第173話 連絡のない三十分
研修会場を出た時、川沿いの排水管理施設の管理主任は、まだ自分の鞄を肩に掛けていなかった。片手に端末を持ち、もう片方の手で資料を押さえたまま、相馬さんの話を聞いている。隣には、研修で自分の経験を話してくれた当直員の女性が立っていた。彼女は施設から届いた連絡を一緒に見ようとして、途中で手を止めた。
「私が現場へ戻ります。ここの片付けは、ほかの方にお願いしてもいいでしょうか」
管理主任の声は落ち着いていたが、研修の始まる前よりも少し低かった。相馬さんは車を手配する前に、今分かっている事実を順番に確認した。点検に入った外部作業員は二人。地上へ戻ったのは一人。もう一人から予定時刻の連絡がない。ただし、連絡がないことと、地下で事故が起きたことは同じではない。
「まず、戻った方に直接話を聞かせてください。施設からの伝言だけだと、別れた場所や時刻の解釈が変わることがあります」と相馬さんが言うと、管理主任はすぐに施設の当番へ連絡した。戻った作業員を勝手に帰宅させず、体調を確認して休ませているという。安全管理者は設備の運転履歴を照合中で、地下への立入りをいったん止めた。設備を止めれば必ず安全になるわけではないため、操作は担当者が条件を見て判断している。
俺はフェナと救難車の後部座席へ乗り込んだ。窓の外では研修を終えた人たちがそれぞれの方向へ歩いていく。さっきまで架空の名簿で帰還確認の練習をしていたのに、今は実際の名簿に名前が一つ残っている。頭の中で二つの場面が重なりそうになり、俺は膝の上に置いた手を握り直した。
「ナオトさん、さっきの演習と同じだと思わない方がいいですね」
「うん。あれは答えが用意されてた。でも今は、分からないことが本当に分からないままだ」
フェナは小さく頷き、手帳を開いた。相馬さんから聞いた情報を、確認済みと確認中に分けて書いていく。研修で使った紙の形式に似ていたが、彼女は表を完成させようとはしなかった。空欄の横へ、誰に聞けば埋められるかを書き添えていた。
施設に着くと、門の前には点検会社の車が一台止まっていた。車体の横に巻かれた延長コードが揺れ、後部扉の内側に予備のヘルメットが二つ掛かっている。管理棟の玄関では受付職員が入域札を手に待っていた。札は二枚とも箱に入っておらず、一枚だけが受付の机へ戻されている。戻った人の名前は本人確認済みの欄に書かれ、もう一人の欄には時刻と「連絡待ち」が残されていた。
「札を預かっただけではありません。戻った方はここで顔を確認して、入域記録に本人が署名しています」と受付職員が説明した。「もう一枚は地下へ持っていったままです。会社の方から『二人とも作業は終わるはずだった』と聞きましたが、それは帰還の確認にはしていません」
相馬さんは礼を言い、受付に残るよう頼んだ。現場の連絡が増えるほど、誰かが門や電話を空けたくなる。しかし受付が無人になれば、戻ってきた人を確かめる役がいなくなる。今日は研修の演習ではなく、実際にその役を守っている人がいた。
会議室の小さな机に、施設の当番、安全管理者、点検会社の責任者、地上へ戻った作業員が集まった。戻った作業員は三十代くらいで、濡れてもいない作業着の袖を何度も引っ張っていた。俺たちを見ると立ち上がりかけたが、相馬さんは座ったままでいいと伝え、飲みかけの水を手の届くところへ置いた。
「俺が先に上がったんです。相方はもう少し見るところがあるって言って……。あそこで一緒に戻ればよかった」
「その話も聞きます。ただ、今は順番を変えさせてください」と相馬さんが答えた。「最後に直接会った場所と、そこで何を話したかを教えてもらえますか。責任を決めるためではなく、捜す範囲を間違えないためです」
男性は少し考えてから、机の上の配置図を指した。二人は午前中、地下の排水ポンプに接続する監視機器の点検をしていた。昼前に一度地上へ連絡し、その後、下層へ降りた。午後の作業終了が近づいた頃、男性は地上へ上がって記録を整理する役になり、もう一人は奥の計測盤で表示を照合することになったという。
「別れたのは、この曲がり角です。俺が戻った時、まだ通路の向こうに作業灯が見えていました。本人が『十分くらいで戻る』って言ったので、先に上がりました」
「『十分くらい』というのは、地上の受付にも伝えましたか」と瀬川さんが通信越しに尋ねた。彼女は救難受付に残り、受理に必要な記録と関係先への連絡を引き受けている。
