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ハズレスキル《帰り道》しかないF級探索者、遭難したS級パーティを全員連れて帰ったら救難依頼が殺到しました  作者: ころもぐら


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第176話 戻ると決めた人

 神代美波が救難受付を訪れたのは、川沿いの施設から全員が戻った翌日の昼前だった。外の通りには昨夜の雨が残り、歩道の端にできた水たまりが、バスの通るたび細かく震えていた。美波は傘を畳みながら、入口の掲示板に貼られた新しい紙へ目を止めた。救難の相談窓口が移ったという案内の隣に、探索者向けの説明会の予定がある。いつもの装備点検会ではなく、「撤退を報告する人のための相談日」と書かれていた。


 その題名を見た時、美波は、何か嫌な予感がした。帰ってきた人間にわざわざ相談日が必要だということは、帰ってきただけでは済まない事情があるということだ。地下で誰かが傷つくのを何度も見てきたが、地上へ戻ってからの傷は、現場の報告書に載らないことが多い。


 受付の奥では瀬川が二つの電話を交互に扱っていた。片方を切ったあと、もう片方の保留を解除するまでの短い間に、机上のメモへ日時を書き込む。美波が声をかけると、瀬川は驚いた顔をしたが、すぐに椅子を示した。


「急に来て悪い。昨日の合同研修で預かった質問、返しに来た。答えが出たものだけだけど」


「助かります。北側の施設の扉の件ですね。管理者からの回答はまだ途中ですが、現場で確認した人が増えました」


「それなら、私の方も途中だ。確認できたところと、まだ聞けていないところを分けてある」


 美波は薄い封筒を差し出した。瀬川が受け取って目を通す間、廊下の向こうから、男性の押し殺した声が聞こえた。言い争っているというほど大きくはない。ただ、同じ言葉を繰り返す人の声と、相手をなだめる声が、壁の向こうで交互に続いていた。


「……帰ったんだから、もういいだろ」


「そういう話じゃない。何も持ち帰ってないって書かれたら、次の仕事が……」


 美波が視線を向けると、瀬川は封筒を机に置いた。


「今日は別の相談が来ています。危険な状態から引き返した探索者の報酬が、成果なしとして処理されそうなんです。依頼主との契約の問題なので、私たちだけでは決められません」


「依頼を失敗したってこと?」


「まだそう決まったわけではありません。本人は、指示された通路に不具合があったから戻ったと言っています。依頼主は、予定の作業を終えていないと言っています。どちらの話も、確認が必要です」


 美波は椅子へ座らず、廊下の方を見た。危険を避けて戻ったなら、それで十分だと言いたかった。しかし、その言葉で仕事を失う人の暮らしまで守れるわけではない。自分が無事に帰れた時にも、ほかの人が何を失ったかを考えなかったことがある。今ここで「正しい判断だった」と言うだけなら、同じことを繰り返す。


「私が口を出していい話?」


「依頼の判定には関われません。ただ、探索者が現場で何を見て、どう判断したかを聞く人が足りなくて。美波さんが望むなら、経験者として話を聞いてもらえるかもしれません」


「望むかどうかは、本人に聞いてから決める。知らない相手が急に増えたら、話しにくいだろ」


 瀬川は頷き、相談室へ確認の電話を入れた。少しして扉が開き、若い男性が顔を出した。作業服の袖口は擦り切れ、左の靴だけ泥が乾いて白くなっている。美波を見ると、彼は一瞬目を見開き、続けて困ったように笑った。自分の名前を言う前に、彼は美波の顔を知っていると口にした。


「神代さんですよね。俺、前に映像で見ました。あの、救難の……」


「その話はあとでいい。今は、あなたの相談をしているんでしょう」


「はい。でも、神代さんみたいな人に聞いてもらうほどじゃないです。俺、途中で帰っただけなんで」


 途中で帰っただけ。その言葉を彼が言った時、廊下の奥にいた年配の男性が顔をしかめた。どうやら依頼主側の窓口担当らしい。彼は若者の肩越しに美波を見て、丁寧に頭を下げた。


「こちらとしても、安全第一という考えに異論はありません。ただ、作業を実施した記録がなく、納品物もない以上、満額の支払いは難しいのです」


「支払いの話は、契約を見ないと分からない」と美波は答えた。「でも、その人が何を見て引き返したかは、まだ聞いていないんですよね」


「危険を感じた、と。報告書にはそう書かれています」


「危険を感じた、だけじゃ分からない。だから聞きたいんです。聞いてもいい?」


 若い探索者は小さく頷いた。相談室へ戻ると、瀬川が間に入り、美波は立会人として席に着いた。依頼主の担当者も同席するが、質問の途中で結論を言わないこと、本人が答えたくないことは無理に聞かないことを確認した。美波はそこで初めて、若者がまだ探索を始めて間もないF級だと知った。久世と同じ等級だが、使えるスキルも経験も違う。


