第147話 もう一つの帰り道
古い点検通路を引き返しながら、俺は何度も通信機へ目を向けていた。
相馬さんから最後の連絡が入ってから、まだ数分しか経っていない。それなのに、足を痛めた作業員を残してきた場所が、ひどく遠く感じられた。
あの人は今も、水が迫る狭い足場で救助を待っている。
別の入口は見つかった。そこから続く通路も残っているらしい。ただ、途中には図面に載っていない金属製の扉があり、その向こうから水の音が聞こえているという。
扉を開ければ先へ進めるのか。それとも、開けたことで水が流れ込み、救助する側まで危険にさらされるのか。
今の俺たちには判断できなかった。
「久世さん、足元に気をつけてください」
先頭を歩く救難隊員が振り返った。
「はい。大丈夫です」
「先ほどより水が増えています。帰りの通路も、同じ状態とは限りませんから」
言われて足元を見ると、確かに水の流れが少し強くなっていた。
入ってきた時には靴底が濡れる程度だった場所でも、水が足首の近くまで達している。
俺は《帰り道》で見える道筋を確認した。
入口へ戻る方向は変わっていない。けれど、その道を安全に歩けるかどうかは、実際に確かめなければ分からない。
「この先の曲がり角を抜ければ、床が少し高くなっています」
設備担当の職人さんが言った。
「そこまでは慎重に進みましょう。水の流れが変わる可能性があります」
先頭の隊員が頷き、足元を確認しながら歩き始めた。
俺たちは互いの距離を保ち、最後尾の隊員とも声を掛け合いながら進んだ。
曲がり角を抜けると、職人さんの説明通り床が高くなり、水の量も少なくなった。
そこでようやく、俺は少しだけ息を吐いた。
「久世さん」
最後尾の隊員が声をかけてきた。
「はい」
「さっき、要救助者の方に声をかけてくれてありがとうございました」
「え?」
「あの方、かなり不安そうでしたから。こちらの説明だけでは、なかなか落ち着けなかったと思います」
俺は首を横に振った。
「俺は、たいしたことはしていません。助ける方法を考えているのは皆さんですし」
「それでも、声をかけ続けてくれる人がいるだけで違いますよ」
隊員はそう言って、少し笑った。
「救助を待つ時間は、本人にとって長いものですから」
俺は返事をせず、前を向いた。
その言葉は、よく分かる気がした。
助けに来た人間がすぐそばにいても、まだ帰れるとは限らない。目の前に危険があれば、なおさらだ。
だからこそ、俺たちが戻ると伝えた時、あの人は不安そうな顔をしたのだろう。
俺は通信機を握り直した。
今度こそ、ちゃんと迎えに行きたい。
そのためにも、まずは俺たちが無事に戻らなければならなかった。
古い金属製の扉を抜け、現在の管理用通路へ戻ると、周囲の様子が少し変わっていた。
入口側から救難隊員が二人近づいてくる。
「お疲れさまです。水位が上がっていると聞きました」
先頭の隊員が頷いた。
「はい。古い区画では、要救助者の足元まで水が達しています。こちらの通路も水が増えているので、奥へ入るのは控えてください」
「了解しました。入口側でも水位を確認しています」
隊員たちは情報を共有し、そのまま俺たちを出口まで案内してくれた。
管理用の扉を抜けた瞬間、外の空気が頬に触れた。
湿った地下の空気とは違う、少し冷たい風だった。
俺は思わず大きく息を吸った。
外には相馬さんが待っていた。
「全員戻ったな」
「はい。四人とも無事です」
先頭の隊員が答えると、相馬さんは人数を確認してから頷いた。
「ご苦労だった。要救助者の状態について、もう一度詳しく聞かせてくれ」
俺たちは管理棟の前に設けられた作業スペースへ移動した。
机の上には古い図面と現在の管理図面が並べられ、瀬川さんが端末を操作していた。
フェナもその隣にいる。
「ナオトさん!」
俺に気づいたフェナが立ち上がった。
「お帰りなさい。怪我はありませんか?」
「うん。大丈夫だよ」
「よかった……」
フェナは安心したように息を吐いた。
俺は少し笑ってから、机の上の図面へ目を向けた。
「別の入口は、どうなっていますか?」
「今、救難隊員が確認しています。扉の手前までは安全に進めるそうですが、その先がまだ分からないんです」
フェナが説明してくれた。
相馬さんも頷いた。
