第153話 使えるはずの出口
探索区画の避難案内図に、十五年前の台帳と同じ番号が残っていた。
その事実を知った時、俺は真っ先に昨日の防火扉を思い出した。図面には通路があり、向こう側にも人がいる。それなのに、管理する施設が違い、扉の開き方さえすぐには分からなかった。
今回の案内図には、もっとはっきりした言葉が書かれている。『非常時避難経路B』。太い矢印が地下の奥から地上へ向かい、途中の階段には避難口の記号まで付いていた。
それを見た探索者は、緊急時にはここを通れば帰れると思うだろう。
「この番号が一致しているだけでは、同じ通路とは言い切れないんですよね」
俺が確認すると、瀬川さんは頷いた。
「はい。昔の管理区分と、現在の施設の番号が偶然似ている可能性もあります。先方には、避難口の位置と、現地で確認した開閉状況を照会しています」
「でも、もし本当に同じ場所だったら……」
「避難案内の根拠を調べ直す必要があります。閉塞確認未了という記録が残っている以上、図面だけで安全とは判断できませんから」
相馬さんは俺たちの会話を聞き、資料を閉じた。
「先方の管理者が、今日の午後に地上側の設備を確認するそうだ。救難側からも立ち会ってほしいと依頼が来ている。俺が行くが、久世、お前も同行するか」
「はい。行きたいです」
「勘違いするなよ。地下の通路を探索しに行くわけじゃない。管理者の説明を聞いて、避難手順を確かめるためだ」
「分かっています。現地のことは、現地の人に聞きます」
相馬さんは頷いた。フェナも同行することになり、瀬川さんは広域調整室に残って各施設との連絡を続ける。必要な資料は端末で共有し、何か分かればすぐ伝えてもらうことにした。
移動の車内で、俺は配られた案内図を何度も見た。
探索区画の入口から地上へ戻る経路は二つ描かれている。普段使う主通路と、非常時だけ使うとされるB経路だ。主通路には受付と装備確認所があり、入域する探索者は必ずそこを通る。一方、B経路は区画の奥から古い保守階段へ抜ける形になっていた。
俺の《帰り道》は、こうした図面の正しさを判定する能力ではない。現地へ行ったところで、壁の向こうに通路が残っているかどうかは分からないし、扉の強度も見えない。
それでも、図面に書かれた道を信じていいのか迷う気持ちは、よく分かる。
俺自身、まだF級探索者として一人で動いていた頃、出口を示す標識に何度も助けられた。あの頃は、自分の能力を役に立たないものだと思っていたから、標識や案内図がある場所では、なるべくそれに従うようにしていた。
もし、その標識の先が行き止まりだったら。帰りたい一心で走った人が、そこで足を止めることになったら。
「ナオトさん、また同じところを見ていますね」
隣の席でフェナが言った。
「気になるんだ。ここを非常口だと思っている人が、何人いるんだろうって」
「現地で聞いてみましょう。使っている人がいるなら、案内図を見たこともあるはずです」
「そうだね。俺たちが勝手に想像しても分からないし」
フェナは窓の外を見たあと、少し声を落とした。
「昨日の女性の方、扉の前で『自分で選びたい』って話していましたよね。避難する人にも、どこへ行けるかを知る権利があると思うんです」
「うん。使えない出口なら、使えないって教えてほしいよね」
「はい。知らないまま選ぶのが、一番怖いです」
その言葉が、妙に胸に残った。
探索区画の管理施設は、古い採掘設備を改修した建物だった。外壁の一部には昔の石積みが残り、その隣に新しい受付棟が建っている。入口の前では探索者たちが装備を確認し、受付の係員が入域記録を取っていた。
俺たちを迎えた管理責任者は、疲れた顔で頭を下げた。
「遠いところをありがとうございます。連絡を受けてから、B経路の使用について確認を始めています。現在、新たな入域は一時停止しています」
相馬さんが尋ねた。
「今、中にいる探索者は?」
「四人一組のパーティが一組です。午前中に入域し、主通路から戻る予定になっています。連絡は取れており、体調や装備に問題はないと報告されています」
「四人全員と確認できていますか」
「はい。入域記録とパーティの報告を照合しました。四人とも一緒に行動しています」
その答えを聞いて、俺は少し安心した。昨日のように、数えられていない利用者が残っているわけではないらしい。
