第168話 引継ぎの二分間
監視室の壁に掛かった時計が、夕方の交代時刻を過ぎたことを知らせていた。机の上には、さっき設備班の男性が書き足した一枚の紙がある。今夜の北側荷物用扉の扱い、確認する責任者、連絡が取れない場合の代行者。書かれた内容は決して多くないが、そこへ至るまでに、何人もの質問が必要だった。
「これを明日の夜勤へ渡せばいいんですね」
夜勤の新人が紙を持ち上げた。管理者は頷きかけたが、相馬さんが先に口を開いた。
「渡すだけなら簡単だ。だが、明日の人がこの紙を見て、何を確認すればいいか分かるかは別だろう」
新人は紙を裏返した。裏には設備班の男性が急いで書いた説明があり、矢印と番号がいくつも並んでいる。
「俺には分かります。さっき話を聞いたので。でも、何も聞いてない人には……どうでしょう」
「それを、今日のうちに確かめられる方法はありますか」
フェナの問いに、監視室の年配の職員が勤務表を見た。
「今夜の遅番が、もう一人来ます。昼間は休みだったから、この話を知らない。ちょうどいいと言うと悪いが、その人に見てもらおう」
管理者は一瞬迷った。勤務前の人を訓練に巻き込むことになるからだ。けれど、遅番の職員は出勤後に引継ぎを受ける予定で、内容を確認する時間も確保できるという。相馬さんは、実際の設備操作や通路への立入りは行わず、机上の説明だけにすると条件を付けた。
俺は監視室の端にある椅子へ座った。ここまで来ると、救難班が前に立って説明する場面はほとんどない。施設の人が話し、施設の人が質問し、必要なことだけ俺たちが確かめる。少し手持ち無沙汰になるのに、不思議と悪い気分ではなかった。
遅番の職員が来たのは、それから十五分ほど後だった。防寒着を脱ぎながら、机の周りに集まる人たちを見て驚いている。
「何かありましたか。夜間の搬入予定が変わったんですか」
「事故じゃないよ」と年配の監視員が答えた。「帰り方の説明を引き継ぐ練習をしてる。今夜の変更もあるから、いつも通り聞いてほしい」
遅番の職員は頷き、机の紙を受け取った。設備班の男性が説明を始めようとすると、相馬さんが軽く手を挙げた。
「まず、紙だけで何が分かるか聞いてみませんか。説明が必要なところが見えるはずです」
男性は一度深呼吸し、紙を渡したまま待った。遅番の職員は黙って読み、やがて眉を寄せた。
「北側の扉は、今夜使えないんですか」
「今夜の搬入予定を確認中です。使えると決めていません」
「じゃあ、この『確認済』の丸は何ですか」
設備班の男性は紙を覗き込んだ。丸が付いているのは、連絡先の番号を確認した欄だった。だが、欄の見出しが小さく、扉の使用可否を確認した印にも見える。
「これは連絡先が合っているという意味です。扉の方は、まだ確認できていません」
「なるほど。でも、急いで見たら、扉が使えるって思いそうです」
男性は黙って丸を消した。代わりに、連絡先と設備の状態を別々の枠へ書き直す。
「説明してから渡す紙なら、このままでも通じたと思います。でも、次の人が一人で読むかもしれないなら、分けた方がいいですね」
遅番の職員は頷いた。
「あと、この番号は今夜の責任者ですよね。明日の夜も同じ人とは限らないから、日付が欲しいです」
「そうですね。日付と勤務帯を入れます」
俺はそのやり取りを聞きながら、地図に書かれた矢印を思い出した。矢印は、描いた人の頭の中にある条件までは伝えてくれない。今夜だけ使う紙なら、今夜の情報だと分かる形にする必要がある。
「質問してもいいですか」と俺は言った。「この紙が明日も机に残っていたら、明日の人はどうやって古いと気づくんでしょう」
管理者は机の端にある透明な書類立てを見た。そこには先週の巡回表と、日付のない注意書きが何枚も入っている。
「確かに、古い紙が残る可能性がありますね」
「新しいものに差し替える人を決めて、前の紙を回収するのはどうでしょう」とフェナが提案した。「差し替えた時刻も残せば、いつの情報か分かります」
「紙を増やすだけでなく、片付ける仕事も必要なんですね」
管理者は苦笑した。設備班の男性は、今夜の紙に大きく日付を書き、書類立ての一番手前へ置いた。古い紙はその場で廃棄せず、記録として別の箱へ移すことにした。何がいつ変更されたか、あとで確かめられるようにするためだ。
