第167話 教える人の席
救難受付へ戻る車の中で、相馬さんは瀬川さんから届いた相談書を読み直していた。俺は助手席から画面を覗こうとして、すぐにやめた。運転している相馬さんの邪魔になるし、何より、相談書に書かれた短い文章だけで現場の事情を決めつけたくなかった。
「教える担当者がいないって、どういうことなんでしょう。手順書を作る人がいないのか、それとも、教える時間がないのか」
俺が尋ねると、相馬さんは前を見たまま答えた。
「どちらもあり得る。施設には手順書があるそうだ。ただ、それを新人へ説明していた人が先月異動した。今は誰が引き継ぐか決まっていない」
「手順書があるなら、読んでもらえば済みそうにも聞こえますね」
「読めば分かる内容ならな。問題は、読んで分からなかった時だ。誰に聞けばいいか決まっていなければ、分からないまま働く人が出る」
後部座席でフェナが手帳を開いた。
「前の施設でも、地図に書いてあることと、現場で判断することは違いました。今回も、書いていない部分を確かめた方がよさそうですね」
相馬さんは頷き、施設側へ短い返信を送った。翌日の午前、まず現状を見せてもらうことになった。俺たちが訓練を代行するのではなく、施設の人が自分たちで教えられる方法を考える。その条件も、最初に伝えておいた。
救難受付へ着くと、瀬川さんが資料を用意して待っていた。相談元は街の北側にある地下資材保管施設で、採掘区画ほど広くないものの、搬入用の通路がいくつも枝分かれしているという。昼間は保管物の出し入れが多く、夜間は少人数で設備を監視する。通路の一部は車両と人が時間帯を分けて使っていた。
「この施設では、入域者の人数確認と退避訓練を別々の担当が行っています」
瀬川さんは表を二枚並べた。
「入退域の記録は受付、退避経路の説明は設備班。前の教育担当者は、その両方を知っていたそうです。だから今までは、その方へ聞けば大抵のことが分かった」
「便利だったんですね」
「ええ。でも、便利だったからこそ、引継ぎの必要に気づくのが遅れたようです」
俺は前の施設で会った年配の作業員を思い出した。十年も通っているから大丈夫だと言いながら、使ったことのない出口があると気づいた人だ。詳しい人が一人いるのは心強い。けれど、その人が休みの日にも、同じように判断できるとは限らない。
「明日は、俺が《帰り道》を使って説明するんでしょうか」
「いいえ」と瀬川さんは即答した。「その能力を前提にした教育では、ほかの人が再現できません。久世さんには、初めて聞く側として、説明が分かるか確かめてほしいんです」
「分かりました。分からなかったら、遠慮なく聞きます」
フェナが横で笑った。
「ナオトさん、それは得意そうです」
「そんなに質問ばかりしてる?」
「必要な時に聞き返せるのは、いいことだと思います」
翌朝、俺たちは北側の保管施設を訪ねた。敷地の外周には背の高い防音壁があり、門の内側を荷台の大きな車がゆっくり進んでいる。入口の受付には、入域者の名簿と安全靴の貸出棚が並んでいた。ここで働く人たちの仕事は、地下を探索することではない。保管物を間違えずに運び、設備を点検し、決まった時間に帰ることだ。
管理者は四十代くらいの男性で、俺たちを小さな会議室へ案内した。机には分厚い手順書が三冊と、何度も折られた現場図が置かれている。
「忙しいところ、ありがとうございます。実は、先月まで教育を担当していた者が別施設へ移りまして。急な異動ではなかったんですが、仕事を引き継ぐ相手を決めきれないままになってしまいました」
「誰も説明していない状態ですか」と相馬さんが尋ねた。
「最初の注意事項は受付で話しています。危険区画に入らないこと、通行札を付けること、非常連絡先も伝えています。ただ、退避経路を実際に歩く訓練は、今月に入って一度もできていません」
管理者は手順書の表紙を撫でた。責められると思っているのか、言葉を慎重に選んでいる。
「教えられそうな職員は何人かいます。でも、教える役になって、間違ったことを言うのが怖いと」
「その人たちの話も聞かせてください」と相馬さんが言った。「今、教えられない理由が分からなければ、担当の名前を決めても変わりません」
呼ばれてきたのは、日勤の受付を担当する女性と、設備班の若い男性だった。二人とも現場で働いて数年になるという。受付の女性は名簿の扱いには詳しいが、設備の通行条件までは判断できない。設備班の男性は各通路を歩いた経験があるが、初めて来た人にどこから説明すればいいか分からないと話した。
