第162話 迎えの灯り
地下へ入る前に、相馬さんは俺たち四人を管理棟の前へ集めた。同行するのは俺とフェナ、それに施設の保安員二人。相馬さんは地上の連絡役に残り、瀬川さんと一緒に設備担当から情報を集める。現地で三人を見つけるための目印は、第四分岐の番号と保守扉『東四二』だった。
「目的は三人との合流と帰還だ。案内板の調査はそのあとでいい。通路の異常があれば進むな。久世の能力は帰路を知るために使うが、床や扉が安全かどうかは現地の保安員が確認する」
「了解しました」
俺たちが答えると、相馬さんは保安員へ向き直った。
「予定外の閉鎖や設備の作動があれば、こちらで管理室へ確認する。現地で勝手に解除しないでくれ。特に防火設備は、理由があって閉じている可能性がある」
保安員の一人が頷き、携帯端末に地図を表示した。入口から第四分岐までは通常の探索路だが、その先の東側は保守用の設備が多い。点検灯の位置、床の格子、手すりの欠けている区間まで書き込まれていた。
「東側の通路には、四つ目の曲がり角を過ぎたところに段差があります。作業員は知っていますが、初めて来た探索者は気づきにくい。照明が暗いので、足元を照らしてください」
「三人は、その段差を越えているんでしょうか」
フェナが聞く。
「扉の番号が正しければ越えています。だから、戻る時にも注意が必要です」
俺は足元の留め具を締め直した。三人を見つけることばかり考えていたが、戻る道にも確かめるべきものがある。能力が示す帰路は、俺が歩く方向を教えてくれるだけだ。暗がりの段差まで知らせてくれるわけではない。
入口の検問を抜けると、地下特有の冷たい空気が頬に触れた。最初の区画は照明が明るく、足元には白い帰還用の線が引かれている。ここを普段から通っている探索者なら、迷うことは少ないだろう。だが、少し進んだ先の分岐では、壁に貼られた古い矢印と新しい番号札が重なっていた。
「この施設、表示が多いですね」
フェナが言うと、先頭の保安員が苦笑した。
「改修のたびに付け足してきました。使わなくなったものは外したつもりだったんですが、今回のように残っているものもあります」
「今は、どれを見ればいいんですか」
「我々は設備番号を見ます。一般の方には入口で配る地図を使ってもらっています」
その答えを聞いて、俺は壁の矢印を見直した。どちらも施設の中にある案内なのに、見る人によって頼るものが違う。今日の三人も、入口では紙の地図を使い、地下へ入ってからは壁の矢印を見たのだろう。
第四分岐へ近づくにつれ、照明の間隔が広くなった。床には採掘用の車輪が通った古い跡が残り、天井から下がる配線が保護管に収められている。遠くで低い振動音がしたが、保安員は設備の稼働音だと説明した。俺たちはそこで立ち止まり、管理室に確認を取ってから進んだ。
『第四分岐付近の送風機は通常運転中です。音の変化は記録されていません』
通信が返ってくると、保安員は手元の端末に印を付けた。
「確認しました。ここから先は、現地の番号札と照合しながら進みます」
俺は第四分岐の案内板を見上げた。紙の地図では西へ向かう退避区画が描かれている。だが壁の金属板は、東へ進む矢印の先に『退避経路』と記していた。近くで見ると、矢印の表面には新しい塗装が施されている。
「これを見たら、東へ行きたくなるな」
俺が呟くと、フェナが頷いた。
「入口の地図を持っていても、こっちの方が大きくて目立ちます。どちらかが違うと気づいても、ここで施設に連絡できるとは限りませんし」
保安員は写真を撮り、記録に残した。
「表示の理由はあとで調べます。今は、ここから東四二までの通路を確認します」
その言葉に俺たちは頷いた。矢印を取り外したくなる気持ちはあったが、今それを始めれば、待っている三人との合流が遅れる。
東の通路に入ると、空気の流れが変わった。入口近くでは微かに風を感じたのに、こちらでは湿った匂いが留まっている。保安員が携帯式の測定器を取り出し、数値を確かめた。
「現時点の数値に問題はありません。ただし、換気が弱いので長居はしません」
「三人の装備担当が気分を悪くしているそうです」
フェナが伝えると、保安員は頷いた。
「合流したら、体調を確認しましょう。必要なら座って休める場所へ移動しますが、まずは足元と通路の状態を見ます」