「いえ。俺が地上へ出た時には、二人の予定終了時刻まで少し余裕があったから。戻ったことだけ言いました」
男性はそこで目を伏せた。責められるのを待つような姿に、俺は口を開きかけたが、相馬さんが先に続けた。
「それなら、今ここで分かったこととして記録します。別れた後の行動は本人にしか分からない。あなたが見ていない場所まで、見たことにする必要はありません」
配置図には通路が一本と、奥で二つに分かれる保守用の枝道が描かれていた。安全管理者は指で分岐を押さえ、最近の工事で一部の機器が更新されたと説明した。古い図面にはまだ前の配置が残っており、最新の点検用図面は管理部門の端末にある。点検会社へ渡した作業図には、通路の形だけが簡略化されていた。
「奥の枝道へ入った可能性はありますか」と俺が尋ねると、戻った作業員はすぐに首を振りかけ、思い直した。
「いつもの点検なら入りません。でも、表示が合わなかったら、そっちの端子も見るかもしれません。本人は、気になる数値を残したまま帰るのを嫌がる人なんです」
管理主任は、その言葉を聞いて点検の指示書を取り寄せた。作業範囲に枝道は含まれていない。ただし、機器の不具合を見つけた場合は、地上の責任者へ連絡してから追加確認を行うとある。男性は指示書のその行を見て、唇を噛んだ。
「俺たち、昼に連絡した時、表示のずれの話はしたんです。でも、追加で見るかどうかは決めていませんでした」
「その時、地上では何と返しましたか」と管理主任が当番へ聞く。受付の職員とは別の当番は、通話記録を開いた。
「『予定範囲の確認を続け、追加作業は指示を待つ』です。ただ、通信が途切れ気味で、最後の一文を向こうが聞き取れたかは分かりません」
俺は図面から顔を上げた。誰も明らかな嘘を言っていないのに、二人が理解している作業範囲は少しずつずれている。地下へ入った本人は、追加の確認を許されたと思ったのかもしれないし、別の理由で予定場所から動けなくなったのかもしれない。どちらも、今は想像でしかなかった。
安全管理者が運転履歴を確認し終えるまで、相馬さんは救難班の装備を点検するよう指示した。俺とフェナは管理棟の隅に設けられた待機場所へ移り、通信機と予備の灯りを並べる。施設側の測定器や保護具は、使用する区画と設備条件が確定してから受け取ることになっていた。急いで地下へ降りれば早く見つかるとは限らない。俺たちが新たな要救助者になれば、地上に残る人の仕事まで増やしてしまう。
「ナオトさん、手が少し冷たいです」
フェナが手袋を差し出してくれた。俺は受け取ってから、自分がずっと指先を握っていたことに気づいた。怖くないわけじゃない。特に、目の前の図面が正しいとは限らないと知っている場所へ入るのは、いつも以上に気が重い。
「さっきの人、ずっと自分を責めてたね」
「一緒に戻ればよかったって、何度も考えているんだと思います。でも、先に地上へ戻ったからこそ、今こうして話を聞けます」
「そうだね。戻った人に、戻ったことを後悔させたくない」
フェナは手帳を閉じた。研修で彼女が「分からないと言っていい」と話した時、あの当直員の女性は何度も頷いていた。今は別の男性が、分からないことを話してくれている。その言葉が曖昧でも、責めれば次の質問は出てこなくなるだろう。
待機場所へ管理主任が来た。彼は研修で着ていた上着を脱ぎ、施設の腕章を付けていた。現場に戻ったばかりで仕事が山積みなのに、俺たちへ説明する時間を取ってくれたらしい。
「今日の点検は、古い教育記録の訂正とは別に、現行の入域条件を確認して許可しています。朝の説明も実施したと報告を受けています。ただ、その説明のどこまでが本人に伝わったか、今、記録を確かめています」
「以前の記録が正しいかどうかと、今日どんな説明を受けたかは別なんですね」と俺が言った。
「ええ。訂正があったから今回の連絡不通が起きた、と短絡的には言えません。でも、古い資料が一部の作業班に残っていた可能性はあります。そこも確認します」
管理主任はそこで言葉を切った。何かを隠しているというより、確かなことしか話したくないのだと分かった。以前、訓練記録の訂正を決めた時と同じ慎重さだった。
