第148話 最後の一人を数えるまで
管理棟の外で鳴り始めた警報は、なかなか止まらなかった。
俺は机の上に広げられた図面を見つめたまま、瀬川さんと管理室の担当者が交わす通信に耳を傾けていた。
つい先ほど、古い排水路で動けなくなっていた作業員を救助したばかりだ。足首を痛めていたものの、意識ははっきりしていて、今は救護担当の人たちが付き添っている。
これで一段落すると思っていた。
ところが、古い排水路の水位が下がり始めた直後、今度は現在使われている排水設備で水位上昇の警報が出た。
しかも、二つの設備をつなぐ通路が、管理図面に載っていない場所に残っている可能性があるという。
「瀬川、現在の排水設備にいる作業員の人数を確認してくれ」
相馬さんが指示を出した。
「はい。管理室に確認します」
「設備の状況も大事だが、まずは人だ。誰がどこにいて、何人が退避できているのか。それを先に把握したい」
瀬川さんが通信機を操作する。
俺は図面から顔を上げた。
「相馬さん、現在の設備にも人が入っているんですか?」
「ああ。管理室からの報告では、点検作業中の職員がいるらしい。ただ、全員が退避できたかどうかは、まだ確認が取れていない」
「……そうですか」
俺は思わず入口の方を見た。
さっきまで俺たちがいた古い排水路とは違い、現在の管理設備は日常的に使われている場所だ。
照明もあるし、通路も整備されている。
それでも、水が流れ込めば安全とは限らない。
むしろ、普段から使っている場所だからこそ、そこにいる人たちは突然の異常に戸惑っているかもしれなかった。
「ナオトさん」
フェナが俺の隣へ来た。
「また救助が必要になるんでしょうか?」
「まだ分からない。でも、誰かが残っているなら確認しないと」
「そうですね……」
フェナは不安そうに図面を見つめた。
俺も同じ気持ちだった。
ただ、今すぐ地下へ向かっても、誰がどこにいるのか分からない。
《帰り道》は、離れた場所にいる人を探すための能力ではない。相手と合流できなければ、その人を連れて帰るための道筋も確認できない。
まず必要なのは、正確な情報だった。
「相馬さん!」
瀬川さんが顔を上げた。
「管理室から人数の報告が入りました」
「何人だ?」
「現在の排水設備には、作業開始時点で六人が入っていたそうです。そのうち五人は地上へ退避し、管理室で確認が取れています」
俺は息をのんだ。
「じゃあ、あと一人……」
「はい。残る一人については、まだ退避の確認が取れていません」
相馬さんの表情が険しくなった。
「最後に確認された場所は?」
「排水設備の奥にある点検区画です。水位の計測器を確認するため、ほかの職員とは別の場所で作業していたそうです」
「通信はつながるのか?」
「今、管理室が呼びかけています。ただ、返事はまだありません」
相馬さんはすぐに通信機を取った。
「現在の排水設備へ入る予定だった作業は、すべて中止させてくれ。入口には人を配置して、許可なく地下へ入らないようにする。それと、退避した五人から、残っている一人の最後の位置を確認したい」
「分かりました」
「救難班にも準備を指示する。ただし、現地の状態が分かるまでは入らせるな」
瀬川さんが頷き、連絡を始めた。
俺は図面を見た。
六人のうち五人は戻っている。
でも、最後の一人が確認できていない。
それだけで、救難はまだ終わっていないのだと思った。
しばらくして、退避した職員から詳しい情報が届いた。
最後に確認された作業員は、現在の排水設備の奥にある計測区画で作業していたらしい。
その区画へ行くには、管理用の通路を進み、途中にある階段を下りる必要がある。
普段なら、特に危険な場所ではない。
ただ、今回の水位上昇によって、階段の下にある通路へ水が流れ込んでいる可能性があった。
「相馬さん、これを見てください」
瀬川さんが現在の管理図面を指した。
「残っている作業員が最後に確認されたのは、この計測区画です」
俺も覗き込んだ。