曲がり角を一つ越えたところで、俺たちは再び足を止めた。床に敷かれた金属格子の一枚が、わずかに浮いている。保安員が照明を当て、長い点検棒で端を押すと、格子が小さく動いた。
「ここは踏まないでください。右側の固定された床を通れますが、一人ずつにしましょう」
保安員が先に渡り、俺たちはその足跡をなぞるように進んだ。俺の《帰り道》が示す感覚は、入口へ戻る方向に変わりはない。けれど、格子が浮いていることは教えてくれなかった。
フェナが渡り終えたあと、俺は振り返った。
「三人は、ここを通ってきたんですよね」
「そう考えられます。戻る時には、もう一度注意を伝えます」
保安員は格子の位置を記録し、帰還時に目立つよう仮の注意札を置いた。俺たちが戻るまで、別の誰かが踏まないようにするためだ。
その先には、古い作業灯が二つ並んでいた。一つは点いているが、もう一つは消えている。灯りの届かない壁には、細い白線が何本も引かれていた。保安員は番号を確認しながら歩いたが、途中で立ち止まり、端末の地図を拡大した。
「ここ、記録と違いますね」
「何がですか」
「壁の番号札が一枚ありません。東四二の手前に、東四一があるはずなんですが」
俺は周囲を照らした。金属板を留めていたような穴はあるが、番号札そのものは見当たらない。
「番号を見失ったら、どうします?」
フェナの問いに、保安員は即答しなかった。足元の線を確認し、もう一人の保安員と図面を見比べる。
「曲がり角の数と設備の形は一致しています。ただ、番号だけで進むのはやめます。管理室へ確認しましょう」
無線を入れると、地上から返答があった。先月の配管工事で番号札を外し、再設置が未了になっているという。保安員は作業記録の日付と写真を受け取り、目の前の配管と照合した。
「一致しました。東四二はこの先です」
俺は胸を撫で下ろした。番号が一枚ないだけで、こんなにも判断が変わる。三人が案内板を見て東へ進んだ時も、似たような気持ちだったのかもしれない。
さらに進むと、通路の奥から金属を叩く音が聞こえた。最初は設備の振動だと思ったが、一定の間隔で三回、少し間を置いてまた三回と続いている。
「人の合図でしょうか」
フェナが囁く。
「その可能性はあります。でも、確認するまでは決められません」
保安員が答え、携帯照明を壁へ向けた。遠くにある扉の番号はまだ見えない。俺たちは足元を確かめながら、ゆっくり進んだ。
「こちらは施設保安です。東四二付近にいる三名、聞こえますか!」
保安員が声を張ると、金属音が止まった。少し遅れて、女性の声が返ってくる。
「聞こえます! 三人ともここにいます!」
フェナが息を呑んだ。俺も思わず早足になりかけたが、保安員が手を上げるのを見て速度を落とした。音が聞こえたからといって、足元が安全になったわけではない。
曲がり角を越えると、保守扉の前に三人の探索者がいた。隊長らしい男性が照明を掲げ、その隣で若い女性が通信端末を抱えている。少し離れた壁際には、もう一人の男性が座っていた。顔色はよくないが、こちらへ視線を向ける力は残っている。
「迎えに来ました。動かず待っていてくれて、ありがとうございます」
先頭の保安員がそう言うと、隊長は肩を落とした。
「こちらこそ……。通信が切れてから、何度も戻ろうかと話していました。でも、待てと言われたので」
「その判断でよかったです。今から全員の状態を確認します」
フェナが膝をつき、座っている男性へ水を差し出した。
「少し飲めそうですか。無理に立たなくて大丈夫ですよ」
「……ありがとう。息はできます。ただ、扉が閉まる音を聞いてから、胸が詰まる感じがして」
「狭い場所が苦手だと伺いました。今は私たちがいます。地上へ戻る準備をしますから、一つずつ確認させてください」
男性は頷き、水を少し飲んだ。保安員が呼吸や顔色を確認し、急いで搬送する必要はないと判断した。ただし、本人が無理をしない速度で移動することになった。
隊長は俺たちに頭を下げた。
「すみません。入口で地図を渡されたのに、途中の案内板を見て東へ来てしまいました」
「まずは全員無事でよかったです」
俺が答えると、隊長は顔を上げた。
「南の観測点から戻る途中、警報の試験音が聞こえたんです。施設の放送だとは思いましたが、記録担当が『退避経路』の矢印を見つけて……。紙の地図と違うのは気づきました。それでも、固定された案内板なら新しい情報だろうと考えました」
