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ハズレスキル《帰り道》しかないF級探索者、遭難したS級パーティを全員連れて帰ったら救難依頼が殺到しました  作者: ころもぐら


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第170話 消さずに直す

救難受付の朝は、電話の音より先に紙をめくる音で始まった。瀬川さんが机に広げていたのは、昨日の夕方に届いた相談の添付資料だ。職員の名前が並ぶ教育記録の一覧には、右端の「退避訓練」という欄に同じ日付がずらりと入っていた。ところが、そのうち一人が手順を説明できず、施設側が記録の訂正を申し出ている。

「間違いがあったのは一人だけですか」と俺が尋ねると、瀬川さんは首を振った。

「それもまだ分かりません。相談してきた方は、自分が説明できなかったことを報告しています。でも、同じ日に印が付いた人たちが、何を受けたのかまでは確認できていないそうです」

相馬さんは一覧を見て、日付の横にある小さな記号を指した。訓練を実施した担当者の欄には、すでに別施設へ異動した人の名前が印字されている。

「本人に確認できないから、記録を消してしまいたいという話か」

「いいえ。今の管理者は、消してしまうと何を直したのか分からなくなると心配しています。ただ、訂正した事実が監査で不利に扱われるんじゃないかとも」

「まずは、何が実際に行われたかを見に行こう。記録の扱いは、施設の管理責任者にも確認してもらう」

俺たちが向かったのは、川沿いに建つ排水管理施設だった。低い堤防の向こうを濁った水がゆっくり流れ、管理棟の外壁には過去の増水時刻を示す標識が残っている。地下には点検用の通路と機械室があり、普段の仕事は設備の監視や整備だ。大雨が予想される日は立入条件が変わるため、地下で働く人の入退域を厳密に管理しているという。

会議室へ案内してくれた管理主任は、四十代くらいの痩せた男性だった。机には訓練記録の原本と、赤い付箋が何枚も挟まった勤務日誌が置かれている。

「相談したのは私です。職員が説明できなかったことより、説明できない人を『訓練済』として扱っていたことが気になりまして」

管理主任は最初にそう言った。前の担当者をかばうでも、責めるでもない声だったが、紙を揃える指先は落ち着かなかった。

「その職員の方から、話を聞けますか」と相馬さんが尋ねた。

「はい。夜勤の当番に入る女性です。今は日勤の引継ぎに来ています。本人も、話したいと言っています」

少しして入ってきた女性は、紺色の作業服の袖を肘までまくっていた。椅子へ座る前に、机の一覧を見て小さく息を吸う。

「私、去年の秋に訓練を受けたことになっているんです。でも、地下の連絡が切れた時に誰へ知らせるか聞かれて、答えられませんでした。あの日、全員で説明を聞いた記憶はあります。けれど、地下を歩いた覚えはなくて」

「覚えていないことを、今ここで無理に思い出さなくても大丈夫です」とフェナが言った。「その日に何をしたか、ほかの記録と照らし合わせられますか」

女性は頷いた。彼女が持ってきた勤務手帳には、その日の予定が細かく書かれていた。午後二時に全体説明、三時から設備点検。予定欄の「退避訓練」は、途中で一本線が引かれている。

「雨が強くなったんです。川の水位を見に行く人が増えて、地下の実地訓練は後日にするって聞いた気がします。ただ、後日がいつだったかは……」

管理主任は勤務日誌を開いた。そこには、午後二時十五分から三十分まで安全説明を実施、雨量の増加により地下への立入りを制限、という記載がある。一方で、教育記録の一覧には同じ日の「訓練済」が付いていた。

「説明は受けた。でも、歩く訓練は延期された可能性があるんですね」と俺は言った。

「そうです。ただ、記録を作った前任者がいない以上、私の記憶だけで決めるのも違うと思って」

相馬さんは原本と勤務日誌を並べた。

「現時点で言えることは分けましょう。説明を実施した記録はある。地下の実地訓練を実施した記録は見当たらない。本人も実施を覚えていない。だから『実地訓練をした』と断定する根拠が不足している。まずはそこまでです」

管理主任はその言葉を手帳へ書き取った。誰かが嘘をついたと決めつける前に、確かめられる事実を置く。相馬さんがしているのは、俺たちが遭難者の人数を確認する時と似た作業だった。最後に見た人数と、今いる人数が違えば、間を想像で埋めてはいけない。

