第165話 退勤印のない人
相談を寄せたのは、郊外にある採掘施設の管理者だった。地下の採掘区画と地上の加工棟が、長い連絡通路でつながっている施設だという。救難要請ではないと聞いていたので、俺は最初、避難経路の点検を頼まれるのだと思っていた。
ところが、瀬川さんが見せてくれた資料には、通路の図面より先に勤務表が並んでいた。
「この施設では、探索者と設備職員の入退域を別々に記録しています。そこまでは珍しくありません。問題は、工事のために来る外部の作業員が、日によって三つの入口を使うことです」
「入口が三つあるんですか」
「正面の受付、加工棟の搬入口、北側の資材門です。どこも地下へ通じる通路がありますが、入る時と出る時に同じ門を使うとは限らないそうです」
画面には、三枚の表が並んでいた。正面受付には探索者の名前、加工棟には社員番号、資材門には工事会社ごとの人数。記録する項目がそもそも違う。
「たとえば、資材門から四人入って、加工棟から三人出たとします。残りの一人は地下にいるんでしょうか」
俺が尋ねると、瀬川さんは首を横に振った。
「分かりません。四人のうち誰が加工棟から出たのか、記録が結び付いていないんです。残る一人が正面受付から出た可能性もありますし、まだ作業中かもしれません」
フェナが勤務表を見比べた。
「でも、工事会社に聞けば、帰った人の名前は分かるんじゃないでしょうか」
「昨日、実際に問い合わせたそうです。現場責任者は四人全員が退勤したと答えました。ただ、退勤を確認したのは作業終了の報告であって、施設の外へ出たことではなかったそうです」
俺は以前、共同搬入棟で名簿に載らない利用者を探した時のことを思い出した。あの時は警報が鳴ってから、地下へ入った可能性のある人を一人ずつ確認した。今回はまだ誰も遭難していない。だからこそ、先に仕組みを変えられるかもしれない。
「今日は何をするんですか」
「まず、施設の人たちがどう記録しているかを見せてもらいます。久世さんには、帰還経路の確認を頼みたいそうですが、現地の安全判定とは分けて考えます」
瀬川さんは念を押した。俺は頷いた。帰り道が分かることと、帰った人を数えられることは、まったく別の仕事だ。
施設へ着いたのは午後一時を少し過ぎた頃だった。正面受付には、作業服の人と探索者が同じ列に並んでいる。ガラス越しに見える加工棟からは、機械が動く低い音が続いていた。北側の資材門へ向かう車が一台、ゆっくり坂を上っていく。
案内してくれた管理者は、机に広げた図面の三か所を指した。
「正面から入った人は、原則としてここへ戻ってきます。加工棟の社員は専用の通路を使い、工事の人は資材門から入る。普段は問題なく回っています」
「普段は、というのは?」
相馬さんが尋ねた。
「先週、資材門の門扉が故障して、工事の人を加工棟から帰しました。人数は合っていましたが、翌朝になって、夜勤の責任者が『昨日の最後の一人は出たのか』と確認してきたんです」
管理者は手元の書類を裏返した。
「工事会社には退勤済みと記録されていました。加工棟の出門記録には、作業服の三人が通ったとしか残っていません。誰がどの門を出たのか、翌朝まで証明できませんでした」
「最終的には確認できたんですか」
フェナが尋ねる。
「本人たちへ連絡して、全員自宅にいることを確かめました。幸い何も起きていません。ただ、もし同じ日に地下で警報が鳴っていたら、誰を探せばいいか分からなかったと思います」
管理者はそこで声を落とした。
「昨日の別施設の事故を聞いて、うちも他人事じゃないと感じました。地図を直すだけでなく、そもそも帰ったことをどう確かめるか、相談したかったんです」
相馬さんは図面に目を落とし、すぐに答えなかった。俺も同じだった。出入口を一つに絞れば簡単そうだが、加工棟で働く人にとっては遠回りになる。大型の荷物を運ぶ車が正面受付へ回ることもできない。現場の仕事を知らずに、一つの方法を押しつけるわけにはいかなかった。
「今日の作業員は何人ですか」
相馬さんが尋ねた。
「施設職員が十二人、外部の点検作業員が六人。探索者は午後の入域が二組、合計五人です。地下へ入る予定がある人の数で、地上勤務者は含めていません」
「その二十三人を、今ここで名前と現在地まで確認できますか」
管理者は一瞬言葉に詰まり、担当者を呼んだ。数分後、三つの受付から情報が集まり始めたが、同じ人が二つの表に載っていることが分かった。加工棟の設備職員が、午前中だけ外部点検班の立会いをしていたのだ。