「B経路のことは、パーティにも伝えましたか?」
相馬さんの問いに、管理責任者は頷いた。
「はい。現時点では安全を確認できていないため、使用しないよう伝えています。普段の主通路を使って帰還する予定です」
「主通路の状態は?」
「定期点検では問題ありません。今朝も入口側の通行を確認しています。ただ、探索区画の奥から全区間を見通せるわけではありません」
相馬さんはそこで質問を止め、まず現地の図面を見せてもらうことにした。
管理室には、古い図面と新しい図面が別々の棚に保管されていた。現在の避難案内図は、受付に掲示されているものと同じだ。けれど、保守用の詳細図ではB経路の途中が点線になっている。
「この点線は、何を意味するんですか?」
俺が尋ねると、管理責任者は資料を確かめた。
「『旧設備転用部』です。昔の保守階段を、避難時の経路として使う想定だったようです」
「想定だった?」
「私が着任する前から、この表記でした。普段は立入禁止で、定期点検の際も地上側の扉だけ確認していました」
相馬さんが顔を上げた。
「地下側から地上まで、実際に通り抜けた記録はありますか?」
「……今、探しています」
「では、現時点でB経路を使えるとは扱えないな」
「はい。そこは私も同じ判断です」
管理責任者は言い訳をしなかった。代わりに、棚から古い点検記録を取り出し、机に並べ始めた。
俺はその姿を見ながら、昨夜の施設管理者たちを思い出した。安全を確かめたい人も、利用を再開したい人も、最初から危険を放っておこうとしていたわけじゃない。自分が管理する範囲では、必要なことをしているつもりだったのだろう。
ただ、その範囲の外にあるものを、誰が確かめるのかが決まっていなかった。
「地上側の扉は、こちらです」
案内されたのは受付棟の裏手だった。古い石壁に新しい金属扉が取り付けられ、その上に非常口の表示がある。扉の周囲は整備されているが、近づいてみると、表示の下に小さな文字が残っていた。
『旧保守階段』。
「扉を開けても大丈夫なんですか?」
俺が聞くと、設備担当者が答えた。
「外側の管理区画までは点検済みです。ただし、階段の奥へは入りません。今日は扉の開閉と、手前の状態だけ確認します」
管理責任者が鍵を操作し、扉をゆっくり開いた。内側には小さな前室があり、その先にもう一枚、古い格子状の扉が見えた。床には砂ぼこりが積もっている。
「ここから先は、別の管理区分です」
設備担当者が言った。
「昔は保守階段へ続いていましたが、現在は奥の扉の管理者が変わっています。鍵もこちらでは持っていません」
俺は思わず相馬さんを見た。
「昨日と似ていますね」
「ああ。建物の外からは一つの非常口に見えるが、奥には別の扉がある。しかも、その先の確認記録がない」
管理責任者は前室を見つめた。
「案内図では、ここまで来れば外へ出られるように描かれています」
「でも、実際には格子扉があるんですね」
俺が言うと、管理責任者は小さく頷いた。
「はい。今の状態で非常口として案内するのは、適切ではありません」
相馬さんは設備担当へ、扉の現状を写真と記録で残すよう頼んだ。奥の扉には触れず、立入禁止の表示を確認して前室を出る。俺は最後にもう一度、非常口の看板を見上げた。
明るい色の矢印が、外へ出る方向を示している。あれを見た人は、奥の格子扉の存在なんて想像しないだろう。
管理室へ戻る途中、受付にいた若い探索者が俺たちに声をかけた。
「すみません。今日、入域が止まってるのは、奥の非常口のせいですか?」
管理責任者が説明しようとすると、その探索者は慌てて続けた。
「文句を言いたいわけじゃないんです。俺、あの案内図を見て、何かあったらB経路へ行けばいいと思ってました。普段の通路より近い場所もあるんで」
「実際に使ったことは?」
相馬さんが尋ねる。
「ありません。でも、先輩に『非常時はBの方が早い』って教わりました」
俺は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
図面に描かれた一本の線が、誰かの頭の中では確かな帰り道になっている。実際に通ったことがなくても、何度も聞けば疑わなくなるのだろう。
管理責任者は探索者へ向き直った。
「今、その経路の安全を確認しています。確認が終わるまで、B経路は使用しないでください。掲示も修正します」
