へ行かず、午前中に事務所で聞き取りを受けてほしいという。休みたいなら日を変えられるとも言われたが、彼は出向くと答えた。話さなければ、昨日のことが自分の中で勝手な形に変わっていく気がした。
事務所の玄関には、いつもなら濡れた長靴を並べる棚がある。今朝は棚の前が妙にきれいで、掃除用のバケツまで端へ寄せられていた。彼は靴を履き替え、作業着の上着をロッカーへ掛けた。奥の会議室から、紙をめくる音が聞こえる。扉を開けると、点検会社の責任者と事務担当者が席に着いていた。
「来てくれてありがとう。無理なら途中で止めていい」と責任者が言った。「まず、昨日のことを覚えている範囲で聞かせてほしい」
「はい。ただ、俺が見てないところのことは分かりません」
「それで構わない。相方がどこで足を痛めたかも、まだ本人から十分に聞けていない。君が知っている範囲だけでいい」
机には作業指示書、施設から渡された簡略図、会社の勤務表が置かれていた。彼はそのうち勤務表へ目を止めた。昨日の欄は二人とも「作業完了予定」と印刷されている。終了時刻の欄は空白だが、右端には作業時間をまとめるための小さな枠があり、担当者の確認印を押す場所が設けられていた。
「これ、今日はどうなるんですか」
「昨日の分か?」
「俺は途中で地上へ戻って、あいつは救難になりました。仕事が終わったことにはならないですよね。でも、勤務時間がなかったことになるのも違うと思って」
事務担当者は勤務表を引き寄せ、会社の勤怠と依頼主への請求は別に処理すると説明した。現場の仕事が予定どおり終わらなかったからといって、勤務していた時間まで消えるわけではない。ただし、残業や待機の扱いは責任者と確認が必要だという。
「それなら、昨日の最後まで全部『作業』って書いていいんですか」と彼が聞くと、事務担当者は首を振った。
「時間を分けましょう。現場で点検していた時間、地上へ戻って報告した時間、その後の救難対応に協力した時間。休憩できたかどうかも確認します。最初から一つの言葉でまとめると、あとで誰も分からなくなります」
彼は思いがけず、少し安心した。救難の最中、自分は何もしていなかったと思っていた。地下へ戻ることもできず、ただ待って、同じ説明を何度も繰り返した。しかし、あの待ち時間にも、最後に相方を見た場所を伝え、作業の内容を説明し、思い出した音の話をした。それが仕事としてどう扱われるかは別として、何もなかった時間ではない。
聞き取りが始まると、彼は地下へ入った時刻から順番に話した。午前中の計測器の点検は予定どおりだったこと、昼の連絡では表示のずれについて相談したこと、地上からの返答が途中で途切れたように聞こえたこと。午後の作業を終えようとした時、相方が奥の計測盤をもう少し見たいと言ったこと。彼自身は先に地上へ戻り、受付で自分の帰還を伝えたこと。
「最後に別れた時、俺は『じゃあ先に戻る』って言いました。相方は『十分くらい』って。それだけです。追加の作業を地上に確認したか、俺は聞いていません」
「その時点で、君は追加作業をする予定だと思っていた?」
「予定には入っていないと思ってました。でも、本人が何か確かめたいと言ってたので、確認してから上がるんだろうって。そこが曖昧でした」
責任者は記録を取りながら頷いた。彼は自分の言葉が報告書へどう残るか気になり、書き終わるまで待ってから見せてもらった。そこには「本人は追加作業の許可を確認していない」と書かれていた。彼はその一文を読み、少し考えた。
「俺が許可を確認していない、でいいです。でも、あいつが確認していないとは書かないでください。別れた後、地上に連絡しようとしたかもしれないから」
「そうだな。本人の行動は、本人の聞き取りができてから書く」
責任者はその場で文を直した。消しゴムではなく、訂正した箇所と理由が残る形式で修正する。彼は自分が細かすぎることを言ったのかと不安になったが、責任者は面倒そうな顔をしなかった。昨日の現場で、救難班の人たちが何度も「見たこと」と「聞いたこと」を分けていたのを思い出した。今、同じように話すのは、相方をかばうために事実を曲げることではない。