 依頼は小規模な地下保管庫での資材番号の照合だった。探索者二人で入り、指定された棚の写真を撮り、地上へ戻る。特殊な魔物との戦闘を想定した仕事ではなく、施設の管理者が示した経路を通ることになっていた。若者は同行者とともに入口を通り、最初の棚までは予定どおり進んだという。


「二つ目の曲がり角で、壁の番号が資料と違ってたんです。古い番号札が残ってることは聞いてました。でも、地図には右に曲がるって書いてあるのに、現場の右側は柵が閉まってて」


「柵の向こうを見ようとした?」と美波が聞く。


「近づきました。でも、鍵のかかった柵の上に手をかけた時、相方に止められました。『開けるなって言われてるだろ』って。だから戻って、地上に連絡しようとしたんです」


 通信はつながらなかった。指定された中継器のランプは点いていたが、呼び出し音が返らない。二人はその場で待ち、予備の連絡手順を探した。若者は依頼書の末尾に記された番号へ端末でかけたが、圏外だった。同行者は入口へ戻って直接伝えようと提案したものの、若者は作業を終えずに戻ることをためらったという。


「俺、前の仕事で『確認が遅い』って言われたことがあって。今度はちゃんとやろうと思ってたんです。棚の番号くらい、見つければ済むだろうって。だから別の通路を探そうとしました」


「でも、戻った」


「相方が言ったんです。『番号を見つけても、地上へ報告できなかったら仕事にならない』って。そしたら、なんか急に怖くなって」


 美波はその「怖くなって」という言葉を急いで評価しなかった。彼は自分を臆病だと思っているらしいが、恐怖だけで判断したわけではない。通行禁止の柵、資料との相違、通信不能、二人の意見の違い。引き返すまでに積み重なった具体的な理由がある。


「戻る時は、入ってきた道をそのまま?」


「はい。分かれ道のところで、最初に撮った写真を見直しました。行きに撮っておいてよかったです。地上へ出てから管理者に話したら、別の入口からなら作業できたはずだって言われました」


 依頼主の担当者が口を開いた。


「別の入口の存在は、管理側では把握していました。現場に慣れた職員なら、そちらへ案内できたはずです」


「その入口を使っていいって、二人に伝えました?」


「いえ。通常の作業経路ではありませんから、事前には」


「じゃあ、地下にいた二人が勝手にそっちへ行かなくてよかったですね」


 美波の声が少し強くなった。担当者は反論しかけたが、瀬川が机上の記録を示した。依頼書には代替入口の利用条件が書かれていない。通信がつながらなかった時の指示も、連絡が取れる場所まで戻るという一般的な記述にとどまっていた。美波は息を整え、担当者へ向き直った。


「私は支払いを決める人じゃありません。けれど、教えていない入口を使えたはずだと言って、地下にいた人の判断をあとから責めるのは違うと思います。誰に何を伝えたかを確認してください」


 若者は俯いたまま、膝の上の拳をほどいた。美波は、彼の顔を無理に上げさせなかった。責められた後に褒められても、すぐ安心できるとは限らない。褒められるために戻ったわけでもないだろう。


 瀬川は若者に、帰路で撮影した写真を提出できるか尋ねた。彼は端末を取り出し、何枚かを並べた。最初の写真には入口脇の時計が写り、次の写真には通路の番号札が写っている。どれも派手なものではない。仕事を終えた証拠として撮ったのではなく、同じ道を戻る時に場所を取り違えないために撮った写真だった。


「これ、撮っていい場所だったか分からないです」と若者が言った。「資料には、作業対象以外は撮影しないって書いてあったから。でも相方が、帰るために必要なら入口の目印を残した方がいいって」


「その判断も確認が必要ですね」と瀬川が答えた。「写真はここで公開せず、依頼主の担当者と撮影条件を確認します。勝手に複製もしません」


 担当者は写真の一枚を指し、柵の向こうにある棚の番号が小さく見えると指摘した。若者は身を乗り出したが、美波はその動きを止めた。写真の端に番号が写っていることと、予定の照合作業が完了したことは違う。ここで都合よく成果へ数えれば、次はもっと無理をして写真を撮ろうとするかもしれない。