記録の原本は、一枚の出席表から作られていた。管理主任が古いファイルを開くと、当日の説明会の出席者十人の署名が残っている。その署名を表計算の一覧へ転記する際、担当者が全員の「退避訓練」欄へ日付を入れたらしい。

「ここに『説明会出席』と書いてありますね」と瀬川さんが通信越しに指摘した。彼女は受付に残り、画面に映された書類を確認している。「原本には『実地訓練完了』とは書かれていません。転記の時に、項目の意味が変わった可能性があります」

「なら、前の担当者の入力ミスでしょうか」と管理主任が尋ねた。

「可能性はあります。ただ、本人の確認なしに断定はできません。それに、入力する画面が『説明会』と『実地訓練』を分けていなかったのなら、仕組みの問題もあります」

管理主任は画面を開いて見せた。そこには確かに「訓練済」という一つの欄しかなかった。説明を聞いただけの人と、実際に歩いた人を区別できない。俺は昨日の保守施設で、机上説明と実地訓練を別々に記録したことを思い出した。同じような間違いが、別の場所ではずっと前から積み重なっていたのかもしれない。

「前任者へ連絡してみますか」と俺が言うと、管理主任は迷った。

「異動先で忙しいはずですし、責任を追及するように受け取られたくありません」

「聞く内容を決めておけばいいと思います」とフェナが答えた。「その日、何をしたかを確かめたい。責めるためではない、と最初に伝えるんです」

相馬さんは頷き、管理主任へ判断を任せた。しばらくして施設の管理部門を通じて連絡が取れたが、前任者も細かな状況までは覚えていなかった。ただ、雨が強まり、地下での訓練を中止した記憶はあるという。後日に振り替えたかどうかは、手元の記録では確認できなかった。

「『中止した記憶がある』だけを残してください」と相馬さんは言った。「『だから全員未実施だった』とまで書く必要はありません。ほかの日の実施記録が出てくる可能性もありますから」

午前の調査が一区切りつくと、管理主任は窓の外を見た。川面に光が差し、施設の作業車がゆっくり門を出ていく。

「困るのは、ここからなんです。もし十人分の記録を訂正したら、うちは訓練の実施率が一気に下がります。上の部署から、どうして今まで気づかなかったと聞かれるでしょう」

「それは聞かれるかもしれません」と相馬さんは答えた。「でも、実際に確認できていない訓練を『済』のまま残せば、次の夜勤で誰かがその記録を信じます」

女性の当直員が小さく手を挙げた。

「私は、あの印があるから大丈夫だと思われるのが怖いです。説明できなかった時、先輩に『去年やっただろ』って言われて、何も言い返せませんでした。私が忘れたのか、最初から教わっていないのか、自分でも分からなかったから」

管理主任は女性の方を向いた。しばらく何も言わなかったが、やがて机の一覧を裏返した。

「すまなかった。記録に印があることを、本人ができることの証拠みたいに扱っていた」

「主任が謝ることじゃ……」

「いや、俺が『記録では終わっている』と言ったんだ。説明できないと報告してくれたのに、その言葉を先に受け止めなかった」

女性は膝の上で握っていた手を緩めた。謝罪だけで何かが終わるわけではない。でも、彼女が口にした不安が、ようやく会議室の真ん中へ置かれた気がした。

昼休み、俺とフェナは管理棟の小さな食堂で弁当を食べた。窓際には古い写真が飾られていて、今より低い堤防と、雨の中で土嚢を運ぶ職員たちが写っている。

「ナオトさん、あの方、話すのに勇気がいったでしょうね」とフェナが言った。

「うん。印が付いているのに分からないって言ったら、自分だけできない人に見えるかもしれない」

「でも、話してくれたから、ほかの方の記録も確かめられます」

「俺たちの仕事でも、人数が合わない時に『たぶん全員いる』で済ませたら怖いもんね」

フェナは弁当箱の蓋を閉じ、写真へ目を向けた。

「訓練をやり直すのは、時間がかかります。でも、分からないまま夜勤に入る方が、ずっと怖いと思います」

俺は頷いた。帰り道が見える俺にも、地下の設備が使えるかは分からない。だから、誰かの確認を待つことがある。知らないと口にするだけで評価が下がる場所では、その当たり前の行動が難しくなるのだろう。