午前の聞き取りを終える前に、責任者は机の端へ置いてあった小さな録音装置を指した。昨日、地下から地上へかけた連絡のうち、設備の通信盤に残っていた音声を、施設側から確認用として聞かせてもらったという。記録の扱いについて許可を取り、本人のいる場で必要な部分だけ再生することになった。
雑音が先に聞こえ、続いて相方の声がした。『表示が二つ合わない。追加で……』というところまでは分かるが、その先は低い機械音に覆われる。地上の当番らしい声が『予定の範囲で』と返し、また音が途切れた。彼は何度も聞き返したくなったが、再生を止めてもらった。昨日の記憶では、相方は地上から許可をもらったように見えた。けれど、今聞こえた音だけでは、誰が何を理解したかまでは分からない。
「俺、この連絡の時、隣にいました。でも、相方の端末を耳に当ててたわけじゃない。向こうが何て言ったか、全部は聞こえてないです」
「その通りに記録するよ」と責任者が言った。「音声は施設の記録だから、うちで勝手に編集して配ることもしない。聞き取れない部分は、聞き取れないまま残す」
事務担当者は再生時刻と参加者を記録し、原本がどこで管理されているかを書き添えた。彼は、その手際を見ながら、誰かが悪いと決めるためだけに録音を聞くのではないのだと感じた。昨日の地下では通信が使えなくなり、相方が何を伝えようとしたのか分からなかった。今日は声が残っているのに、やはり分からない部分がある。機械が記録していても、すべてを理解できるわけではない。
「昨日の説明で、俺は『地上が追加の確認を認めたと思ってた』って言いました」と彼は申し出た。「でも今の音を聞いて、そう言い切れなくなりました。あいつが何か言われたように頷いたのを見ただけです」
「なら、そこも訂正しよう。前の発言を消さず、今聞いた記録で認識が変わったことを残す」
責任者は用紙の余白に新しい欄を設けた。彼はその横へ署名し、胸の奥に詰まっていたものが少しだけ軽くなるのを感じた。前に話したことを直すのは、嘘をついたと認めるようで怖かった。だが、思い出すたびに形が変わる記憶を、一度言ったからという理由で固定してしまう方が怖い。相方が回復した時、自分の記憶を押し付けずに話せるようにしておきたかった。
事務担当者が一度席を外すと、責任者は湯気の立つ茶を二つ持って戻ってきた。彼は紙コップを受け取り、熱くてすぐには飲めずに机へ置いた。
「昨日、地上に戻ってから、何かおかしいと感じた瞬間はあった?」
「予定時刻を過ぎた時です。最初は、また細かいところを見てるんだろうと思ってました。でも、十分くらいって言ったのに戻らない。連絡もつかない。そこで初めて、先に帰ってきたのが怖くなりました」
「すぐに言いに来た?」
「はい。でも、もっと早く言うべきだったかもしれません」
責任者は返事を急がなかった。施設の規定では、予定時刻を過ぎた時点で地上の受付が確認を始める。彼がそれより前に心配を伝えたとしても、設備の状態が変わるわけではない。一方で、途中で別れたことを伝えていれば、地上の確認先は早く絞れたかもしれない。責任者はどちらも可能性として挙げ、今後は班が分かれた時にその事実を地上へ共有する方法を検討したいと話した。
「俺たち、同じ班だから、ずっと一緒にいるって思われてたんですね」
「そうだな。実際に別れることがあるなら、手順が現場に合っていない可能性もある。君たちが勝手に別れたから、で終わらせずに考えたい」
彼はようやく茶を飲んだ。熱さが喉を通り、体の奥へ落ちていく。会社の会議室でこんなに長く話したことはなかった。現場では、説明が長いと次の仕事が遅れると言われることもある。それでも今日は、急いで答えを作らない時間が必要だった。
