第172話 答えを持ち帰る人
合同研修の日、会場の入口には、施設の名前を書いた紙が一枚ずつ並べられていた。受付に立つ瀬川さんは、到着した人へ名札を渡しながら、持参した資料に機密情報が含まれていないか確認している。窓の向こうは明るい曇り空で、会議室の机には大きく印刷した架空の施設図と、空欄の多い記録用紙が置かれていた。
俺が入口の案内を確かめていると、北側の保管施設の設備班の男性が来た。彼は鞄を両手で抱え、会場を見回してから小さく頭を下げた。
「おはようございます、久世さん。今日は、ちゃんと話せるか心配で」
「俺も、練習では何度も言い直しましたよ」
「そうなんですか。久世さんなら、帰り方のことは何でも説明できると思ってました」
「俺に分かるのは、俺が帰る道筋だけです。設備の状態は分かりませんし、教えるのもまだ練習中です」
男性は少し笑った。鞄の中から取り出した紙には、以前の夜勤で答えられなかった北側荷物用扉の質問が書かれている。今日はその質問を持ってきたのだという。
続いて、斜面の保守施設の夜勤担当者と管理者が到着した。管理者は以前より薄い手順書を持っていたが、紙の端には色の違う付箋が何枚も貼られている。
「設備条件の確認が、まだ終わっていないところがあります」と彼は言った。「今日ここで答えを決めるつもりはありません。どうやって職員へ説明するかを相談したいんです」
最後に川沿いの排水管理施設から、管理主任と当直員の女性が来た。女性は入口で一度立ち止まり、机の上に置かれた名札を見つめた。俺が声をかけようとすると、フェナが先に歩み寄る。
「おはようございます。今日は、無理に前で話していただかなくても大丈夫です」
「ありがとうございます。でも、聞いてほしいことが一つあります。あの記録を訂正したあと、夜勤の人が二人、同じように『分からない』って言ってくれたんです」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。訂正したことで仕事が増えたのは事実だろう。それでも、最初に声を上げた人が一人で立っているわけではなくなった。その変化を、俺は嬉しく思った。
研修が始まると、相馬さんは講師台へ立たず、参加者と同じ高さの椅子に座った。最初に伝えたのは、今日の研修に参加しても、各施設の実地訓練が完了したことにはならないということだった。
「ここで設備の安全を認定することはできません。皆さんの施設で使う経路は、設備担当と管理責任者が確認してください。今日やるのは、教える時に何を聞き、分からない時に誰へつなぐかを練習することです」
参加者の何人かが頷いたが、後ろの席にいた別施設の管理担当者が手を挙げた。
「それだと、研修を受けた証明は出ないんですか。うちでは年度内に教育実施の報告が必要で」
「参加した事実は記録できます」と瀬川さんが答えた。「ただし、その記録が意味するのは、この研修で行った机上の演習に参加したということです。自施設の退避訓練が完了した証明にはなりません」
「では、帰ってからまた別の訓練が必要なんですね」
「必要な内容は施設ごとに確認してください。今日ここで、できたこととできていないことを分けて持ち帰れるようにします」
管理担当者はすぐには納得しなかった。けれど、隣に座っていた夜勤担当者が「うちも実地訓練がまだなんです」と声をかけると、少し表情を和らげた。自分の施設だけが遅れているわけではないと知ったからかもしれない。
最初の演習では、参加者を三つの班に分けた。俺の班には北側の設備班の男性、川沿いの当直員、初めて会う小さな整備施設の管理者がいる。フェナは隣の班で記録を担当し、美波さんは全体を回りながら質問する役を引き受けた。
俺たちの机に置かれた架空の施設図には、入口が二つ描かれていた。一つは普段の出入口、もう一つは搬入時に閉まる扉だ。参加者はまず、説明する役と聞く役を決める。北側の男性が説明役になり、川沿いの当直員が初めて来た職員役を引き受けた。
「入域する時は受付で人数を確認します。帰る時も本人から連絡をお願いします。こちらの扉は搬入時に閉まることがありますが、今の設定では、使用できる時間はまだ確認できていません」
「じゃあ、帰る時に閉まっていたら、もう一つの入口へ行けばいいんですか」と当直員が尋ねた。
男性は紙へ指を置いたまま、少し考えた。
