第150話 扉の幅だけでは決められない
管理廊下の奥で、金属が擦れる音がした。
俺は入口の外に立ったまま、通信機から聞こえる救難隊員の報告を待っていた。扉の向こうには二人がいる。車椅子を使う女性と、搬入を手伝っていた男性だ。二人とも怪我はないと話しているが、地下の水位は上がり続けている。
『扉が動きました。開放幅は五十センチほどです。こちら側への急な流入はありません』
相馬さんが通信機を握り直した。
「水位の差は?」
『向こう側の床に浅く水が広がっています。こちら側は今のところ乾いています。設備担当が確認していますが、扉が途中で引っ掛かって、これ以上開きません』
「無理に押すな。原因を確認してくれ」
『了解しました』
俺は壁際から通路の奥を覗いた。携帯照明の光が何本も重なり、隊員たちの影が壁に伸びている。遠くから女性の声が聞こえたが、何を話しているのかまでは分からなかった。
「扉が開かないなら、別の道を探すんでしょうか」
俺が尋ねると、相馬さんは首を横に振った。
「まだ決めない。人が通れる幅はあるが、車椅子が通れるかは別だ。扉を安全に開けられるなら、それが一番いい。難しければ、二人の状態に合わせて搬送方法を変える」
「車椅子のまま通れない場合は……」
「本人と相談する。勝手に抱え上げればいいという話じゃない」
相馬さんは当然のことのように言った。俺は少し恥ずかしくなった。救助のことばかり考えて、助けられる側がどうしたいのかを、まだ聞いていなかったからだ。
現地班から続報が入る。扉の下部にある金属製の保護板が変形し、床に引っ掛かっているらしい。扉の保持装置は解除できたが、力任せに動かすと板が外れたり、扉そのものが傾いたりするおそれがあるという。
「扉のこちら側から補修できるか?」
相馬さんが尋ねた。
『設備担当が確認しています。ただ、作業に時間がかかる可能性があります』
「分かった。二人の足元の水位も継続して確認してくれ。時間がかかるなら、先に人を通す方法を検討する」
通信が終わると、相馬さんは待機していた搬送担当の隊員を呼んだ。隊員は細い通路用の搬送器材を持ち込み、扉の幅と床の段差を確認するため奥へ向かった。俺もその後ろを追おうとしたが、相馬さんに止められた。
「久世、お前はまだここだ。向こう側に人がいるからって、全員で押しかけても通路が狭くなるだけだぞ」
「……すみません」
「謝ることじゃない。自分の出番が来るまで待てるのも、現場では大事なことだ」
俺は入口の脇へ戻った。近くでは交流施設の管理担当者が、建物の図面を救難隊員へ説明している。普段は利用者が入らない廊下らしく、幅が変わる場所や、扉の開く向きまで確認が必要だった。
その人が俺に気づき、小さく頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「いえ、俺たちは救難のために来ていますから」
「うちの施設の扉なのに、あちら側に二人がいるなんて、警報が鳴るまで知りませんでした。共同搬入棟の管理室とは、普段、鍵のことくらいしか話さないんです」
管理担当者は鍵束を見下ろした。
「同じ建物の一部だと思っていたんですが、管理上は別々で……。何かあった時のことまで、考えていませんでした」
俺は返す言葉を探した。今ここで責任を追及しても、扉の向こうの二人は助からない。ただ、後から同じことが起きないようにするためには、その人の言葉を忘れない方がいい気がした。
「今、手順を教えてもらえたから、救難班がここまで来られたんですよね」
「……はい」
「だから、今は二人を迎えましょう。終わってから、次はどうすればいいか考えられると思います」
管理担当者はしばらく俺を見ていたが、やがて頷いた。
「そうですね。必要な鍵も、図面も、全部出します」
その時、通路の奥から呼ぶ声がした。
「久世さん、相馬さん。二人と直接話せます。こちらへお願いします」