「古い金属製の扉が問題になっている。設備担当の話では、長い間使われていなかった区画を仕切るためのものらしい」
「水が溜まっている可能性があるんですか?」
「それも考えられる。ただ、扉の向こうから聞こえる音が、どこで流れている水なのかまでは分かっていない」
相馬さんは図面の一か所を指した。
「ここが、もう一つの入口だ。現在の管理施設から古い点検通路へ入ることができる」
指の先には、細い通路が描かれていた。
その通路は途中で曲がり、俺たちが先ほど確認した古い排水路の横へ続いている。
「この先に段差があると聞きました」
「ああ。ただ、現地で確認したところ、段差そのものは通行できないほど大きくないらしい。問題は、その手前にある扉だ」
相馬さんは別の図面を重ねた。
「この扉については、古い図面にも記載がない。後から設置された可能性がある」
「じゃあ、扉の向こうがどうなっているのかも……」
「分からない。だから今、設備担当が確認している」
俺は図面を見つめた。
あと少しで、あの人のところへ行けるかもしれない。
でも、焦って扉を開けるわけにはいかない。
その時、瀬川さんの端末が鳴った。
「相馬さん、現地から連絡です」
「どうした?」
「扉の横に、古い点検用の開口部が残っているそうです。現在は金属板で覆われていますが、内部を確認するための設備だった可能性があります」
相馬さんが顔を上げた。
「開けられるのか?」
「設備担当が確認中です。扉本体を動かさずに向こう側を調べられるかもしれないとのことです」
「分かった。無理に外さないよう伝えてくれ。まずは周囲の状態を確認してからだ」
「了解しました」
瀬川さんが連絡を返す。
俺は相馬さんを見た。
「向こう側を確認できれば、進めるかもしれませんね」
「ああ。ただし、水がないことと、安全に通れることは別だ。古い設備だからな」
相馬さんは腕を組んだ。
「扉が開いても、その先の床が傷んでいたら進めない。通路が残っていても、要救助者を連れて戻れるとは限らない」
「……はい」
「久世、お前には帰る方向が見える。だが、そこを通れるかどうかは俺たちが判断しなければならない」
俺は頷いた。
「分かっています」
「ならいい。今は、現地からの報告を待とう」
俺は椅子に腰を下ろした。
フェナが紙コップに入った水を持ってきてくれる。
「ナオトさん、少し飲んでください」
「ありがとう」
「さっきから、ずっと緊張しているみたいです」
「……そう見える?」
「はい」
フェナは俺の隣に座った。
「助けを待っている方が心配なのは分かります。でも、ナオトさんまで倒れたら困りますから」
「うん。そうだね」
俺は水を一口飲んだ。
喉が渇いていたことに、そこで初めて気づいた。
フェナは少しだけ声を落とした。
「その方、お子さんがいるんですよね」
「うん。次の休みに、一緒に出かける約束をしているらしい」
「そうですか……」
フェナはしばらく黙っていた。
それから、小さく呟いた。
「待っている人がいるなら、なおさら帰ってほしいですね」
「……うん」
俺は頷いた。
助けを待っている人には、それぞれ帰る理由がある。
家族に会いたい人もいれば、仲間の無事を確かめたい人もいる。
ただ家に帰って、いつものように眠りたいだけの人だっているだろう。
理由は違っても、帰りたいという気持ちは同じだ。
だから俺は、この仕事を続けている。
俺の《帰り道》は、誰かを見つけることも、危険を取り除くこともできない。
それでも、帰るための道を示すことならできる。
その力が必要な場面で、ちゃんと役に立ちたかった。
「相馬さん!」
瀬川さんの声が響いた。
俺たちは顔を上げた。
「点検用の開口部から、扉の向こうを確認できました!」
「状況は?」
「扉のすぐ向こうは乾いた床になっています。ただ、その先の通路の低い部分に水が流れているそうです」
俺は思わず立ち上がった。
「じゃあ、扉の向こうが全部水で埋まっているわけじゃないんですね!」
「はい。ただし、通路の奥までは確認できていません」
瀬川さんが答えた。
相馬さんは図面へ目を向けた。
「扉に水圧がかかっている様子は?」
「今のところ、扉の両側で大きな水位差は確認されていません。ただ、扉の状態が悪いので、開閉できるかどうかは設備担当が調べています」
「分かった。確認が済むまでは動かすなと伝えてくれ」
