第159話 戻るための約束
旧搬出室の確認が行われると決まったのは、それから二日後のことだった。
設備台帳と現地の記録を照らし合わせ、入域できる範囲がようやく決まったという。調査を担当するのは施設の安全担当と設備担当、それに通路の点検経験がある作業員たちだ。救難側からは、緊急時の連絡手順について助言するために相馬さんが同行することになった。
「ナオトさんも入るんですか?」
出発前、フェナが俺に尋ねた。
「いや。今回は施設の人たちが、確認済みの区間だけを調べるって。俺は地上で連絡を受ける方を手伝うよ」
「そうなんですね」
彼女は少し安心したようだった。俺はその表情を見て、笑った。
「俺が入れば全部分かるって話じゃないからね。帰る道は分かっても、設備が動くかどうかは分からないし」
「分かっています。でも、前だったら、ナオトさんが行けば何とかなるって、私も思っていたかもしれません」
フェナは鞄の肩紐を直した。
「今は、何を確かめるために誰が入るのか、先に考えられるようになりました」
「俺もだよ。相馬さんに何度も言われたから」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
施設へ着くと、管理棟の入口には新しい掲示が出ていた。通常入域の停止は続いている。案内板の二本の矢印は完全に覆われ、受付では職員が来訪者へ説明していた。
調査班の準備は、建物の奥にある作業室で進んでいた。入域者の人数、持ち込む装備、通信機の番号、戻る予定時刻が一つずつ確認される。俺はその記録を手伝いながら、以前なら見落としていたことに気づいた。
「戻る予定時刻を過ぎたら、どうするんですか」
俺が尋ねると、安全担当は用意した手順を示した。
「まず地上から通信します。応答がなければ、最後に確認できた位置と、事前に決めた待機場所を照合します。すぐに別の人を入れるのではなく、施設の緊急手順に従って対応します」
「分かりました」
調査に入る人は四人。安全担当一人、設備担当一人、点検作業員二人だ。地上側には管理責任者と通信担当が残り、相馬さんは救難側の連絡窓口を受け持つ。俺とフェナは、その補助をする。
「今回は、旧搬出室へ無理に入らない。まず、そこへ続く通路の状態を確認する。扉や換気の状態に問題があれば、その時点で引き返す」
安全担当が全員に説明した。
「了解です」
四人の返事が揃う。俺は記録表に時刻を書き込んだ。
地下へ向かう扉が閉まると、管理棟の中は静かになった。外では工事車両の音が聞こえる。けれど、通信機の前に座っていると、遠くの足音まで気になるような気がした。
「緊張していますか」
フェナが隣で尋ねた。
「少し。遭難者を助けに行く時とは違うけど、地下にいる人の返事を待つのは、やっぱり落ち着かないね」
「でも、今日は戻る手順も、連絡する時間も決まっています」
「うん。だから、その通りに確認しよう」
通信が入ったのは、予定した最初の連絡時刻だった。
『第一分岐に到着。通路の床面と壁面を確認しました。予定どおり進みます』
管理責任者が復唱し、時刻を記録する。次の連絡も予定どおりだった。旧搬出室へ向かう保守通路の入口で、扉の状態を確認しているという。
『扉の開閉は可能です。ただし、奥の照明は点灯していません。ここから先は、追加の確認が必要です』
俺は息を止めた。扉が開いたと聞くと、つい通れると思ってしまう。けれど、以前のB経路でも、扉が開くことと、その先を通れることは違っていた。
相馬さんが通信機を取った。
「こちら地上側。予定していた確認範囲は、どこまでだ?」
『扉の手前までです。奥へ入る予定はありません』
「なら、そこで確認を終えて戻ってくれ。必要な情報は取れたか」
『はい。扉の表示と、設備番号を記録しました。戻ります』
俺は肩の力を抜いた。奥がどうなっているか気になる。でも、気になるからといって、予定外の場所へ進む理由にはならない。
四人が地上へ戻ったのは、予定より少し早い時刻だった。管理責任者が一人ずつ顔を確かめ、通信担当が入域者全員の帰還を記録する。
「四人全員、地上へ帰還しました」
その報告を聞いて、俺はようやく深く息を吐いた。調査の目的は、誰かを救助することではなかった。それでも、入った人が全員戻るところまでが、今日の仕事だ。
