第158話 届かなかった訂正
翌日の朝、広域調整室に入ると、瀬川さんがいつもより早く机に向かっていた。画面には、昨日の施設とは別の地区から届いた案内図が開かれている。
「おはようございます。昨日の管理番号、調べがつきました」
俺が鞄を置くより先に、瀬川さんが声をかけてきた。
「同じ間違いが、ほかの施設にもあったんですか」
「そこは少し違いました。同じ番号が使われていたのは、案内図の書式を共通化した時の台帳です。避難経路そのものが同じという意味ではありませんでした」
俺はほっとしたが、瀬川さんの表情は晴れなかった。
「じゃあ、ほかの施設は大丈夫なんですね」
「そうとも言い切れません。共通の台帳から各施設の図面を作ったことは分かりましたが、どの施設で何を確認したかは、個別に調べる必要があります」
瀬川さんは二枚の図面を並べた。一方には旧搬出室へ向かう線があり、もう一方には別の形の保守通路が描かれている。番号の最初の部分は同じだが、末尾が違っていた。
「同じ番号を見つけたからって、同じ危険があると決めちゃいけないんですね」
「はい。昨日は、こちらも少し急いで考えすぎたかもしれません。関連があると分かっただけで、内容まで一致すると受け取らないようにします」
相馬さんが後ろから声をかけた。
「それでいい。間違いが広がっている可能性は調べる。ただ、別の施設に『非常口が使えない』と決めつけた通知を出したら、それも新しい間違いになる」
俺は頷いた。正しい情報を届けるために始めた仕事で、別の誤解を作ってしまっては意味がない。
今日の作業は、図面そのものの確認に加えて、案内がどこまで配られているかを調べることだった。昨日の施設は入域を止め、入口の案内板を覆った。登録者への通知も送っている。それでも、古い案内を持った人がどこにいるかは、まだ分からない。
「紙の地図は、受け取った人が持ち帰れますからね」
フェナは机に積まれた資料を見ながら言った。
「家で装備を準備する時に見たり、仲間へ渡したり。写真を撮って送る人もいると思います」
「昨日の調査員さんも、後輩に出口が二つあるって教えてましたね」
俺が答えると、瀬川さんは新しい一覧を見せた。
受付で配った紙。施設の公式ページに置かれた案内図。登録者へ送った資料。現地の掲示板。さらに、外部の情報サイトが掲載している地図の画像まで並んでいる。
「こんなにあるんですか」
「分かっているものだけです。施設の公式資料は差し替えられますが、個人が保存した画像や、別の場所へ転載されたものまでは管理できません」
相馬さんは椅子を引いた。
「なら、古い地図を全部消すことを目標にするな。今から入ろうとする人に、何を見れば最新の情報が分かるかを伝える方が現実的だ」
「入口での説明と、更新日時の分かる案内ですね」
「それだけじゃない。古い紙を持っている人が、何かおかしいと思った時に確認できる連絡先も必要だ」
俺はその言葉を聞き、今日救助されたわけではない人たちのことを考えた。地下へ入る前、鞄から古い地図を取り出す人。仲間から送られてきた画像を開く人。そんな人たちが、間違った線に気づく方法はあるだろうか。
フェナが一枚の紙を取り上げた。
「この案内、更新日が書いてありませんね」
「どれ?」
俺が覗き込むと、施設の公式ページから印刷された地図だった。右上に施設名はあるが、いつ作られたものか分からない。
「同じ場所の新しい地図を見つけても、どっちが新しいか分からないですね」
「そうなんです。昨日までの地図と今日の地図が、同じ見た目だったら、区別できません」
瀬川さんは二人の話を聞き、案内の見直し項目に『更新日と確認先の明記』を加えた。
午前中、施設から電話が入った。受付に来た利用者が、古い地図を持っていたという。施設の職員が入域停止を説明したところ、利用者は「この地図は先週もらったばかりだ」と驚いたらしい。
「先週配ったものなら、まだ持っている人が多そうですね」
俺が言うと、瀬川さんは頷いた。
「施設では、配布した期間を調べています。ただ、全員が受付で受け取ったとは限りません。以前の地図を仲間から借りた人もいるでしょう」
フェナが考え込んだ。
「配った地図を取り戻すことはできなくても、『その地図はもう使えません』って伝えることはできますよね」