「はい」
俺は再び椅子に座った。
少しずつ、状況が分かってきた。
扉の向こうには通路が残っている。
水は流れているが、入口付近は乾いている。
あとは、その先へ安全に進めるかどうかだ。
しばらくして、相馬さんの通信機が鳴った。
『こちら第二現地班。扉の確認が終わりました』
「相馬だ。聞こえている」
『扉は開閉できる状態です。設備担当と救難隊員で周囲を確認しました。扉の向こうに水が溜まっている様子はありません』
「開けても問題ないと判断したのか?」
『はい。ただし、古い設備なので、開けたあとも状態を確認しながら進みます』
「分かった。無理に奥へ入る必要はない。安全が確認できる範囲で進んでくれ」
『了解しました』
通信が終わる。
俺は思わず相馬さんを見た。
「これで、少し進めそうですね」
「ああ。ただ、ここからが大事だ」
相馬さんは立ち上がった。
「久世、準備してくれ」
「……俺も行くんですか?」
「現地の状態が確認できたら、お前にも入ってもらう可能性がある。帰路を確認できる人間がいた方がいい。ただし、今すぐ奥へ入るわけじゃないぞ」
「分かりました!」
俺は頷き、装備を確認した。
フェナも立ち上がった。
「ナオトさん、気をつけてくださいね」
「うん。フェナも連絡をお願い」
「任せてください」
俺は彼女に頷き返し、相馬さんと一緒にもう一つの入口へ向かった。
その入口は、管理施設の建物の奥にあった。
普段は使われていない設備室の先に、古い点検通路へ続く扉が残っている。
入口の周囲には救難隊員が集まり、装備を整えていた。
俺たちが到着すると、現地班の隊員が近づいてきた。
「相馬さん、扉は開けられました」
「その先は?」
「入口からしばらくは乾いた通路が続いています。ただ、奥へ進むと床が一段低くなっていて、そこに水が流れています」
「要救助者のいる場所までは?」
「まだ確認できていません。古い図面では、段差を越えた先に点検用の通路が続いているはずです」
相馬さんは頷いた。
「水位はどうだ?」
「こちら側の通路では、今のところ大きな変化はありません。ただ、要救助者のいる区画では上昇が続いていると聞いています」
「分かった」
相馬さんは少し考えた。
「まずは先行班が通路の状態を確認する。久世は入口側で待機だ。安全が確認できたら呼ぶ」
「はい」
俺は頷いた。
先行班の隊員たちが装備を確認し、古い扉の向こうへ入っていった。
俺は入口の近くで待ちながら、通信機から聞こえる報告に耳を傾けた。
『こちら先行班。扉の先へ入りました。床は乾いていますが、壁に古い亀裂があります』
『相馬だ。進める状態か?』
『今のところ、通路の中央部分に大きな損傷はありません。設備担当が確認しています』
『了解。無理はするな』
しばらくして、再び通信が入った。
『段差を確認しました。高さは一メートルほどです。下の通路には水が流れていますが、横に細い点検用の足場が残っています』
俺は図面を見た。
古い点検通路の横に描かれていた細い線。
どうやら、それが今も残っているらしい。
『足場の状態は?』
『現在確認中です。幅は狭いですが、設備担当によると、点検時に人が通るためのものだったそうです』
『分かった。確認が済むまで進むな』
相馬さんは通信機を下ろした。
俺は尋ねた。
「そこを通れば、作業員の方がいる場所へ行けるんでしょうか?」
「図面通りならな。ただし、今も通れるとは限らない」
相馬さんは俺を見た。
「久世、焦るなよ」
「……はい」
「お前が助けたいと思っているのは分かる。だが、救難は急げばいいってものじゃない」
俺は頷いた。
「分かっています」
「それに、今回はお前一人の仕事じゃない。全員で助けるんだ」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうですね」
相馬さんは頷き、再び通信機へ目を向けた。
やがて、先行班から連絡が入った。
『こちら先行班。点検用の足場を確認しました』
「相馬だ。状況を教えてくれ」
『足場の一部に腐食がありますが、通行できる部分も残っています。現在、救難用の安全確保を行っています』
「要救助者のいる場所は見えるか?」
『まだ直接は見えません。ただ、通路の先から声が聞こえました』