「前の担当者は、質問されるとすぐ答えられたんです」と設備班の男性が言った。「俺は、知らないことがあったら確認しに戻るしかない。そんな人間が教えていいんでしょうか」
相馬さんはすぐには答えず、机の手順書を開いた。
「ここには『不明な場合は設備責任者へ確認』とありますね。教える人が何でも知っていなければならないなら、この一文は要らないはずです」
「でも、訓練の途中で確認に戻ったら、頼りないと思われませんか」
「頼りなく見えることと、危険な案内をすることなら、どちらを避けたいですか」
男性は少し黙ったあと、視線を下げた。
「危険な案内をする方です」
「なら、確認に戻れることも、教える内容に入れましょう」
フェナが手帳を開き、男性へ尋ねた。
「教えるのが怖いのは、どんな質問をされた時ですか。実際に困ったことがあれば、聞きたいです」
男性はためらった末、先週の出来事を話した。夜勤に入る新人から、北側の荷物用扉を非常時にも使えるか聞かれたという。普段は通れる扉だが、夜は車両の積み込み作業で閉める時間がある。男性は答えに迷い、前任者が残した地図を見せた。そこには扉が通路として描かれていたため、新人は通れると思ったらしい。
「結局、責任者に確認して、夜間は使わないと伝え直しました。新人には『最初からそう言ってください』と言われて……。その通りなんですけど、次に質問されるのが怖くなりました」
「その時、訂正は間に合ったんですね」と俺が言うと、男性は頷いた。
「はい。地下へ入る前でした」
「だったら、その新人は質問してよかったと思います。俺も、地図を見たら通れると思ったかもしれません」
俺は机の現場図を手に取った。北側の荷物用扉は、太い線で通路とつながっている。昼間と夜間の違いは、小さな注記にしか書かれていなかった。
「この地図、今の時間に使える道だけを示しているんですか」
「いいえ。建物の構造を示した図です」
「だったら、地図を見て分かることと、分からないことを分けて教えてもらえると助かります。扉があるのは分かる。でも、今通れるかは確認が必要、というふうに」
男性は図を見直した。少しして、表情が変わった。
「俺が答えられなかったのは、地図に書いてないことだったんですね」
「そういう質問もあると思います。分からないまま答えない方が、俺は安心できます」
管理者はそのやり取りを聞き、手順書の端に付箋を貼った。
「まず、説明できる範囲を決める必要がありますね。全部を一人で教えるつもりだったから、引き受ける人がいなかったのかもしれません」
午前の後半、俺たちは受付の前で短い模擬説明をしてもらった。受付の女性が案内役、俺が初来訪の作業員役だ。実際に地下へ入る前の手続きだけを扱い、通路の安全判断はしないことにした。
「地下へ入る方は、この札を受け取ってください。戻ったら受付へ返してください」
女性は慣れた手つきで札を渡した。俺は受け取ってから、少し考えて尋ねる。
「帰ってきた時、受付に誰もいなかったらどうすればいいですか」
「その場合は、返却箱へ……あ、いえ。返却箱に入れただけでは、本人が戻った確認になりませんね」
女性は言いかけて止まった。夜間は受付が無人になる時間があるらしい。手順書には返却箱の場所が書いてあるが、夜間の確認者は別のページに載っていた。
「少し待ってください。夜勤の確認方法を見ます」
彼女は手順書をめくり、夜勤責任者の連絡先を示した。
「夜間は監視室へ連絡し、本人の帰還を確認してもらいます。返却箱へ入れるのは、その後です」
「分かりました。でも、監視室の場所はどこですか」
「ここから廊下を右へ……いえ、初めて来た人には、その説明では分かりませんね」
女性は入口の地図を取り出し、監視室への経路を指した。俺は頷いたが、フェナは横からもう一つ尋ねた。
「ナオトさんが地下から戻った時、監視室まで行く必要がありますか。監視室に連絡するだけでいいなら、連絡方法を教えていただきたいです」
「その通りです。館内電話が使えます。番号は……」
女性は壁の掲示を見た。そこには外線用の番号と、館内用の短い番号が並んでいる。
「こちらの短い番号です。入口でも同じ番号を渡せるようにします」
模擬説明を終えると、女性は肩を落とした。
「三つも答え直してしまいました。これでは教える役なんて無理ですね」
