第163話 開けない扉の前で
防煙扉が閉じたという連絡を受けて、俺たちは通路の途中にある広い点検スペースで足を止めた。七人が一緒に座れるほどの場所ではないが、壁際には設備用の低い台があり、通路を塞がずに休める。先頭の保安員が床と天井を確認し、もう一人が携帯測定器の数値を読み上げた。
「今のところ、換気と空気の状態に異常はありません。ここで待機できます」
「分かりました。体調の悪い人がいるので、できれば次の確認までの目安を教えてください」
フェナが言うと、保安員は無線を入れた。
『管理室、こちら現地班。七人全員、点検灯のある広い場所で待機中。体調不良者一名、歩行は可能です。扉の確認にどれくらいかかりますか』
『設備担当が閉鎖信号の原因を調べています。現時点では時間をお伝えできません。火災の報告はなく、他の警報設備も正常です』
返ってきた答えに、隊長の顔が曇った。地上へ戻る道があることは分かっているのに、その道を塞ぐ扉がいつ開くか分からない。待つしかない時間が始まった。
「すみません。俺たちが違う道へ入らなければ、皆さんまで足止めされずに済んだのに」
隊長が言うと、先頭の保安員は首を振った。
「今回の閉鎖は、あなた方の入域とは別に設備側で起きたものです。通路の案内が食い違っていたことも、施設が調べるべき問題です。今は帰還の方法を考えましょう」
「でも、そもそも俺が判断を間違えたから……」
「隊長さん」
フェナが静かに呼んだ。
「今ここにいる七人の中で、誰か一人が全部の責任を持つ必要はないと思います。何が起きたかを確かめるのは、地上へ戻ってからでもできます。今は、装備担当の方が落ち着けるように、いつもどおり声をかけてあげてもらえませんか」
隊長は座っている男性を見た。男性は胸元の手帳を握り、できるだけ壁から離れるように体を向けていた。狭い場所が苦手だと聞いていたが、閉じた扉の話をしてから、呼吸が少し速くなっている。
「……そうだな。すまない。大丈夫か」
「大丈夫とは言い切れないけど、今は話していてくれた方が楽です」
「分かった。地上へ戻ったら、まず温かいものを飲もう。お前がいつも頼む、甘いやつでいいか」
「……あれ、甘すぎるって笑ってたじゃないですか」
「今日は俺も同じのにする」
男性が小さく笑った。隊長もようやく表情を緩める。俺は二人の会話を聞きながら、誰かを励ます言葉は、立派なものでなくてもいいのだと思った。いつもの飲み物の話をするだけで、地上に戻ったあとの時間を思い描ける。
相馬さんから連絡が入った。
『現地班、別経路を使う可能性を調べている。施設の図面には第三横坑を通る管理用の連絡路があるが、今朝の点検対象に入っていない。確認できるまで使用しない』
「了解しました」
保安員が答える。俺は端末に表示された地図を見た。第三横坑は、今いる場所から少し戻って南へ折れる道だ。紙の上では、中央昇降路へ回り込めるように描かれている。
「久世さん。その道はどう見えますか」
保安員が尋ねた。
俺は目を閉じ、帰路の感覚を確かめた。地上へ向かう道筋は、やはり第四分岐の方へ続いている。第三横坑へ意識を向けても、そこが安全な近道だと分かるわけではない。
「俺には、今来た方へ戻る道筋が分かります。でも、閉じた扉をどう通るかまでは分かりません。第三横坑が安全かどうかも判断できないです」
「ありがとうございます。それなら、設備担当の確認を待ちましょう」
保安員は端末を閉じた。俺が能力で道を示せば、何かが解決すると思っていたわけではない。それでも、自分にできないことを言葉にするたび、少し歯がゆくなる。七人で帰るために必要なことが、俺一人の力の外にある。
フェナが俺の隣へ来た。
「ナオトさん、顔が難しくなっていますよ」
「そう?」
「はい。今、別の道が見つからないことを気にしていませんか」
「……少し。俺の力があれば、もっと早く帰れると思われているかもしれないから」
フェナは首を振った。
「私は、ナオトさんが帰り道を教えてくれるだけで十分助かっています。どの道が安全かは、皆で確かめるんでしょう。さっきも、浮いた格子を見つけたのは保安員の方でした」
「そうだね」
「それに、三人を見つけられたのは、番号を聞いてくれた瀬川さんと、待っていてくれた三人のおかげです」