管理棟から続く通路の奥に、小さな部屋のような場所が描かれている。
その手前には階段があり、さらに奥には排水設備へ続く通路があった。
「この人は、警報が鳴った時に戻ろうとしたんですよね?」
俺が尋ねると、瀬川さんは頷いた。
「ほかの職員が通信で退避を呼びかけたそうです。ただ、その時にはすでに水が増えていたらしくて」
「戻れなかったんでしょうか」
「その可能性はあります」
相馬さんが図面へ指を置いた。
「ただし、今はまだ分からない。別の場所へ退避している可能性もあるし、通信機が使えなくなっているだけかもしれない」
俺は頷いた。
無事でいてほしい。
できれば、どこか安全な場所で救助を待っていてほしい。
でも、願っているだけでは状況は変わらない。
俺は相馬さんへ尋ねた。
「俺にできることはありますか?」
「今は待機してくれ。まずは本人の位置を確認する」
「分かりました」
「それと、久世」
「はい」
「お前もさっきの救難でかなり動いている。無理はするなよ」
俺は少し驚いた。
「……大丈夫です」
「そう言うと思ったよ」
相馬さんは苦笑した。
「だが、救難に参加する人間の状態も大事だ。疲れて判断を間違えたら、助ける側が危険になる」
「……はい」
俺は頷いた。
確かに、さっきから体が少し重い。
古い排水路を何度も歩き、足元の悪い場所で緊張し続けていたからだろう。
自分ではまだ動けるつもりだったけれど、相馬さんの言うことも分かった。
俺は椅子に座り、フェナが持ってきてくれた水を飲んだ。
その時だった。
「相馬さん!」
瀬川さんの声が響いた。
「管理室からです! 残っている作業員と通信がつながりました!」
俺は思わず立ち上がった。
「本当ですか!」
「はい! 今、状況を確認しています!」
相馬さんはすぐに通信機を取った。
「こちら相馬。本人の状態は?」
『管理室です。本人は意識があり、会話もできています。ただ、退避できない状態だと言っています』
「場所は?」
『計測区画の近くにある、少し高くなった作業用の床です。そこまで移動して、水が引くのを待っているそうです』
俺は少しだけ安心した。
少なくとも、本人は無事に受け答えができている。
ただ、退避できないということは、帰る通路に問題があるのだろう。
「怪我は?」
『本人は怪我をしていないと言っています。ただ、階段の下まで水が来ていて、元の通路へ戻れないそうです』
相馬さんは図面を見た。
「現在の水位は分かるか?」
『計測器では上昇が続いています。本人がいる場所はまだ水に浸かっていませんが、余裕があるとは言えません』
「分かった。本人には無理に移動しないよう伝えてくれ。それと、周囲の設備には触れないように。操作が必要なら、こちらから指示する」
『了解しました』
通信が終わった。
相馬さんはすぐに救難班へ連絡した。
「行方不明者の位置が確認できた。現在の排水設備、奥の計測区画付近だ。本人は高い場所へ退避しているが、戻る通路が水に浸かっている。これから救助方法を検討する」
通信機から了解の返事が続いた。
俺は図面を見つめた。
作業員は見つかった。
でも、そこへ向かう方法がまだ分からない。
さっきの救難と似ている。
ただ、今回は水が流れ込んでいる場所も、設備の構造も違う。
同じ方法で助けられるとは限らなかった。
「相馬さん」
「どうした?」
「別の入口はないんでしょうか?」
相馬さんは図面を見た。
「今、設備担当が確認している。現在の管理図面には、計測区画へ向かう通路が二つ描かれている」
「二つ?」
「ああ。一つは作業員が入ってきた階段。もう一つは、設備を点検するための通路だ」
相馬さんは図面の別の場所を指した。
「ただし、こちらの通路は普段使われていないらしい。今も通れるかどうかは分からない」
俺はその線を目で追った。
管理施設の別の区画から、計測区画の上側へ続いている。
もし通れれば、水が溜まっている階段を使わずに近づけるかもしれない。
