第152話 図面にない責任
翌朝、広域救難の連絡会が開かれる建物に着くと、入口の案内板には予定より大きな会議室の名前が書かれていた。
昨夜のうちに参加者が増えたらしい。俺が案内板を見上げていると、隣にいたフェナが配布資料を抱え直した。
「ナオトさん、緊張していますか?」
「してる。救難の現場なら、やることを聞いて動けばいいけど、今日は何を話せば役に立つのか、まだよく分からなくて」
「昨日、相馬さんが言っていたじゃないですか。分からなかったことを話せばいいって」
「それを人前で話すのが難しいんだよ」
フェナは少し笑った。俺が苦笑していると、背後から聞き慣れた声がした。
「難しく考えなくていい。質問されたことに答えろ。知らないことは知らないと言え」
相馬さんだった。昨夜は最後まで設備担当との引継ぎをしていたはずなのに、もう普段通りの顔をしている。ただ、目の下にうっすら疲れが残っていた。
「相馬さんこそ、ちゃんと休めたんですか?」
「お前に心配されるとはな。交代要員に現場を渡してから帰ったよ。今朝も三つの施設で水位の急変はない。ただし、地下への立入禁止は続いている」
「原因は、まだ分かっていないんですね」
「ああ。水の流れを落ち着かせることと、なぜ流れたかを突き止めることは別だ。今日は、その違いを全員に理解してもらう必要がある」
会議室へ入ると、長い机が四角く並べられていた。壁の画面には、古い排水路を中心にした三施設の位置関係が映っている。昨日まで机の上で何度も重ねた図面を、こうして大きな画面で見るのは妙な気分だった。
出席者は救難関係者だけではなかった。施設の管理者、設備の専門家、地域の防災担当、広域連携の調整担当。制服も作業着も背広も混じっていて、同じ部屋に集まった人たちが普段は別々の仕事をしていることが分かる。
瀬川さんはすでに席についていた。俺たちを見つけると、空いた椅子を指してくれる。
「おはようございます。昨夜の記録を時系列で整理しました。久世さんには、途中で現場の説明をお願いすると思います」
「はい。資料、読んでおきます」
「全部覚えなくて大丈夫ですよ。私が数字と時刻を確認しますから」
そう言われて、少しだけ気が楽になった。
配布された資料の最初のページには、昨日救助した人の数が記されていた。古い区画から救出した作業員、現在の排水設備に残っていた職員、南側の共同搬入棟で所在を確認した八人と、名簿の外にいた二人。数字だけを見ると、何件もの出来事が短い文章に収まっている。
けれど俺は、その数字の向こうにいた人たちの顔を覚えていた。水の迫る場所で助けを待っていた人。外へ出た瞬間に肩の力が抜けた人。狭い扉を通るため、自分の車椅子を置いていく決断をした女性。あの人たちがいたことを、報告書の中で見失いたくなかった。
会議が始まると、最初に設備担当の職人さんが説明に立った。昨日、古い台帳を読み解いてくれた人だ。
「十五年前の改修で、旧排水系統の一部は撤去されずに残されました。台帳には『旧系統一部存置』『閉塞確認未了』という記載があります。今回の水位変化と関連する可能性がありますが、現時点で水の経路を特定したわけではありません」
画面に古い図面が映され、赤い線が三施設の間を横切った。続いて現在の管理図面が重ねられる。赤い線の一部は、新しい図面では何もない場所になっていた。
「現在の図面に描かれていないということは、撤去済みだったのでは?」
施設管理者の一人が尋ねた。
「その可能性も調べています。ただ、撤去を確認した記録が見つかっていません。現地の構造物も一部残っています。図面から消えていることだけでは、実物がなくなったとは判断できません」
「では、誰の管理責任になるんですか」
別の管理者が続けた。質問の口調は強かったが、怒鳴っているわけではない。昨日から地下を閉鎖し、予定していた搬入や施設利用を止めている人なのだろう。
「うちの設備図にはありません。保守契約の対象にも入っていない。もし古い通路が隣の施設から続いているなら、こちらだけで調べることもできません」
職人さんは答えを急がなかった。
「管理区分の整理は必要です。ただ、今ここで責任者を一人決めても、水の流れが変わるわけではありません。まず、どこがつながっているかを確かめる必要があります」
「責任を曖昧にしたまま、施設を閉め続けろということですか?」
その問いに、会議室の空気が硬くなった。相馬さんが手を挙げた。