ここまでで、引継ぎに予定していた時間はほとんど過ぎていた。遅番の職員は腕時計を見て、申し訳なさそうに言った。
「すみません。俺がいろいろ聞いたせいで、長くなりましたね」
「謝らないでください」と設備班の男性が答えた。「質問が出るところを知りたかったんです。むしろ、聞いてもらえて助かりました」
相馬さんは二人のやり取りを見てから、管理者へ向き直った。
「普段の交代に、毎回これだけ時間をかけるのは難しいでしょう。だから、何を必ず伝えるか絞る必要があります。詳しい説明を省くのではなく、詳しい説明が必要な人を見つけられるようにする」
「短い引継ぎと、必要な時の確認を分けるわけですね」
「そうです。二分で全部覚えさせようとしない。二分で『今夜変わったこと』『使ってはいけないもの』『分からない時の連絡先』を伝える。細かな理由は、記録と責任者へつなぐ」
遅番の職員が小さく手を挙げた。
「それなら、交代の時にできます。でも、口頭だけだと、忙しい日は忘れそうです」
管理者は白い紙を一枚取り、三つの枠を描いた。枠の上には、勤務日と確認者の名前を書く場所を作る。設備班の男性が北側の扉について記入し、遅番の職員が読み上げた。
「今夜の変更。北側荷物用扉は搬入予定の確認が終わるまで退避路として案内しない。使ってはいけないもの。未確認の扉を勝手に開けない。分からない時の連絡先。夜勤責任者、つながらなければ代行者。……これなら分かります」
「じゃあ、確認した人の名前をここへ」と受付の女性が言った。
遅番の職員はペンを取ったが、途中で止めた。
「名前を書くと、俺が扉の安全を確認したことになりませんか」
「そう受け取られる可能性がありますね」と瀬川さんが通信越しに答えた。彼女は救難受付から、必要な部分だけ話を聞いていた。「『説明を受けた』と『設備を確認した』は、別の欄にしましょう。記録上の意味が違います」
管理者は紙を見直した。今までの確認印は、誰が何を確認したかが曖昧なものも多かったという。遅番の職員は説明を受けた欄へ名前を書き、設備の確認欄は空白のまま残した。
「空白があると、やり残した感じがしますね」と彼は言った。
「やり残していることが分かる方がいいです」とフェナが答えた。「終わっていない確認を、終わったことにしないための空白ですから」
その言葉に、俺は少し笑った。フェナの手帳にも、分からないことを残す欄がある。何でも埋めれば安心できるわけではないと、俺たちは何度も教わってきた。
設備班の男性は管理者と一緒に、夜間の搬入予定を確認しに席を外した。俺たちは監視室で待ち、遅番の職員に普段の勤務について話を聞いた。夜は少人数で、設備の警報を確認しながら入退域の連絡も受ける。交代直後は電話が重なり、ゆっくり手順書を開けないことがあるらしい。
「誰かが地下から戻ってきた時も、ここで記録するんですか」と俺が尋ねた。
「はい。ただ、受付の返却箱へ札を入れて終わりだと思っている人もいます。先週も、札は返っていたのに本人からの連絡が遅れたことがありました」
「その時は、どう確認したんですか」
「所属の班へ電話しました。本人はもう地上の休憩室にいたんです。無事だったからよかったけど、探す側は少し焦りました」
「今夜の引継ぎにも、帰還確認の方法を入れた方がよさそうですね」
遅番の職員は頷いたが、すぐに首を傾げた。
「でも、三つの枠に入れると長くなりませんか」
「毎回変わることと、いつも守ることを分ければいいと思います」とフェナが言った。「帰還確認の基本は、最初の教育で覚える。交代の時には、今日だけ違う連絡方法があれば伝える。どうでしょう」
「それなら、二分で済みそうです」
俺は手帳に書いた。訓練のために増やした仕事が、日常の業務を圧迫してしまえば続かない。誰かが頑張ることを前提にした手順より、忙しい時にも守れる手順の方が必要なのだろう。
しばらくして設備班の男性が戻った。今夜の搬入は予定通りだが、北側荷物用扉は一定時間、車両作業のため使用を制限する。通行条件の確認は設備責任者が済ませ、現場の掲示も担当者が更新したという。俺たちは実際の扉を見ていないため、その説明を聞いただけで安全を保証することはしない。
「では、使えない時間をここに書きます」と男性は紙へ記入した。「明日の分は、明日の担当者が確認して書き直します」