「分かりました。中にいる人たちにも伝わってますか?」
「はい。現在入域している四人には、通信で知らせています」
若い探索者は安心したように頷いたが、帰り際に小さく言った。
「……でも、知らない人は走っちゃうと思います。非常口って書いてあるから」
その言葉を聞いて、俺はしばらく何も言えなかった。
管理室へ戻ると、瀬川さんから通信が入っていた。古い台帳の管理区分を照合した結果、この探索区画のB経路は、十五年前の改修で残された旧保守階段と位置が重なる可能性が高いという。ただし、同じ番号が使われていた理由や、実際の接続状態はまだ確認できていない。
「やはり、奥へ入って確かめた方が早いんでしょうか」
俺が尋ねると、相馬さんは首を横に振った。
「人が閉じ込められているわけじゃない。今は急いで地下へ入る理由がない。図面と管理者の記録を揃え、専門家が安全を確認してから調査すればいい」
「そうですよね」
「ただし、避難案内の方は今日直せる。使えると確認できない経路を、使えるように見せたままにする必要はない」
管理責任者も頷き、受付の掲示を一時的な案内へ差し替えるよう職員へ指示した。B経路は使用不可、主通路を利用すること。主通路に異常がある場合は、無理に進まず通信で管理室へ連絡すること。連絡が取れない場合の合図や待機場所についても、現場の隊員と確認するという。
俺はそのやり取りを見ながら、昨日の会議で決めたことが、少しだけ形になった気がした。けれど、受付の掲示を直すだけでは、すでに地下にいる四人には届かない。
「中のパーティには、もう一度確認しておいた方がいいと思います」
俺が言うと、管理責任者は頷いた。
「ちょうど定時連絡の時間です。こちらから呼びかけます」
通信機がつながり、少し雑音の混じった声が返ってきた。
『こちら四名、全員無事です。予定していた調査は終わりました。今から主通路へ戻ります』
「了解。B経路は使用しないでください。主通路で異常を見つけたら、そこで止まって報告してください」
『分かっています。主通路の入口側は、今朝問題なかったんですよね?』
「はい。入口側は確認済みです。ただ、奥の状態までは確認できていません。足元に注意して帰還してください」
『了解しました』
通信が切れると、管理責任者は時刻を記録した。俺はほっとして椅子に座った。四人とも元気で、主通路から帰る予定だ。案内図の問題は見つかったけれど、今日のうちに危険を知らせることができた。
フェナが俺の隣へ来た。
「ナオトさん、今朝は会議が終わったら休めると思っていたのに、また忙しくなりましたね」
「そうだね。でも、今回は誰かが閉じ込められる前に気づけた。そこはよかったと思う」
「はい。昨日の女性の方が聞いたら、少し安心するかもしれません」
俺は頷いた。帰ってからの生活があると言っていた彼女の言葉を、こうして別の場所でも生かせるなら嬉しい。
相馬さんは管理責任者と、今後の調査の手順を相談していた。地下側の扉は、専門家が安全を確認するまで触れない。避難案内図は暫定版へ切り替え、入域を再開する条件も整理する。現在の四人が戻れば、区画内に人が残っていないことを確認したうえで調査の準備を進められる。
話し合いの合間に、俺は受付の掲示板をもう一度見に行った。職員が新しい案内を取り付けている。以前の地図を隠すように紙を貼るのではなく、使えない経路をはっきり示した暫定図に差し替えていた。受付で手続きを待つ探索者たちにも、係員が一人ずつ変更を説明している。
「これ、明日にはまた元へ戻るんですか?」
先ほど声をかけてきた若い探索者が尋ねた。係員は首を横に振る。
「安全を確認するまで戻しません。B経路の調査が終わったら、結果を知らせます」
「そうですか。俺、友達にも言っておきます。ここ、初めて来る人も多いんで」
「ありがとうございます。ただ、友達から聞いた話だけで判断しないで、受付でも確認してくださいね」
探索者は照れたように笑い、掲示板の内容を端末に記録してから帰っていった。俺はその後ろ姿を見送りながら、こうした小さなやり取りも必要なのだと思った。会議で決まったことが現場へ届かなければ、図面を直しても意味がない。
管理室へ戻ると、相馬さんが四人のパーティの情報を確認していた。四人は同じ班で定期的に探索に入っている中堅の探索者で、今日は危険度の高い深部へは向かわず、指定された範囲の調査をしているという。応急処置の装備と予備の照明も持っていた。
