第155話 地図を渡す相手
管理棟を出たところで、フェナが足を止めた。受付のガラス戸には、さっきまで掲示されていた避難案内図の跡が四角く残っている。新しく貼られた暫定図は、その跡より一回り小さかった。
「ナオトさん。あれ、ちゃんと見てもらえるでしょうか」
彼女が指したのは、赤い文字で「B経路使用禁止」と書かれた紙だった。隣には、管理室へ連絡するための番号と、入域停止を知らせる案内がある。
「今は入域できないし、受付の人も説明してくれるはずだよ」
「それは分かっています。でも、さっき救助された方は、古い地図を持っていましたよね。新しい紙を貼っても、もう配ってしまった地図は残ります」
俺は返事をしかけて、やめた。四人の代表だった男性は、折り畳んだ案内図を胸のポケットから取り出した。何度も開いた跡のついた紙には、使用できるか確認されていない保守階段が、立派な非常口として描かれていた。
管理棟の中では、救難班の撤収が進んでいる。主通路の落石現場は立入禁止になり、B経路も調査が終わるまで使わない。左膝を痛めた探索者は救護担当へ引き継がれ、仲間の三人も地上へ戻った。俺たちがここに残っても、今すぐできることは少ない。
それでも、フェナの問いは置いて帰れなかった。
「相馬さんに話してみよう。ここだけの問題じゃないって、瀬川さんからも連絡が来てたし」
駐車場へ向かっていた相馬さんを呼び止めると、彼は振り返って俺たちの話を聞いた。すぐには答えず、管理棟の入口に目を向ける。
「確かに、掲示を直すだけじゃ足りないな。紙を受け取った人間が、そのあとどこへ持っていくかまでは管理できない」
「今日の四人みたいに、家で装備を準備する時に見返す人もいると思います」
「それなら、まず配布記録を確かめよう。受付がいつから同じ案内図を使っていたか、分かる範囲でな」
相馬さんは管理責任者へ連絡を入れた。新たな調査を押しつけるつもりはない、と最初に断ったうえで、古い案内図の回収方法について相談する。管理責任者は少し考え、過去の利用者全員へ直接連絡するのは難しいが、予約者と登録パーティには通知を送れると答えた。
「入域停止のお知らせと一緒に、B経路を使わない理由も伝えられます。地図の差し替えだけなら今日中にできますが、古い地図を持っている方への通知は、少し時間をください」
「十分です。理由が書いてあれば、ただの設備点検だと思われずに済みます」
フェナがそう答えると、管理責任者は電話の向こうで短く礼を言った。
相馬さんは通信を切り、車の鍵を取り出した。
「戻るぞ。広域から来ている照会の方も整理しないとな。今日中に全部片づく仕事じゃない」
俺は頷いて助手席へ乗り込んだ。窓の外では、管理棟の職員が古い掲示物を一枚ずつ外している。あの作業が終われば、少なくとも次に入口へ来た人は、間違った矢印を目にしなくて済む。
けれど、矢印を信じたまま別の場所にいる人たちはどうだろう。
車が走り出してからも、そのことが気になっていた。
広域調整室へ戻ると、瀬川さんの机には見慣れない色の付箋が増えていた。壁際の大きな地図には、探索区画の位置を示す印がいくつも貼られている。
「お疲れさまです。四人の帰還報告、受け取りました。怪我をした方の搬送先も救護担当から連絡が来ています」
「ありがとう。左膝の状態は?」
「診察中です。現時点では結果待ちなので、こちらの記録も『左膝負傷、医療機関へ引き継ぎ』までにしています」
瀬川さんは端末を閉じ、俺たちの顔を見た。
「先にお伝えしておきます。今日、照会先から返ってきた情報だけで、ほかの探索区画が危険だと決まったわけではありません」
「分かっています。案内図に古い階段が載っているかもしれない、という段階ですよね」
「はい。ただ、同じ書式を使っている施設が思ったより多くて。改修の時期も、管理者もばらばらなんです」
机の上に並んだ回答を見せてもらった。ある施設では、古い保守階段は撤去済みと記録されている。別の施設では、扉の点検記録だけが残っている。通路全体の確認が取れている場所もあれば、地図の作成年すらはっきりしない場所もあった。