「その時、夜勤の人が設備責任者へ確認できるよう、連絡方法も残してください」と相馬さんが言った。
「分かりました」
管理者は二分間の引継ぎを、もう一度最初から試してみることにした。今度は遅番の職員が聞く側ではなく、説明する側になる。年配の監視員は、今夜の条件を知らない人のつもりで質問した。
「北側の扉は、いつでも通れるのか」
「いいえ。今夜は車両作業で使えない時間があります。今の時刻なら、まず掲示と設備責任者の確認が必要です。地図に道が描かれていても、それだけで通れるとは判断しません」
「もし俺が、地下にいる作業員から『扉が閉まっていて帰れない』と連絡を受けたら?」
遅番の職員は少し考えた。
「現在地と人数、怪我の有無を聞きます。危険な場所へ無理に進ませず、安全に待てるか確認します。設備の判断が必要なことは責任者へつなぎます。必要なら救難受付へ連絡します」
「じゃあ、お前が迎えに行くのか」
「行きません。俺が地下へ入って確認したら、監視室が空いてしまいます。それに、現場の安全を確認せずに動くのは危険です」
年配の監視員は満足そうに頷いた。遅番の職員も、自分が何を言えたのか確かめるように紙を見直した。説明を受けた人が、次の人へ伝える。その小さな往復ができたことを、俺は素直に嬉しく思った。
「二分、少し超えましたね」と管理者が時計を見て言った。
「最初ですから」と相馬さんは答えた。「大事なのは秒数を守ることじゃない。急ぐあまり、確認が必要なことまで飛ばさないことです」
模擬説明を終えたあと、年配の監視員は手元の紙を眺め、ふと表情を曇らせた。
「俺たちは、今夜ここで話を聞いたから分かる。でも、明日休む人がいたら、代わりに来た職員はどうなるんだろうな」
管理者は勤務表を開いた。翌日の遅番には、別の班から応援が一人入る予定になっている。その人はこの施設で働いた経験はあるが、夜間の監視室を担当するのは久しぶりだという。
「応援の人には、出勤前に資料を送ればいいでしょうか」
「送るのはいいと思います」とフェナが答えた。「でも、読んだかどうかだけでなく、今夜の変更を自分の言葉で説明できるか、交代の時に確かめたいです」
「二分の引継ぎで、それもやるんですか」と受付の女性が尋ねた。
「全部を言い直してもらう必要はありません」と相馬さんは言った。「例えば、『今夜使えない通路はどこか』『連絡がつかない時は誰へ回すか』。その勤務に必要な二点だけでも、相手が分かったか確かめられる。答えられなければ、そこで説明を足す」
年配の監視員は考え込み、やがて自分の勤務手帳を取り出した。
「前の教育担当者がいた頃、あの人は交代のたびに同じことを聞いてきたよ。『今日は誰が残っている』『連絡が切れたらどうする』って。うるさいと思ったこともあったが、あれは俺たちの理解を確かめていたのかもしれないな」
「その方が異動してから、引継ぎはどう変わりましたか」と俺が尋ねた。
「連絡事項を読み上げて終わりになった。早く済むし、みんな慣れているから問題ないと思っていた。でも、昨日は新人が扉のことを聞いて、誰もすぐ答えられなかった」
監視員は自分の手帳に、二つの質問を書いた。紙に書いて残せば、明日、自分が休んでも代わりの人が使える。彼はそこまで考えたあと、苦笑した。
「教育担当って名前が付いていなくても、俺にもできることはあったんだな」
「あります」と設備班の男性が答えた。「俺も、今日まで一人で全部教えなきゃいけないと思ってました。監視室のことは、皆さんの方が詳しいです」
管理者は二人を見比べた。専門が違うからこそ、互いに質問できる。教える人を増やすとは、同じ説明を暗記する人を並べることではないのだと、俺にも少しずつ分かってきた。
その時、監視室の電話が鳴った。遅番の職員が受話器を取り、いつもの声で応対する。地下の保管区画にいる作業班から、搬出の終了時刻が少し遅れるという連絡だった。事故でも遭難でもない。予定変更の報告だ。
「承知しました。現在、地下にいるのは三名で変わりありませんか。……はい。帰還予定時刻を更新します。戻る際は、監視室へ本人たちから連絡をお願いします」
電話を切ると、彼は記録表へ時刻を書き込んだ。俺が何か言う前に、受付の女性が確認する。