「逆です」とフェナが言った。「分からないことが出た時、全部その場で確かめてくれました。私は、そういう人から教わりたいです」
女性は顔を上げた。相馬さんも頷く。
「ただし、今日は久世たちが質問したから分かった。次は、質問されなくても伝えるべきことを整理する。そこが仕事になります」
昼休み、管理者が食堂の端を貸してくれた。俺とフェナは温かい麺を食べながら、午前の記録を見返した。紙に書かれた手順を読めば終わりだと思っていたが、実際に人へ説明すると、いくつもの空白が見つかった。
「ナオトさん、さっきの受付の方、最後は少し安心した顔でしたね」
「うん。俺が聞いたことに、ちゃんと答えようとしてくれた。分からないところを隠さなかったし」
「でも、次は私たちがいなくても、質問を受けられるようにするんですよね」
「そうだね。質問されるのを待つだけじゃなく、教わる人に説明し返してもらう方法も使えそうだ」
フェナは箸を止めた。
「説明し返す、ですか」
「前の施設でやっていたみたいに。『分かりましたか』と聞かれると、つい『はい』って言ってしまう。でも、実際にどこへ連絡するか自分で言えたら、少なくともその場では確かめられる」
「それなら、教える人も相手がどこで困ったか分かりますね」
俺たちは午後の提案を手帳へ書いた。相馬さんに見せると、彼は「いいが、覚えたかどうかを試すために危険な場所へ行かせるな」と念を押した。地下の入口や机上で確認できることと、設備担当が安全を確かめるべきことを分ける必要がある。
午後、管理者を交えて教える役の分担を決めた。受付の女性は入退域と連絡方法、設備班の男性は通路の用途と立入条件を担当する。ただし、夜間の通行条件や設備の状態については、当日の責任者が確認した情報だけを使う。教える人が分からないことを質問されたら、答えを作らず、確認先へつなぐ。
「それだと、二人ともいない日はどうしますか」と管理者が尋ねた。
「最初から代わりを育てましょう」と相馬さんが答えた。「担当を一人ずつ増やすんです。最初は隣で説明を聞き、次は一部を話してもらう。最後に、別の職員へ説明できるか確かめる。名前を名簿へ書いただけで教育担当にしないことです」
設備班の男性が遠慮がちに手を挙げた。
「確認してもいいですか。教える側も、毎回同じ説明ができるように台本を作った方がいいでしょうか」
「必要な項目を落とさないための紙は役に立つ」と相馬さんは言った。「ただ、質問への答えまで全部固定すると、想定外の時に困る。答えていいこと、確認が必要なこと、すぐ止めるべきことを分けておこう」
フェナは三つの欄を紙に描いた。受付の女性が、そこへ具体例を書き込んでいく。札の返却場所はその場で説明できる。夜間の荷物用扉が通れるかは設備責任者へ確認する。人数が合わず地下に人が残っている可能性があるなら、記録を放置せず責任者へ直ちに伝える。職員が独断で危険区画へ探しに入らないことも、最後に大きく記された。
その時、会議室の扉が軽く叩かれた。夜勤へ引き継ぐために来た監視室の職員が、管理者へ声をかけたのだ。
「すみません。夜の人間にも説明する担当ができたと聞いたんですが、こちらの勤務時間に来てもらえるんでしょうか」
管理者は顔を上げた。
「今、日勤の担当を決めたところです。夜勤のことも考えています」
「考えている、では困ります。先週、北側の扉のことで新人から質問がありました。日勤の方が帰ったあと、誰に聞けばいいか分からなかったんです」
設備班の男性が小さく息をのんだ。午前に聞いた、あの質問のことだろう。夜勤の職員は彼を責めるつもりではないようだった。むしろ、自分たちも同じように困っていると伝えに来たのだ。
「今夜、監視室へ来てもらえませんか」と職員は続けた。「夜の通路を全部歩いてほしいわけじゃありません。夜勤の人間が、どんな時に誰へ聞けばいいかだけでも、決めたいんです」
相馬さんは管理者を見た。
「まず、夜勤の人たちの話を聞きましょう。昼間の説明をそのまま渡して済むかは、聞いてから決めるべきです」
管理者は予定表を確認し、夕方に短い時間を取ると約束した。俺たちが夜遅くまで残る必要はない。夜勤の職員が始業時に集まる時間に合わせれば、日勤側も同席できる。
会議室を出る時、設備班の男性が俺を呼び止めた。
「久世さん。俺、教える役を引き受けていいのか、まだ迷っています」
「迷っている理由は、午前と同じですか」
「少し違います。今は、全部知っていなくてもいいと分かりました。でも、教えた相手が間違った時、自分の説明が原因だったんじゃないかと思うのが怖いんです」