午後、管理主任は関係する部署の担当者を呼び、記録の訂正方法を相談した。原本を破って新しい紙へ差し替える案も出たが、瀬川さんは元の記録を残したまま訂正履歴を添える方法を提案した。何を根拠に、誰が、いつ、どの項目を修正したのかを記す。実施の有無が確認できないものは、勝手に「未実施」と断定せず、「実施確認中」として次の確認担当と期限を決める。

「間違った印を消さないんですか」と若い事務員が驚いた。

「現在の一覧では使わないようにします」と管理主任が答えた。「でも、昔の一覧がなぜそうなっていたかを、後から調べられるように残す。訂正した事実を隠すためじゃない」

「そうです」と瀬川さんが言った。「古い記録を正しい記録として流通させないことと、古い記録が存在した事実を消さないことは両立できます。ただ、正式な保存方法や監査への提出は、施設の管理部門が決めてください」

相馬さんも、救難班が記録の適否を認定する立場ではないと念を押した。俺たちができるのは、何を確かめたかが伝わる形を一緒に考えるところまでだ。管理主任は管理部門へ確認し、訂正履歴を残す暫定の運用を承認してもらった。

次に問題になったのは、実際の訓練をいつ行うかだった。地下の通行条件は雨量と設備の運転状況で変わる。安全管理者が許可した条件のもとでなければ、歩く訓練はできない。それでも、当直員が今夜から必要とする連絡手順は、机上で確かめられる。

「では、まず私が説明してみます」と女性が言った。「教わる側のつもりで来ましたけど、分からなかったところをほかの人にも伝えたいです」

管理主任は驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。女性は地下の図面を広げ、普段の入域連絡と帰還確認について、自分の言葉で説明した。途中、連絡が途絶えた時に管理室へ何を伝えるかで言葉が止まる。彼女は無理に続けず、手順書を開いて管理主任に確認した。

「人数と最後に連絡した時刻は伝えられます。でも、設備の警報が出ている時にどこで待つかは、私だけでは決められません」

「その通りだ」と管理主任は答えた。「警報の種類によって対応が違う。ここで勝手に一つの行き先を決めない。判断が必要な時は責任者へつなぐ」

女性はそこを紙に書き足した。説明を聞いていた若い事務員が、「管理室が混んでいて電話に出られない時は」と質問する。管理主任は夜間の代行連絡先を示し、その番号が今も有効か、その場で担当部署へ確認した。質問が増えるたびに紙は少しずつ書き換わったが、誰も「もう訓練済なのだから」と口を挟まなかった。

ひと通り終えると、女性は椅子に座って笑った。

「私、今日も途中で答えられませんでした。でも、今度はどこを確認すればいいか分かります」

「それを、今日やったこととして残しましょう」とフェナが言った。「机上で説明を練習したこと。まだ設備担当へ確認すること。実地訓練はこれからだということ」

管理主任は新しい記録表を開いた。女性の欄には「机上説明・理解確認」の実施日が入り、「実地訓練」は安全管理者の確認待ちになった。以前の「訓練済」の印は、現在の判定として使わないよう注記が付けられた。見た目は前より複雑だが、何をしたかはずっと分かりやすい。

その時、管理主任の端末に内線が入った。門の受付に、外部の点検会社から問い合わせが来ているという。明朝の地下設備点検に入る三人のうち一人が、昨年この施設で受けた訓練の記録を持っている。受付の担当者は、提出された「訓練済」の写しを見て、追加の説明は不要だと考えていたらしい。

「同じ一覧を、外の会社にも渡していたんですか」と管理主任は顔色を変えた。

「名簿の一部を、入域資格の確認用に使っていたようです」と電話口の職員が答えた。「ただ、実際の訓練内容まで分かる資料は添付されていません」

管理主任は受話器を置き、相馬さんに相談した。外部の人が危険な場所へ入るかもしれないと聞くと、俺は反射的に立ち上がりかけたが、相馬さんはまず施設の入域管理責任者を呼ぶよう頼んだ。俺たちが知らないまま地下の通行条件を決めるわけにはいかない。

「明朝の点検そのものを、こちらで中止しろとは言えません」と相馬さんは言った。「ただ、確認できていない教育記録を根拠に、必要な説明を省くのは避けてください。誰が入域を許可するのか、条件を確認する人へ、今日分かった事実を伝えましょう」

管理主任はすぐに入域管理責任者へ連絡し、古い一覧の写しが添付された申請を一件ずつ確認した。予定の三人のうち、二人は別の日に実地訓練を受けた記録が見つかったが、残る一人は説明会への出席しか確認できない。明朝の入域前に必要な説明を受け直すか、点検の担当を調整するかは、施設と点検会社の責任者が判断することになった。

