第169話 できたことにしない
翌朝の救難受付には、昨日の保管施設から届いた報告のほかに、別の施設が作ったという引継ぎ用紙が添付されていた。三つの枠を並べた形はよく似ている。今夜変わったこと、使ってはいけないもの、分からない時の連絡先。そこまでは同じなのだが、最後の欄に書かれた言葉を見て、俺は首を傾げた。
『監視室へ連絡』
「監視室がない施設なんですよね」
俺が尋ねると、瀬川さんは頷いた。
「はい。夜間は入口の管理室に当番が一人いるだけです。地下の設備区画へ入る時は二人一組ですが、監視室という部署はありません」
「じゃあ、この番号はどこへつながるんですか」
「前の施設の番号を消し忘れたようです。資料を参考にしたつもりが、書式ごと持ってきてしまったんですね」
フェナが紙を覗き込み、困ったように眉を寄せた。
「昨日の施設では、連絡先を間違えないために作った紙なのに」
「だからこそ、広め方を考えなければなりません」と瀬川さんは言った。「書式だけ渡せば、似た形の紙は作れます。でも、その施設で本当に使えるかは、別に確かめる必要があります」
相馬さんは添付された施設図を見ていた。小さな丘の斜面を利用した保守施設で、地下へ下りる入口は一つ。設備点検のために夜間も人が入ることがあるが、常時大勢が働いているわけではない。地上の管理室と地下の作業区画は、一本の階段と連絡通路でつながっている。
「向こうは今日の午後、教育記録をまとめたいそうだ。行けるか」
「はい。ただ、俺たちが教えたことにしてしまうのは避けたいです」
「そのつもりだ。向こうの人に説明してもらう。俺たちは、分からないところを聞く役だ」
午後、俺たちはその保守施設へ向かった。斜面の上に建つ管理棟は小さく、駐車場からは街の屋根が遠くまで見えた。建物の裏側に地下への階段があり、出入口には丈夫そうな金属扉が付いている。扉の上には、点検時刻を記した札が下がっていた。
管理者は白髪の混じった男性で、事務室の机へ案内してくれた。壁には古い勤務表が貼られ、棚には設備の取扱説明書がぎっしり並んでいる。机の上には、昨日見たものと同じ三つの枠の用紙が十数枚置かれていた。
「ほかの施設でうまくいったと聞きまして、うちでも使ってみようと思ったんです」
管理者は少し誇らしげに言った。
「職員へ配る前に見ていただけるなら助かります。今夜までに訓練済の人数を揃えたいものですから」
相馬さんは紙を一枚取り上げた。
「この『監視室』は、こちらではどこを指しますか」
管理者の顔から笑みが消えた。
「……ああ、それは前の施設の文面ですね。うちなら管理室です。すぐ直します」
「連絡先も、こちらのものですか」
「番号は書き換えました。地上の管理室につながります」
「夜間に管理室の当番が地下へ行っていたら、誰が電話を受けますか」
管理者は答えに詰まった。隣にいた若い職員が、遠慮がちに口を開く。
「夜間の当番は、基本的に地上にいます。地下へ入るのは点検班です。ただ、点検班の一人が体調を崩した時に、管理室の当番が迎えに行ったことはあります」
「その時、管理室は無人になったんですか」と俺が尋ねた。
「はい。でも、短い時間でしたし、ほかに連絡はありませんでした」
相馬さんは頷いたが、すぐに結論は出さなかった。
「その時に事故がなかったことと、同じ方法を手順にしていいかは別です。まず、普段の役割を教えてください」
管理者は勤務表を広げた。夜間の地上当番は一人、地下の点検班は二人。外部の業者が入る日は人数が増えるが、地下での作業内容は事前に届け出る決まりだという。地下からの連絡は携帯端末を使う。通じない場所がある場合は、階段の踊り場にある有線の連絡装置を使うよう説明している。
「その連絡装置は、いつ点検しましたか」とフェナが尋ねた。
「定期点検はしています。記録は設備担当が持っています」
「今、動くかどうかを私たちが判断することはできませんね」
「そうです」と管理者は答えた。「設備担当へ確認します」
俺は、施設の入口から階段へ続く短い廊下を見た。一本道に見えるからこそ、誰も迷わないと思ってしまいそうだ。でも、連絡手段が使えなかったり、いつもの階段に問題が起きたりすれば、地図だけでは答えられないことが出る。
「今日、訓練を受ける予定の人たちはいますか」と俺が尋ねた。
「日勤の職員が四人います。今夜の当番も、そのうち一人です。皆、ここの設備を知っています」