「全部同じ扱いにはできないんですね」
俺が言うと、瀬川さんは頷いた。
「一律に『非常口は使えません』と知らせれば、実際に使える経路まで閉じてしまう可能性があります。反対に、確認が済んでいない経路をそのまま残すのも困ります。施設ごとに、確認できた事実を分けて伝える必要があります」
相馬さんが地図を見ながら言った。
「なら、救難側から出す文面も一つじゃ済まないな。『使用禁止』『確認中』『使用可能を確認済み』。それぞれ誰が判断したのか、いつ確認したのかも必要だ」
「その三つだけでも、かなり違うと思います」
フェナが口を開いた。
「でも、地図を読む人が、その違いを理解できるでしょうか。『確認中』なら、急いでいる時には通っていいと思う人もいるかもしれません」
瀬川さんが手を止めた。
「……確かに。管理する側には区別できても、使う側に伝わらなければ意味がありませんね」
俺は今日の四人を思い出した。主通路が塞がれた時、代表の男性はB経路へ行こうとした。けれど、朝に受けた注意を思い出し、仲間と一緒に待つ判断をした。
「あの人たちは、『使うな』って直接聞いていたから止まれたんだと思います。地図に小さく『確認中』と書くだけじゃ、同じ判断ができるか分かりません」
「そうだな」
相馬さんは腕を組んだ。
「非常時の案内は、詳しい人間が読んで理解できればいいわけじゃない。息が上がっていて、仲間が怪我をしていて、早く帰りたい人が読むものだ」
その言葉を聞き、俺は地図の太い矢印を思い浮かべた。案内図は、落ち着いている時にはただの紙だ。けれど地下で帰る道を失った人にとっては、そこに書かれた一本の線が次の行動を決めてしまう。
「使えない場所には矢印を残さない方がいいと思います。どうしても載せるなら、はっきり『進入禁止』と書くとか」
「ただし、ほかに使える出口がない場合もある」
瀬川さんが資料をめくった。
「その時は『主通路が使えなければ、どこで待って、誰に連絡するか』まで決めておかないと、出口を消しただけになります」
俺は頷いた。救難班が到着するまで安全に待てる場所があるとは限らないし、通信が使えるとも限らない。そこは施設の構造と、現場で起こり得る危険を知っている人たちが考える必要がある。
「俺が地図を見ても、そこまでは分かりません。実際に使う人と、設備を管理している人に聞きたいです」
相馬さんが俺を見る。
「いいな。明日の会議で、そのまま言ってくれ」
「えっ、俺がですか?」
「今日は現場にいたんだろう。何を信じて四人が動こうとしたのか、直接聞いた人間の話は役に立つ」
会議で話すのはまだ得意じゃない。それでも、四人の代表が「これから入る人のためにも」と言っていたことを思い出し、俺は頷いた。
瀬川さんは別の資料を開いた。
「実は、もう一つ相談があります。今日の四人のように、利用者の話を聞ける機会があっても、救助が終わると記録が『全員帰還』だけになりがちなんです」
「帰ったあとに、どの案内を見ていたかまでは残らないんですね」
「そうです。もちろん、救助された直後の方に無理に話を聞くわけにはいきません。でも、本人が話してくれるなら、次の案内を直すための手がかりになります」
フェナが資料を受け取った。
「今日の方は、自分から地図を見せてくれました。ああいう話を、本人が望む形で残せたらいいですね」
「そのための窓口を作ろうと思っています。話すかどうかは本人が決められて、治療や休養を優先できるように」
瀬川さんの声には、いつもより慎重な響きがあった。
俺は、古い排水路から救助された作業員のことを思い出した。足首を痛めながら、子どもとの約束を気にしていた人だ。あの人に今すぐ事故の説明を求めることは、俺にはできない。無事に帰った人にも、帰ってからの時間がある。
「話してくれる人の言葉だけ、受け取るんですね」
「はい。話さなかったことを、協力しなかったと扱わないようにしたいんです」
その方針に、俺は少し安心した。