作業室では、調査員たちが写真を広げた。旧搬出室の手前には、古い金属の扉がある。扉の上には、かすれた文字で『搬出設備室』と書かれていた。
「『第二退避口』じゃないんですね」
俺が言うと、設備担当は頷いた。
「現地の扉には、その表示はありません。案内図にだけ書かれています」
「それなら、初めて来た人は迷いそうですね」
「はい。しかも、扉の先にある照明は使えません。換気設備の運転状況も、まだ確認できていません」
安全担当は写真を一枚ずつ並べた。
「現時点では、旧搬出室を避難経路にも待機場所にも指定できません。今後、設備を点検することは可能ですが、今日の調査だけで使えると判断することはしません」
相馬さんが頷いた。
「それでいい。今日の四人が予定どおり戻ったことと、旧搬出室が使えるかどうかは、別の話だからな」
俺は写真を見た。扉の向こうがどうなっているかは、まだ分からない。けれど、少なくとも今は、そこへ向かうよう案内してはいけないと分かった。
設備担当が、もう一枚の写真を見せた。扉へ向かう通路の床に、古い塗料で矢印が描かれている。上から何度か塗り直された跡があり、近くには新しい案内板も取り付けられていた。
「この矢印も、避難経路の案内ですか」
フェナが尋ねると、設備担当は首を横に振った。
「昔、搬出作業のために付けたものです。荷物を運ぶ台車が曲がる方向を示していたんだと思います。ただ、今の案内板と同じ方向を向いているので、利用者には区別がつきませんね」
俺は写真を見つめた。新しい金属板と、古い床の塗料。別々の目的で付けられた矢印が、同じ方向を示している。それを見た人は、どちらも出口へ向かう印だと思うかもしれない。
「案内板だけを覆っても、床の矢印が残りますね」
「そうです。だから、確認が済むまでこの通路自体を通常の入域範囲から外します。作業員が入る必要がある時は、目的と範囲を決めてからにします」
安全担当は、写真の位置を図面に記した。
「今後の案内を直す時には、掲示板だけでなく、床や壁の表示も確認します。古い設備の目印が、今の避難案内と混ざっていないかも調べたいです」
相馬さんが頷いた。
「見えている印は、全部、誰かの行動につながる。現場を歩く人が何を見て判断するか、そこまで確かめよう」
俺は記録表に『床面の旧搬出用矢印』と書き込んだ。今までは、案内図の線を直せば十分だと思っていた。でも、現地には紙や金属板だけではない目印がある。人が迷った時、何を信じるかは、机の上の図面だけでは分からない。
管理責任者は深く息を吐いた。
「通常入域の再開は、もう少し先になりそうですね」
「そうですね」
安全担当が答える。
「ただ、旧搬出室を使えるようにすることだけが選択肢ではありません。主通路が使えなくなった時の待機場所と連絡手順を、現在の設備に合わせて組み直す方法もあります」
「それなら、施設を再開できる可能性があるんですか」
「必要な安全確認が済めば、検討できます。今ここで再開を約束することはできませんが」
管理責任者は頷いた。表情はまだ硬い。それでも、何を確かめれば次へ進めるのかが見えたことに、少し安心しているようだった。
昼休み、俺は施設の外で弁当を食べた。フェナは隣のベンチに座り、朝から見ていた記録を膝の上に置いている。
「休憩中くらい、紙を閉じたら?」
俺が言うと、彼女は慌てて資料を畳んだ。
「すみません。つい、気になってしまって」
「旧搬出室のこと?」
「それもあります。でも、施設の人たちのこともです。入域を止めている間、予定していた調査や仕事ができなくなるでしょう。安全のために止めるのは大切ですけど、ずっと止めたままでは困る人もいるんですよね」
俺は箸を止めた。昨日、受付で引き返した調査員も、予定を組み直すと言っていた。今日の管理責任者も、再開の見通しを気にしている。
「うん。だから、使えないって決めるだけじゃ足りないんだと思う」
「そうですね。安全に使えるようにするには、何をすればいいのか。そこまで考えないと、施設の人たちも動けません」
フェナは弁当の蓋を開けた。
「ナオトさんの能力も、帰る道が見えるだけじゃなくて、誰かが帰れるようにするために使ってきましたよね」