俺はすぐに励ます言葉を探せなかった。人を案内する責任が軽いとは、俺も言えない。帰れる道が見える俺でさえ、扉の向こうが安全かどうか分からず、誰かの判断を待ったことがある。
「怖さがなくなるとは思いません。でも、教えたあとに相手へ確かめてもらうことはできます。説明が伝わらなかったら、直せます。俺も、誰かと一緒に帰る時は、見えている道だけで全部決めないようにしています」
男性は少し考え、頷いた。
「なら、今夜の説明は俺がやってみます。夜勤の人たちに、分からないところを聞いてもらいます」
「俺たちも、聞く側に回ります」
「助かります。たぶん、いっぱい聞かれると思いますけど」
「その方がいいです」
夕方、監視室の前へ行くと、勤務を交代する職員たちが小さな机を囲んでいた。設備班の男性は用意した紙を持って立ち、最初にこう言った。
「今日は、俺が答えられない質問もあると思います。その時は確認します。分からないまま『大丈夫』とは言いません」
誰かが笑うでもなく、責めるでもなかった。監視室の職員たちは静かに頷き、紙を受け取った。
最初の質問をしたのは、夜勤の新人だった。
「じゃあ、今夜、北側の荷物用扉が閉まったら、俺たちはどこで待てばいいんですか」
設備班の男性は地図へ手を伸ばしたが、すぐに止めた。
「その答えは、今ここにある図だけでは決められません。今夜の搬入予定と、設備の使用条件を確認します。確認できるまで、その扉を退避路として案内しません」
新人は地図を見つめたあと、はっきりと頷いた。
「それなら分かります。昨日は、地図に道があるから通れると思っていました」
男性は初めて少し笑った。俺はフェナと目を合わせた。教える人の席に座るために必要なのは、誰よりも詳しいことだけではないのかもしれない。知らないことを知らないままにせず、次に確かめる人へ渡せることも、その仕事の一部なのだ。
その場で、夜勤の新人に説明を返してもらうことになった。設備班の男性は「今夜の北側の扉について、分かったことを自分の言葉で教えてください」と頼んだ。新人は一度地図を見直してから、慎重に話し始めた。
「北側の扉は建物にはある。でも、夜は搬入の都合で閉まることがある。今夜使えるかは、勤務開始時の確認が必要です。まだ確認が取れていないなら、そこを通って帰るとは決めない。通路の状態が分からなくなったら、監視室へ連絡します」
「そうです。今夜の確認は、俺と夜勤責任者で行います。結果は監視室の記録にも残します」
「確認が終わるまで、俺たちはどうしたらいいんですか」
「通常の作業範囲から出ないでください。今いる場所の安全に問題があるなら、その場で責任者へ連絡して、指示を受けてください。勝手に別の通路を探しに行かないでください」
新人は頷いたが、隣の年配の監視員が手を挙げた。
「夜勤責任者に連絡がつかない時は?」
設備班の男性は答えかけて口を閉じ、管理者を見た。管理者は手順書の緊急連絡欄を開き、代行者の番号を示した。そこには日勤の管理者だけが書かれていたが、夜間の代行者は別紙になっていた。
「今夜の代行者を、この紙にも書きます」と管理者が言った。「連絡が取れない時に、同じ番号へ何度もかけ続けることがないように」
フェナは、二枚の紙を見比べた。
「連絡先が別々だと、急いでいる時に探すのが大変そうです。今夜使う番号だけを一枚にまとめて、交代の時に確認するのはどうでしょう」
「それなら、勤務表と一緒に置けます」と監視員が答えた。「電話の番号だけでなく、誰が代行するかも毎回書き換えられます」
設備班の男性は、空いている紙の裏へ新しい欄を作った。誰かが立派な資料を完成させたわけではない。それでも、今夜の勤務に必要な情報が、一枚の紙に集まり始めていた。
ただ、監視室の壁に掛かった勤務表を見た時、俺は別のことに気づいた。今日ここにいる人たちが、明日の夜も同じ顔ぶれとは限らない。設備班の男性が安心して説明できるようになっても、その説明が次の交代へ渡らなければ、また誰かが同じ質問の前で立ち止まる。
「相馬さん。夜勤の引継ぎまで、見せてもらえませんか」
俺が小声で言うと、相馬さんは勤務表へ目を向けた。
「そうだな。教える人を決めたら、次は教わったことが残るかどうかだ」
夜勤の新人は、まだ地図を閉じていなかった。彼は北側の扉に指を置き、次の勤務の人へ何を伝えればいいか、もう一度確かめようとしていた。