俺は頷いた。誰か一人が全部できなくても、帰還の仕事は進んでいる。そう考えると、閉じた扉の前で待つ時間にも意味があるように思えた。
数分後、天井の照明が一度だけ暗くなった。座っていた男性が肩を跳ねさせ、隊長がすぐに声をかける。保安員は携帯照明を点け、管理室へ状況を報告した。
『点検灯が一瞬減光しました。現在は復旧しています。現地の測定値に変化はありません』
『補助電源の切替試験が続いています。点検灯への影響は確認中です。安全が確保できるまで、現地班はその場で待機してください』
俺は頭上を見た。光が戻った天井には、古い配線を束ねた金具が並んでいる。暗くなったのはほんの一瞬だったが、地下で待つ人にとっては、その一瞬が長い。
「照明がまた消えたら、どうすればいいですか」
記録担当の女性が尋ねた。
「動かず、携帯照明を使って足元を確認してください。ここなら全員の位置を確かめられます。必要なら、こちらから声をかけます」
保安員は自分の照明を床へ向け、女性にも同じようにしてもらった。女性が端末を持ち直すと、隊長が隣に立ち、装備担当の男性はゆっくり呼吸を整えた。
俺は全員の顔を順に見た。人数は七人。出発した四人に、迎えた三人が加わっている。誰かが少し離れただけでも、すぐ気づける距離だった。
相馬さんから次の連絡が届いた。
『設備担当の調査で、東側の補助電源を切り替えた時に、防煙扉の制御盤へ閉鎖信号が入ったことが分かった。火災感知器は正常で、煙の検出もない。ただし、信号が誤作動だったかどうかは、まだ確認が必要だ』
「扉を開けられる可能性はあるんですね」
俺が聞くと、相馬さんは答えた。
『ある。だが、原因が分からないまま開けるわけにはいかない。扉が閉じた状態で保たれている理由を確認してからだ』
その言葉に、隊長が口を開いた。
「地上へ戻る道が分かっているのに、開けられないんですか」
相馬さんは少し間を置いてから答えた。
『もし本当に火災が起きていたら、扉を開けることで煙が流れ込むかもしれない。今は火災の兆候がないが、それを確かめる手順がある。三人を早く帰したい気持ちは分かる。だからこそ、七人が安全に通れると確認してから開ける』
隊長は頷いた。納得するまでに少し時間がかかったようだったが、少なくとも、何を待っているのかは伝わった。
保安員が時刻を確認し、待機開始から十五分が過ぎたと告げた。俺は壁の時計を探しかけて、地下にはそんなものがないと気づいた。端末に表示される数字だけが、地上と同じ時間を刻んでいる。
「もし、まだ開かなかったらどうしますか」
フェナが尋ねると、保安員は答えた。
「待機場所の換気と安全を確認しながら、一定時間ごとに状況を見直します。第三横坑の点検が済めば、別経路の検討もできます。ただ、今すぐ移動した方が安全だという情報はありません」
「分かりました。では、体調の確認も定期的にします」
フェナは三人へ声をかけた。装備担当の男性は、まだ不安そうではあるものの、息苦しさは少し落ち着いたと言う。隊長は水を飲み、記録担当の女性は端末に現在時刻を書き込んだ。
「こんな時まで記録するんだな」
隊長が言うと、女性は少し笑った。
「あとで、どのくらい待ったか聞かれますから。自分の感覚だと、一時間くらい経った気がして」
「俺もだよ」
俺が答えると、女性は驚いたようにこちらを見た。
「救難の人でも、そう感じるんですか」
「感じるよ。待っている人がいると、余計に長く思える」
「……それなら、私だけじゃないんですね」
彼女はそう言って、端末をしまった。
通路の奥から、金属の小さな振動音がした。保安員が照明を向けると、配管の固定具が揺れている。設備の切替で起きる音かもしれないが、現地の記録だけでは判断できない。保安員は音の場所と時刻を報告し、管理室が設備担当へ確認した。
待機を始めて二十五分ほど経った頃、ようやく連絡が入った。
『閉鎖信号の原因が特定されました。補助電源の切替に使う制御回路の一部で、古い配線が誤った信号を送っていました。火災感知器と換気設備に異常はなく、別系統の監視でも煙は確認されていません』
相馬さんの声が続いた。
『設備担当が現地の制御盤を隔離し、管理室から扉を開ける準備をしている。現地班は、扉の前まで移動せず待ってくれ。開放後、設備担当が通行できることを確認する』
「了解しました」
保安員が答えると、隊長が長く息を吐いた。装備担当の男性も、少しだけ顔を上げた。