「設備担当の方に確認してもらうんですね」
「ああ。ただ、今はもう一つ確認したいことがある」
「何ですか?」
「水がどこから入ってきているのか、だ」
相馬さんは古い図面を重ねた。
「さっきまで水位が上がっていた古い排水路は、今は下がり始めている。一方で、こちらの設備は急に水位が上がった」
俺は頷いた。
「つながっている可能性があるんですよね」
「そうだ。ただし、つながっているとしても、どの場所から水が流れ込んでいるのか分からない」
相馬さんは図面を指でなぞった。
「もし、古い排水路から大量の水が流れ込んでいるなら、現在の設備を操作したことで別の場所へ水が流れる可能性もある」
「じゃあ、簡単には止められないんですね」
「ああ。設備担当の判断が必要だ」
俺は図面を見た。
水を止めれば解決する。
そんな単純な話ではないらしい。
ある場所の水を止めたことで、別の場所が危険になるかもしれない。
だからこそ、現場全体を見ながら判断しなければならないのだろう。
俺は改めて、救難の難しさを感じた。
しばらくして、設備担当から連絡が入った。
計測区画へ続くもう一つの通路は、現在も残っているらしい。
ただ、入口が古い設備室の奥にあり、普段は使われていないという。
「入口の状態は確認できるのか?」
相馬さんが尋ねた。
『はい。設備担当が現地へ向かっています。入口付近に水が来ていないか、先に確認します』
「分かった。救難班も同行させる。ただし、安全が確認できるまでは中へ入らない」
『了解しました』
相馬さんは通信機を下ろした。
俺は顔を上げた。
「俺も行った方がいいですか?」
「まだだ。まずは入口の確認を優先する」
「……はい」
「久世、お前の力が必要になるのは、救助対象と合流してからだ。今は無理に動かなくていい」
俺は頷いた。
その通りだった。
俺がどれだけ急いでも、離れた場所にいる人の位置は分からない。
帰る道が見えるからといって、そこへ向かう道まで分かるわけじゃない。
今は、救難隊員たちと設備担当の人たちに任せるしかなかった。
フェナが俺の隣へ座った。
「ナオトさん、また心配そうな顔をしています」
「……そうかな」
「はい」
フェナは少し笑った。
「でも、さっきの方も無事に帰れました。今度の方も、きっと皆さんが助けてくれますよ」
「うん。そうだね」
俺は頷いた。
フェナは机の上の図面を見つめた。
「それに、ナオトさんが全部やらなくてもいいんですから」
俺は顔を上げた。
「……そうだね」
「相馬さんも、瀬川さんも、救難隊員の皆さんもいます。私だって、できることはあります」
フェナは少し胸を張った。
「だから、ナオトさんは自分の役割をちゃんとやってください」
俺は思わず笑った。
「ありがとう、フェナ」
「どういたしまして」
フェナも笑った。
その時、通信機が鳴った。
『こちら現地班。別の点検通路の入口を確認しました』
俺たちは顔を上げた。
相馬さんがすぐに応答する。
「相馬だ。状況を教えてくれ」
『入口付近に浸水はありません。扉も開けられる状態です。ただ、内部の照明が使えないため、救難用の照明で確認しています』
「通路は残っているのか?」
『はい。古い図面とほぼ同じ位置に通路があります。ただし、途中に設備用の配管が通っていて、幅が狭くなっています』
「人は通れるか?」
『今のところ、通れる状態です。ただ、救助対象を搬送するには狭い場所があります』
相馬さんは頷いた。
「分かった。まずは本人のいる場所まで安全に近づけるか確認してくれ。搬送方法は、そのあと考えよう」
『了解しました』
通信が終わる。
俺は少しだけ息を吐いた。
別の通路が残っている。
それなら、助けに行ける可能性がある。
でも、通路が狭いということは、救助したあとが問題になるかもしれない。
俺は図面を見た。
計測区画へ続く細い通路。
その先に、今も助けを待っている人がいる。
早く迎えに行きたい。
でも、無理に進んで救難隊員まで危険にさらすわけにはいかない。