「なら、まずその人たちに説明してもらいましょう」と相馬さんが言った。「知っていることと、初めて来た人へ伝えられることを分けて見たい」
管理者は少し意外そうだったが、職員を呼びに行った。俺とフェナは机の用紙を見直す。三つの枠の一番下には、すでに『教育実施』という印が押されていた。名前を書く欄はまだ空白だ。
「ナオトさん、この印はいつ押したんでしょう」
「まだ誰にも説明していないなら、少し早いよね」
「たぶん、配る準備をしたという意味なのかもしれません。でも、受け取る人には違う意味に見えそうです」
俺は紙の端を指で押さえた。昨日、夜勤の職員が『説明を受けた』という署名と『設備を確認した』という署名を分けた場面が頭に浮かぶ。似た形の欄でも、何をした証拠なのかは違う。
四人の職員が事務室へ集まると、管理者は用紙を配った。説明役に選ばれたのは、夜勤も担当する若い男性だった。彼は地図を広げ、地下への入口と管理室の位置を指しながら話し始めた。
「夜間は二人で地下へ入ります。帰還予定時刻を地上へ伝え、戻ったら管理室へ連絡します。もし連絡がつかなくなったら、この番号へ電話してください」
「その番号がつながらなかったら、どうしますか」と俺が尋ねた。
男性は一度紙を見た。
「その場合は、階段の踊り場にある連絡装置を使います」
「階段へ行く途中が使えない時は?」
「それは……地下の奥に非常用の待機場所があります」
「そこへ移動していいかは、誰が判断しますか」
男性は黙り、管理者を見た。管理者もすぐには答えられなかった。非常用の待機場所は図面にあるが、どの状況でもそこへ移動してよいとは限らない。通路の状態が分からない時に、離れた場所へ向かう判断を一般の職員へ任せてよいか、手順書には書かれていなかった。
「すみません」と男性は言った。「俺、連絡が切れたら待機場所へ行くと覚えていました。でも、そこへ行く道が通れない場合までは考えていませんでした」
「そこは設備担当と安全管理者に確認が必要ですね」と相馬さんが答えた。「今日、ここで新しい退避路を決めることはできません。安全が確認されていない場所へ、訓練のために入るのもやめましょう」
管理者は大きく頷いた。予定していた地下での実地訓練は、安全条件の確認が終わるまで見合わせることになった。代わりに、事務室で机上の説明を続ける。
「それでは、今日の訓練は未実施になってしまいますね」
管理者が困ったように言うと、夜勤担当の男性が顔を上げた。
「俺は、今日聞けてよかったです。分かったつもりで夜勤に入るところでした」
その声は小さかったが、部屋にいた全員が聞いていた。俺は彼の方を見た。自分が知らなかったことを、同僚の前で言うのは簡単ではない。けれど、その言葉がなければ、誰も空白に気づかなかったかもしれない。
「何もできなかったわけじゃありません」とフェナが言った。「今日は、説明できることと、まだ確認が必要なことを分けられました。そこまでを記録して、次に確かめることを残せばいいと思います」
管理者は机の『教育実施』の印を見つめた。
「でも、監査では、訓練が終わった人数を聞かれます。実施したと言えなければ、改善が遅れていると見られるかもしれません」
「実施した部分を、実施したと書けばいいんです」と相馬さんが言った。「机上説明を行った四人。理解を確認した項目。安全確認が必要で、実地訓練を保留した項目。次に誰が何をするか。それをそのまま出してください」
「数字は少なくなりますね」
「数字だけ増やしても、帰れる人は増えません」
相馬さんの言葉に、管理者はゆっくり頷いた。紙の上に押された印を、彼は一枚ずつ見直し始めた。
休憩時間、俺とフェナは管理棟の外へ出た。斜面を下る風は少し冷たく、遠くの道路を走る車の音が聞こえる。フェナは手すりにもたれ、手帳を閉じた。
「ナオトさん。今日の方たちは、少し落ち込んでいるでしょうか」
「どうだろう。訓練が終わると思っていたのに、確認することが増えたからね」
「でも、あの夜勤の方は、聞けてよかったと言っていました」
「うん。俺も同じ立場なら、知ってから働きたいと思う」
フェナは斜面の下にある小さな街路樹を見た。
「前の施設では、教える人がいなくて困っていました。今日は、教える人はいたのに、教える内容が確かめられていなかった。似ているようで、違う問題ですね」