フェナは責めるような表情を見せずに尋ねた。
「警報は、どんな音でしたか」
「短い音が三回。放送で『試験』と聞こえた気もします。でも、奥にいたのでよく分からなくて」
保安員が管理室へ確認すると、午後四時過ぎに送風設備の試験放送が行われていた。探索者向けの緊急警報ではない。ただ、地下の場所によっては放送の前半が聞き取りにくいことがあるらしい。
「それで、急いで帰ろうとしたんですね」
俺が言うと、隊長は苦い顔で頷いた。
「そうです。引き返すより、退避経路の矢印に従った方が早いと思って。扉まで来て、番号を確認したところで、ようやく違和感が強くなりました」
「扉を開けなかったのは、どうしてですか」
「入口の地図には載っていない扉だったからです。ここで勝手に開けるのはまずいと思いました」
隊長は少し迷ってから続けた。
「正直、戻るべきだったのかもしれません。でも、さっきの放送が何だったか分からず、来た道も安全だと言い切れなくて。誰かに確認するまで、動かない方がいいと決めました」
俺は頷いた。迷った末に立ち止まったことは、三人の弱さではない。分からないことを分からないままにしなかったから、俺たちは同じ場所で合流できた。
保安員は扉の番号と周囲の状態を記録し、三人が持つ地図を確認した。紙の地図には、確かに西側の待機区画が示されている。隊長が折り目を広げると、そこに指でなぞった跡が残っていた。
「入口でもらった時は、これが最新だと説明されました」
「そうでしょうね。施設側も、そのつもりで渡しています」
保安員は静かに答えた。
「地下の案内板がなぜ違う表示になっているかは、これから調べます。今は、その食い違いがあった事実を記録させてください」
フェナが地図の写真を撮り、三人に確認した。誰かの記憶だけに頼らないよう、持っていた地図の版と折り目の位置まで残す。
地図の確認が終わると、記録担当の女性が小さく手を上げた。
「すみません。ここへ来る途中で、壁の奥から何かが擦れる音を聞きました。あれも設備の音なんでしょうか」
保安員はすぐに答えず、聞こえた場所と時刻を尋ねた。女性は端末に残した調査メモを開き、四時十六分と書かれた行を見せる。三人はその音を聞いた直後に歩く速度を上げ、東四二の扉まで来たという。
「音がした時、魔物だと思いましたか」
俺が尋ねると、女性は首を横に振った。
「分からなかったんです。普段なら、分からない音がしたら一度戻るんですけど、警報の試験音も聞いたあとだったので、何かが起きているのかと……。隊長は落ち着いていました。でも私は、早く退避経路へ行かなきゃって、そればかり考えていました」
彼女は手の中の端末を見つめた。画面には、音を聞いた場所を示す短い記録が残っている。時間と番号を残していたおかげで、今こうして何が起きたかを確かめられる。
「怖い時に記録を残せたのは、すごいことだと思います」
フェナが言うと、女性は意外そうな顔をした。
「記録担当だから、癖みたいなものです。帰ってから見直そうと思って」
「その記録が、ほかの人の役にも立つかもしれません。もしよければ、地上へ戻ったあとに詳しく教えてください」
女性は少し考えてから頷いた。
「はい。でも、先に謝らせてください。私は案内板を見て、こっちへ行こうって言ったんです」
「謝るかどうかは、今決めなくてもいいと思います」
フェナは静かに答えた。
「入口で渡された地図と違っていたんですよね。私だって迷ったと思います。どうして東を選んだのか、あとで一緒に整理しましょう」
隊長が女性の方を見た。
「俺が最終的に決めた。お前だけのせいじゃない。それに、扉の前で止まろうと言ってくれたのは、お前だろ」
女性は何か言いかけ、口を閉じた。俺はその表情を見て、三人が地下で待っていた時間を思った。戻れないかもしれないという不安だけでなく、誰かの判断を間違いだったと決めてしまう怖さも、あの扉の前にはあったのだろう。
保安員が端末を確認した。
「今の音については、四時十五分から設備の切替試験をした記録があります。ただ、音の発生源が同じかどうかは分かりません。帰還後、点検班へ照会します」
「じゃあ、魔物がいたわけじゃないんですね」
装備担当の男性が尋ねると、保安員は首を横に振った。