「その判断は、地図だけではできません。もう一つの入口が今使えるか、施設の責任者へ確認する必要があります。もし作業中に通路が使えなくなったら、現在地と人数を伝えて、勝手に移動せず指示を受けてください。ただ、今いる場所自体が危険な場合は、その状況も伝えて判断を急いでもらいます」
当直員は頷き、今度は紙を閉じて尋ねた。
「今の説明で、私は何を覚えておけばいいですか」
男性は一瞬戸惑ったが、すぐに笑った。
「覚えてほしいのは、地図の線をそのまま信じないことです。それから、帰還の連絡先と、使えるか分からない時の確認先です。具体的な番号は、実際の施設の情報で確かめてもらいます」
「分かりました。じゃあ、私から言い直してみます」
当直員は、自分が聞いた内容を短く説明した。帰還時に本人が連絡すること、扉の状態を地図だけで判断しないこと、迷ったら施設の責任者へつなぐこと。最後に「連絡が取れない時の代行者も必要ですね」と付け加えた。
北側の男性は、そこで初めて肩の力を抜いた。
「今、僕が言い忘れたことを教えてもらいました。次に説明する時は、最初から入れます」
俺は記録用紙に、説明を受けた人が質問し、説明する側が補足したことを書いた。最初から完璧な説明をする人はいなかったが、誰もそれを笑わなかった。
次の演習では役を交代し、川沿いの当直員が説明する側になった。題材は、過去の教育記録に「訓練済」とあるのに、本人が手順を説明できない場合だ。小さな整備施設の管理者が、説明を受ける職員役を演じる。
「記録では終わってるんですよね。なのに、もう一回受けるんですか」
「以前、何を受けたか確認できていないので、そこから確かめたいです。あなたが覚えていないことだけを責めるつもりはありません」
「でも、仕事の予定が詰まっていて」
「必要な確認が終わるまで、入域の条件は施設の責任者に判断してもらいます。机上で説明できる部分は、今ここで一緒に確認しましょう」
当直員はそこまで言って、いったん口を閉じた。自分が実際に聞きたかった言葉を、今度は別の人へ伝えようとしているのだと分かった。彼女は紙を見ずに続ける。
「私は、前に『訓練済なのに分からないのか』と言われて、何も聞けなくなりました。だから、分からないと伝えてくれたことを、まず記録したいんです。そこから必要な説明を考えます」
管理者役の男性は演技を忘れたように顔を上げた。
「それなら、質問しやすいですね。うちでも、何年も前の印を見て『知ってるはず』って言ってしまうことがあります」
俺は彼女の手元を見た。昨日、震えるようにして自分の記録を見つめていた人が、今はほかの人の不安を聞く側に立っている。何かをすっかり克服したというより、怖さを知っているからこそ言える言葉があるのだろう。
午前の最後、各班から一つずつ、答えを持ち帰る必要がある質問を出してもらった。北側の施設は、夜間の搬入用扉を案内する条件。斜面の施設は、連絡が途絶えた時の待機場所へ向かう判断。川沿いの施設は、訂正した教育記録が外部の点検会社まで届いたかどうか。それぞれ、確認する担当者と、結果を伝える相手を決めている。
「ここで答えを出せなかった人もいますね」と後ろの管理担当者が言った。「でも、誰に聞けばいいかは分かりました」
「そこを、今日の成果として残しましょう」と相馬さんが答えた。「施設へ戻ったら、確認を終えたかどうかも確かめてください。紙を持ち帰っただけで終わりにしないことです」
昼休み、俺とフェナは会場の外のベンチで軽い昼食を取った。広場には小さな子どもを連れた親子がいて、噴水の周りをゆっくり歩いている。朝から人の話を聞き続けたせいか、外の空気が少し新鮮に感じられた。
「ナオトさん、あの設備班の方、今日は楽しそうでしたね」とフェナが言った。
「うん。前は質問されるのが怖いって言ってたのに、自分から『言い忘れた』って言えてた」
「当直員の方も、別の人へ説明していました」
「俺たちが何かを教えたというより、あの人たちが自分で話せるようになったんだと思う」
フェナは頷いたあと、少し考え込んだ。
「でも、これで私たちの仕事が減るとは限りませんよね。危険な場所に人が残ってしまうことは、きっとあります」
「そうだね。救難が必要な時は行く。それは変わらない。でも、そこへ至る前に、誰かが気づけることは増やせると思う」