「十二人と六人を足すと、実際より一人多くなるんですね」
フェナが言うと、管理者は頷いた。
「所属と役割で数えていました。人そのものを数えていなかった」
その言葉は、短いのに重かった。救難の時に必要なのは、何人分の仕事があるかではない。何人が地下にいて、何人が戻ったかだ。
昼の交代時間に合わせ、俺たちは加工棟の出入口へ移動した。通路の前には靴底の泥を落とす金網があり、作業を終えた人が一人ずつ通っていく。受付の職員は顔を見て挨拶し、社員証を読み取っていた。外部作業員だけは、首から下げた臨時札を見せて通る。
その中に、少し年配の作業員がいた。彼は端末に札をかざしたが、読み取り音が鳴らない。
「すみません。資材門で借りた札なので、こちらでは反応しないんです」
受付の職員は慣れた様子で言った。
「大丈夫ですよ。工事会社の方ですね。人数に入れておきます」
作業員は礼を言って通り過ぎようとしたが、相馬さんが声をかけた。
「少しだけ確認させてください。あなたが地下から戻ったことを、あとで誰が分かるようになっていますか」
作業員は足を止めた。
「うちの班長には、作業が終わったと連絡しました。門の人には、人数を一人増やしてもらったはずです」
「お名前は残りますか」
「……そういえば、こっちの門では書いていませんね」
彼は自分の札を見下ろした。傷の付いたプラスチックに、工事会社の番号が印刷されているだけだった。
「昨日も同じでした。帰る時は人数だけ。まあ、毎日顔を合わせていますから」
受付の職員が苦笑する。
「皆さんの顔は分かります。でも、夜勤の人が見たら、どなたが出たかは分からないかもしれません」
年配の作業員は、急に真顔になった。
「じゃあ、もし俺が地下で倒れても、もう帰ったことになってるかもしれないんですか」
誰もすぐには答えられなかった。実際には、班長が連絡を取るだろう。仲間も探すだろう。それでも、施設の記録だけでは答えが出ないことは確かだった。
「今の記録では、そこまで確認できません」
管理者が答えた。
「今日から、少なくとも名前を確認する方法を作ります。あなたのせいではありません。こちらの運用の問題です」
作業員はゆっくり頷き、臨時札を外した。
「俺たちも、違う門から出る時は言うようにします。帰ったのに、誰かに探されるのも困りますからね」
彼が笑うと、受付の職員もようやく笑った。相馬さんは、彼の名前を正式な記録へ移してから出門を確認するよう頼んだ。
年配の作業員が門を出たあと、受付の職員は記録用紙を取り出し、さっきのやり取りを自分で書き直していた。俺が横から覗くと、『工事会社一名退勤』という古い書き方の下に、名前と入域札の番号が追記されている。
「これ、今までの記録も直すんですか」
「直せるものは確認したいです。でも、昨日の人がどの門から出たかまでは、もう分からないかもしれません」
職員はそう答え、ペンを止めた。
「顔を知っているから大丈夫だと思っていました。毎日来る方が多いので、つい。けれど、あの方に『倒れても帰ったことになるのか』と聞かれて、何も言えなかったんです」
「昨日までのやり方で、ずっと事故がなかったんですよね」
「はい。だから、問題がないと思っていたのかもしれません」
彼女は用紙を裏返し、今度は何も印刷されていない欄へ書き始めた。『氏名』『入った門』『出た門』『確認した人』。文字はまだ揃っていなかったが、少なくとも次に誰かが来た時、何を聞けばよいかは見える。
そこへ若い設備職員が通りかかり、用紙を見て足を止めた。
「これ、退勤の時に毎回書くんですか。俺、地下を出て加工棟へ戻るだけの時もありますけど」
「その時は、地下から出たことだけ記録したいんです。施設から帰ったことにはしません」
「じゃあ、夕方もう一度地下へ行ったら?」
「その時は再入域ですね。……あ、戻る時の欄も必要か」
職員は笑い、用紙の端にもう一つ欄を足した。俺もつられて笑った。机の上で完成したように見えた書式が、現場の質問一つで変わっていく。けれど、誰もそれを失敗だとは言わなかった。
「この紙、今日のうちに管理室へ持っていってもいいですか」
彼女が尋ねたので、相馬さんは頷いた。
「試すなら、使った人の意見を残してくれ。明日になって困ったところが出たら、直せばいい。完成したことにするのが一番危ない」
職員は新しい用紙を胸に抱え、何度も礼を言った。帰還の確認は、誰か一人が立派な仕組みを考えれば終わる仕事ではない。門を通る人と、見送る人の両方が使えて、初めて役に立つのだ。