俺たちは隊員の案内で管理廊下へ入った。入口から数歩進むと照明が途切れ、携帯ライトの光だけになる。壁には古い設備番号が貼られ、床の端には使われていない配管が通っていた。狭い場所では隊員が先に進み、俺たちは間隔を空けてついていく。
問題の扉は、通路の突き当たりにあった。厚い金属製の扉が途中まで開き、隙間から向こう側の床が見える。そこには薄い水が広がり、携帯照明を受けて揺れていた。
「こちらの声、聞こえますか」
相馬さんが呼びかけると、すぐに男性の返事があった。
「聞こえます! ここにいます!」
扉の向こうには、二人の影が見えた。男性は車椅子の後ろに立ち、女性は扉の隙間からこちらを見ている。女性は俺たちを確認すると、まず男性へ声をかけた。
「ほら、来てくれたでしょう。さっきから『もう駄目かも』って言い過ぎ」
「いや、だって、あんな勢いで水が来たら誰だって……」
「怖いのは私も同じよ。でも、怖い時に二人で慌てても、扉は開かないもの」
女性の声は落ち着いていた。少し息が速いのは緊張のせいだろうか。相馬さんが名乗り、二人の体調を確認すると、女性は自分で答えた。
「怪我はありません。下半身に麻痺があって、立って歩くことはできません。普段使っている車椅子なので、できればこのまま出たいです」
「分かりました。まずは通れる方法を確認します。お体の状態について、搬送担当からいくつか伺ってもよろしいですか」
「はい。必要なことなら何でも聞いてください」
搬送担当の隊員が前へ出て、女性と話し始めた。姿勢を保つ時に必要な支え、移乗の際に気をつけてほしいこと、普段の介助方法。女性は一つずつ説明し、付き添いの男性も時々補足した。
俺はそのやり取りを聞いていた。救難隊員たちは、彼女をただ『運ぶ人』として扱っていない。何ができて、何をしてほしくないのかを、本人に聞いている。
「車椅子は、この扉を通りそうですか」
女性が尋ねると、隊員は正直に答えた。
「今の開放幅では難しいです。扉の補修ができれば広げられる可能性はありますが、時間が読めません。別の搬送器材へ移っていただく方法も準備しています」
女性は少し黙った。車椅子の肘掛けに置いた指が、きゅっと曲がる。
「この椅子、私の体に合わせて調整してあるんです。置いていくと、外へ出たあと困るんですが」
「分かりました。施設側で使える車椅子を用意できるか確認し、必要な支えも手配します。元の車椅子を回収できるかどうかは、安全を確認してからになります」
隊員は言葉を選びながら続けた。
「今は無理に決めていただかなくて大丈夫です。水位と扉の状態を見ながら、選べる方法をお伝えします」
女性は隊員の顔を見たあと、小さく笑った。
「ありがとうございます。急いでほしいけれど、何でもいいから運んで、とは言いたくなかったんです」
「もちろんです。ご本人が安心して移動できる方法を考えます」
その時、扉の下を流れる水が少し増えた。床に落ちた細かなごみが、こちら側へゆっくり動いてくる。
「水位を確認します。全員、その場で待機してください」
隊員の声が飛び、管理廊下の奥に緊張が走った。設備担当が目盛りを確認し、扉の両側で水の深さを測る。こちら側へ流れ込む量はまだ少ないが、向こう側の水位は上昇していた。
「補修を待つ時間はないかもしれませんね」
搬送担当の隊員が相馬さんへ言った。
「そうだな。人を先に出す方法を優先しよう。ただし、今の隙間で安全に搬送できるか、もう一度確認してくれ」
女性が会話を聞いて顔を上げた。
「私は、椅子を替えれば通れますか?」
隊員は隙間と搬送器材を見比べた。
「器材の幅なら通れます。移乗の際にお体へ負担がかからないよう、専門の隊員が介助します。こちら側には、施設の貸出用車椅子も用意できるそうです」
「分かりました。お願いします」
女性は付き添いの男性を見た。
「あなた、先に行って」
「いや、俺は残るよ。ひとりにできないだろ」