「どうやって?」
「施設の名前と、古い地図に書いてある番号を知らせるんです。『この番号の地図を持っている方は、今の案内を確認してください』って。写真を持っている人も、番号なら見比べられます」
俺は思わず顔を上げた。
「それ、いいかもしれない。全部の地図を見せなくても、自分が持っているものが古いかどうか分かる」
相馬さんはすぐに賛成しなかった。
「番号がどこに書いてあるかも伝えないとな。小さすぎて見つからない人もいる。番号が読めない場合の確認方法も用意する」
「はい。施設名と発行時期、案内図の写真も使いましょう」
フェナは頷き、紙に案を描き始めた。今度は大きな文字で『古い案内図をお持ちの方へ』と書き、その下に確認方法を並べている。
俺は横から覗いた。
「『古い地図は危険です』って書くより、『使う前に確認してください』の方が分かりやすいかな」
「そうですね。持っているだけで危ないわけじゃありませんから」
フェナは笑い、書き直した。
その案を施設へ送ったあと、もう一つ、思いがけない連絡が入った。受付で古い地図を持っていた利用者が、地図をどこで手に入れたか教えてくれたという。
「施設でもらったんじゃないんですか」
俺が尋ねると、瀬川さんは首を横に振った。
「先週、施設の近くにある装備用品店で、探索者向けの案内を見せてもらったそうです。店員さんが『この辺りの地図なら参考になりますよ』と渡した資料に、問題の経路が載っていたそうで」
「お店でも配っていたんですね」
フェナが驚いた顔をした。
「施設の正式な配布物ではありません。利用者の話だけなので、まず事実を確認します。店が悪いと決めつける話ではないですし、親切で置いていた可能性もあります」
瀬川さんは施設の管理者を通じ、店へ事情を伝えてもらうことにした。少しして、店から返信が届いた。数年前に施設の公開ページから印刷した案内図を、初心者へ渡す参考資料として置いていたらしい。
「地図を売っていたわけじゃないんですね」
「はい。店側も、古い図面だとは知らなかったそうです。今は配布を止め、施設の最新案内を確認するよう伝えると回答してくれました」
俺は少し安心した。古い地図を持っている人を探すだけでなく、古い地図を渡している場所が分かれば、そこで新しい情報を届けられる。
「お店の人も、悪い情報を渡したかったわけじゃないですよね」
フェナが言うと、相馬さんが頷いた。
「そうだ。利用者に役立つと思って渡していたんだろう。ただ、正式な案内じゃない資料は、いつ古くなったか分かりにくい。今後も参考資料を置くなら、施設の最新情報を確認できる場所を一緒に案内してもらうといい」
「でも、その店に来ない人もいます」
俺は机の一覧を見た。
「別の店で写真を見た人や、仲間から画像をもらった人は、施設の更新に気づけないかもしれません」
「だから、入域する時の確認が最後の砦になるんです」
瀬川さんは答えた。
「どこで手に入れた地図でも、入口では同じ説明を受けられるようにする。受付で案内を見せるだけでなく、使えない経路を口頭でも伝える。その記録も残します」
俺は頷いた。情報がどこまで広がったかを全部追うのは難しい。でも、地下へ入る直前なら、本人に届いたかどうかを確かめる機会がある。
昼前、瀬川さんが別の連絡を受けた。昨日救助した四人のうち、代表だった男性から、施設を通じてメッセージが届いたという。本人が希望して、救難の記録に役立つなら話したいと申し出てくれたらしい。
「体調は大丈夫なんでしょうか」
俺が尋ねると、瀬川さんは首を横に振った。
「そこは確認していません。負傷した方の診察結果も、こちらへ詳しく伝える必要はありません。今回は代表の方が、ご自身の経験について書いてくださったものです」
俺は頷いた。帰還した人の生活を、救難側の都合で覗くわけにはいかない。
メッセージは短かった。
『朝にB経路を使わないよう説明を受けていなければ、地図の矢印を信じていたと思います。落石があった時、仲間の一人は「非常口へ行こう」と言いました。自分も一瞬そう思いました。でも、使えると確かめられていない道だと聞いていたので、みんなで待つことにしました。帰れたあと、古い地図を持っている人がほかにもいるのではないかと気になりました』