「三人の名前も、記録と合っていますか」
「はい。班の責任者から三人の名前を確認しました。予定が変わっただけで、帰還した扱いにはしていません」
女性は頷き、記録を見せてもらった。二人が同じ表を見ているのに、互いの役割は違う。監視室は連絡を受け、受付は入退域記録と照合する。どちらか一人が全部を抱え込まなくても、確認できる仕組みになり始めていた。
俺は、今の電話が訓練ではなかったことを考えた。実際の仕事の中で、教わったばかりの手順が使われた。大きな拍手が起きるわけではない。それでも、三人がまだ地下にいるという情報が、正しく残ったことには意味がある。
「ナオトさん、よかったですね」とフェナが小声で言った。
「うん。でも、今のやり方が明日も続くかは、これからだね」
「明日の人にも、今日の人が教えてくれます」
彼女はそう言いかけ、少し考えて続けた。
「ただ、教えたかどうかも確かめないといけませんね」
帰り支度を始めた頃、管理者が俺たちを呼び止めた。今夜の説明を見て、教育担当の候補を日勤と夜勤に一人ずつ増やしたいという。ただ、施設の上層部からは、早く全職員の訓練を終えたことにしてほしいと言われているらしい。
「来週、定期監査があります。教育記録の欄が空白のままだと、管理上の問題になる。だから、今日の説明を受けた人は、全員『訓練済』としていいかと聞かれています」
設備班の男性が困った顔をした。
「今日、話を聞いていない人もいます。それに、俺たち自身も、まだ教える練習を始めたばかりです」
管理者は唇を結んだ。
「私も、全部終わったとは思っていません。ただ、空欄のまま提出するのも怖いんです」
相馬さんは、机の上の三つの枠を指した。
「空欄を埋めるために、終わっていないことを終わったと書くのは違います。何を実施し、何が未実施で、いつ誰が確かめる予定なのか。それを分けて出してください」
「未実施をそのまま書くんですか」
「はい。問題を見つけて対策を進めているなら、それも記録です。今夜ここで始めたことを、なかったことにする必要はありません」
管理者はしばらく紙を見つめ、ようやく頷いた。
「分かりました。訓練済の人数を増やすより、実際にできる人を増やします」
外へ出ると、敷地の灯りが白く路面を照らしていた。昼間は車が行き交っていた門の前も、今は静かだ。俺たちが車へ向かう途中、監視室の窓から遅番の職員が手を振った。片手には、日付の入った引継ぎ用紙がある。
フェナが手を振り返した。
「ナオトさん。今日の二分間、明日の人にも届くといいですね」
「届くように、誰が渡すかまで決めたからね」
「はい。あとは、渡された人が分かったかどうかですね」
俺は頷いた。誰かの帰る道を示すことと、誰かに帰り方を教えることは似ているようで違う。道を知っている人が増えるだけでは足りない。分からない時に立ち止まり、確かめることを当たり前にできる人が増えてこそ、帰還の仕組みになる。
翌朝、救難受付には施設から一通の報告が届いた。昨夜の三人は予定変更後の時刻に全員帰還し、監視室と受付の双方で確認が取れたという。その下には、今夜の引継ぎ担当者と、まだ訓練を受けていない職員の人数が書かれていた。
瀬川さんは報告を読み、最後の欄へ目を留めた。
「未実施の人数まで、きちんと書いてくれましたね。ただ、別の施設から、同じ用紙をそのまま使いたいという問い合わせが来ています」
「いいことじゃないですか」と俺が言うと、瀬川さんは首を傾げた。
「使うこと自体はいいんです。でも、その施設は夜間の入口が一つしかなく、監視室もありません。用紙に書かれた連絡先や役割を、そのまま真似すると困ると思うんです」
相馬さんは報告書を閉じた。
「紙を配るだけじゃ足りないな。次は、何を共通にして、何を施設ごとに確かめるかだ」
俺は窓の外を見た。昨日、あの施設でようやく始まった引継ぎが、もう別の場所へ届こうとしている。資料を一枚作れば、それを受け取る人は何人にも増える。けれど、紙を受け取った人が同じ景色を見ているとは限らない。入口の数も、勤務する人数も、扉の扱いも違う場所へ持っていくなら、最初に何を確かめるべきかを教えなければならない。広がるのは嬉しい。でも、形だけが先に走れば、誰かがまた、意味の違う矢印を信じることになる。