やがて安全管理者が部屋へ戻り、設備の状況を報告した。地下の主要な機器は通常の運転範囲にあるが、午後から一部の計測系統に通信異常が出ている。現場へ通じる固定電話の一つも、現在は応答を確認できない。通路の浸水を示す警報は出ていないものの、警報がないことだけで全区画の安全を保証することはできない。作業区画の立入条件は、別系統の計器と現場側の設備情報を照合して判断する必要があるという。
「入口から最初の点検室までなら、今の条件で入域を許可できます。ただし、その先はまだ確認中です。奥の区画の状況を見ないまま、全員で進んでもらうことはできません」
相馬さんはその説明を聞き、救難の受理状況を瀬川さんに確認した。施設から正式な救難要請が提出され、外部作業員一名の所在未確認として受理手続きが完了していた。消防や施設の専門対応班にも情報が共有され、現場の指揮系統が一本化される。俺たちだけが先に潜って解決する話ではない。
「救難班は施設の安全管理者と連携して、許可された区画から状況を確認する」と相馬さんが告げた。「久世の能力は帰路の確認に限る。行方不明者の位置を探す手段としては使わない。必要なら途中で引き返す。その判断も、俺が現場の情報を見て行う」
俺は頷いた。自分の《帰り道》が役に立つ場面はきっとある。けれど、今どこに誰がいるかを示してくれるわけではない。自分が帰れる方向を感じたとしても、その先の扉が閉まっていたり、設備の状態が変わっていたりする可能性は残る。
準備が整う頃、地上へ戻った作業員がもう一度会議室から出てきた。さっきより顔色は戻っていたが、手には折り畳んだメモが握られている。
「思い出したことがあります。別れる少し前、相方が『奥で音がする』って言ってたんです。機械の音だと思って、俺は聞き流した。でも、普段の音と違うのかって聞いたら、『確かめてから報告する』って」
相馬さんはすぐに記録係へその発言を伝え、どんな音だったかを尋ねた。男性は低い振動音だった気がすると言ったが、確信はなかった。施設の機械が動いていれば似た音はいくらでもある。相馬さんは音を手掛かりに闇雲に進むことを避け、設備担当者へその区画で動く機械を確認してもらった。
「もう一つ、あります」と男性は続けた。「相方は家で、夕飯を作る約束をしていたんです。だから、遅くなるなら連絡するはずで……」
そこで彼は黙った。夕飯の約束があるから絶対に戻るとは言えない。仕事を優先して連絡を忘れた可能性だってある。それでも、何かおかしいと感じる理由を、彼は言葉にしたかったのだろう。
「教えてくれてありがとうございます」と俺は言った。「帰ってからの予定も、本人にとって大事なことだと思います」
「俺、あいつが細かいところまで確かめるのを、いつも真面目すぎるって笑ってたんです。今日はそのせいで遅れてるだけならいい。……そうだったら、帰ってきた時にちゃんと文句を言えます」
男性は無理に笑おうとして失敗した。俺は何か安心させる言葉を探したが、まだ見つかっていない人について「大丈夫」とは言えなかった。代わりに、彼が思い出したことは必ず現場へ伝えると約束した。
管理棟の廊下へ出ると、川沿いの当直員の女性が、壁の掲示板の前で立ち尽くしていた。研修会場では自分の経験を話していた彼女が、今は一枚の入域記録をじっと見つめている。俺が声をかけると、彼女は記録を俺へ見せるのではなく、先に何が気になったかを説明した。
「朝の説明をした人の欄に、私の名前があるんです。でも私は今日は研修へ行くため、朝の点検前にはここにいませんでした。前日の準備を担当したのは確かですけど」
俺は紙に書かれた文字を見た。『説明担当』の欄には彼女の名前があり、その下の小さな欄に別の職員の確認印が付いている。前日の準備と当日の説明が、同じ欄にまとめられたのかもしれない。
「すぐに直してもらった方がいいですか」と彼女は尋ねた。
「誰が当日説明したか、先に確かめたいですね。名前が違うからといって、説明がなかったことにもできませんし」
「そうですよね。前だったら、自分の名前があるなら何も言わない方がいいって思ったかもしれません。でも、今はここで黙る方が怖いです」
俺たちは管理主任に伝え、当番の職員と朝の入域記録を照合してもらった。実際の説明は安全管理者が担当し、女性は前日に資料を準備していた。申請書の雛形が前回の担当者名を残していたらしい。施設側は訂正履歴を付けて担当欄を修正したが、説明内容そのものについては、まだ受講した作業員への確認が必要だという。