「今は何が写っているかだけ見ましょう。仕事の完成扱いにするかは、別の確認がいる」


「俺、せめてこれが使えれば、少しは報酬が出るかなって」と若者が言った。


「そう思うのは当然だよ。生活がかかってるんでしょう。でも、危ないところへ入らなくても、写真を撮らなくても、現場の異常を報告した仕事には価値がある。契約でどう扱うかは、これからちゃんと話すべきことだと思う」


 美波は自分の言葉が強すぎたかもしれないと思い、担当者へ視線を向けた。相手にも判断できないことがある。担当者は机の上の写真を見つめ、やがて、依頼書を作った部署と現場の設備管理部署が違うことを話した。現場から図面の変更連絡が届いていたか、窓口の自分には確認できていないという。


「私も、完成品の有無だけで話してしまいました。中止した時の取り決めがどこにあるか、契約書を調べます。ただ、こちらの一存で報酬を約束することはできません」


「それでいいです」と若者が言った。「俺も、満額をもらえるって決めてほしいんじゃなくて、戻った理由を聞いてほしかった。報告書を出したら、最初に『作業は終わったのか』って聞かれたから」


 美波はその言葉を聞き、ようやく彼がここまで何を恐れていたのか少し分かった気がした。地下で怖かったのは、柵の向こうの暗さだけではない。地上へ戻った時、誰かに「どうして進まなかった」と聞かれることも怖かったのだろう。勇気を出して引き返した、と簡単に言ってしまえば、その恐怖を見落とす。美波は彼の手元に残る泥の筋を見ながら、今日ここへ来てよかったと思った。


 相談は一度中断された。依頼主側が契約書と当日の連絡記録を持ち帰り、支払いと作業の扱いを再検討することになったからだ。美波は若者と廊下へ出て、自動販売機の前で足を止めた。彼は水を買おうとして硬貨を落とし、拾う時に気まずそうに眉を寄せた。美波は笑わず、自分の飲み物を選ぶ間だけ待った。


「神代さん。俺、地下で変なこと言ったんです」と彼が切り出した。


「変なこと?」


「相方に『先に帰れよ』って。俺だけ残って、別の棚を探すからって。そしたら、相方が怒ったんです。『俺が帰ったら、お前が帰ったか誰が分かるんだ』って」


 美波は缶の蓋へ指をかけたまま、しばらく動かなかった。言葉の端に、昔聞いたことのある苛立ちが混じっていた。仲間が引き返すと決めた時、自分の方が少しでも長く残れば何かを取り戻せると思う。残ることを勇気と呼び、帰る人間を弱いと決めつければ、判断は簡単になる。だが、簡単な判断が正しいとは限らない。


「相方は今、どこに?」


「外で待ってます。俺が一人で話したいって言ったから。でも、あいつの方がずっとちゃんとしてた。俺、謝った方がいいですよね」


「謝るかどうかは、二人で決めればいい。ただ、何に謝るのかは考えた方がいいと思う。帰ったことじゃなくて、勝手に残ろうとしたことなら、私にも分かる」


 若者は缶を両手で持ち、ゆっくり頷いた。外のベンチには同年代の男性が座っていた。片方の袖を捲り、腕時計を見ながら、こちらを気にしている。若者が歩き出すと、ベンチの男性は立ち上がった。美波は少し離れたところで見守った。二人はすぐには笑わなかったが、若者が何か言うと、相方は長く息を吐いて、持っていた紙袋を差し出した。中には二人分の昼食が入っているようだった。


 美波が受付へ戻ると、久世が廊下の突き当たりから現れた。今日は地下用の装備ではなく、普段の上着を着ている。フェナも隣にいて、救難受付の扉を開けようとしたところだった。二人とも昨夜の疲れが抜け切っていないらしく、歩く速度がいつもより少し遅い。


「美波さん、来てたんですね」と久世が言った。


「昨日の質問を返しに。そっちは?」


「報告書を渡してきました。救出した方のその後は、医療側から必要な範囲だけ連絡が来るそうです。俺たちが勝手に会いに行く話じゃないので」


「それでいいと思う。救難が終わった人にも、普通の時間が必要だ」


 フェナが美波の手元の缶へ目を向けた。


「お昼、まだでしたか」


「まだ。さっき相談を聞いてたから」


「それなら、ナオトさんと私もこれから食べるところです。一緒にいかがですか」


 美波は断ろうとして、思い直した。以前なら、誰かと食事をするくらいなら次の仕事を片付けたいと思ったかもしれない。だが、今日聞いた若者の話を一人で抱えて帰るのも、どこか違う気がした。相談の中身を勝手に共有するわけにはいかない。それでも、何でもない話をしながら食べる時間くらい、持っていてもいい。