俺は自分の手を見た。俺の《帰り道》が示すのは、俺自身の帰る道筋だ。大勢の人に同じ道を保証できるわけでも、事故を起こさない力があるわけでもない。それでも、帰れなかった人を迎えに行くたびに、どこで情報が途切れたのかを知ることができた。その経験を、俺一人の中だけに置かずに済むなら、今日ここへ来た意味はある。
午後の演習では、各班が持ち寄った質問を別の班へ渡した。知らない施設の問題を聞くことで、自分の施設の常識が通じないことに気づくためだ。斜面の施設の管理者は、北側の保管施設の複数の入口を見て「入口が二つあるなら、どちらか使えるだろう」と言いかけ、設備班の男性から「どちらも使えるとは限りません」と説明を受けた。
「うちは入口が一つしかないので、二つあるだけで安心してしまいました」と管理者は苦笑した。「数が多いことと、使えることは違うんですね」
別の班では、夜勤の当番が一人しかいない施設の連絡手順が話題になっていた。誰かが迎えに出れば管理室が空になる。地上でできる確認と、専門の担当者へ相談する判断を分けなければならない。相馬さんは各班を回り、実際の設備判断をその場で決めないよう、何度か声をかけた。
午後の後半には、瀬川さんが用意した別の演習があった。机の上に、入域札に見立てた小さな紙片を八枚並べる。架空の点検班が二組、地上の受付が一人、地下の作業員が七人という設定だ。実際に地下へ入ることはなく、参加者は椅子に座ったまま、札と連絡メモを使って帰還確認の流れを試す。
「今から、受付へいくつかの連絡が届きます」と瀬川さんが言った。「終わったと思った時点で、誰が地上へ戻ったと確認できるか教えてください」
最初の連絡では、一組目の三人が作業を終え、札を返却箱へ入れたという。受付役の管理担当者は、三人の名前に丸を付けた。次の連絡では、二組目の一人が体調不良のため地上へ先に戻ったと報告される。彼は四人目の名前にも丸を付けた。
ところが、フェナが新しいメモを渡すと、管理担当者の手が止まった。
『返却箱に札は三枚。ただし、本人の帰還連絡は二名分のみ。』
「さっき、三人戻ったと聞いたんですが」と管理担当者は言った。
「それは、作業班の代表からの連絡です」とフェナが答えた。「この施設の設定では、帰還は本人確認をすることになっています。今の情報で、誰が戻ったと言えますか」
管理担当者は三つ付けた丸のうち、一つを消そうとして手を止めた。瀬川さんが、今は記録を消さず、確認中の印へ変えてほしいと説明する。作業班の代表が嘘をついたとは限らない。札を預かって持ち帰っただけかもしれないし、本人が地上にいて連絡を忘れているだけかもしれない。けれど、どちらかを確かめるまでは、本人の帰還が確認できたことにはならない。
「三人のうち誰かが戻っていない可能性がある、ということですね」と管理担当者は言った。
「はい。地上で確認できる連絡先や、最後に本人を見た人の情報を集めます」と瀬川さんが答えた。「この場で誰かを地下へ探しに行かせる演習にはしません」
次のメモには、同じ名字の作業員が二人いると書かれていた。受付役は慌てて名簿を見直した。班の代表が「佐伯さんは戻った」と言っても、どちらの佐伯さんか分からない。名前だけでなく、所属する班や本人の識別情報を照合する必要がある。
「人数が合っても、同じ人を二回数えていたら意味がないんですね」と斜面の施設の夜勤担当者が言った。
俺は、いつか地下で遭難者を数え直した時のことを思い出した。目の前にいる人の数を数えるだけなら簡単に見える。でも、別の場所に残った人がいないか、誰が最後に誰を見たかを確かめるのは、いつだって難しい。机の上の紙片を一枚ずつ動かす演習なのに、参加者の表情は真剣だった。
演習の終わり、受付役の管理担当者は、まだ確認中の人が一人いると報告した。すべての丸を付けて終わることはできなかったが、何を確かめる必要があるかは言えた。瀬川さんは、その結果を「不合格」とは書かず、確認できた情報と未確認の情報を分けた記録として残した。
「私は、紙の上で全員帰還にしたくて、急いで丸を付けてしまいました」と管理担当者が言った。「でも、実際の現場なら、丸を付けた時点で探すのをやめてしまうかもしれません」
「だから、今日ここで止まれたのは大きいと思います」と俺は答えた。「俺も、目の前の人数だけで安心しそうになることがあります」