俺は読み終えて、しばらく画面を見つめた。あの男性が管理棟の外で地図を見せてくれた時、何度も開いた跡があった。助かったあとも、同じ紙を気にしていたのだ。
「この方、怖かったことを思い出して書いてくれたんですね」
フェナが小さな声で言った。
「うん。俺たちが直した方がいいと思ったのも、この人が地図を見せてくれたからだ」
瀬川さんはメッセージを閉じた。
「本人の希望を確認したうえで、個人が分からない形にして、施設の案内見直しに使います。必要以上に詳しく聞くことはしません」
俺はその方針に頷いた。誰かが怖かった経験を話してくれたなら、その言葉を次の人のために使いたい。でも、話してくれた人がまた苦しくなるような扱いはしたくなかった。
午後、案内図の修正案を確認する会議が開かれた。施設の管理責任者は画面越しに参加し、安全担当が作った新しい案内文を見せてくれた。
『現在、第二経路は避難経路として使用できません。主通路以外へ進まず、施設職員の指示に従ってください』
相馬さんは文面を読み、尋ねた。
「入域を再開した時、主通路が使えなくなったらどうする?」
「その場合は、作業を中止して、あらかじめ指定した待機場所で連絡を取る手順に変更する予定です。ただし、待機場所の安全確認が終わるまで、通常入域は再開しません」
「それなら、今の案内には『入域停止中』を残してくれ。再開後の手順と混ざらないように」
安全担当は頷き、文面を直した。
俺は画面の隅に小さく書かれた番号に気づいた。古い案内図と区別するため、新しい版には改訂番号が付いている。
「この番号、利用者にも分かるように大きくできませんか」
管理責任者が答えた。
「できます。ただ、番号だけでは分からない方もいると思うので、発行日と連絡先も一緒に記載します」
「ありがとうございます」
フェナは隣で嬉しそうに頷いた。昨日までの図面は、どれも正しいように見えた。今度は、古いものと新しいものを見分ける手がかりが付く。
修正した案内文をその場で読み上げてもらうと、管理責任者が途中で言葉に詰まった。
「『現在は入域できません』と、『第二経路は使わないでください』が並ぶと、入域が再開したあとも同じ紙を使ってしまいそうですね」
「そうですね。入域停止中の案内と、再開時の避難手順は分けた方がいいと思います」
フェナが答えた。
「今は『入れません』が最初に必要です。でも、再開する時には、確認できた経路と、連絡が取れなくなった場合の対応が必要になります」
安全担当は頷き、二種類の案内を作ることにした。再開後の案内は、現地確認が終わるまで確定しない。俺はその説明を聞いて、少し安心した。急いで一枚の紙に全部詰め込むより、今必要なことを間違えずに伝える方がいい。
「あと、古い紙を持って来た人には、回収するだけじゃなくて、何が変わったかを説明してほしいです」
俺が言うと、管理責任者は頷いた。
「ただ新しいものを渡すだけでは、古い方に書いてあった道を覚えているかもしれませんからね。受付の説明項目に加えます」
会議が終わると、瀬川さんは各施設への連絡文を作り始めた。そこには、特定の施設で起きた問題を、ほかの施設へそのまま当てはめないための注意が書かれている。
「『同じ管理番号の案内図を使っている場合は、避難経路の現地確認記録を照合してください』。これなら、まだ問題が見つかっていない施設にも確認をお願いできますね」
俺が言うと、瀬川さんは頷いた。
「はい。確認が取れている施設まで一律に使用禁止とするのではなく、何を確かめてほしいかを具体的に伝えます」
「でも、返事が来なかったら?」
「その施設が現在どう運用しているか、別の連絡方法で確認します。回答がないことを、問題がない証拠にはしません」
俺は机の上の地図を見た。赤い印が付いた施設、青い印が付いた施設、まだ何も書かれていない施設。調べることは多いが、昨日より少しだけ整理されている。
休憩に入った時、フェナが俺の隣へ座った。
「ナオトさん、昨日の調査員さんのこと、まだ気にしていますか」
「少し。あの人、自分が間違ったことを教えたって、落ち込んでたから」
「私も気になってました。でも、案内板を信じた人が悪いんじゃないですよね」