「救難隊の人がこんなに来てくれてるのに? あなたがここで慌ててたら、かえって通りにくいわ」
男性は返す言葉に詰まった。女性は表情を和らげ、少しだけ声を落とした。
「さっきまで一緒にいてくれて、助かった。本当よ。だから今は、先に出て、外で待っていて」
男性は唇を噛んだあと、隊員へ向き直った。
「……分かりました。何かできることがあったら、言ってください」
「ありがとうございます。では、先にこちらへ来てください。足元の段差を確認しながら進みましょう」
男性は扉の隙間を横向きに抜けた。靴が水を踏む音がして、隊員が肩を支える。無事にこちら側へ出ると、男性は振り返り、女性へ手を上げた。
「待ってるから」
「ええ。ちゃんと待っててね」
俺はその短いやり取りに、胸の奥が少し熱くなった。男性が先に出たことで、扉の向こうにいるのは女性と搬送担当の隊員たちになった。救難班は器材の位置を確かめ、女性へ動作を説明していく。
俺にできることは、今もほとんどない。扉の幅を広げることも、彼女の体を安全に移すことも、俺の能力ではできない。ただ、合流できた今なら、外へ戻る道筋を確認できる。
俺は《帰り道》を意識した。管理廊下から設備室へ戻り、地上の通路へ出る方向が見える。見慣れない配管の並ぶ曲がり角でも、戻る方向ははっきりしていた。
「相馬さん、ここから地上へ戻る道筋は確認できています。来た通路を戻って、途中の分岐では左です」
「分かった。現地の通行状態と合わせて確認する。搬送が始まったら、前方の案内を頼む」
俺は頷いた。見えるのは帰る方向だけで、途中の床が傷んでいないかまでは分からない。先行する隊員が足元と通路の幅を確認し、俺は分岐の方向を伝える。それで十分だった。
搬送の準備が整うまで、女性は車椅子の上で静かに待っていた。付き添いの男性がこちら側から話しかけると、彼女は普段通りの調子で返した。
「今日の講座、どうなるかな」
「今それを心配するのかよ」
「だって、写真を全部持ってきたんだもの。見てもらうのを楽しみにしてたのに」
「そんなの、また日を決めればいいだろ」
「そうね。じゃあ、あなたが主催者に謝っておいて」
「俺が?」
「私より先に外へ出るんだから、仕事を頼まないと」
男性が苦笑すると、彼女も笑った。少し前まで震えていた男性の声が、ようやくいつもの調子に戻り始めた気がした。
搬送担当の隊員が女性へ声をかける。
「これから移乗を始めます。途中で痛みや不安があれば、遠慮なく止めてください。ご自身で姿勢を調整できるところは、指示をいただきながら進めます」
「分かりました。肩を支えてもらえれば、上半身は自分で動かせます」
隊員たちは声を掛け合い、彼女の説明に合わせて体を支えた。狭い場所で無理に動かさず、準備した搬送用の器材へ少しずつ移る。俺は邪魔にならない位置まで下がり、周囲の隊員と同じように状況を見守った。
移乗が終わると、女性は自分の手で器材の側面を確かめた。
「これなら大丈夫そうです。ありがとうございます」
「では、扉を通過します。少し体を傾ける必要がありますが、こちらで支えます」
隊員たちは器材の位置を合わせ、扉の隙間をゆっくり通し始めた。金属の縁と器材の間には余裕が少ない。途中で何度も止まり、女性の手や足が当たらないよう確認していた。
その時、扉の向こうで水の音が強くなった。
「水位、変化しています!」
設備担当の声に、搬送班の動きが止まった。女性はちょうど扉の中ほどにいた。前後の隊員が器材を安定させ、現場の責任者が状況を確認する。
俺は反射的に一歩前へ出かけたが、すぐに踏みとどまった。ここで俺が近づいても、通路を狭くするだけだ。
「扉のこちら側は、まだ通行可能です。向こう側の水位が少し上がっています」
設備担当の報告を聞き、責任者が搬送班へ短く指示した。
「通過を続けます。無理な動きはしない。器材の位置を合わせて」