俺は拳を握り、通信を待った。
しばらくして、現地班から再び連絡が入った。
『こちら現地班。通路の奥まで進みました。計測区画の近くまで来ています』
「相馬だ。本人の姿は確認できるか?」
『まだ直接は見えていません。ただ、声は聞こえています』
俺は顔を上げた。
「声が届いたんですね!」
相馬さんも頷いた。
「現地班、本人に呼びかけてくれ。怪我の有無と、今いる場所の状態をもう一度確認したい」
『了解しました』
通信機の向こうで、救難隊員が声を張った。
『こちら救難班です! 聞こえますか!』
少しの沈黙。
それから、かすかな返事が聞こえた。
『……聞こえます!』
俺は思わず笑った。
よかった。
ちゃんと声が届いている。
『今、そちらへ向かっています! 怪我はありませんか!』
『怪我はありません! でも、水が増えてきています!』
『分かりました! 無理に動かず、今いる場所で待っていてください!』
『お願いします!』
通信機の向こうで、隊員たちが状況を確認している。
俺はその声を聞きながら、図面を見つめた。
あと少し。
今度こそ、安全に助けられるといい。
しかし、その時だった。
『……相馬さん!』
現地班の声が変わった。
「どうした?」
『通路の先で、水が流れ込んでいる場所を確認しました!』
俺は息をのんだ。
「どこだ?」
『計測区画の手前です! 現在の排水設備とは別の方向から、水が入ってきているように見えます!』
相馬さんの表情が険しくなった。
「別の方向?」
『はい。古い壁の下に開口部があり、そこから水が流れ込んでいます!』
俺は図面を見た。
古い壁。
その向こうには、何があるのだろう。
相馬さんはすぐに古い図面を広げた。
「瀬川、現在の図面と重ねてくれ」
「はい!」
瀬川さんが図面を合わせる。
俺も覗き込んだ。
現在の管理図面では、そこは壁になっている。
でも、古い図面には細い線が描かれていた。
「……ここだ」
相馬さんが指を止めた。
「古い排水路から続いている線と、位置が重なる」
俺は息をのんだ。
「じゃあ、やっぱり……」
「可能性は高い。ただし、現地で確認しなければ断定できない」
相馬さんは通信機を取った。
「現地班、聞こえるか。古い図面では、その壁の向こうに排水路がある可能性がある」
『了解しました』
「水が流れ込んでいる場所には近づくな。まずは安全な位置から確認してくれ」
『分かりました』
俺は図面を見つめた。
古い排水路と、現在の設備。
その二つが、思っていた以上に複雑につながっているのかもしれない。
そして、そのつながりが今、救助を難しくしている。
俺は相馬さんへ尋ねた。
「水が流れ込んでいる場所を塞ぐことはできないんでしょうか?」
相馬さんは首を横に振った。
「今の段階では危険だ。塞いだことで、別の場所へ水が流れるかもしれない」
「……そうですよね」
「まずは人を助ける。設備の対応は、そのあとでもできる」
俺は頷いた。
そうだ。
今、一番大事なのは、助けを待っている人を安全な場所へ連れて帰ることだ。
水がどこから来ているのかを調べることも必要だけれど、それで救助が遅れてしまっては意味がない。
その時、現地班から連絡が入った。
『こちら現地班。要救助者の姿を確認しました!』
俺は顔を上げた。
「……見つかった!」
相馬さんがすぐに応答する。
「状態は?」
『本人は高くなった作業用の床にいます。怪我はないようですが、周囲の水位が上がっています』
「接近できるか?」
『現在、通路の状態を確認しています。水が流れている場所を避ければ、近づける可能性があります』
「分かった。安全が確認できるまで無理に進むな」
『了解しました』
通信が終わる。
俺は大きく息を吐いた。
ようやく姿が確認できた。
あと少しで、救助できるかもしれない。
でも、その時、フェナが小さく声を上げた。
「ナオトさん、これ……」
俺は顔を向けた。
「どうしたの?」
フェナは机の上の古い図面を指していた。