昼前、会社の別の部署から電話が入った。川沿いの施設で予定していた点検の残りを、いつ再開できるかという問い合わせだった。責任者は受話器を取ったまま、まだ決められないと答えた。施設の運転条件、通路の使用範囲、通信設備の確認が終わっていない。代わりの作業員を送るかどうかも、その後の判断になる。
「でも、納期があるでしょう」と電話の向こうの声が漏れた。
「納期は分かっています。だからこそ、何が終わっていないかを今確認しています。昨日の通路へ同じ資料で人を入れることはできません」
責任者は通話を終えると、疲れたように肩を回した。彼はその姿を見て、責任者もまた別の場所から急かされているのだと知った。昨日の事故について誰かが謝ればすべて片付くと思っていたが、仕事は止まったままでも次の予定が押し寄せる。謝罪の言葉と、次の人を危険に入れない判断は、同じではない。
「俺、明日から別の現場に行った方がいいですか」と彼は尋ねた。
「君の体調と、今日の聞き取りの後の状態を見て相談しよう。今すぐ返事は要らない。ほかの現場もあるが、昨日のことをなかったことにして移る必要はない」
「でも、ずっとここにいると、またあの曲がり角のことばかり考えそうで」
「それも分かる。必要なら、会社の相談窓口にもつなぐ。働くか休むかは、今日ここで決めなくていい」
彼は窓の外を見た。事務所の裏には配送車が二台並び、荷台の扉を開けた作業員が工具箱を数えている。昨日までなら、自分もあの中へ混ざり、次の現場の話をしていただろう。今日は同じ場所にいるのに、誰かが普通に働いていることが不思議に見える。自分だけが一日遅れているような気がした。
午後、彼は会社の許可を得て、相方へ短い通話をした。相方は出られないかもしれないと思っていたが、呼び出しは三回でつながった。声は普段より少し低く、周囲にはテレビの音が小さく流れている。
「仕事の話はしないでって言っただろ」と相方が先に言った。
「ごめん。じゃあ、しない。飯、食えてる?」
「食えてる。病院の人にも言われたから、無理して動かないようにしてる。詳しいことは、まだ全部決まってないけど」
「そうか。……昨日、家に連絡した?」
「した。夕飯のことも謝ったら、そんなことより帰ってきてよかったって言われた」
彼は笑おうとしたが、声が詰まった。相方はしばらく黙っていたあと、こちらが泣いているのかと尋ねた。彼は違うと答えたが、否定するほど声が震えた。
「お前、昨日から何回謝った?」と相方が聞く。
「数えてない」
「じゃあ、俺も数えない。俺だって、勝手に奥を見に行ったことを後悔してる。でも、どっちが何回謝ったか競争しても、足は治らないだろ」
「そうだな」
「それより、俺の工具箱、車に置いたままじゃないか。会社の人に勝手に片付けられると、細かい部品が分からなくなるから、見といてくれ」
頼まれたのは、いつもどおりの小さな用事だった。彼は「分かった」と答え、初めて自然に笑った。相方はその声を聞いたのか、少しだけ口調を明るくした。退院や復帰の時期はまだ決まっていない。だから、次の現場で一緒に働こうという約束もしなかった。ただ、工具箱の中身を勝手に動かさないことだけは約束できた。
通話を切ったあと、彼は駐車場の車へ向かった。後部扉を開けると、二人で使っていた道具がいつもの位置に並んでいる。相方の工具箱は奥の棚にあり、蓋には小さな傷がいくつも付いていた。彼は箱を持ち上げ、名前の札が外れかけているのを見つけた。新しい札を貼り直そうとして手を止める。勝手に変えれば、相方が戻った時に見慣れないものになるかもしれない。彼は剥がれかけた端だけを透明な保護テープで留めた。
箱を戻そうとした時、車の床に折り畳まれた紙が落ちているのに気づいた。昨日、二人で持ち込んだ点検用の簡略図だった。雨に濡れたわけではないのに、何度も開いた折り目が白くなっている。右へ曲がる指示が印刷された場所には、相方が鉛筆で小さな丸を付けていた。