隊員たちが息を合わせる。金属の縁を越え、搬送器材の後端が扉を抜けた時、周囲から小さな安堵の声が漏れた。
「通過しました。こちら側へ移動します」
俺は肩に入っていた力を抜いた。女性は目を閉じて一度息を吐き、すぐに隊員へ尋ねた。
「私の椅子は、そこに置いておいて大丈夫ですか?」
「はい。場所を記録し、施設の管理者へ引き継ぎます。安全が確認できるまでは誰も取りに戻りません」
「それでお願いします。無理して持ってきて、誰かが怪我をするのは嫌ですから」
女性はそう言って、扉の向こうに残った車椅子へ目を向けた。手放すのが簡単ではないことは、表情から伝わってきた。それでも彼女は、救難隊員たちの説明を聞き、自分で決めたのだ。
隊員が扉の状態を確認し、必要な記録を残す。こちら側へ移った二人を安全な場所まで案内する準備が整うと、相馬さんが俺を呼んだ。
「久世、帰路を頼む。先行班の確認した通路を使う」
「はい。地上へ戻る方向は分かっています」
俺は先行する隊員の後ろにつき、通路の分岐で左を示した。管理廊下は曲がり角が多く、同じような扉が続く。搬送班は器材を水平に保ちながら進み、狭い場所では一度止まって壁との距離を確かめた。
「こちらの角を曲がれば、設備室へ続く直線の通路です」
俺が伝えると、先行する隊員が床を照らした。
「了解。段差はありません。搬送班、進めます」
女性は器材の上から俺を見上げた。
「あなたが、帰り道を教えてくれる人?」
「はい。久世といいます」
「さっき、向こう側で聞こえました。外へ出る道が分かるって、本当なんですね」
「帰る方向だけです。今みたいに、狭い場所をどう通るかは皆さんが考えてくれています」
女性はしばらく俺を見てから、ふっと笑った。
「それでいいじゃない。全部できる人なんて、いないでしょう」
俺は思わず返事に詰まった。彼女は気にする様子もなく、天井の配管を眺めている。
「私は、外へ出たら貸出用の車椅子がちゃんと合うか確認しなきゃいけないし、講座の延期も決めなきゃいけない。あなたには、その前に出口まで案内してもらえれば十分よ」
「……はい。任せてください」
俺が答えると、女性は満足そうに頷いた。
設備室の手前で、搬送班が一度止まった。地上へ出る扉の外には段差があり、貸出用の車椅子を使うには搬送器材から移る必要がある。救護担当が女性の状態を確認し、施設側が用意した車椅子の調整を始めた。
付き添いの男性は先に地上へ出ていたが、入口のすぐ外で待っていた。女性の姿が見えると、ほっとしたように手を振る。
「お疲れさま。ちゃんと出られたな」
「あなたもね。途中で戻ってこなくてよかった」
「もう言うなよ。俺だって、あの時は必死だったんだ」
「知ってる。ありがとう」
女性がそう言うと、男性は急に黙り込んだ。俺はその横顔を見て、さっきの彼女の言葉が本当だったのだと分かった。男性が怖がっていたことを、責めていたわけじゃない。自分を助けようとしてくれた人に、無事に外へ出てほしかったのだ。
搬送担当と救護担当が女性の移乗を終え、車椅子の姿勢を確認する。女性は肘掛けに手を置き、少し体を動かしてから答えた。
「大丈夫です。長時間は難しいかもしれませんが、ここから救護室までなら行けます」
「体調の確認をしながら移動しましょう。無理はしないでください」
「はい」
俺たちは建物の外へ出た。薄曇りの空の下、警戒区域の向こうには施設の職員たちが集まっている。女性は外の空気を吸い、目を細めた。
「地下にいると、時間が分からなくなりますね。もうこんな時間なんだ」
付き添いの男性が腕時計を見て答える。
「講座、始まってる時間だ」
「じゃあ、今日は中止ね。参加者の方たちに、申し訳ないことをしたわ」
「謝るのは施設の方だろ。あんたが悪いわけじゃない」
女性は少し考えてから、首を傾げた。
「そうね。でも、次はみんなで、避難経路を確認するところから始めてもいいかもしれない」
