第161話 三人が持つ二枚の地図
会議室を出ると、瀬川さんは廊下の窓際で施設の担当者と話していた。相手の声は端末越しでも切迫していたが、瀬川さんは質問を一つずつ区切り、答えを記録している。俺とフェナは少し離れた場所で待ち、相馬さんが戻ってくるのを見た。
「まず、入っている人間の確認だ。施設から名簿が届くまで、誰がどこにいるかを勝手に決めるな」
「はい。案内板が違うからって、すぐ遭難しているとは限りませんよね」
「そうだ。ただし、違う案内を見て予定外の場所へ進んでいる可能性はある。そこを切り分ける」
相馬さんはそう言うと、壁に設けられた小さな打ち合わせ机へ資料を広げた。俺たちが先ほど会議で使った確認項目の紙だ。会議では項目の順番について何度も議論したが、今はその順番どおりに聞けることがありがたかった。
瀬川さんが通話を終え、こちらへ歩いてくる。
「入域者は三名です。登録は一組だけ。今日の午後二時四十分に入域していて、予定の帰還は午後六時半。最後の定時連絡は三時十二分、第四分岐の手前にある整備坑道からでした」
「現在時刻は?」
「四時二十七分です。次の定時連絡は四時半なので、もうすぐです」
俺は時計を見た。連絡が途絶えたわけではない。予定時刻の三分前だ。それでも、入口の地図と地下の案内板が違うと聞いた以上、三人が何を見ているか分からないまま待つのは落ち着かなかった。
「施設の方は、どうして食い違いに気づいたんですか」
フェナが尋ねる。
「巡回していた職員が、第四分岐の案内板の写真を撮ったそうです。会議で配布した確認項目を受け取って、入口の地図と照らし合わせたところ、非常時の進行方向が逆だったと」
「逆、ですか」
瀬川さんは端末に二枚の画像を並べた。入口で配られた紙の地図では、第四分岐を西へ進む線が太く描かれている。地下の案内板は、同じ場所から東へ向かう矢印を示していた。どちらにも『退避経路』という文字があるが、紙には小さく『通常帰還は中央昇降路を使用』と書かれている。
「西へ行くと、何があるんですか」
「施設の説明では、通信設備のある待機区画です。地上へ出る出口ではありません。東は保守用の通路で、途中に防火シャッターがあります」
俺は案内板の写真を拡大した。東の矢印は黄色い縁取りで目立つ。紙の地図を畳んでしまえば、地下で見た矢印を優先したくなるのは自然だった。
「東へ行けば、地上に戻れるんでしょうか」
「そこは確認中です。保守通路の先には管理用の階段がありますが、一般の探索者が通行できる経路として登録されていません」
瀬川さんは、まだ確かめられていない部分に印を付けた。
相馬さんが腕を組む。
「両方の表示が違う理由は後で調べる。今は三人がどこにいて、どちらの案内を見たかだ。四時半の連絡が来たら、まず全員一緒にいるかを聞いてくれ」
施設から送られてきた名簿には、隊長、記録担当、装備担当と役割だけが記されていた。三人とも成人で、今日の目的は鉱石の採取ではなく、第三層の設備周辺で発生した小規模な魔物の痕跡を調べることだった。危険度は高くないとされているが、初めて入る区画が含まれるため、予定経路を施設へ提出していたらしい。
「予定経路は第四分岐の先までですか」
「いえ。第四分岐を越えた南側の観測点まで。東の保守通路へ入る予定はありません」
俺は提出された経路を目で追った。観測点へ行って同じ道を戻れば、午後六時半には間に合う。だが、帰還時に非常用の案内を見て、別の道を選んだらどうなるだろう。
時計の針が四時半を過ぎた。施設の通信室から連絡が入ったのは、四時三十二分だった。
『定時連絡がまだありません。呼び出しは送っていますが、応答待ちです』
相馬さんは即座に問い返した。
「通信設備の状態は?」
『第三層の中継器は稼働中です。先ほどまで点検班とも話せていました。全体の障害は確認されていません』
「隊長の端末以外に、予備は?」
『装備担当が携帯中継機を持っています。記録担当も短距離端末を所持しています』
瀬川さんが記録を更新する。連絡がない理由はまだ分からない。三人が魔物を追って移動しているのか、電波の届きにくい場所へ入ったのか、単に調査に集中しているのか。俺たちが知っているのは、定時連絡が二分遅れているという事実だけだった。
「ナオトさん」
フェナが俺の袖を軽く引いた。