「俺の能力は変わってないよ。できることも、前と同じだと思う」
「でも、使い方は変わりました」
彼女はまっすぐこちらを見た。
「最初は、ナオトさんが一緒に帰ってくれることが、すごいことだと思っていました。今は、ナオトさんがいない時でも帰れるように、みんなで考えているでしょう。私は、そっちも大事だと思います」
俺は少し照れくさくなって、弁当へ目を戻した。
「……そう言われると、悪い気はしないね」
「褒めてるんですから、もっと喜んでください」
フェナが笑う。俺もつられて笑った。
午後、施設の会議室では、入域再開へ向けた検討が始まった。旧搬出室をすぐに使えるようにするのではなく、主通路が使えなくなった場合の連絡と待機の手順を、実際の設備に合わせて組み直すという。
「現在、通信が安定している場所はどこですか」
瀬川さんが画面越しに尋ねると、設備担当が別の図面を開いた。
「入口側の作業区画と、中央の設備室です。ただし、どちらも非常時の待機場所として確認したわけではありません。広さや換気、人数の条件を調べる必要があります」
「通信が届くからといって、そこに留まっていいとは限らないんですね」
俺が言うと、安全担当は頷いた。
「そうです。逆に、広くて安全そうに見える場所でも、連絡が取れなければ救難側が位置を把握しにくい。待機場所にするなら、複数の条件を確認する必要があります」
相馬さんは資料を見ながら言った。
「救難側としては、そこに何人まで待てるのか、どこから連絡できるのか、救助班が近づく時にどの経路を使えるのかを知りたい。施設の設備担当と一緒に考えよう」
俺はその話を聞き、以前の救助を思い出した。待っている人の場所が分かっていても、怪我人を運ぶ道がなければ助けに行くのは難しい。待機場所を決めるなら、そこからどうやって連れて帰るかも考える必要がある。
「もし待機場所を決めるなら、怪我をした人がいても待てる場所がいいと思います」
俺が言うと、相馬さんは頷いた。
「そうだな。通路の幅や段差も確認してもらおう。救難班が来た時に、搬送できるかどうかは大事だ」
安全担当は新しい確認項目に加えた。
会議が進むうち、俺は一つ気になったことがあった。
「この施設で、今まで主通路が使えなくなったことはあるんですか」
管理責任者は少し考えた。
「大きな事故は記録されていません。ただ、設備点検で一時的に通行を止めたことはあります。その時は、作業員が地上へ戻る時間を決めて、全員が戻ってから通路を閉鎖していました」
「それなら、通常の入域でも、通路を使えなくする作業がある時は、事前に知らせる仕組みがあるんですね」
「はい。ただし、予期しない落石や設備故障は別です。だから、主通路が突然使えなくなった場合の手順を考えなければなりません」
俺は頷いた。昨日までの案内図には、二本の出口があるように描かれていた。その線が消えた今、施設の人たちは、初めて本当に必要な手順を考え始めているのかもしれない。
会議の終わりに、管理責任者が俺たちへ頭を下げた。
「今回は、ご迷惑をおかけしました。案内板を交換した時、もっと確かめておくべきでした」
相馬さんは首を横に振った。
「今は、誰か一人の責任にする話じゃありません。確認の仕組みが抜けていたなら、次から抜けないようにする。原因の整理は必要ですが、現場が言い出しにくくなる形にはしたくない」
「……ありがとうございます」
管理責任者は少しだけ表情を緩めた。
俺はそのやり取りを見て、以前なら思いつかなかったことを考えた。もし自分の能力を使って誰かを帰した時、周りの人が「久世がいるから大丈夫」と思うようになったら、同じことが起きるかもしれない。俺がいれば帰れるから、ほかの確認は必要ない。そう考える人が増えたら、俺の能力はかえって危険な思い込みを作ってしまう。
「相馬さん。俺が現場へ行く時も、確認することを省かないようにしたいです」
会議室を出たところで、俺は言った。
「急にどうした」
「俺がいれば帰れるって思われるのは、嬉しいです。でも、俺には分からないことがたくさんあります。だから、俺がいるからって、ほかの確認をやめてほしくないんです」
相馬さんはしばらく俺を見た。それから、少し笑った。
「分かってるよ。お前が一番、そのことを分かってるだろう」