「もう帰れますか」
「まだ最後の確認があります。でも、開けるための作業が進んでいます」
フェナがそう伝えた。早く帰れると言い切りたくなる場面だったが、彼女はまだ確かめられていないことを省かなかった。
開放の準備が進む間、記録担当の女性が俺に尋ねた。
「久世さんは、地下で道に迷ったことがあるんですか」
「あります。帰る方向が分かっていても、そこへ進めないこともありますから」
「そうなんですね。私は、救難の人なら迷わないんだと思っていました」
俺は少し笑った。
「俺の力は、自分が帰る道筋を教えてくれるだけなんです。例えば、扉が閉じていたら、開けていいかどうかは分かりません。今みたいに、設備の人に確かめてもらわないと」
「それでも、帰る方向が分かるのは心強いです」
「ありがとう。でも、今日の三人が止まってくれたことも、同じくらい大事だと思います」
女性は不思議そうに首を傾げた。
「私たちは、何もできなくて待っていただけです」
「待つって、何もしないことじゃないですよ。扉を開けず、三人で一緒にいて、番号を伝えてくれた。俺たちが迎えに行けたのは、そのおかげです」
女性は少し考え、端末の画面を開いた。そこには、東四二の扉の前で送った短い通信記録が残っている。時刻の横には、彼女が自分で付けた小さな印があった。
「これ、扉を開けようかって話した時に付けた印です。あとで見返して、あの時に動かなかったのが正しかったのか、ずっと気になっていました」
「今のところ、開けなかったことで危険を増やさずに済んだと思います。でも、あの時の判断がどうだったかは、施設の人と一緒に確かめるのがいいですね」
「はい。……そうします」
彼女は端末を閉じ、隊長の方を見た。隊長は装備担当の男性と話していたが、視線に気づくと軽く手を振った。女性も手を振り返す。さっきまで肩に力が入っていた三人が、少しずつ普段の調子を取り戻しているように見えた。
俺たちの近くでは、保安員が退避経路の説明を続けていた。もし扉が開かなかった場合、今いる場所からどこへ移動するか。第三横坑の点検結果が届くまで、別経路として扱わないこと。体調が悪化した場合には、管理室へ伝えて医療班の出動を判断すること。待機の方針が決まっていても、状況が変わった時の手順は必要だ。
フェナはその説明を聞き、男性に伝わっているかを確かめた。
「もし息苦しくなったら、我慢せずに教えてください。今は少し楽になりましたか」
「はい。話していると、あまり扉のことを考えずに済みます」
「それなら、地上で飲むものをもう一つ決めましょうか。甘い飲み物のあと、何か食べたいものはあります?」
「……熱いスープ、ですかね。地下で冷えたので」
隊長が横から言った。
「じゃあ、スープも頼もう。今日は俺が出す」
「隊長、そんなに払ったら明日の昼飯がなくなりますよ」
三人が笑い、フェナもつられて笑った。俺はその声を聞きながら、閉じた扉の向こうにある地上の生活が、少しずつ近づいている気がした。
その後、管理室から扉の開放完了が伝えられた。現地の保安員は扉までの通路を確認し、俺たちを少し離れた位置に待たせたまま、先行して設備担当と合流する。扉の先の空気と床の状態、開放を保持する装置まで確認が済んでから、ようやく帰還の許可が出た。
「七人全員、移動できます」
保安員の声が聞こえた時、俺は思わずフェナを見た。彼女もほっとしたように頷いた。
「ナオトさん、帰りましょう」
「うん。ゆっくりね」
俺たちは再び歩き始めた。閉じていた防煙扉は開放された状態で固定され、そばには設備担当が立っていた。俺は扉の金属の厚さを横目に見ながら、何も起きなかったように通り過ぎることはできなかった。
ここを無理に開けようとしていたら、どうなっていただろう。火災がなかったから結果的に大丈夫だった、という話ではない。理由を確かめる前に開けてよいかどうか、俺には判断できなかった。だから、確かめられる人を待ったのだ。
第四分岐へ戻ると、東へ向かう矢印の下に、仮の注意札が置かれていた。『この案内板の退避経路表示は確認中です。職員の指示を受けてください』。施設が俺たちの入域後に掲示したらしい。
「さっき、これがあれば……」
隊長が呟いた。
「そうですね。少なくとも、立ち止まる理由にはなったと思います」