そのあと、施設の管理室で簡単な照合を行った。探索者五人は正面受付の記録と一致した。外部作業員六人は工事会社の名簿と照らし合わせ、うち一人が加工棟の設備職員と兼務していたことが分かった。施設職員十二人のうち、地下に入っていない人が一人、予定変更で入域した人が一人いた。最初に出された二十三という数字は、結局、現在の地下入域者数ではなかった。
「これ、事故が起きてから数えていたら、相当時間がかかりますね」
俺が言うと、瀬川さんは端末を閉じた。
「はい。だから、平常時に何が分からないかを調べる意味があります」
管理者は三枚の名簿を机に置き、顔をしかめた。
「全部の門で同じ端末を使えば済む話でしょうか」
「同じ端末を使うのは一つの方法です。ただ、電源が落ちた時や通信が切れた時に、どう確認するかも必要です」
相馬さんが答えた。
「それに、どの門から出ても、本人が帰還したと分かる仕組みでなければ意味がない。会社名だけを読み取っても、個人の帰還は確認できません」
フェナが紙の名簿を指した。
「名前をそろえるだけでなく、入った時刻と、最後に確認した場所も残せませんか。もし連絡が取れなくなった時、どこから探すかの手がかりになります」
「確かに。ただ、作業員の皆さんに、毎回長い記入をお願いするのは負担になります」
管理者が言うと、年配の作業員を連れてきた現場責任者が口を開いた。
「書くのはいいんですが、作業を終えて別の場所へ移る時、どの欄に何を書くかが分からないんです。資材門の人には『工事終了』と言い、加工棟の人には『退勤』と言う。意味が同じなのか違うのか、現場でも混乱しています」
俺はその説明を聞きながら、地下で見た矢印を思い出した。同じ言葉でも、見る場所と使う人が違えば、意味が変わる。昨日は『退避経路』という表示だった。今日は『退勤』という印だ。
「だったら、記録する動作を分けるのはどうでしょう。地下から出たことと、施設の外へ出たこと。どちらも必要なら、別々に」
俺が言うと、管理者は図面を見直した。
「地下を出ても、加工棟で作業を続ける人がいます。確かに、その人を退勤済みにするとおかしいですね」
「逆もあります。地上で荷物を積んでから、もう一度地下へ入る人もいるそうです」
瀬川さんが補足した。
相馬さんは紙を一枚取り、三つの欄を作った。『地下へ入った』『地下から出た』『施設を出た』。その横に、時刻と確認者を書く場所を付ける。
「まずはこの区別が必要か、現場で試してみよう。全部を今日から完成形にしなくていい。ただ、誰かが帰ったと決める条件は、全員で同じにしておく」
管理者は頷き、現場責任者へ相談した。作業員が休憩へ出る時も地下からの退出として記録し、再入域する時は改めて確認する。非常時には、地下にいる可能性がある人の一覧をすぐ出せるようにする。記録が曖昧な人は、勝手に帰還済みにしない。確認が取れなければ、未確認として残す。
そこまで決まった時、管理室の扉が開いた。
「すみません。北側の資材門から、確認の電話です」
受付の職員が端末を差し出した。
『今朝、工事会社から七人来ると聞いていたんですが、名簿には六人しかいません。予定が変わったのでしょうか』
管理者は目を見開いた。
「七人? こちらには六人と届いています」
現場責任者がすぐに首を振る。
「七人目は、午後から来る運搬の運転手です。地下作業には入りません。荷物を下ろして地上の倉庫へ行く予定です」
「もう到着していますか」
「まだです。到着時刻は十五時半の予定です」
全員が一度、時計を見た。午後二時を少し過ぎたところだった。まだ誰もいなくなってはいない。なのに、人数の違いだけで部屋の空気が変わった。
「これが、今のうちに分かってよかった」
相馬さんが言った。
「七人目は地下に入らない予定だとしても、到着してから予定が変わるかもしれない。資材門へ、本人の到着と実際の行き先を確認するよう伝えてくれ」
管理者は頷き、電話の向こうへ指示した。予定表の数字ではなく、実際に来た人を確かめる。その手順が、初めて現場の言葉になった気がした。
午後三時前、俺たちは施設の中央連絡通路を歩いた。現地の保安員が同行し、点検済みの範囲だけを案内してくれる。通路の途中には、加工棟へ向かう階段と、正面受付へ続く長い廊下があった。
「久世さんには、ここから帰還の方向を確かめてもらいたいと考えています」