俺は思わず顔を上げた。
「声が?」
相馬さんも通信機へ顔を近づけた。
「本人か?」
『確認中です。こちらから呼びかけています』
少しの沈黙。
それから、通信機の向こうで声が響いた。
『……返事がありました! 要救助者と思われます!』
俺は拳を握った。
つながった。
別の入口からも、あの人の声が届いた。
相馬さんはすぐに指示を出した。
「まずは本人の状態を確認してくれ。水位が上がっているはずだ。無理に近づかず、救助できる方法を考えよう」
『了解しました』
俺は通信機を見つめた。
先行班の隊員たちは、今まさにあの人の近くまで進んでいる。
あと少しだ。
でも、その時だった。
通信機から、緊張した声が聞こえた。
『相馬さん、水位が上がっています!』
「どの場所だ?」
『要救助者がいる区画です! 足場の上まで水が来ているようです!』
俺は息をのんだ。
相馬さんの表情が変わった。
「本人の状態は?」
『意識はあります。ただ、足を痛めているため、自力でこちらへ移動するのは難しいそうです』
「分かった。救助用の装備は?」
『準備しています。安全を確保したうえで接近します』
「了解した。状況が変わったらすぐに報告してくれ」
通信が終わる。
俺は相馬さんを見た。
「俺も行った方がいいですか?」
相馬さんは首を横に振った。
「今はまだだ。現地班が救助の準備をしている。お前が入っても、すぐにできることはない」
「……はい」
「ただし、要救助者を連れて戻る時には、お前の力が役立つかもしれない。準備だけはしておいてくれ」
「分かりました」
俺は頷いた。
待つことしかできない時間が続いた。
通信機からは、現地班のやり取りが断続的に聞こえてくる。
足場の状態。
水の流れ。
要救助者の位置。
救助に使う装備。
隊員たちは一つずつ確認しながら、慎重に準備を進めていた。
俺はその声を聞きながら、何度も入口の方を見た。
やがて、相馬さんの通信機が鳴った。
『こちら先行班。要救助者のところまで接近できました!』
「相馬だ。状態は?」
『意識ははっきりしています。右足首を痛めているようです。自力で立つことはできますが、歩行には支えが必要です』
「水位は?」
『足元まで来ています。ただ、こちら側の点検用足場はまだ水に浸かっていません』
相馬さんは頷いた。
「救助方法は?」
『要救助者に救助用の装備を装着し、二名で支えながら足場へ移動させます。段差の部分では別の隊員が補助します』
「安全は確保できるか?」
『足場の状態を確認し、必要な安全措置を取っています。移動できると判断しました』
「分かった。慎重に頼む」
『了解しました』
俺は大きく息を吐いた。
ようやく、助けるための準備が整った。
ただ、まだ安心はできない。
あの人が安全な場所へ戻るまでは、何が起こるか分からないのだから。
しばらくして、通信機から再び声が聞こえた。
『要救助者の移動を開始します!』
俺は思わず入口へ目を向けた。
その向こうでは、救難隊員たちがあの人を支えながら、狭い足場を進んでいるはずだ。
俺には、その姿が見えない。
だからこそ、通信機から聞こえる声に集中した。
『足元、確認してください』
『はい。ゆっくり進みます』
『要救助者、右足を無理に動かさないでください』
『分かりました……!』
聞き覚えのある声だった。
あの作業員の声だ。
俺は思わず笑いそうになった。
ちゃんと救助隊員たちのところまで来られたんだ。
でも、次の瞬間、通信機から大きな声が響いた。
『止まってください!』
俺は息をのんだ。
相馬さんもすぐに通信機を取った。
「どうした!」
『足場の一部が動きました! 現在、移動を中断しています!』
俺は思わず一歩前へ出た。
「……大丈夫なんですか!」
相馬さんは俺へ手を向けた。
「久世、待て」
俺は足を止めた。
通信機の向こうでは、隊員たちが状況を確認している。
『要救助者は無事です。隊員にも怪我はありません。ただ、足場の一部にぐらつきがあります』
「分かった。無理に進むな。安全な位置を確保してくれ」
『了解しました』
俺は拳を握った。
あと少しなのに。
せっかく救助が始まったのに、また問題が起きてしまった。
でも、相馬さんは落ち着いていた。
「現地班、今いる位置は安全か?」