「この線、途中で分かれていますよね」
俺は覗き込んだ。
確かに、古い排水路を示す線が途中で二つに分かれている。
一つは、現在の排水設備へ向かっている。
もう一つは、少し離れた場所へ続いていた。
「……本当だ」
俺は相馬さんを呼んだ。
「相馬さん、ここを見てもらえますか?」
相馬さんが近づいてきた。
「どうした?」
「古い排水路の線が、途中で二つに分かれています」
相馬さんは図面を覗き込んだ。
しばらくして、眉をひそめた。
「……確かにそうだな」
瀬川さんも近づいてきた。
「現在の図面では、こちらの線は描かれていませんね」
俺はもう一つの線を目で追った。
その先には、小さな四角い印が描かれていた。
「これは何ですか?」
俺が尋ねると、相馬さんは首を横に振った。
「古い設備の記号だと思うが、俺には分からない。設備担当に確認してもらおう」
瀬川さんがすぐに連絡を取った。
俺は図面を見つめた。
もし、もう一つの通路が残っているなら。
そこにも水が流れている可能性がある。
そして、その先に何があるのかは、まだ分からない。
ただ、今は目の前の救助が先だ。
俺は顔を上げた。
その時、相馬さんの通信機が鳴った。
『こちら現地班。要救助者のところまで接近できました!』
「相馬だ。状態は?」
『意識ははっきりしています。怪我もありません。本人は自力で歩ける状態です』
俺は思わず笑った。
「よかった……!」
相馬さんも頷いた。
「帰路は確保できそうか?」
『現在、確認しています。途中に水が流れている場所がありますが、救難用の装備を使えば通れる可能性があります』
「分かった。安全を確認してから移動を始めてくれ」
『了解しました』
通信が終わる。
俺は相馬さんを見た。
「俺も行った方がいいですか?」
相馬さんは少し考えた。
「今回は、現地班だけで帰れる可能性が高い。通路の構造も確認できているし、要救助者も歩ける状態だ」
「……そうですね」
「お前の《帰り道》が必要になったら呼ぶ。それまでは待機してくれ」
「分かりました」
俺は頷いた。
少しだけ、肩の力が抜けた。
俺が行かなくても助けられるなら、それが一番いい。
救難は、俺が活躍するためにあるわけじゃない。
誰かを無事に帰すためにある。
だから、今回は救難隊員たちに任せよう。
俺は椅子に座り、通信を待った。
しばらくして、現地班から移動開始の報告が入った。
『こちら現地班。要救助者を連れて退避を開始します』
「相馬だ。了解した。足元に気をつけてくれ」
『了解しました』
俺は通信機を見つめた。
隊員たちは、今まさに水の流れる通路を戻っている。
要救助者は自分で歩けるらしい。
それでも、足元が悪い場所では転倒する危険がある。
無事に戻ってきてほしい。
ただ、それだけを考えていた。
数分後。
『こちら現地班。水が流れている区間を通過しました』
俺は思わず息を吐いた。
相馬さんが頷いた。
「了解。引き続き慎重に頼む」
『はい』
さらにしばらくして、再び通信が入った。
『古い点検通路の入口まで戻りました。これから管理施設へ出ます』
俺は立ち上がった。
「……もうすぐですね」
相馬さんも頷いた。
「ああ。ここまで来れば、あと少しだ」
俺たちは管理施設の入口へ向かった。
そこには救難隊員たちが待機している。
やがて、奥の扉が開いた。
先頭の隊員が姿を見せる。
その後ろから、作業服を着た男性が歩いてきた。
両側には救難隊員がつき、足元を確認しながら進んでいる。
「……出てきた!」
俺は思わず声を上げた。
男性は外の明かりを見ると、少し眩しそうに目を細めた。
それから、大きく息を吐いた。
「……助かった」
救難隊員が笑った。
「お疲れさまでした。もう大丈夫です。こちらで体調を確認しましょう」
男性は頷いた。
俺は少し離れた場所で、その姿を見守った。
怪我はないらしい。
ただ、長い間緊張していたせいか、顔には疲れが浮かんでいた。
それでも、自分の足で歩いている。