午後の作業は、照会の返答を整理することから始まった。俺が任されたのは、専門的な判断ではなく、各施設から届いた案内図に「利用者が実際に目にする場所」を書き添える仕事だった。
受付の掲示板。入域時に渡される紙。装備室の壁。施設の登録者向けに送られる案内。管理者の回答を読み比べると、同じ施設の中でも情報の置かれ方が違う。
ある施設は受付の地図だけを更新していた。別の施設は、地上の看板を直したものの、地下の分岐に古い矢印が残っているという。さらに別の施設では、探索者が持ち歩く携帯用の地図が、何年も前に作られたものだった。
「これ、全部直すのに時間がかかりそうですね」
俺が呟くと、瀬川さんは頷いた。
「だから、今日中にできることを先に決めます。今も入域している人がいる施設には、まず直接連絡してもらう。新しく入る人には受付で説明する。掲示物の交換や図面の改訂は、そのあとです」
「地下にいる人に連絡が届かなかったら?」
「最後に連絡した時刻と位置を確認して、施設の手順に従って対応します。連絡が取れないだけで、すぐ遭難と決めつけることはできません。でも、確認を先延ばしにもしません」
俺はその言葉を聞いて、端末に記入した。何度も同じことを確かめるように思えても、人数や位置が曖昧なままでは、救助の準備すら始められない。
夕方近く、フェナが休憩用の飲み物を持ってきてくれた。机の上には、赤と青の印がついた案内図が積み重なっている。
「ナオトさん、目が疲れていませんか?」
「少し。図面って、ずっと見ていると線が全部同じに見えてくるね」
「だったら、いったん休んでください。間違った場所に印をつけたら大変です」
彼女はそう言いながら、自分も椅子に座った。いつもなら明るく話すフェナが、今日はしばらく黙っている。
「どうかした?」
「……今日、救助された四人の方を見て、少し考えたんです」
「何を?」
「もし私があの場所にいたら、案内図の矢印を信じて進んでいたかもしれません。ナオトさんと一緒なら、帰る方向を聞けます。でも、そうじゃない人の方がずっと多いですよね」
俺は紙コップを置いた。
「うん。俺が行ける現場なんて、ほんの一部だと思う」
「だから、今日の仕事は大事なんだと思います。ちょっと地味ですけど」
「確かに、岩をどかしたり、誰かを運んだりするわけじゃないもんね」
「でも、間違った道へ入る人が一人減るなら、私たちがここにいる意味はあります」
フェナは照れたように笑った。俺も笑い返し、机の上の資料をもう一度見た。
《帰り道》が見せてくれるのは、俺自身が戻るための道筋だ。ほかの人にその道を伝えられることはある。でも、誰もが俺と一緒にいるわけじゃない。俺がいない場所でも、戻るための判断ができるようにする。そのための地図なら、作る価値があると思った。
休憩を終えたところで、瀬川さんが一通の返信を持ってきた。
「久世さん、フェナさん。これ、見てもらえますか」
送信元は、今日初めて照会に応じた別地区の探索施設だった。施設側は、避難案内図に古い保守通路が残っていることを認めている。ただし、現地の点検記録には「使用可能」と記載されていた。
「使えると確認されているなら、問題ないんじゃないですか?」
俺が言うと、瀬川さんは首を横に振った。
「その確認が、どこまで行われたか分からないんです。記録には『扉開閉良好』とだけあります。階段の先まで人が通り抜けたかは書かれていません」
今日のB経路と同じだ。扉が開くことと、出口まで通れることは違う。
「施設には、通路全体を確認した記録があるか聞きますか?」
「もう照会しました。返事を待っています」
相馬さんが近づいてきた。
「その施設は今、入域している人間がいるのか?」
「本日の入域はありません。明朝、定期の調査班が入る予定です」
「なら、今夜のうちに案内を見直してもらおう。確認が済まない通路を非常口として使わせるわけにはいかない」
「はい。先方も、調査班の入域前に判断するとのことです」
俺は少し肩の力を抜いた。少なくとも、今すぐ誰かがその通路へ向かう状況ではない。