「だから、同じ紙を渡しても、同じ答えにはならないんだろうね」
俺は手すりに置いた手を握り直した。俺の《帰り道》は、俺自身が戻る道筋を示してくれる。けれど、その道を別の人へ渡しただけで、同じ条件で歩けるとは限らない。まして、地図に載った道が今使えるかは、俺の能力では分からない。教えることも、少し似ているのかもしれなかった。
午後の後半、施設の設備担当が事務室へ来た。連絡装置の点検記録を持ち、夜間の通行条件について説明するためだ。連絡装置は定期点検で動作確認されていたが、地下の待機場所へ向かう経路については、想定条件ごとの確認が不足しているという。
「通常の巡回では通れる場所です」と設備担当は言った。「ただ、非常時にどの区画を使えるかは、原因によって変わります。図面に『待機場所』とあるからといって、必ずそこへ行くよう教えるのは適切ではありません」
管理者は額に手を当てた。
「では、今までの説明を直さないといけませんね」
「はい。安全管理者と設備担当で、想定ごとの行動を確認します。確認できるまで、未確認の経路を非常時の正解として教えないでください」
相馬さんは、必要なら専門の担当者と訓練計画を見直すよう伝えた。俺たち救難班が、その場で設備の安全を認定することはできない。今できるのは、何を確かめる必要があるかを整理するところまでだ。
「それなら、今日の四人には何を教えられますか」と夜勤担当の男性が尋ねた。
「まず、普段の入退域と連絡の手順です」と管理者が答えた。「帰還予定時刻を伝えること、連絡が取れない場合に勝手に別の通路を探さないこと、現在地や人数、体調を知らせられる範囲で知らせること。設備の判断が必要なことは責任者へつなぐ。それから、まだ確認できていない経路は、使えると決めつけないこと」
男性は頷いた。
「その説明なら、俺も新人へ伝えられます。でも、実地訓練が終わっていないことも、一緒に言います」
「お願いします」と管理者は答えた。
四人の職員は、今度は二人ずつ組になり、説明する役と聞く役を交代した。最初の組では、説明役が『分からない時は管理室へ連絡』と言ったあと、聞く役が『管理室の人が電話に出なかったら』と質問した。説明役は代行者の番号を確認し、連絡が取れない場合の対応を手順書で確かめる必要があると答えた。次の組では、帰還予定時刻を変更する時の連絡方法が曖昧だと分かり、管理者が確認した。
俺たちは、答えを教える代わりに、どの質問が出たかを記録した。全員が同じように説明できるようになるまで、繰り返し練習する必要があるだろう。でも、最初から全部できるふりをするより、分からないところを出せる方がずっとよかった。
二組目の説明が終わった時、最初は黙っていた職員の一人が手を挙げた。
「今まで、連絡がつかなくなったら、しばらく待てばいいと教わっていました。どれくらい待てばいいか、誰も言わなかったんです」
管理者は手順書を確認した。そこには『連絡不能時は状況を確認する』とあるだけで、確認を始める責任者も、救難受付へ相談する判断も明確ではなかった。
「時間を一つ決めれば済む問題ではありません」と相馬さんが言った。「予定時刻を過ぎた理由が分かっている場合と、地下で連絡が途絶えて所在も分からない場合では違います。まず、誰が情報を集め、どの段階で判断を引き上げるかを決める必要があります」
「判断を引き上げる、ですか」
「現場の当番だけで決められないなら、管理者や救難受付へ相談するということです。連絡がつかない人を探すために、別の職員を危険な区画へ入れることはしません」
質問した職員は頷いた。
「待つことしかできないと思っていました。でも、地上で確認できることもあるんですね」
「あります」とフェナが答えた。「入域した人数、最後の連絡時刻、作業場所の申告、設備の状態。分からないことは分からないまま伝えていいんです」
管理者は、そのやり取りを新しい手順書の検討事項へ加えた。今ここで基準を作り切るのではなく、責任者と救難受付で確認する。そう決めた時、質問した職員はようやく安心したように息を吐いた。
訓練の最後、管理者は一枚の新しい記録表を机に置いた。そこには、『机上説明』『理解確認』『設備条件の確認』『実地訓練』の四つの欄があり、それぞれ実施日と担当者を書けるようになっている。今日実施したのは、最初の二つだけだ。