「うん。あの人が教えたかったのは、安心して仕事ができるってことだったと思う」
フェナは紙コップを置いた。
「だったら、訂正も同じ気持ちで伝えられるといいですね。『前に言ったことは違っていた。だから今はこっちを見てほしい』って」
「そうだね。間違いを見つけた時、誰かを責める言葉から始めたら、次に気づいた人が言い出しにくくなるかもしれない」
彼女は頷いた。
「私も、昨日の案内板が新しいことに気づいた時、言っていいか迷いました。気づいたことを話しても大丈夫な場所なら、もっと早く見つかることが増えると思います」
俺はその言葉を聞き、少し考えた。俺が《帰り道》を使えるようになったばかりの頃、能力が役に立たないと言われるのが怖くて、見えている道を伝えるのをためらったことがある。今は、分からないことを分からないと言うのも、仕事の一部だと思えるようになった。
「フェナが気づいたことは、これからも聞かせてほしい。俺だけじゃ、見落とすことがあるから」
「はい。ナオトさんも、私が間違ってたら教えてください」
「もちろん」
俺たちは笑い合い、残りの飲み物を飲んだ。
夕方、施設から連絡が入った。旧搬出室の現地確認は、まだ実施されていない。換気設備の記録が揃わず、作業手順の見直しを続けているという。その代わり、入口と地上の案内については修正が進み、登録者への通知も送信を終えたらしい。
「ひとまず、できるところからですね」
俺が言うと、相馬さんは頷いた。
「そうだ。地下を確かめる仕事は急がせない。今、誰かが入っているわけじゃないんだからな」
その時、瀬川さんの端末に別の施設から問い合わせが入った。共通の台帳を使っている施設の一つで、今回の照会を受けて古い案内図を確認したという。
「こちらの施設では、第二経路の現地確認記録が残っているそうです。避難経路として使えることも、定期点検で確かめていると」
「それなら、よかったですね」
フェナが言ったが、瀬川さんは続けた。
「ただし、施設側が困っていることがあります。こちらからの確認依頼を見た利用者が、『第二経路は使えないらしい』と仲間へ伝えてしまい、現場で混乱が起きているそうです」
俺は顔を上げた。
「まだ使用禁止だとは知らせていませんよね」
「はい。確認をお願いしただけです。でも、情報が途中で短くなって、別の意味で伝わってしまったようです」
相馬さんはすぐに施設へ連絡を入れた。確認済みの経路を勝手に閉じないこと、現在の案内と点検記録をもとに説明することを、現地の責任者と相談する。
俺は画面に残った二つの連絡文を見た。一方の施設では、出口として使えないかもしれない線を消さなければならない。もう一方では、使えると確認した出口まで消してしまってはいけない。
間違った案内を訂正する仕事は、紙を取り替えるだけでは終わらない。伝える途中で言葉が変われば、正しいはずの訂正も別の誤解になる。
瀬川さんが電話を終え、俺たちを呼んだ。
「久世さん、フェナさん。明日、施設ごとの確認状況を整理するため、利用者向けの案内を見比べてもらえますか。『どの施設の、どの経路についての話なのか』が、最初に分かる形にしたいんです」
「はい。やります」
俺が答えると、フェナも頷いた。
俺は、今日作った案内文をもう一度読み返した。施設名、対象の経路、確認できている事実、今してはいけないこと、問い合わせ先。項目を並べれば当たり前のことばかりだが、どれか一つ抜けるだけで、読む人は自分の知っている情報で隙間を埋めてしまう。
昨日の調査員がそうだったように、俺だって新しい案内板を見れば、新しい出口ができたと思っただろう。間違えた人を探すより、間違えたまま進まなくて済む仕組みを考える方が、ずっと難しい。でも、やる価値はある。
フェナが机の端に置いた下書きには、何度も消して書き直した跡があった。彼女はそれを見て少し照れたように笑い、「分かりやすくするのって、案外大変ですね」と言った。俺も笑いながら頷いた。
俺の《帰り道》は、今いる場所から戻る道筋を教えてくれる。でも、誰かの手元へ渡った言葉が、どんな意味で受け取られるかまでは分からない。
だから俺たちは、明日も確かめる。線がどこへ続くかだけではなく、その線を誰が信じ、誰へ伝えているのかを。