彼は紙を広げ、記憶の中の通路と比べた。相方が丸を付けたのは、午後に表示のずれを見つけた計測盤の近くだ。地図の線はそこで途切れているが、旧式の計測器へ続く通路は描かれていない。紙の端には、会社の配布日と版番号が印刷されていた。彼はその数字を見て、朝の聞き取りで責任者が使っていた資料と同じ版だと気づいた。
そのまま事務所へ持ち込む前に、彼は端末で紙の両面を撮影した。何かを隠すためではない。折り目が増えたり、書き込みが消えたりする前に、今の状態を残しておきたかった。写真を撮り終えると、紙を透明な袋へ入れ、責任者の机へ運んだ。
「車に残ってました。昨日、俺たちが持ってた図面です。相方の書き込みがあるかもしれないので、捨てないでください」
「ありがとう。受け取った時刻と、どこにあったかを残して保管する。君の写真も、必要な範囲で確認させてほしい」
「はい。ただ、あいつがいつ丸を付けたかは分かりません。俺が見てない時かもしれないから」
責任者は頷き、袋の上から版番号を確かめた。昨日の地下で何が起きたかを、この一枚で説明できるわけではない。けれど、二人がどの資料を持って入ったかは分かる。紙が残っていたことに意味があるとすれば、それは誰かを責める材料になるからではなく、次に同じ資料を渡していいか判断する手掛かりになるからだろう。
事務担当者が、先ほどの勤務表を持って戻ってきた。現場で作業していた時間と、救難対応に協力した時間を分けた暫定の記録が作られている。相方の欄は医療側の確認を待つ部分があり、空白のままだった。彼はそこを見て、最初に感じた不安とは違う気持ちになった。
「空白のままでいいんですね」
「今は分からないことを、適当な時刻で埋める方が困ります」と事務担当者が答えた。「後で本人と照合できるように残しておきます。あなたの分も、まだ確認中のところがあります」
彼は自分の名前の横へ署名した。ただし、内容を確認した範囲に限るという注記を付けてもらった。書類が完成していないのは落ち着かなかったが、昨日の相方の所在が分からなかった時間に比べれば、ずっとましだった。今は連絡が取れる。分からないことを聞ける相手もいる。
帰り支度をしていると、ロッカーの前で後輩に声をかけられた。後輩は事故の詳しいことを知りたがったのではなく、次の点検で自分が使う図面はどれなのかと尋ねてきた。彼はすぐに答えられず、事務所へ一緒に戻った。責任者は、川沿いの施設で使った資料を別の現場へ流用しないこと、各現場の配布資料は担当者が確認することを説明した。
「先輩が持ってたやつ、コピーしておけば安心だと思ったんです」と後輩は言った。
「俺も、昨日まではそう思ってた。けど、持ってる紙が古いかもしれないって分かったら、誰に聞くか決めとかないとな」
後輩は少し気まずそうに笑い、手元の古いコピーを責任者へ見せた。そこに書かれた施設名は、そもそも別の場所のものだった。二人で苦笑し、必要な資料を取り直すことにした。小さな勘違いを笑って直せるうちに見つけられたのが、彼にはありがたかった。
夕方、事務所を出ると、空は薄い青色に変わっていた。彼は駅へ向かう道の途中で、いつもの弁当屋へ寄った。相方がよく買う揚げ魚の弁当が売り切れていて、代わりに自分の好きな唐揚げを選んだ。会計を済ませたあと、思い立って相方へ写真を送る。『お前の好きなやつ、今日は売り切れだった』と添えると、すぐに『俺の分まで食うなよ』と返ってきた。
彼は店の前でしばらく画面を見つめ、やがて端末をポケットへしまった。明日、相方が仕事に戻るわけではない。昨日のことも、簡単には終わらない。会社の書類には空白が残り、施設の点検も再開の見通しが立っていない。それでも、今夜の夕飯を選び、帰る途中でくだらない写真を送ることはできる。地下から先に地上へ戻ったことを、これから何度も思い出すだろう。だが、先に帰った自分にしかできなかったことも、少しずつ見つけられる気がした。