「これで提出します」と管理者は言った。「残りは、担当者と予定日を添えます。まだ終わっていないことを、終わったとは書きません」
「それがいいと思います」と俺は答えた。
「ただ、施設の上の人が納得するかどうか……」
管理者は苦笑した。相馬さんは、記録を整えた理由を説明する資料なら救難側からも提供できると伝えた。ただし、設備の承認や監査の判定を代わりに引き受けるわけではない。管理者はその違いを確かめ、礼を言った。
帰り際、夜勤担当の男性が玄関まで見送ってくれた。彼は手に持った記録表を見せ、少し照れたように笑った。
「今日、できなかったことが三つ増えました。でも、今まで分かっていなかったことも分かりました」
「俺も、似たようなことが何度もあります」と答えると、男性は驚いた顔をした。
「久世さんでも、ですか」
「あります。帰る道が見えても、その先の扉が安全かどうかは分からないですから。だから、設備の人に聞きます。分からないことがあるのは、悪いことじゃないと思います」
「じゃあ、俺も、知らないことは聞きます。新人に聞かれた時も、確認してから答えます」
男性はそう言って、記録表を大切そうに持ち直した。
車へ戻る途中、フェナが小さく息を吐いた。
「ナオトさん。今日は、誰も地下へ入らなかったのに、疲れましたね」
「うん。何かを決めないまま帰るのって、少し勇気がいるね」
「でも、決められないことを残せました。私は、それでよかったと思います」
俺は頷いた。地上へ戻る道を探す時、進めない場所があれば引き返すことがある。今日も、無理に答えを出さずに立ち止まった。その判断が、誰かの夜勤を守ることにつながるなら、決して無駄ではない。
救難受付へ戻ると、瀬川さんが二つの施設から届いた報告を並べていた。最初の施設は、夜勤の引継ぎ用紙を改良し、翌日の担当者にも説明が伝わったという。今日訪ねた施設は、机上訓練を実施した一方で、設備条件の確認と実地訓練を保留した。結果は違うが、どちらも何をしたかが分かる記録になっている。
「この二つを、共通の教材にできそうですね」と瀬川さんが言った。「完成した用紙を配るのではなく、作る前に何を確認するか、教える時に何を確かめるかをまとめます」
「施設によって答えは違いますもんね」とフェナが答えた。
「ええ。だから、同じ答えを配るのではなく、同じように質問できる方法を残したいんです」
相馬さんは椅子を引き、俺たちへ向き直った。
「来週、いくつかの施設の担当者が集まる。救難班が全施設を回るのは無理だ。そこで、今日の二つの例を使って、教える側を育てる場を作ろうと思う」
「俺たちも参加するんですか」
「もちろん。ただし、久世のスキルを見せる会にはしない。現場の人が自分で質問し、自分の施設で確認できるようにする」
俺は少し考え、頷いた。救難要請が来た時、俺が帰る道を示せることは変わらない。でも、要請が来る前にできることを、俺以外の人が増やしていく。それは、救難の仕事を手放すことではなく、救難が必要になる前の時間を守ることなのだろう。
その時、瀬川さんの端末に新しい連絡が入った。彼女は画面を読み、眉をひそめた。
「合同の研修に参加したいという施設から、質問が来ています。『訓練済と記録されている職員が、実際には退避手順を説明できなかった。記録を訂正したいが、以前の担当者がもういない』そうです」
相馬さんは端末を受け取り、しばらく文面を読んだ。
「……なるほど。教え方だけじゃない。間違って残った記録を、どう直すかも必要になるな」
俺は窓の外へ目を向けた。街の灯りが一つずつ点き始めている。今日、できなかったことを正しく残すだけでも勇気が要った。すでに『できた』と書かれていることを、あとから訂正するのはもっと難しいかもしれない。
「その施設の人、困っているんでしょうね」とフェナが言った。
「うん。でも、今からでも確かめ直せるなら、そこから始められる」
俺が答えると、相馬さんは頷いた。
「次は、間違いを認めた人が損をしない仕組みを考えよう。そうしなければ、誰も本当のことを言わなくなる」
瀬川さんは新しい相談を、未確認の事項として記録した。俺はその画面を見つめた。帰る道を示すことができても、過去に付けられた印を消すことはできない。けれど、誰かが立ち止まって確かめ直すための道なら、これから作れるのかもしれない。