「救難側から、一つだけ先に確認させてください。昨日、三施設の地下にいた人は全員地上へ戻りました。だからこそ、今は人を危険な場所へ入れずに調査できます。営業や管理の問題を軽く見ているわけではありませんが、原因が分からない段階で再開を急ぐことには賛成できません」
管理者は相馬さんを見た。
「こちらにも、利用者からの問い合わせが来ています。いつ再開できるのか、答えなければならないんです」
「それなら、答えられる範囲を揃えましょう。『今は安全を確認できないため地下を使えない』『再開時期は調査結果を待つ』。それ以上の約束を救難側が代わりにすることはできませんが、各施設で違う説明にならないよう協力はできます」
相馬さんの言葉を受け、広域調整の担当者が議事を引き取った。施設ごとの利用制限と、共通して知らせるべき内容を分けて整理するという。
俺は机の下で握っていた手を開いた。誰かを助けるための話し合いなのに、途中から責任の押しつけ合いになるのではないかと心配していた。けれど、困っているのは管理者も同じなのだ。安全を確かめる人と、施設を使う人と、そこから帰る人。それぞれの立場で必要な答えが違う。
その管理者は、休憩前にもう一度だけ発言した。
「一つ、お願いしてもいいでしょうか。施設を閉める理由を、利用者に説明するための情報がほしいんです。こちらが『危険です』と伝えるだけでは、なぜ昨日まで使えた場所へ今日は入れないのか、納得してもらえません」
調整担当が尋ねる。
「どのような説明が必要ですか?」
「例えば、地下の水位が一時的に下がったからといって、すぐ使えるわけではないこと。別の施設と古い設備がつながっている可能性があること。それから、誰が安全を確認するのかです。利用者の中には、予約を取り消すと仕事に影響する人もいます。何も言えないまま待ってもらうのは、こちらもつらいんです」
俺は顔を上げた。昨日の救難が終わったあと、俺は安全な場所に戻れたことばかり考えていた。でも、施設を使う予定だった人たちは、今日になっても困っている。救助された人たちが帰れたからといって、その施設に関わる全員の生活が元通りになったわけではない。
相馬さんが答えた。
「調査の進み具合は、設備担当から定期的に共有してもらいましょう。ただし、結果が出ていないことを、出たようには言わないでください。『まだ分からない』という説明も、きちんとした情報です」
「……分かりました。こちらも、再開時期を勝手に約束しないようにします」
管理者は資料へ目を落とした。さっきまで少し強張っていた表情が、わずかに緩んでいる。誰かが責任を引き受けたわけでも、施設を開けられるようになったわけでもない。それでも、利用者へ伝える言葉が見つかったことには意味があるのだろう。
俺は自分の資料の余白に、小さく書き留めた。安全の確認が終わっていない時ほど、分からないことを隠さず伝える。現場でも、会議でも、それは変わらない。
次に、瀬川さんが昨日の連絡記録を画面に出した。
「ここからは、人の所在確認について報告します。南側の共同搬入棟では、施設側の職員八人について早い段階で退避が確認されました。一方、別の利用者二人の所在が判明するまでには時間がかかっています」
会議室のあちこちで資料をめくる音がした。
「二人は搬入のため地下へ入りましたが、共同搬入棟の職員名簿には載っていませんでした。隣接する交流施設の講座で使う備品を運んでいたため、利用予定を管理していたのは別の担当でした」
「受付を通っていなかったんですか?」
「搬入口から直接入る運用だったそうです。入退館の映像には残っていましたが、施設ごとの名簿だけでは二人を数えられませんでした」
瀬川さんは画面を切り替えた。八人の退避確認が取れた時刻と、二人の存在に気づいた時刻。その間には、短くない空白があった。
「この空白を、どうすれば短くできるか。それが今回の重要な課題です」
調整担当が俺の方を向いた。
「久世さん。現場で、この人数の違いをどう受け止めましたか」
突然名前を呼ばれ、背筋が伸びた。瀬川さんが小さく頷いてくれる。
「……最初、八人が戻ったと聞いた時、俺は安心しかけました。でも、相馬さんはまだ確認を終わらせなかったんです。施設を使う人が八人だけとは限らないからって」
俺は資料の数字を指した。
「あとで映像に二人が映っているのを見つけて、携帯電話がつながって、ようやく助けを待っていることが分かりました。もしあの時、全員退避だと決めていたら、二人は誰にも気づいてもらえなかったかもしれません」