無事に帰ってきたんだ。
俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
すると、管理室から退避していた職員たちがやってきた。
「おい!」
そのうちの一人が男性へ声をかけた。
「無事だったのか!」
男性は顔を上げた。
「……ああ。何とか」
「よかった……!」
職員たちは安心したように息を吐いた。
男性は少し苦笑した。
「迷惑かけたな」
「そんなことはいいから、まず休めよ」
「……そうだな」
男性は頷いた。
救護担当の人たちが近づき、体調の確認を始める。
俺はその様子を見ながら、相馬さんへ顔を向けた。
「……全員、戻れましたね」
「ああ」
相馬さんは頷いた。
「六人全員、退避を確認できた」
その言葉を聞いて、俺はようやく安心できた。
人数が合った。
誰も残っていない。
それが分かるだけで、こんなにも気持ちが軽くなるのだと思った。
相馬さんは通信機を取った。
「こちら相馬。現在の排水設備に入っていた作業員六人、全員の退避を確認した。救難班も人数を確認して、全員が地上へ戻ったことを報告してくれ」
通信機から返事が続いた。
しばらくして、救難班全員の退避も確認できた。
俺は大きく息を吐いた。
これで、少なくとも今の設備に残っている人はいない。
相馬さんは俺を見た。
「久世、今回は出番がなかったな」
俺は少し笑った。
「はい。でも、それでよかったと思います」
「そうだな」
相馬さんも笑った。
「お前の力がなくても助けられる。それは、救難の仕組みがちゃんと働いているってことだ」
俺は頷いた。
以前の俺なら、自分が役に立てなかったことを少し気にしていたかもしれない。
でも、今は違う。
誰かが無事に帰れるなら、それでいい。
俺が必要な時には力を使う。
必要ない時には、ほかの人たちに任せる。
それでいいのだと思う。
「ナオトさん!」
フェナがこちらへ駆け寄ってきた。
「全員、無事だったんですね!」
「うん。六人とも戻れたよ」
「よかったです!」
フェナは嬉しそうに笑った。
俺も笑った。
ただ、その時だった。
瀬川さんが少し慌てた様子で近づいてきた。
「相馬さん、設備担当から連絡です」
「どうした?」
「古い排水路と現在の排水設備のつながりについて、確認できたことがあるそうです」
相馬さんは表情を引き締めた。
「聞かせてくれ」
瀬川さんは端末を見ながら説明を始めた。
「古い図面に描かれていた分岐ですが、片方は現在の排水設備へ続いている可能性が高いそうです」
「もう片方は?」
「それが……」
瀬川さんは少し言葉を止めた。
「現在の管理図面には載っていない、別の設備へ続いている可能性があるそうです」
俺は顔を上げた。
「別の設備?」
「はい。昔の排水設備を改修した際、一部の通路がそのまま残された可能性があるとのことです」
相馬さんは古い図面を広げた。
「場所は?」
瀬川さんが指したのは、さっきフェナが見つけた分岐の先だった。
細い線が、現在の管理図面では何も描かれていない場所へ続いている。
俺はその位置を見た。
「……ここって、管理施設の外ですよね?」
相馬さんは頷いた。
「ああ。現在の設備からは少し離れている」
「そこにも水が流れているんでしょうか?」
「まだ分からない。ただ、古い排水路の水位が下がっている以上、水がどこへ流れているのかは確認しなければならない」
俺は図面を見つめた。
古い排水路。
現在の排水設備。
そして、もう一つの通路。
それぞれが、どこかでつながっているのかもしれない。
もしそうなら、水の流れは俺たちが考えていたよりも複雑だ。
相馬さんは通信機を取った。
「設備担当に確認してくれ。もう一つの通路の先に、現在も使われている施設はあるのか?」
瀬川さんが連絡を取る。
俺は図面を見つめた。
救助は終わった。
でも、設備の問題はまだ解決していない。
むしろ、今になって分かってきたことがある。
俺は少し不安になった。