 三人で入った小さな食堂では、昼の混雑が一段落していた。久世は定食の写真を見比べ、フェナは窓際の席を確保した。美波が頼んだのは温かいうどんだったが、久世は揚げ物の付いた定食を選び、皿が届くと少し嬉しそうにした。


「そんなに腹が減ってたの?」と美波が聞く。


「昨日、帰りの車で食べようと思って買ったパンが、結局そのままで。朝もあんまり入らなかったんです」


「無理に食べるよりはいいけど、食べられる時に食べておきなよ。現場で倒れたら、相馬さんに怒られる」


「それは本当にそうですね」


 フェナが笑った。三人の間にしばらく食器の音だけが続く。美波はうどんを啜りながら、窓の外を通る買い物帰りの人たちを眺めた。救難の仕事をしていると、日常の風景が遠くなる時がある。けれど、あの若者も、川沿いの作業員も、ここに戻って食事をするために働いている。特別な物語の登場人物ではなく、生活の途中にいる人たちだ。


「久世。ひとつ聞いていい?」


「はい」


「仕事を途中でやめて帰ってきた探索者を、どう思う?」


 久世は箸を置いた。すぐに正解らしいことを言わず、何が起きたのか分からないから決められない、と答えた。美波はその返事を聞いて、少しだけ笑った。昔の自分なら「戻れたならそれでいい」と言ったかもしれない。今は、その後の仕事や仲間との関係まで考える必要があると分かる。


「じゃあ、危ないと分かっていて残ろうとした人は?」


「俺も、残ろうとしたことがあります。だから偉そうなことは言えないです。でも、残る理由を相手に説明できないなら、たぶん一度戻った方がいい。少なくとも、一人で決めない方がいいと思います」


「そうだね。私も、そう思う」


 フェナは二人の顔を見比べたが、質問の理由を詮索しなかった。代わりに、久世の皿に残った最後の揚げ物を指さし、「冷めてしまいますよ」と言った。久世は慌てて箸を伸ばし、美波は声を立てて笑った。笑うつもりなどなかったのに、思いのほか自然に声が出た。


 食堂を出る頃には雨が上がり、雲の間から細い日差しが落ちていた。美波は二人と別れ、もう一度救難受付へ戻った。瀬川へ追加の確認事項を伝えるためだったが、相談室の前には先ほどの若者と相方が並んで座っていた。二人は同じ紙を覗き込み、何かを書き足している。美波に気づくと、若者が立ち上がった。


「神代さん。あの、まだお金のことは決まってないです。でも、俺たち、次の依頼を受ける前に確認することを決めました。通路の変更があったら、誰に聞くかとか」


「いいと思う。でも、全部自分たちだけで背負わないで。依頼を出す側が伝えるべきこともあるから」


「はい。……それと、帰ってきたのを失敗って言うの、やめます」


 相方の男性が横から口を挟んだ。


「こいつ、俺に謝る時まで『失敗してごめん』って言うんですよ。俺は、勝手に一人で残ろうとしたのが嫌だったって言ってるのに」


「分かったって。もう言わない」


 二人のやり取りにはまだぎこちなさがあった。だが、相手の言葉を聞こうとする余地がある。美波はそれを見届けてから、廊下の奥へ歩いた。


 瀬川は先ほどの封筒を開き、北側の施設へ送る質問の一覧を作っていた。美波が報告すると、瀬川は別の用紙を差し出した。依頼主側の判定が出る前に、探索者の証言を確認するための面談がもう一度必要になるという。今度は同行者にも話を聞き、写真の時刻や連絡記録を照合する予定だった。


「神代さんに、もう一度来ていただく必要はありません」と瀬川が言った。「今日は十分助かりました」


「分かってる。でも、ひとつお願いがある。あの子たちの話を、ただの『成功例』にしないでほしい。戻ってきたから正解だった、で終わらせると、次に戻れなかった人のことを責める材料にもなる」


「はい。判断に必要だった情報と、判断した後に残った問題を、別々に扱います」


 美波は頷いた。廊下の窓から見える空は、さっきより明るくなっていた。今日、若い探索者は地下へ戻らなかった。その代わり、地上で相方と話し、次の仕事へ持っていく質問を見つけた。戻ると決めた理由を急いで評価するより、帰ってきた人がなぜ自分を責めるのかを聞くことが必要な日もある。美波は封筒を置いた机を一度だけ振り返り、外へ出た。

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