自分の声が思ったより大きく響いた。俺は一度息を整えてから続けた。
「俺には《帰り道》という能力があります。でも、会ったことのない人がどこにいるかは分かりません。離れた場所の危険も見えません。あの二人が残っていると分かったのは、映像を確認して、関係する施設へ連絡してくれた人たちがいたからです」
会議室の奥で、誰かがペンを止めた。
「救難の現場では、能力を持った人がいれば何とかなるという話も聞きます。でも、誰が残っているか分からないままでは、俺も何もできません。人数を数える仕事は、地味かもしれませんが、救助を始めるために必要なんだと思います」
話し終えると、少し喉が渇いた。フェナが机の下でそっと水の入った紙コップを寄せてくれた。
調整担当は頷き、参加者へ尋ねた。
「では、地下を使うすべての人を、管理施設ごとの名簿とは別に確認する方法が必要ですね」
「統一した入退室記録を作るべきだと思います」
防災担当が提案した。ところが、管理者の一人が首を横に振った。
「記録を一つにまとめるとなると、個人情報の扱いも変わります。複数の施設で、誰が何時に来たかを全部見られるようにするのは簡単ではありません」
「それに、外部業者が急に来ることもあります。すべての予定を前日までに登録するのは無理です」
別の人も続ける。俺は、せっかく進み始めた話がまた止まってしまうのではないかと思った。
けれど瀬川さんは、すぐに画面へ別の欄を作った。
「全員の予定を事前に一か所へ集めるのが難しいなら、非常時に照会する窓口を決める方法はどうでしょう。各施設が自分の記録を持ったままでも、誰に連絡すれば人数を確認できるかが分かれば、昨日より早く動けます」
「担当者が休みの日は?」
「代わりの窓口も必要です。昨日は夜間の切替えも問題になりましたから、昼間だけつながる連絡先では足りません」
議論の向きが少し変わった。すべてを一度に統一するのではなく、今ある仕組みの間に橋をかける。そんな話なら、現場の人たちも具体的に考えられるようだった。
休憩に入ると、俺は廊下の窓際へ移動した。朝の光が床に長く伸びている。昨夜は地下の水位ばかり見ていたせいか、窓の外を眺めるだけで少し落ち着いた。
「お疲れさまです、久世さん」
瀬川さんが隣に来た。
「ちゃんと話せていましたよ。特に、能力だけでは人数が分からないという説明は、皆さんに伝わったと思います」
「そうだといいんですけど。会議って、もっと結論がすぐ出るものだと思ってました」
「現場と違って、ここで決めたことは明日から別の人も使いますから。急いで決めるほど、困る人が出ることもあります」
「でも、決めなければ昨日と同じことになる」
「はい。だから、今日できることと、時間をかけて調べることを分けるんです」
瀬川さんは窓の向こうを見た。
「私も昨日、職員八人が戻ったという報告を聞いた時、確認が一つ終わったと思いました。そこから先を考えられたのは、相馬さんが『ほかの利用者は』と聞いたからです。あの質問を、誰でもできるようにしたいんですよ」
俺は頷いた。救難の技術は、強い人だけが持っていればいいものじゃない。問いかけ一つで、助かる人が増えることもある。
休憩が終わると、話題は避難経路に移った。
画面に映されたのは、共同搬入棟と隣接する交流施設の境界にある防火扉だった。昨日、車椅子の女性が通るために、救難隊員たちが何度も確認した場所だ。
「この扉は、両施設の管理図面に記載されています。ただし、片方には『管理通路』、もう片方には『非常時連絡通路』と書かれていました」
施設側の説明に、俺は顔を上げた。
「同じ扉なのに、名前が違うんですか?」
「ええ。管理上の扱いが違うためです」
「じゃあ、非常時に使えると思っている人と、普段は通れないと思っている人がいたんですね」
担当者は頷いた。
「さらに、現在の案内図では車椅子で通れる経路としては指定していません。階段を使う経路が基本になっています」
昨日の女性の言葉が思い浮かんだ。急いでほしいけれど、何でもいいから運んでほしいわけではない。そう話した彼女は、搬送方法を自分で選んだ。
俺は手を挙げた。
「その案内図を見た人は、車椅子だったらどこへ行けばいいか分かるんでしょうか」
「……現状では、施設の職員へ連絡するよう案内しています」
「連絡できなかったら?」
答えがすぐには返ってこなかった。相馬さんが俺の問いを引き取った。