「もし、三人が東の通路へ入っていたら、通信はどうなるんでしょう」
「分からない。地図だけじゃ電波の届く範囲も見えないし」
「そうですよね。じゃあ、先に施設へ聞いてみます」
彼女は瀬川さんへ質問を伝えた。通信室が調べたところ、東側の保守通路には古い中継器が一基あるものの、今月の点検対象から外れていた。稼働状態は管理室から確認できず、現地でしか分からないという。
四時三十七分、施設から再び着信があった。
『隊長の端末から短い応答がありました。音声が途切れていますが、三人とも一緒にいるとのことです』
俺は肩の力が抜けるのを感じた。少なくとも、三人がばらばらになったわけではない。
「現在地は?」
『第四分岐を越えた先、と聞こえました。ただ、東か南かが聞き取れません。もう一度呼びかけています』
相馬さんが机に手を置く。
「そのまま話し続けさせるな。短い質問を一つずつ送れ。まず、立ち止まれる場所か。次に、見えている番号。三人が動きながら通信していたら、言葉が欠けたまま別の場所へ進んでしまう」
施設側が指示を送る。こちらに返ってきたのは、雑音の混じる音声を文字に起こした記録だった。
『三人同じ場所。今は停止。分岐標識、四の七。東の矢印を見て移動。扉がある』
瀬川さんが地図を指でなぞった。
「四の七は、第四分岐の東側です。少なくとも、予定していた南の観測点から外れています」
「扉の番号は聞けるか」
『確認します』
俺は地図を見つめた。三人が自分たちの意思で東へ向かったのか、それとも何かから逃げたのかは分からない。ただ、地下の案内板を見て移動したという言葉は、はっきり届いていた。
「なんで、東へ……」
思わず口にすると、フェナが小さく首を振った。
「まだ理由を聞いていません。責めるように聞こえると、次の連絡で話しづらくなるかもしれません」
俺は彼女を見た。フェナは画面から目を離さない。
「今、必要なのは、どうして間違えたかより、どこにいるかです」
「そうだね」
俺は頷き、質問を飲み込んだ。以前の俺なら、違う道へ行ったと聞いた時点で、どうして地図を確認しなかったんだと思ったかもしれない。けれど、入口で渡された地図と地下の案内板の両方に、施設の印が付いている。どちらを信じるか迷うのは、三人だけの問題ではなかった。
四時四十三分、扉の番号が届いた。保守扉の管理番号は『東四二』。その扉の手前に三人がいて、開けずに待機しているという。
「そこなら、現場の保安担当が場所を知っています」
施設からの説明に、相馬さんはすぐ答えた。
「いい。扉は開けさせないでくれ。周囲に魔物がいないか、床や天井に異常がないか、本人たちの目で確かめてもらう。安全に待てるなら、その場から動かさない」
瀬川さんが確認した。
「中央昇降路へ戻る指示は出さないんですか」
「帰りの通路を確認してからだ。来た道が安全か、今の位置から戻れるか、施設の記録と照合する。通信が途切れたまま『戻れ』と言えば、三人が別の矢印を見て動くかもしれない」
俺は相馬さんの言葉を聞きながら、以前の救難で出会った人たちを思い出した。助けを待つ人にとって、動くなと言われる時間は長い。自分たちで歩けば帰れる気がする時ほど、立ち止まるのは難しい。それでも、確かめる前に動かすことが正しいとは限らない。
施設側から新しい報告が届いた。三人のうち記録担当が、足元の床に細い亀裂を見つけたらしい。表面だけの傷か、構造に関わるものかは判断できない。扉の近くには作業用の白い線があり、そこを越えずに待っているという。
「床の亀裂を見つけたのは、東へ進んでからですか」
フェナが聞いた。
「はい。今いる場所で見つけたようです」
「それなら、戻る時にも同じ場所を通るかもしれません。亀裂の位置と、三人が立っている場所を分けて聞いてください」
瀬川さんがすぐに追記する。俺はフェナの横顔を見た。彼女は危険なものを見抜く力があるわけではない。それでも、誰かが説明しやすい順番を考えられる。そういう力が、今日は頼もしかった。
五時前、相馬さんは施設へ向かう判断をした。現場の保安員だけでも対応できるかもしれないが、案内の誤りによって予定外の区画へ入った三人がいる以上、救難側も直接状況を把握しておく必要がある。
「久世、フェナ。来られるか」
「はい」
「行きます」