『はい。足場の手前に少し広い場所があります。そこまで戻り、状態を確認しています』
「要救助者は?」
『隊員二名で支えています。意識ははっきりしています』
「分かった。焦らなくていい。別の方法を考えよう」
俺は相馬さんを見た。
「……どうするんですか?」
「足場をそのまま使えないなら、別の方法で移動させる。まずは現地の判断を待つ」
「でも、水が……」
「分かっている。だからこそ、無理に進ませるわけにはいかない」
俺は唇を噛んだ。
正しい判断だと分かっている。
でも、時間がない。
あの人がいた場所には、水が迫っていた。
今は隊員たちと一緒に少し高い場所へ移動できたようだが、そこがいつまで安全なのか分からない。
俺は通信機を見つめた。
その時、相馬さんが俺へ声をかけた。
「久世」
「はい」
「お前、今の通路の構造は理解しているか?」
「はい。図面では、古い扉から入って、段差を越えた先に点検用の足場が続いています」
「そうだ。今、現地班がいるのは、その足場の途中だ」
相馬さんは図面を指した。
「足場が傷んでいるなら、要救助者を無理に歩かせることはできない。ただ、そこまで救難隊員が入れているということは、救助用の道具を運ぶ方法も考えられる」
「……はい」
「お前には、そのあとを頼みたい」
俺は顔を上げた。
「そのあと?」
「ああ。要救助者を安全に移動させる準備が整ったら、帰る方向を確認してほしい。通路の状態が変わっていないか、実際の道と照らし合わせながらな」
俺は頷いた。
「分かりました」
「ただし、現地班が危険だと判断した場合は入らない。そこは守ってくれ」
「はい」
相馬さんは頷いた。
その時、通信機から連絡が入った。
『こちら現地班。救助方法を変更します』
「相馬だ。聞かせてくれ」
『傷んでいる足場を直接通らず、救助用の器材を使って短い区間を越える方法を検討しています。両側に隊員を配置できる場所があるため、安全を確認したうえで実施したいと思います』
「設備担当の確認は?」
『済んでいます。足場そのものには荷重をかけず、救助用の器材で移動できるよう準備しています』
「分かった。無理のない範囲で進めてくれ」
『了解しました』
通信が終わる。
俺は少しだけ安心した。
まだ方法がある。
隊員たちは、あの人を安全に連れて帰るために考え続けている。
俺も、自分にできることをしよう。
しばらくして、相馬さんから指示が出た。
「久世、現地班が帰路の確認を求めている。入口から途中の安全な場所まで入ってくれ」
「はい!」
俺はすぐに立ち上がった。
同行する隊員と装備を確認し、古い点検通路へ入る。
入口からしばらくは乾いた床が続いていた。
古い金属製の扉を越えると、湿った空気が流れてくる。
奥からは水の音が聞こえていた。
俺は《帰り道》を意識した。
入口へ戻るための道筋が見える。
今のところ、通ってきた通路をそのまま戻れば外へ出られる。
ただ、奥の状態までは分からない。
俺は同行する隊員へ、そのことを伝えた。
「今の場所から入口へ戻る道筋は見えています。ただ、途中の床や壁が安全かどうかは分かりません」
「了解しました。そこは私たちで確認します」
隊員は頷き、先へ進んだ。
やがて、段差のある場所へ出た。
そこには救難隊員が待っていた。
「久世さん、こちらです」
俺は隊員の指示に従い、安全が確認された場所まで進んだ。
その先には、古い点検用の足場が続いている。
足場の一部は錆びつき、途中には傷んでいる場所があった。
そこを避けるように、救助用の器材が設置されていた。
さらに奥では、救難隊員たちが一人の男性を支えている。
俺は思わず声を上げた。
「……いました!」
男性が顔を上げた。
「……あんた!」
俺は頷いた。
「また来ました!」
男性は少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
「……本当に来たんだな!」
「はい!」
俺は大きく頷いた。
「今度は、ちゃんと帰りましょう!」
男性は笑った。
でも、その表情には疲れが浮かんでいた。
顔色もあまりよくない。
救難隊員が男性の肩を支えながら、俺へ説明してくれた。
「右足首を痛めています。長い間、冷たい場所にいたため、体も冷えているようです。今は保温しながら移動の準備をしています」
「分かりました」