「もし、明日の作業に間に合わなかったら、会社の方から怒られるでしょうね」と若い事務員が言った。

「そうかもしれない。でも、何も言わずに通したら、本人は教わったつもりで入ってしまう」と管理主任は答えた。「今夜のうちに会社へ事情を伝える。古い印を信じた人を責める言い方にはしない」

連絡を受けた点検会社の担当者は、最初こそ予定変更に戸惑ったが、訓練記録の意味が曖昧だったと聞いて、別の疑問を口にした。

「うちでも、入場時の説明を受けた人は全部『教育済』と記録しています。あれは、何ができるという意味だったんでしょう」

管理主任は即答しなかった。会社の記録までこの場で訂正することはできないし、現場の仕事も止めたくない。けれど、今回と同じ混同が起きる可能性はある。彼は、まず自社の教育担当へ確認してもらい、必要なら来週の合同研修に参加してほしいと伝えた。

電話を終えたあと、事務員は机の端へ積んでいた古い一覧を見直した。原本を訂正するだけでは足りない。印刷された写し、送信済みの資料、ほかの部署が参照する画面にも、訂正があったことを伝える必要がある。

「配った相手を全部覚えているわけじゃありません」と事務員は言った。「メールの送信履歴と、受付のファイルから確認します。すぐに全部は終わらないと思いますが」

「終わっていないことを、終わったと書かなければいい」と管理主任が答えた。「送った先と連絡した日を残そう。届いたかどうかも確認していく」

俺は、そのやり取りを見ながら、地下で道を間違えた時のことを考えていた。俺が引き返したとしても、後ろから来る人へ知らせなければ、その人は同じ分岐へ進んでしまう。訂正は、机の上で文字を直した瞬間に終わるのではない。古い情報を頼りにしている人のところまで、届いて初めて意味を持つ。

女性の当直員は、新しい一覧ができるまでの間、夜勤の申し送りに一文を加えたいと申し出た。「昨年の訓練済記録には確認中の項目がある。分からない人は、勤務前に質問してよい」。誰かの名前を挙げて注意するのではなく、全員に向けた案内だ。

「私だけができないと思われるのは、まだ少し怖いです」と彼女は言った。「でも、私以外にも聞きたい人がいるなら、先に聞ける場所を作っておきたい」

管理主任はその文面を読み、当日の責任者と相談したうえで、夜勤の引継ぎに載せると約束した。彼女が口を開いたことで増えた仕事を、彼女一人へ背負わせない。そう決めたことも、今日の訂正と同じくらい大切に思えた。

夕方、管理主任は俺たちを玄関まで見送ってくれた。雨の気配はなく、堤防の上を自転車が二台並んで走っている。

「今日の記録を直したことで、仕事が増えました。十人分の確認も、まだ終わっていません」

「はい」と俺は答えた。

「でも、昨日までは仕事が終わっていることになっていた。今日からは、終わっていない仕事をちゃんと引き受けられます」

管理主任はそこで少し笑い、手に持った訂正用紙を折らずに鞄へ入れた。帰りの車で、フェナが窓の外を見ながら言う。

「ナオトさん。間違った記録を見つけた人が、責められるだけじゃなくてよかったです」

「うん。あの女性が言わなかったら、俺たちもここへ来なかった」

「来週の研修では、あの方の話も役に立ちそうですね」

相馬さんは前方の信号を見ながら頷いた。

「本人の許可を取って、個人が特定されない形にしよう。成功した手順だけじゃなく、間違いを見つけて直した過程を伝えたい」

救難受付へ戻ると、瀬川さんはすでに合同研修の教材案を作り始めていた。最初のページには「正しい答えを覚える」ではなく、「何を確認したら、その答えを使ってよいか」という問いが置かれている。今日の施設から届いた訂正履歴は、そこへ載せる事例の一つになる予定だった。

「次は、実際に教える側へ立つ人たちが、この問いをどう使えるかですね」と瀬川さんが言った。

俺は机に置かれた古い出席表の写しを見た。署名した人たちは、あの日そこにいた。その事実は消えない。けれど、そこにいたことと、帰り方を知っていることは同じではない。区別を付け直すために誰かが声を上げたのなら、その声を次の人へ渡したいと思った。

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