ところが、返信の下に添付されていた写真を見て、フェナが首を傾げた。
「この案内板、ずいぶん新しくありませんか?」
画面には、金属製の案内板が写っていた。文字は鮮明で、角にも目立つ傷がない。古い通路の情報が残っているにしては、最近取り付けたように見える。
「写真が古いわけじゃないんですか?」
「撮影日は今日です。案内板は去年交換した、と説明があります」
瀬川さんが答えた。
俺は写真を拡大した。非常口の矢印の下に、小さな管理番号が刻まれている。その番号は、施設が送ってきた現行図面の番号と一致していた。
「古い地図をそのまま貼り続けていたんじゃないんですね」
「はい。新しい案内板を作る時に、古い経路情報を使った可能性があります」
瀬川さんは静かに言った。
それは、今日まで考えていなかったことだった。昔の紙が残っているなら、見つけて交換すればいい。けれど、間違った情報をもとに新しい地図を作り直していたら、見た目では分からない。
相馬さんは写真を確認し、管理番号を手帳に控えた。
「誰が悪いかを決める前に、元になった図面を追おう。案内板を作った人間が、どの資料を正しいと思っていたかだ」
「そうですね」
瀬川さんは施設へ追加の照会を送った。案内板の発注記録、元図面の版、確認した担当者。どれも今夜すぐに揃うとは限らないが、調べる順番は決まった。
俺は机の上の二枚の写真を見比べた。今日の探索区画で外された古い案内図と、別地区で去年取り付けられた新しい案内板。見た目はまるで違うのに、どちらも同じ種類の思い込みを人へ渡してしまうかもしれない。
その時、調整室の電話が鳴った。
瀬川さんが応答し、相手の話を聞きながら端末を開く。最初は普段通りの声だったが、途中で一度、聞き返した。
「すみません。もう一度お願いします。現地で使っている案内と、登録されている避難計画が違うんですか?」
相馬さんが顔を上げた。瀬川さんは相手の説明を最後まで聞き、折り返しを約束して通話を終えた。
「別地区の管理者からです。案内板の交換記録を探していたら、去年の更新時に避難経路を一つ増やしたことが分かったそうです」
「増やした?」
「はい。ところが、現地でその経路を使った記録がないそうです。新しい図面には出口が二つ描かれていますが、古い避難計画では一つしかありません」
俺は息を止めた。出口を一つ増やすこと自体は、悪いことではない。けれど、誰も通り抜けた記録がないなら、その線は何を根拠に描かれたのだろう。
「明朝の調査班には、もう知らせたんですか?」
フェナが尋ねた。
「今、入域前の説明を差し替えてもらっています。調査班の入域を認めるかどうかは、施設の責任者と安全担当が判断します」
相馬さんは腕時計を見た。
「今日は現地へ飛び出す話じゃないな。記録を揃えて、朝までに判断できる状態を作ろう」
俺は頷いた。誰かが閉じ込められたわけではない。警報も鳴っていない。それでも、今ここで見つかった食い違いを放っておけば、いつか誰かがその矢印を信じてしまうかもしれない。
作業を再開しようとした時、瀬川さんが追加で届いた資料を開いた。画面に表示されたのは、案内板の発注に使われた図面だった。右下には改訂日があり、その横に短い備考が記されている。
俺は文字を読み、思わず瀬川さんを見た。
「……これ、どういう意味ですか」
備考には、こう書かれていた。
『現地未確認。旧避難経路図をもとに暫定作成』
瀬川さんは唇を結んだ。
「暫定のはずだったものが、正式な案内板になってしまったのかもしれません」
相馬さんはしばらく黙って画面を見ていた。それから、落ち着いた声で言った。
「明日の調査班が入る前に、その経緯を確かめる。まずは施設へ、今使っている案内板の写真を全部送ってもらおう」
俺は再び写真に目を向けた。きれいな金属板に描かれた二本の矢印。そのうち一本は、誰も出口まで確かめていない。
古い紙を新しくしただけでは、帰れる道が増えるわけじゃない。
俺たちは今、誰かが地下へ入る前に、その当たり前のことを確かめようとしていた。