「……そうですね」
「なら、これからも言い続けてくれ。現場の人間は、慣れると確認を省きたくなる。俺だって例外じゃない」
俺は頷いた。帰る道が見えることと、安全に帰れることは違う。その違いを、俺自身が忘れないようにしたかった。
広域調整室へ戻ると、瀬川さんが新しい資料を用意していた。各施設から集まった案内図の確認状況を、利用者向けに分かりやすく整理するためのものだ。
「施設ごとに、確認できた経路と、まだ確認できていない経路を分けています。これをもとに、利用者へ知らせる方法を考えたいんです」
「昨日、別の施設では、確認依頼が使用禁止だと誤解されたんですよね」
「はい。だから、今回は施設名と対象の経路を最初に書きます。確認済みの経路まで使えないと思われないように」
フェナは資料を見て、少し考えた。
「これ、利用者が自分の施設を探しやすいように、地区ごとに分けた方がいいかもしれません」
「そうですね。施設名だけだと、似た名前の場所もありますから」
瀬川さんは頷き、一覧の並びを変えた。
俺はその作業を見ながら、今日の旧搬出室の写真を思い出した。扉の向こうには、まだ分からないことが残っている。でも、分からないからといって、何もできないわけじゃない。入域を止め、確認する範囲を決め、戻る手順を用意する。その一つひとつが、誰かを帰すための準備になる。
夕方、施設の管理責任者から連絡が入った。再開に向けた安全確認の計画を、正式に作成し始めたという。旧搬出室は当面、避難経路にも待機場所にも使わない。主通路の点検と、別の待機場所の条件確認を進める方針になった。
「少しずつ、前に進んでいますね」
フェナが言うと、俺も頷いた。
「うん。今日、地下へ入った四人も、ちゃんと戻ってきたし」
「そうですね。何かを確かめに行く人が、無事に戻ることも大事です」
その時、瀬川さんが一通の連絡を持ってきた。
「相馬さん。広域の施設管理者会議から、相談が来ています」
「何だ?」
「今回の案内図の問題を受けて、各施設の避難案内を見直すための共通の確認項目を作りたいそうです。救難側からも、現場の意見を聞きたいと」
相馬さんは資料を受け取った。
「それはいい。設備の専門家だけじゃなく、実際に案内を使う探索者の話も聞いてもらおう」
「はい。それで、久世さんにも参加していただけないかと」
「俺ですか?」
思わず聞き返すと、瀬川さんは頷いた。
「今回、案内図を見てどう判断するか、現場で聞いてきたでしょう。帰路の確認だけでなく、利用者が何を信じて行動するかを話してほしいそうです」
俺は少し迷った。会議で話すのは得意じゃない。それに、設備の専門家でもない俺が、どこまで役に立てるのか分からない。
けれど、フェナが隣で言った。
「ナオトさん。分からないことは分からないって言えばいいんです。今日も、そうしていたでしょう?」
俺は彼女を見た。フェナは、いつものように笑っている。
「……そうだね。俺が見てきたことなら、話せると思う」
相馬さんは頷いた。
「なら、頼む。誰もが久世と一緒に地下へ入れるわけじゃない。だからこそ、久世がいない時にも帰れる仕組みを考える必要がある」
俺は資料を受け取った。そこには、各施設の管理者だけでなく、探索者の代表や救難担当も参加する予定だと書かれている。
俺が見せられるのは、帰るための道筋だけだ。でも、今日の四人のように、誰もが自分で帰る判断をしなければならない時がある。
その判断を支えるために、何を伝えればいいのか。
会議の資料には、参加者へ事前に考えてきてほしいことが三つ書かれていた。普段どの案内を見ているか。緊急時、何を頼りに動くか。分からない時、誰へ確かめるか。どれも、救難班だけで答えを決められる質問ではない。
俺は今日の調査員たちの帰還報告を思い出した。四人が予定どおり戻ったのは、帰り道を知っていたからだけじゃない。入る前に人数を数え、行く範囲を決め、途中で無理をしなかったからだ。そんな当たり前の確認を、初めて入る人にも伝えられたらいいと思った。
俺は会議の案内を鞄へしまい、フェナと一緒に調整室を出た。地下へ向かう前に確かめることが、少しずつ増えている。その分だけ、帰るための約束も、前より確かなものにできるはずだった。