「現地に着いたら、すぐ地下へ入るとは限らない。久世の能力は帰路の確認に使う。三人の居場所を探す力じゃないし、床が安全かどうかも教えてくれない。そこは分かっているな」
「分かっています」
俺は答えた。相馬さんがわざわざ確認したのは、俺の力を疑っているからではない。使える範囲を誰もが同じように理解していなければ、焦った時に間違った期待が生まれるからだ。
出発までの短い時間、フェナは施設から送られてきた入域記録を読み直していた。三人の役割の横には、出発前に受けた説明の項目が並んでいる。通常帰還路、緊急連絡先、待機場所。どの欄にも、受付担当者の確認印があった。
「説明を受けているんですね。地図も渡されているのに」
「だからといって、三人が不注意だったと決めるのは早いよ」
俺が言うと、フェナは頷いた。
「はい。私もそう思います。ここには『入口の地図について説明した』としか書かれていません。地下の案内板が違うことを知っていたかは、書いていないんです」
彼女は紙の端を指で押さえた。確認印があれば、説明は済んだと考えやすい。けれど、何を説明したのかが分からなければ、印だけで判断することはできない。
「それに、隊長さんは迷ったんですよね。案内板を見た時、どちらかが違うって気づいていたのかもしれません」
「気づいても、どっちが正しいか分からなかったら困るね」
「はい。私だったら、古い紙より、壁に固定された大きな案内板の方が新しいと思うかもしれません」
俺も同じだった。探索者が持ち歩く紙は折れたり濡れたりするが、施設の壁に付いた金属板は簡単には取り替わらない。その重さや頑丈さまで、正しさの証拠に見えてしまう。
相馬さんが戻ってきた。施設の管理者と通話を続けていたらしく、耳に付けた通信具を外しながら言う。
「三人の装備に大きな不足はない。ただ、東の通路は風が通りにくい。長時間待つことになれば体調に影響が出るかもしれない。現地の換気記録を取り寄せている」
「換気の数値が悪いんですか」
「それもまだ分からない。分からないから確認する。三人が『気分が悪い』と言った時、緊張のせいだと決めつけないためにな」
相馬さんはそう言って、俺たちの装備を確認した。俺は予備の照明と飲料水を鞄に入れ、フェナは三人分の保温シートを数えた。迎えに行くと決めたからといって、すぐ走り出せるわけではない。自分たちが地下で動けなくなれば、待っている三人の帰還はもっと遅くなる。
俺が手袋の留め具を直していると、フェナが小さな声で言った。
「さっきの三人、待っている間に自分たちの判断を責めていないといいですね」
「……どうだろう。でも、俺たちが合流したら、最初にそこを責めるのはやめよう」
「はい。何があったかは、落ち着いてから聞きましょう」
フェナはそう言って、保温シートの袋を閉じた。今必要なのは、誰が正しい地図を選べなかったかを裁くことではない。三人がこのあと安全に帰るために、どんな情報が足りないのかを埋めることだった。
施設へ向かう車の中で、瀬川さんから資料が届いた。保守扉『東四二』の先には、午後五時に自動で閉まる防火シャッターがある。管理棟では予定どおり閉鎖指示が出ており、今の時刻は四時五十八分。三人がいるのはシャッターの手前だと施設は説明しているが、通信が不安定なため、位置の再確認が必要だという。
「扉の向こうに入っていないなら、シャッターが閉まっても関係ないんですよね」
俺が聞くと、相馬さんは首を振った。
「扉とシャッターの位置関係を、俺たちはまだ現物で見ていない。図面が正しくても、扉の手前という言い方が、どちら側を指しているかは人によって違う」
そう言われ、俺は地図の小さな四角を見直した。扉の記号が一つ、シャッターの記号が一つ。紙の上では指先ほどの距離しかない。地下で立つ人にとっては、二つの設備の間に入っているのか、手前で止まっているのかで、戻れる道が変わるかもしれなかった。
車窓の向こうに施設の灯りが見えた時、俺は時計を見た。午後五時を回っている。地上では夕方になっただけだが、地下にいる三人には、時間の経過がどう感じられているのだろう。時計を見るたびに出口が遠くなるような気持ちは、俺にも覚えがあった。だからこそ、迎えが来るという言葉を軽く扱いたくなかった。こちらの都合で予定を変えるなら、その理由を伝える。約束した時刻に間に合わないなら、連絡する。救難の仕事で教わった当たり前のことを、今日は三人に対して守りたいと思った。