「慣れている人たちなんですね」
俺が言うと、相馬さんは頷いた。
「だから絶対に大丈夫、とは言えないがな。経験があれば、無理をしない判断ができることもある。今日みたいに避難経路の情報が変わった時は、特にその判断が大事だ」
管理責任者は入域記録を開いた。
「四人とも、予定の帰還時刻は同じです。連絡が取れない場合は、まず最後の報告地点を確認する手順になっています」
「連絡が取れている今のうちに、どこで待つかも決めておいた方がいいですね」
俺が言うと、相馬さんがこちらを見た。
「いいところに気づいた。もし主通路で異常が起きたら、むやみに出口へ走るより、安定した場所で連絡を待つ方が安全な場合もある。もちろん、その場の危険によるが」
管理責任者は端末を取り、四人に送る注意事項へ追記した。俺は少し嬉しかった。会議室で話を聞いていた時は、自分の言葉が何の役に立つのか分からなかったけれど、今なら目の前の一つの連絡を良くすることができる。
フェナが資料を覗き込んだ。
「帰還時刻を過ぎたら、誰が最初に連絡するかも決めておきたいですね。管理室が忙しい時に、誰も連絡していなかったら困りますから」
「それは受付の当番が担当します。確認できなければ責任者へ引き継ぎます」
管理責任者が答える。フェナは頷いた。
「ありがとうございます。待っている人がいると分かっていれば、きっと心強いと思います」
俺は彼女の横顔を見た。昨日の現場では、フェナは通信の整理を手伝い、救助された人の話を聞いていた。今日は現地の受付で、誰が誰に伝えるかを気にしている。仕事の内容は違っても、人が帰るための支えを探しているところは同じだった。
相馬さんは、暫定図が受付と管理室の両方に届いたことを確認すると、ようやく椅子に座った。
「ここまでは、事故が起きる前にできることだな。四人が戻ったら、今日は一度区画を閉じる。奥の扉を調べるのは、明日以降の安全計画ができてからだ」
俺はその言葉を聞き、今日こそ誰も怪我をせずに帰ってこられるといいと思った。必要な連絡は済んでいる。主通路は今朝確認され、四人も帰還の準備に入った。あとは、予定通りに戻ってくるのを待つだけだった。
そこまで話が進んだ時、管理室の通信機が鳴った。受付の係員が応答し、すぐに管理責任者へ顔を向けた。
「中のパーティからです。主通路で何かあったようです」
相馬さんが立ち上がる。
「状況を聞かせてくれ」
通信機の向こうから、さっきとは違う、息の上がった声が聞こえた。
『こちら四名。主通路の途中で落石がありました。先頭の一人が転倒して、足を痛めています』
俺は椅子から腰を浮かせた。
「ほかの三人は?」
相馬さんが尋ねる。
『全員一緒です。意識もあります。ただ、帰りの通路が岩で塞がれました。通り抜けられません』
管理責任者が地図を広げる。主通路は、今朝まで問題のなかった道だ。そこが塞がれたというなら、四人は別の出口を考えなければならない。
だが、もう一つのB経路は、使えるかどうか確認できていない。
「今いる場所は安全か。落石は続いているか」
相馬さんが落ち着いた声で尋ねた。
『落石のあった場所からは離れています。今は音もしていません。足を痛めた一人は座らせています』
「その場で待機してくれ。崩れた場所へ戻らず、B経路にも向かわない。こちらから救難班を出す」
『……分かりました。お願いします』
通信が切れると、管理室の空気が一変した。さっきまで避難案内の見直しを話していた人たちが、今度は実際に取り残された四人のために動き始める。
俺は机の上の二枚の図面を見た。
使ってきた主通路は塞がれ、非常時に使うはずのB経路は確かめられていない。四人は自分たちで戻ろうとしても、どちらの道を選んでいいか分からないはずだ。
相馬さんが俺へ目を向けた。
「久世。出番になるかもしれない。まずは救難班が入れる経路を確認する。お前は準備をして待っていてくれ」
「はい」
俺は答えながら、胸の奥に重いものを感じていた。
今日、俺たちは図面に描かれた出口を疑うことを覚えた。だが、その確認が終わる前に、帰れない人が出てしまった。
四人が無事に戻るためには、どちらの道を使うべきなのか。
その答えは、まだ誰も持っていなかった。