「久世さんには、帰る方向の確認をお願いします。ただし、実際の移動は私たちが行います」
「はい」
俺は頷いた。
見えている道筋を確認する。
入口へ戻る方向は、今も変わっていない。
ただし、足場の傷んだ場所を安全に越える方法は、《帰り道》には分からない。
そこは隊員たちが準備してくれている。
俺は見えている方向と、実際の通路の位置関係を伝えた。
「入口へ戻る道筋は、この通路を通っています。途中で右へ曲がって、古い扉を抜ければ管理用の通路へ戻れます」
隊員が頷いた。
「図面とも一致していますね。ありがとうございます」
俺は少し安心した。
これなら、あとは隊員たちの判断に従えばいい。
男性が俺を見た。
「……なあ」
「はい?」
「俺、本当に帰れるのか?」
俺は少し考えた。
ここまで来れば、帰れる可能性は高いと思う。
でも、まだ安全な場所へ出たわけではない。
だから、簡単に大丈夫だとは言えなかった。
「今、皆さんが安全に帰るための準備をしています」
俺は男性へ答えた。
「俺にも帰る方向は見えています。あとは、無理をせずに進みましょう」
男性はしばらく俺を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「……分かった」
救難隊員たちが移動の準備を整えた。
男性には救助用の装備が取り付けられ、傷んだ足場を直接踏まずに移動できるようになっている。
隊員たちは互いに声を掛け合い、慎重に位置を確認していた。
「これから移動します。痛みが強くなったら、すぐに教えてください」
「分かりました」
「無理に足を動かさなくて大丈夫です。こちらで支えます」
男性は頷いた。
俺は少し離れた場所で、その様子を見守った。
救助用の器材を使い、男性がゆっくりと移動していく。
隊員たちは足場の状態を確認しながら、少しずつ距離を進めた。
途中、男性が顔をしかめた。
「……痛っ!」
隊員がすぐに動きを止めた。
「大丈夫ですか?」
「足が……少し」
「分かりました。無理に動かさないでください」
隊員は男性の足の位置を確認し、負担がかからないように調整した。
それから、もう一度ゆっくりと移動を始める。
俺は拳を握った。
あと少し。
もう少しで、傷んだ足場を越えられる。
やがて、男性の体が安全な床の上へ移された。
「……よし!」
隊員の一人が声を上げた。
「移動完了です!」
俺は思わず息を吐いた。
男性も大きく息をついた。
「……助かった」
隊員は首を横に振った。
「まだ外へ出たわけではありません。ここからも慎重に進みましょう」
「……はい」
男性は頷いた。
俺も頷いた。
ここまで来れば、出口までの道は残っている。
でも、最後まで油断はできない。
救難隊員たちは男性の状態を確認し、必要な装備を整え直した。
俺はその間に、帰る方向をもう一度確かめた。
道筋は、古い扉の方へ続いている。
そこから管理用の通路を抜ければ、外へ出られる。
「久世さん、行けますか?」
隊員が尋ねた。
「はい。帰る方向は確認できています」
「分かりました。では、私たちが先に進みます。久世さんは後ろからお願いします」
「はい」
俺は頷いた。
隊員たちは男性を支えながら、慎重に歩き始めた。
俺は少し後ろから、その様子を見守った。
男性は右足をかばいながら、隊員たちの助けを借りて進んでいる。
無理に歩かせないよう、途中では何度も立ち止まっていた。
俺は見えている帰路と、実際の通路の状態を確認しながらついていった。
古い扉が見えてきた時、男性が顔を上げた。
「……あそこを抜ければ、外なのか?」
「もう少しです」
俺は答えた。
「あの扉を抜けて、管理用の通路を進めば外へ出られます」
男性は頷いた。
「……そうか」
それから、少し笑った。
「長かったな……」
俺は何も言わず、頷いた。
男性にとっては、どれほど長い時間だったのだろう。
水が迫る暗い場所で、一人で助けを待っていた。
通信も途切れ、出口も見つからなかった。
その間、何を考えていたのか。
俺には分からない。
でも、今はもう一人じゃない。
救難隊員たちが支えている。
俺も後ろからついている。
外では相馬さんたちが待っている。
男性は、もう帰る途中にいるのだ。
古い扉を抜けると、空気が少し変わった。