「そこまでは言えません。周囲の巡回記録に異常はありませんが、音の原因は未確認です。だから、戻る時も周囲を確認しながら進みます」
男性はゆっくり頷いた。断言してもらえないことが不安なのかと思ったが、彼は少し安心したようにも見えた。分からないものを分かったことにされるより、今何を確かめているか聞ける方が、信じられるのかもしれない。
フェナは三人の飲料水の残量を確認し、俺たちの予備と合わせて必要な分を分けた。体調の悪い男性には、荷物を少し軽くする提案をしたが、本人が持ちたいと言った小さな手帳はそのままにした。彼はそれを胸ポケットへしまい、「これがあると落ち着くんです」と照れくさそうに笑った。
俺はその間に、自分の《帰り道》へ意識を向けた。ここから地上へ戻る道筋は、来た通路の方へ伸びているように感じられる。少なくとも、東四二の扉を開ける方向ではない。
「俺には、来た方へ戻る道が分かります。ただ、途中の格子が浮いていました。安全に歩ける場所は保安員の方に確認してもらいたいです」
「分かりました。では、私たちが先に通路を確認します」
保安員が答え、帰還の隊列を決めた。先頭は保安員、次に俺、体調を崩した男性とフェナ、記録担当の女性、隊長、最後尾にもう一人の保安員。誰かが足を止めた時に全員が気づけるよう、間隔を狭くしすぎないことも決めた。
出発の前に、フェナが男性へ尋ねた。
「歩けそうですか。急がなくていいですから、つらくなったらすぐ教えてください」
「はい。……さっきは、扉を開ければ外へ出られると思ったんです。でも、開けなくてよかった」
男性は自分の膝を見つめたまま言った。
「隊長が止めてくれなかったら、俺は開けていたかもしれません」
隊長が隣へ来て、彼の肩に軽く触れた。
「俺も迷ったよ。止めたのは、地図と違うって気づいてくれたからだ。誰か一人の判断じゃない」
そのやり取りを聞いて、俺は三人が互いに声をかけながら待っていたことを知った。誰かが一人で正解を選んだわけではない。迷った時に、互いの疑問を聞けたのだ。
俺たちは帰還を始めた。東四二の扉を背に、最初の曲がり角まで進む。先頭の保安員が床を照らし、次の足場を確かめる。途中で体調の悪い男性が一度立ち止まったが、フェナが呼吸を整えるのを手伝い、歩けるようになってから再開した。
番号札のない場所を過ぎた時、最後尾の保安員が管理室へ帰還経路の確認を入れた。返事はすぐに来たが、内容を聞いた先頭の保安員が足を止めた。
「……待ってください。第四分岐の手前にある防煙扉が、閉鎖状態になっているそうです」
「防煙扉?」
俺は思わず聞き返した。入ってきた時、その扉は開いていた。通常の通路に設けられた設備で、俺たちは何の問題もなく通過している。
『管理室です。火災の報告はありません。ただ、東側の補助電源切替に伴って、扉の閉鎖信号が出ています。原因を確認中です』
相馬さんの声が通信に重なった。
『現地班、聞こえるか。閉じた扉へ近づく前に止まってくれ。解除の可否は設備担当が調べている。勝手に操作しないように』
「了解しました。現在は東四二から戻る途中の点検灯付近です。六人……いえ、救難側四人と探索者三人、計七人です。全員一緒にいます」
保安員が人数を言い直した。俺はその訂正に耳を留めた。急いでいる時ほど、人数を曖昧にしない。合流して増えた人数を、最後まで数え続ける必要がある。
隊長がこちらを見た。
「俺たちのせいで、帰りが遅れるんでしょうか」
「違います。扉が閉じた理由は、まだ分かっていません」
俺は答えた。
「今は、ここで確認を待ちましょう。来た道があるからって、開かない扉を無理に通るわけにはいきません」
隊長は唇を噛んだが、頷いた。隣の男性が壁へ寄りかかり、フェナが照明を少し低くして眩しさを避ける。俺たちは互いの位置を確認し、保安員が安全だと判断した広い場所へ集まった。
《帰り道》が示す方向は変わらない。俺には地上へ戻る道筋が分かる。それでも、目の前の扉が今、開けていい状態なのかは分からなかった。
通信の向こうで、設備担当が何かを調べている音がする。相馬さんは短く言った。
『全員、そこで待ってくれ。理由を確かめてから、帰す』
俺は三人の顔を見た。迎えに来たことだけで、仕事が終わったわけではない。七人全員が地上へ戻って初めて、約束を果たせる。