管理担当者は俺を見て、少し驚いたようだった。
「久世さんは、帰る道が分かるんですよね。それでも人数の確認は必要ですか」
「必要です。《帰り道》は俺の帰る道を示すだけです。別の場所に誰が残っているかまでは分かりません。全員を連れて帰るには、そこにいる人をちゃんと確かめないと」
彼は頷き、確認中の欄へもう一度目を落とした。朝は「参加した証明」を気にしていた人が、今は「確認できない人を残したまま終わらない」ことを気にしている。その変化を、俺は何も言わずに見守った。
演習を終えた参加者たちは、机を元の位置へ戻し始めた。北側の設備班の男性が、川沿いの当直員に紙片の片付けを手伝ってもらいながら言う。
「うちでも、札を返したら終わりだと思っている人がいます。今度、夜勤の人とこの練習をしてみたいです」
「いいですね。でも、実際の名簿の扱いは、受付の方にも聞いた方がいいと思います」と当直員が答えた。「私たち、地下のことは知っていても、受付の仕事を全部知っているわけじゃないから」
男性は笑い、頷いた。別の施設の人に質問されたことで、自分の施設で誰へ聞けばいいかが増えていく。今日は答えを持ち帰る人だけでなく、質問を持ち帰る人も増えたのだと思った。
片付けを終えた瀬川さんは、演習で使った紙片を透明な袋へまとめた。今日の記録を後で見返せるように、どの場面で確認中になったかをメモに残すという。実際の施設の名簿とは違う架空の名前でも、どこで判断を急ぎたくなったかは振り返れる。俺は自分が受付役だったらどうしたかを考えた。札が三枚返ってきたと聞けば、つい三人とも地上にいると思いたくなる。そんな時、誰かが一度だけ「本人から連絡はありましたか」と聞いてくれたら、思い込みを止められるかもしれない。研修で持ち帰るのは、立派な資料だけではなく、そういう短い問いでもいいのだと思った。
研修の終わりが近づいた頃、北側の設備班の男性が俺を呼び止めた。
「久世さん、これ、見てもらえますか」
彼が見せた紙には、今日の演習で自分が受けた質問と、持ち帰って確かめる相手が書かれていた。一番下には、自分が次の夜勤で新人へ説明する予定の日付がある。
「前は、答えられない質問があると、教える役を降りたくなりました。でも、今日は質問を持って帰れます。答えが分かったら、次の人へ渡せると思います」
「いいですね。俺も、今日聞いたことを忘れないようにします」
男性は笑い、紙を鞄へしまった。俺はその背中を見送りながら、教える人を増やすという相馬さんの言葉を思い出した。名前だけの担当者を増やすのではない。知らないことを聞ける人と、聞かれたことを次へ渡せる人を増やすのだ。
その時、相馬さんの端末が短く鳴った。彼は画面を見て表情を変え、会場の端へ歩いた。俺たちが近づくと、相馬さんは通話を切らずに手で待つよう示した。
「……分かりました。最後に本人と連絡が取れた時刻、現在の入域人数、設備の運転状況を整理してください。誰かを独断で探しに入れないでください。こちらでも救難の受理手続きを確認します」
電話を終えた相馬さんは、俺とフェナを見た。
「川沿いの排水管理施設からだ。今朝の点検に入った外部作業員二人のうち、一人が地上へ戻った。もう一人は、地下で設備の確認を続けると言って別れたらしい。予定の連絡時刻を過ぎても、本人からの応答がない」
俺は思わず、会議室の奥を見た。川沿いの管理主任は、まだ研修の記録を片付けている。相馬さんは続けた。
「施設側は人数と最後の連絡を確認している。安全管理者も状況を調べているが、設備の状態はまだ確定していない。久世、フェナ。準備してくれ。現場の情報が揃い次第、出動の判断をする」
俺は頷き、机の上に残った架空の施設図を閉じた。今日は、帰れなくなる前に何を確かめるかを、みんなで考えていた。その話をしている間にも、現実の地下では、帰還の連絡を待つ人がいる。だからこそ、俺たちがここで学んだことを、焦って都合のいい答えに変えてはいけない。
フェナが鞄を持ち、俺の隣へ来た。
「ナオトさん。今度は、私たちが聞く番ですね」
「うん。何が分かっていて、何がまだ分からないか。そこから始めよう」
会議室の窓の外では、雲の切れ間から光が差していた。俺はその明るさを一度だけ見て、相馬さんの後を追った。