もし、別の場所でも水が増えていたら。
そこに人がいたら。
また救助が必要になるかもしれない。
その時、瀬川さんの端末が鳴った。
瀬川さんは画面を確認した。
そして、表情を変えた。
「……相馬さん」
「どうした?」
「古い排水路の分岐先について、設備担当から回答がありました」
「聞かせてくれ」
瀬川さんは図面の一点を指した。
「この先ですが、現在は別の施設の地下設備になっているそうです」
俺は息をのんだ。
「別の施設?」
「はい。現在の管理区域とは別の場所です」
相馬さんは図面を見つめた。
「……そこは、今も使われているのか?」
「はい。設備担当によると、現在も管理用の通路が残っているそうです」
俺は思わず顔を上げた。
現在も使われている通路。
そこへ、古い排水路から水が流れ込んでいる可能性がある。
もし人が入っていたら。
相馬さんはすぐに通信機を取った。
「その施設の管理者に連絡してくれ。地下設備の使用を中止して、作業員の人数を確認するんだ」
「分かりました!」
瀬川さんが連絡を始めた。
俺は図面を見つめた。
さっきまで、俺たちは一人の作業員を助けるために動いていた。
そして今、六人全員の退避を確認できた。
でも、古い排水路の先には、まだ知らない場所がある。
そこにも誰かがいるかもしれない。
俺は拳を握った。
その時、相馬さんが俺へ声をかけた。
「久世」
「はい」
「今のうちに休んでおけ。次に何が起こるか分からない」
俺は頷いた。
「……分かりました」
「ただし、必要になったら頼むぞ」
「はい。その時は、できることをやります」
相馬さんは頷いた。
俺は椅子に腰を下ろした。
フェナも隣に座る。
「ナオトさん、少し休みましょう」
「うん」
俺は頷いた。
でも、頭の中では古い図面のことが気になっていた。
現在の管理図面には載っていない通路。
その先にある、別の地下設備。
もし水が流れ込んでいるなら、早く確認しなければならない。
俺は大きく息を吐いた。
その時だった。
「相馬さん!」
瀬川さんの声が響いた。
俺たちは顔を上げた。
「別の施設の管理室と連絡が取れました!」
「どうだった?」
「地下設備の使用は、すぐに中止するそうです。ただ……」
瀬川さんは少し言葉を止めた。
「現在、地下に入っている作業員の人数を確認しているところだそうです」
相馬さんの表情が険しくなった。
「まだ人数が分からないのか?」
「はい。作業の記録と、実際の入退室の記録を照合しているそうです」
俺は息をのんだ。
人数が分からない。
それは、誰かが残っている可能性を否定できないということだ。
相馬さんはすぐに指示を出した。
「全員の所在を確認するまで、退避完了とは判断しないよう伝えてくれ。それと、地下の水位を確認してもらおう」
「分かりました!」
瀬川さんが通信機を操作する。
俺は図面を見つめた。
古い排水路から続く、もう一つの線。
その先には、今も使われている地下設備がある。
そして、そこに何人いるのか、まだ分からない。
俺は静かに息を吸った。
帰る道を見つけるためには、まず帰る人がどこにいるのかを知らなければならない。
全員が無事に戻ったと確認できるまで、救難は終わらない。
その時、瀬川さんの端末が再び鳴った。
瀬川さんは画面を確認し、すぐに顔を上げた。
「……相馬さん!」
「どうした?」
「別の施設でも、水位上昇の警報が出たそうです!」
俺は思わず立ち上がった。
相馬さんは通信機を取った。
「地下にいる人の人数は!」
少しの沈黙。
それから、瀬川さんが答えた。
「……まだ、全員の確認が取れていません!」
俺は図面を見つめた。
一本の古い排水路が、思いもよらない場所へ続いている。
そして今、その先でも誰かが帰れなくなっているかもしれない。
俺は拳を握った。
さっきまでの救難で、全員を無事に連れて帰ることができた。
でも、まだ安心するには早かった。
俺たちが知らなかった道の先で、新しい危険が起きようとしていた。