その言い方がおかしくて、俺はつい笑ってしまった。女性もこちらを見て笑う。
「何か変?」
「いえ。次の講座のことを考えられるなら、よかったなと思って」
「帰ってからの予定があるもの。いつまでも地下にいられないでしょう」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
救難隊員たちは二人を救護担当へ引き継ぎ、体調の確認と施設側への報告を進めた。相馬さんは南側の管理室と連絡を取り、地下で勤務していた八人に加えて、搬入に来ていた二人の退避を確認した。ほかの入退館記録や映像も照合し、現時点で未確認の利用者はいないことが報告された。
「これで、十人全員の所在が確認できたんですね」
俺が尋ねると、相馬さんは頷いた。
「今、把握できた地下の利用者についてはな。ただし、地下へ人を戻していいという意味じゃない。施設の安全が確認されるまで立入禁止は続ける」
「分かりました」
俺は警戒区域の向こうにある地下搬入口を見た。あそこには、女性の車椅子が残っている。水が引けば回収できるかもしれないが、今はまだ誰も近づけない。
それでも、女性自身は地上へ戻れた。付き添いの男性も、職員たちも、救難隊員たちも戻っている。
その時、瀬川さんから相馬さんへ連絡が入った。
『相馬さん、三つの施設の水位記録が揃いました。少し妙なんです』
「何が分かった?」
『古い排水路の水位が下がり始めた時刻と、現在の管理設備の水位が上がった時刻がほぼ重なっています。そのあと、南側の搬入棟で警報が出ています』
「水が順番に移っているように見える、ということか」
『はい。ただし、今の図面には、その流れを説明できる経路がありません』
相馬さんは顔をしかめた。
「設備担当へ全記録を渡してくれ。推測だけで弁を操作するなと伝える。人は退避できたんだ。ここから先は、急いで間違える方が危ない」
『了解しました』
俺は南側の搬入棟を振り返った。あの建物の地下に水が流れ込んでいるとしたら、どこか別の場所では水が減っているのかもしれない。そして、流れを変える仕組みが残っているなら、また別の施設に影響する可能性もある。
「相馬さん、三つの施設は、今もつながっているんでしょうか」
「まだ断定はできない。だが、別々の事故として片づけるわけにはいかなくなったな」
相馬さんは通信機を下ろし、遠くの管理棟へ目を向けた。
「久世、今日はもう一つ、やることがある。地下へ戻ることじゃない。三つの施設を同じ図面の上に載せるんだ」
俺は頷いた。帰る道を見つけるために、俺たちは何度も図面を広げてきた。今度は、誰かが帰れなくなる前に、そこに描かれていない道を確かめなければならない。
救難班が器材を片づけ始めた頃、設備担当の職人さんが駆け寄ってきた。
「相馬さん、古い台帳が見つかったそうです。排水路の分岐について、図面とは別の記録が残っているかもしれません」
相馬さんが足を止める。
「どこに?」
「最初の管理施設の書庫です。改修工事の引継ぎ資料の中に、閉鎖されていない旧系統の一覧があるそうです」
俺は職人さんの顔を見た。閉鎖されていない旧系統。今まで何度も探していた答えが、そんな言葉で記録されているのだろうか。
相馬さんはすぐに瀬川さんへ連絡した。
「その台帳を確保してくれ。誰も地下へ戻すな。まずは紙の上で、何が残っているのかを調べる」
通信を終えると、相馬さんは俺を見た。
「人を連れて帰る仕事は、いったん終わった。次は、帰れなくなる場所を減らす仕事だ」
俺は、救護室へ向かう車椅子の女性を見送った。彼女は付き添いの男性と何か話しながら、自分で車輪を動かしている。まだ慣れない椅子なのか、時々速度を落としていたが、その横顔には、地下で見た時とは違う余裕があった。
彼女がもう一度ここへ来る時、同じ扉の前で立ち往生することがないように。
そのために何ができるのか、俺も考えたかった。