「今すぐ現場の役に立たないかもしれません」と女性が言った。「こんな時に、細かい紙の話をしていていいのかとも思います」
「現場に入る人の説明を誰がしたかは、細かい話じゃないと思います」と俺は答えた。「ただ、今すぐ全部を直そうとして、必要な連絡が遅れないようにしたいですね」
彼女は頷き、訂正の作業を事務担当へ引き継いだ。本人が気づいたことを伝え、その先は担当者が受け取る。前にこの施設を訪れた時、彼女は何もかも自分の責任だと思い込んでいた。今は不安を口にしながらも、誰へ渡すべき仕事かを考えている。その変化を見て、俺はほんの少し肩の力が抜けた。
その後、救難受付の瀬川さんから通信が入った。作業員の家族へ連絡する窓口を、点検会社の責任者と施設側で調整しているという。まだ本人の状態が分からない以上、事故が確定したかのように伝えるのは避ける。ただし、予定の連絡がない事実を隠して帰還を待たせ続けることもできない。
「久世さんたちが現場に入る前に、情報の行き先を整理しておきます」と瀬川さんは言った。「家族から問い合わせがあっても、地下の作業員に直接かけ直すようお願いしないで済むように」
俺は短く礼を言った。地下へ向かう俺たちの足だけでなく、地上で電話を受ける人たちの仕事も救難の一部だ。戻った作業員が夕飯の約束を話した時、俺はその約束を待っている人の顔を想像できなかった。今も顔は知らない。それでも、知らせるべきことを知らせる役がいると分かって、少しだけ息をしやすくなった。
午後の光が少し傾く頃、安全管理者から最初の区画の立入許可が下りた。施設の専門職員二名が先導し、相馬さん、俺、フェナがその後ろに続く。管理主任は地上の指揮と情報整理を担当し、先ほど戻った作業員は休憩室で待機する。本人が同行を申し出たが、体調と役割を考えて相馬さんが断り、必要な情報があれば連絡してもらうことにした。
地下への階段を下りると、外の明るさがすぐに背中から消えた。壁に沿った配管が低く唸り、金属製の踏み板は靴の下で硬い音を返す。湿った空気の中に、機械油と川の泥が混ざったような匂いがした。俺は手すりに触れず、足元の段差を確かめながら先導員の速度に合わせた。先へ進みたい気持ちが強いほど、目の前の小さな変化を見落としそうになる。
最初の点検室へ着くと、施設の職員が壁の通信装置を操作した。呼び出し音は鳴るが、奥の区画から返答はない。別系統の通信機でも応答を試す。何度か呼びかけた後、相馬さんは時間を記録し、次の行動を安全管理者へ相談した。返答がないという事実は増えたが、それがどこにいるかの答えにはならない。
「ここから先は、最新図面だと枝道の入口が少し手前へ移っています」と先導員が言った。「ただ、更新されたのは配線の位置だけで、通路の壁は変わっていないはずです」
「『はず』の部分を確認してください」と相馬さんは答えた。「現場の表示と図面が違えば、進む前に止まります」
職員は無線で地上へ照会し、別の記録を取り寄せた。俺たちはその間、点検室で待った。動かない時間が長く感じられる。自分が立っている場所から地上へ戻る道筋は、意識すればはっきり分かる。しかし、それは今すぐ先へ進んでいいという許可ではない。
フェナが隣で、手袋の指を一度ずつ握り直した。彼女も落ち着いて見えるだけで、緊張しているのだろう。俺が目を向けると、フェナは小さく頷き、無線の受信状態を確かめた。
「ナオトさん、戻る時の人数は、私たち五人だけで数えないようにしましょうね」
「うん。もしあの人と会えたら、本人確認もして、誰がどこから合流したか残そう」
相馬さんはその会話を聞いて、短く「そうだ」と答えた。地上から新しい図面が届き、先導員が枝道の位置を照合し始める。待つ間に、遠くで何かが鳴った。金属の板を一度だけ叩いたような、短い音だった。配管の振動かもしれないし、どこかで作業をしている音かもしれない。俺は顔を上げたが、相馬さんがすぐに手で制した。
「音の出所はまだ分からない。設備の状態を確認してから動くぞ」
俺は頷き、耳を澄ませた。もう一度鳴ることを期待してしまう自分がいる。けれど、期待した音を都合のいい意味に変えてはいけない。地下の奥へ続く通路は、灯りの届く範囲だけが薄く照らされ、その先は曲がり角に隠れていた。俺たちはそこに誰かがいると決めつけず、確かめられた一歩から進むことにした。