管理者が言った。
「いずれ、非常時にどちらの出口を使えばよいか、判断するための参考にしたいんです」
俺は立ち止まった。ここから正面受付へ戻る道筋なら、《帰り道》で確かめられる。だが、非常時にどちらが安全かは分からない。
「俺の能力で分かるのは、自分が帰る道筋だけです。火災や停電が起きた時、どちらの出口が使えるかまでは判断できません」
「それは承知しています。ただ、少しでも道筋が分かれば、避難計画の裏付けになるかと」
「裏付けにするなら、設備の点検記録や、実際に歩けるかどうかの確認が必要です。俺が今帰れる方向を感じても、扉が閉まった時に通れるとは限りません」
管理者は唇を結んだ。俺は言いすぎたかと思ったが、相馬さんが横から言った。
「久世の力を、施設の安全証明として使うことはできません。そこは最初に分けておきましょう」
「……分かりました。こちらの期待が大きすぎました」
管理者は頭を下げた。
「帰還の方向を確かめることと、避難経路を承認することは、別の手順にします」
俺は少し安心し、《帰り道》の感覚を確かめた。正面受付へ向かう方向が、自然に意識へ浮かぶ。だが、その先にある階段の照明がいつまで点くかも、手すりが確実に固定されているかも分からない。
「今の俺には、正面受付へ戻る道筋が分かります。そこを通るなら、保安員の方と一緒に、実際の状態を確かめてください」
「ありがとうございます。それなら、点検の資料と合わせて確認します」
保安員は頷き、階段の前で足元と扉の状態を記録した。俺たちは通路を引き返したが、管理者は途中で何度も立ち止まり、今まで当たり前に見ていた表示を確かめていた。
資材門へ戻ると、さっきの年配の作業員が休憩所の前にいた。仕事はもう終わったらしく、手袋を干している。俺に気づくと、軽く手を挙げた。
「さっきはありがとう。名前を書いてもらったよ」
「よかったです」
「実はな、俺、ここの仕事を十年以上やってるんだ。だから、顔を見れば誰でも分かると思ってた。俺自身も、帰る時に何も言わなくていいと思ってたんだよ」
彼は手袋を裏返しながら続けた。
「でも、昨日来たばかりの人だって同じように地下へ入る。そいつが帰ってこなかった時、俺の顔見知りだけを数えても仕方ないよな」
「そうですね」
「若い連中には、面倒な手続きが増えたって言われるかもしれないけど、俺は賛成だ。帰ったって、ちゃんと分かる方がいい」
俺は彼の言葉を聞きながら、帰還の確認は救難の終わりにだけするものではないのだと思った。普通の仕事を終えて、普通に家へ帰る。その事実を誰かが確かめられるようにしておくことが、もしもの時に人を探す手がかりになる。
フェナが俺の隣へ来た。
「ナオトさん、今日の作業員の方は、誰も助けを呼ばずに帰れましたね」
「うん。それが一番いい」
「でも、私たちが来なければ、明日も誰が帰ったか分からなかったかもしれません」
「そうだね。救難の仕事って、呼ばれた時だけじゃないんだな」
フェナは少し笑い、資材門の向こうを見た。午後の日差しの中を、荷物を積んだ車がゆっくり入ってくる。運転手が受付で車を止め、名前と行き先を伝えていた。さっきまで予定表にだけ載っていた七人目だ。
管理者が端末を確認し、俺たちへ報告した。
「運転手の到着を確認しました。今日は地上の倉庫だけです。もし行き先が変わったら、地下への入域記録を新しく作ります」
「それなら、少なくとも今の所在は分かりますね」
相馬さんが答えた。
俺は車が倉庫へ向かうのを見送った。たった一人の予定がはっきりしただけなのに、朝から曖昧だった数字が、ようやく人の姿に戻った気がした。
救難受付へ戻る車の中で、瀬川さんから連絡が入った。
『今日の試行について、施設から記録が届きました。明日から三つの門で同じ帰還確認を使うそうです。ただし、まだ一つ課題があります』
「何ですか」
相馬さんが尋ねる。
『地下から出たことを記録できても、緊急時に「どの出口へ向かうか」を決める手順が、施設ごとに違います。こちらが出した案内の見直し項目を、使う側が理解できるか確かめたいそうです』
俺は窓の外を見た。遠くに、さっき歩いた加工棟の屋根が見える。三つの門がある施設で、全員が同じ出口へ向かうとは限らない。だからといって、俺が一人で道を決めるわけにもいかない。
「次は、案内を読む人の番ですね」
フェナが言った。
相馬さんは短く頷いた。
「そうだ。今度は、作った側じゃなく、使う側に試してもらおう」