施設へ着くと、管理棟の前に保安員が二人待っていた。受付の職員は、俺たちの到着を見てほっとした表情を浮かべたが、相馬さんは最初に現在の連絡状況を尋ねた。
「三人から新しい応答は?」
「五時ちょうどに、短い通信がありました。シャッターが動く音がした、と」
「本人たちの位置は?」
「そこまでは聞き取れませんでした。扉の番号だけは一致しています」
保安員の一人が、現地の通路図を広げた。入口で配られる地図とは違い、設備の番号と点検経路が細かく記されている。
「東四二の扉は、シャッターの西側にあります。扉を開けずにいたなら、通常の帰還通路へ戻れるはずです。ただし、分岐から扉までの間に、古い通信ケーブルが敷設されていて、電波が弱い場所があります」
「床の亀裂は?」
「今朝の点検記録では異常なしです。ただ、場所が特定できていないので、同じ箇所とは断言できません」
相馬さんは頷いた。
「それなら、先に中継器を使って声を届ける。三人が動かずに待てるか、もう一度確かめよう」
保安員が携帯中継器を準備する間、俺は入口の案内板を見た。施設名と発行日が書かれた紙の地図には、西へ向かう退避区画が示されている。一方、地下の案内板は東へ進む矢印を示す。どちらにも、作った人は人を守るための印を付けたのだろう。けれど、今、三人がその間に立っている。
携帯中継器の試験が始まった。雑音のあと、若い女性の声が短く聞こえた。
『こちら、三名。全員、動いていません。扉の前です』
相馬さんは端末を受け取り、ゆっくり話した。
「救難調整の相馬だ。聞こえるか。今から確認する。扉には触らないでほしい。三人のうち、誰か体調の悪い者はいるか」
『大きな怪我はありません。ただ、装備担当が少し気分を悪くしています。狭い場所が苦手で……』
「分かった。座れる場所はあるか。床の状態を確認してから、無理のない姿勢で待ってくれ。こちらで迎えの準備をしている」
応答の向こうで、誰かが「大丈夫だ」と声をかけているのが聞こえた。俺はその声に、ほんの少し安心した。三人はまだ互いの声を聞ける場所にいる。
相馬さんが続けた。
「もう一つだけ。東四二の扉を正面に見て、シャッターはどちらにある?」
返事が来るまで、長く感じた。実際には十秒ほどだったと思う。
『……扉の向こうです。今は閉まっています。私たちは扉の手前にいます』
保安員が頷いた。図面上では、三人は閉じたシャッターに隔てられていない。
「よし。そこで待っていてくれ。こちらから迎えに行く。通信が切れても、指示が変わったと思わないでほしい」
『分かりました。でも、一つ聞いてもいいですか』
「何だ」
『地下の案内板には、こちらが退避経路だと書いてありました。入口の地図と違っていて、隊長が迷ったんです。もし、私たちがあの扉を開けていたら……』
声が途切れた。答えを求めているというより、自分たちの判断を確かめたかったのかもしれない。
相馬さんは少し間を置いてから答えた。
「その先が今、安全に通れるかは確認できていない。だから、開けずに止まってくれて助かった。詳しいことは地上へ戻ってから一緒に確認しよう」
通信の向こうで、誰かが深く息を吐いた。
『……はい。待っています』
その直後、声が消えた。中継器の表示が一瞬赤くなり、通信室の職員が顔を上げる。
「保守区画の補助電源が切り替わりました。東側の古い中継器が停止した可能性があります」
相馬さんは端末を置き、保安員へ向き直った。
「三人の位置は絞れた。今の説明で待機できる場所だと判断したが、現地の床と通路はまだ未確認だ。迎えに入る人員と装備を決めよう」
俺は足元に置いた鞄を開いた。三人を見つけるのは、施設の番号と保安員の知識だ。俺にできるのは、合流したあと、帰る道筋を示すこと。その道を安全に歩けるかどうかは、皆で確かめなければならない。
フェナが隣で手袋をはめながら、俺を見た。
「ナオトさん。三人は、ちゃんと待つって言ってくれましたね」
「うん。だから、俺たちも約束を守らないと」
相馬さんが出発の確認を始める。閉じた扉の手前で、三人が俺たちを待っている。今度は、矢印のどちらが正しいかを議論するためではなく、三人を地上へ連れて帰るために地下へ向かう。