「昨日は付き添いの人が電話を持っていて、通信も途中でつながった。だが、いつも同じ条件とは限らない。避難経路の表示と、実際に使える経路は分けて確認する必要があるな」
調整担当が頷いた。
「施設側で、車椅子利用者を含む避難手順の再点検をお願いします。本人の希望や必要な支援を確認できる仕組みも含めて、救難側と相談しましょう」
俺は少し迷ってから口を開いた。
「昨日の女性は、講座の予定を気にしていました。助けられるだけじゃなくて、帰ってからの生活もある人です。もし意見を聞くなら、負担にならない形でお願いしてほしいです」
調整担当は頷いた。
「本人の同意がある場合に限ります。救助された人に、こちらの都合で説明を求めるべきではありませんから」
その返事に、俺は安心した。
会議の終盤、瀬川さんが一枚の表を配った。そこには、今日決められる対応がまとめられていた。地下への立入禁止を続けること。施設ごとの人数確認窓口を共有すること。図面にない旧系統を、存在しないものとして扱わないこと。避難経路の表示と、実際の通行条件を照合すること。
どれも大きな設備を動かす話ではない。けれど、昨日の現場で困ったことが、少しずつ次のための手順になっていくのを感じた。
最後に、設備担当の職人さんが発言した。
「もう一つ、確認してほしいことがあります。古い台帳に『関係施設へ周知』と書かれていますが、受け取った側の記録が揃っていません。昨日の三施設以外にも、同じ改修に関わった建物があった可能性があります」
会議室が静かになった。
「施設の数は分かりますか?」
調整担当が尋ねる。
「台帳の一覧には五つの管理区分が記されています。ただ、現在の名称と一致しないものがあります。統廃合で変わったのか、建物が別の管理者へ移ったのか、まだ調べているところです」
俺は画面を見た。三つの施設だけでも、図面を重ねるのに苦労した。管理区分が五つあったというなら、確認していない場所がまだ残っていることになる。
「水がそこまで流れているってことですか?」
俺が尋ねると、職人さんは首を横に振った。
「そこまでは分からない。管理区分があったことと、排水路が今もつながっていることは別だ。ただ、調べる対象から外していい理由もない」
相馬さんが頷いた。
「なら、先に管理者と連絡先を調べよう。地下へ入る必要はない。図面と記録で分かるところまで確認する」
調整担当が会議の結論を読み上げようとした時、瀬川さんの端末に短い通知が届いた。彼女は画面を見て、少しだけ眉を寄せた。
「相馬さん。広域救難の別地区から、照会への返答が来ています」
「もう届いたのか?」
「はい。古い台帳の管理区分の一つに、心当たりがあるそうです」
瀬川さんは画面をこちらへ向けた。そこには昔の施設名と現在の用途が並び、現在は地下探索区画の入退域を管理する施設として使われている、と書かれていた。
「探索区画?」
俺は思わず聞き返した。相馬さんの目つきが変わった。
「そこは、今も探索者が出入りしているのか」
「はい。ただ、古い排水路との接続が確認されたわけではありません。先方は念のため、現在の管理図面と避難手順を照合したいそうです」
俺は資料の端に印刷された施設の名前を見つめた。水の事故が、すぐ別の場所で起きると決まったわけじゃない。けれど、探索者が使う地下区画なら、俺たちが知っている救難の現場とつながってくる。
相馬さんは調整担当へ顔を向けた。
「この照会は、今日のうちに進めてほしい。危険だと決めつける必要はないが、使われている避難経路に古い情報が混じっていないか、早めに確かめたい」
会議が終わったあとも、俺たちは席を立たずにいた。画面には五つの管理区分が並び、そのうち一つだけ、現在の探索区画と結びついている。
その時、瀬川さんが新しい資料を開いた。
「……久世さん。先方が使っている避難案内図も届きました」
そこには、探索者が緊急時に戻るための経路が太い線で描かれていた。俺は、その線の先にある記号に見覚えがあった。
昨日、十五年前の台帳で見た『閉塞確認未了』の印と、同じ番号だった。今も使われている避難案内図に、閉じたかどうか分からない古い通路が載っている。俺は相馬さんを見た。相馬さんも、同じ場所を見つめていた。
「……まずは、実際に使える道なのか確かめないとな」
その声を聞いて、俺はもう一度図面を見た。昨日は誰かを連れて帰るために道を探した。今日は、まだ誰も迷っていないうちに、帰れると思われている道を確かめようとしている。
それが、次の救難を左右するかもしれなかった。