フェナは答えた。隊長は注意札を見つめ、やがて小さく頷いた。
その先の通路では、浮いていた格子を避けて一人ずつ通った。体調の悪かった男性は隊長の肩を借りずに歩けたが、急がせることはしなかった。俺は最後の曲がり角で《帰り道》の感覚を確かめ、中央昇降路の方へ向かった。
地上へ続く階段が見えた時、記録担当の女性が小さく声を漏らした。歓声ではなく、長くこらえていた息が出たような音だった。俺にも、その気持ちは分かった。帰り道が分かることと、実際に帰れることは同じではない。
管理棟の扉を抜けると、外はすっかり暗くなっていた。入口には相馬さんと瀬川さんが待っている。保安員が七人の帰還を報告し、三人の探索者は受付で体調確認を受けた。装備担当の男性は温かい飲み物を受け取り、両手で紙コップを包んだ。
「本当に、甘いやつにしたんですね」
フェナが笑うと、隊長も同じ飲み物を掲げた。
「約束したので」
男性は照れたように笑い、少しずつ飲んだ。俺はその様子を見て、ようやく肩の力が抜けた。
帰還報告が終わると、瀬川さんが三人へ声をかけた。
「今日、どの案内を見て、どう判断したかを教えていただけますか。責任を押しつけるためではありません。次に入る人が同じ場所で迷わないようにしたいんです」
隊長は頷いた。
「話します。俺たちが見たものは、全部」
記録担当の女性も端末を取り出した。
「時刻も残っています。警報の試験音を聞いた場所も、矢印を見た時刻も」
瀬川さんは礼を言い、三人の話を聞き始めた。俺とフェナはその隣で、地下で見た番号札や注意札の位置を確認した。
しばらくして、施設の設備担当が写真を持ってきた。問題の案内板は、もともと保守作業員が使う通路の内側に設置されていたものを、改修時に第四分岐へ移したらしい。東へ向かう矢印は、保守作業員が退避する方向を示すためのものだった。ただし、移設後に一般の探索者からどう見えるかを確認した記録は見つかっていない。
「表示の意味が、置く場所で変わったんですね」
俺が言うと、設備担当は頷いた。
「そうです。作った時の目的と、今ここで見る人の目的が違うのに、同じ言葉を使ってしまった。しかも、入口の地図とは照合していませんでした」
相馬さんは写真を受け取り、施設の管理者へ確認を求めた。案内板は使用停止として覆い、地下へ入る全員に口頭で注意を伝える。修正が済むまでは、第四分岐の先の通常入域を制限する。警報の試験放送についても、探索者に聞こえる場所で何を伝えるべきか、別途見直すことになった。
俺は隊長の方を見た。彼は記録担当の女性と一緒に、地図の二つの矢印を指差している。間違った場所へ進んだ理由を、誰か一人のせいにせずに話しているようだった。
フェナが隣で言った。
「ナオトさん。今日は、三人とも自分の足で帰れましたね」
「うん。でも、帰れたのは俺たちだけの力じゃない」
「はい。三人が止まってくれたことも、保安員の方が道を確かめてくれたことも、相馬さんたちが扉を開ける理由を調べてくれたことも、全部必要でした」
俺は頷いた。地下の扉が閉じた時、帰り道を知っているだけでは帰れなかった。けれど、誰かが確認を重ねてくれたおかげで、七人は同じ入口へ戻ってこられた。
帰り支度を始めた頃、瀬川さんが会議で使った確認項目の紙を持ってきた。そこには、今日の経験を受けて新しい欄が一つ加えられている。
『案内を見た人が、何のための表示だと受け取るか』
「表示の作成目的だけじゃ足りないんですね」
俺が言うと、瀬川さんは頷いた。
「はい。正しい内容でも、別の場所に移したら意味が変わることがあります。今日の三人は、そのことを教えてくれました」
俺は紙を受け取った。地下で三人が迷ったのは、帰り道を知らなかったからだけではない。施設が用意した二つの案内が、違う答えを示していたからだ。
その食い違いを直すには、矢印を塗り直すだけでは足りない。誰がその矢印を見るのか、何を頼りに動くのか。そこまで考えなければ、同じ場所に別の迷いが残ってしまう。
俺は管理棟の外へ出た。夜の空気は冷たかったが、地下で感じた重さはもうない。後ろから、三人の笑い声が聞こえてくる。約束していた甘い飲み物を、隊長が本当に飲み干せるかどうかで、また話しているらしい。
俺は振り返らずに少し笑った。今夜、三人が地上でそんな話をできることが、何より嬉しかった。