管理用の通路には照明があり、床も整備されている。
男性は周囲を見回した。
「……ここ、知ってる」
俺は顔を上げた。
「来たことがあるんですか?」
「ああ。普段の点検で使う場所だ」
男性は少し笑った。
「こんなところにつながってたんだな……」
俺は頷いた。
古い図面と現在の管理図面。
その二つを調べたことで、別の入口が見つかった。
もし古い図面が残っていなかったら、もっと時間がかかっていたかもしれない。
俺は改めて、相馬さんたちの判断が正しかったのだと思った。
やがて、出口の明かりが見えてきた。
俺は思わず顔を上げた。
「……出口です!」
男性も顔を上げた。
その目が、少し大きく開かれた。
「……本当だ」
俺は頷いた。
「もう少しです!」
男性は何も言わなかった。
ただ、何度も頷いていた。
隊員たちは最後まで慎重に進み、男性を支えながら出口へ向かった。
そして。
管理用の扉を抜けた瞬間、外の光が男性の顔を照らした。
男性は目を細めた。
少し眩しそうに空を見上げる。
それから、大きく息を吸った。
「……帰ってきた」
その声は、とても小さかった。
でも、俺にははっきり聞こえた。
俺は笑った。
「はい。お帰りなさい」
男性は俺を見た。
しばらく何も言わなかった。
それから、目元を押さえた。
「……ありがとう」
俺は首を横に振った。
「俺だけじゃありません。皆さんが助けてくれたんです」
男性は頷いた。
「……そうだな」
救難隊員たちは男性を救護担当へ引き継ぎ、怪我の状態を確認してもらうことになった。
俺は少し離れた場所で、その様子を見守っていた。
すると、管理棟の方から誰かが走ってきた。
先に退避していた作業員だった。
「おい!」
男性が顔を上げた。
「……ああ」
「無事だったのか!」
退避していた作業員は、救護担当に確認してから男性へ近づいた。
それから、少し怒ったような顔をした。
「何やってんだよ、お前!」
男性は苦笑した。
「……悪い」
「悪いじゃないだろ! どれだけ心配したと思ってるんだ!」
「……本当に悪かった」
退避していた作業員は、しばらく何も言わなかった。
それから、大きく息を吐いた。
「……よかった」
その声は、少し震えていた。
男性も頷いた。
「……ああ」
二人はしばらく顔を見合わせていた。
俺はその様子を見て、胸が少し温かくなった。
帰ってきた。
ちゃんと、帰ってきたんだ。
その時、相馬さんが俺の隣へ来た。
「ご苦労だったな、久世」
「いえ。俺は、たいしたことはしていません」
「またそれか」
相馬さんは少し笑った。
「お前、いつも同じことを言うな」
「……そうですか?」
「ああ。でも、今回は本当に全員の仕事だった。設備担当が古い図面を調べ、救難隊員が安全な道を確保し、瀬川たちが情報を整理した。お前も帰る方向を確認してくれた」
相馬さんは救護担当に囲まれた男性へ目を向けた。
「誰か一人が全部やったわけじゃない。だから、無事に連れて帰れたんだ」
俺は頷いた。
「……はい」
「それが救難だ」
相馬さんは静かに言った。
俺はその言葉を聞きながら、男性の姿を見つめた。
最初に《帰り道》の力を知った時、俺はただ、帰る方向が分かるだけの能力だと思っていた。
実際、それは今も変わらない。
危険を見つけられるわけでも、誰かの居場所が分かるわけでもない。
でも、その力が必要な場面はある。
そして、俺一人ではできないことを、ほかの人たちが補ってくれる。
そうやって初めて、救難は成り立つのだと思う。
「久世さん!」
瀬川さんがこちらへやってきた。
「お疲れさまでした。フェナさんも管理棟で待っていますよ」
「ありがとうございます」
「それと、要救助者の方ですが、救護担当の確認では、今のところ命に関わるような状態ではないそうです。足首の怪我については、これから詳しく調べることになります」
俺は安心した。
「よかった……」
瀬川さんも頷いた。
「はい。本当によかったです」
俺たちは管理棟へ戻った。
フェナは俺の姿を見ると、すぐに立ち上がった。
「ナオトさん!」
「ただいま」
「お帰りなさい!」
フェナは笑った。
「無事に助けられたんですね!」
「うん。救難隊員の皆さんが頑張ってくれたよ」
「ナオトさんも、お疲れさまでした」
「ありがとう」
俺は椅子に腰を下ろした。
ようやく、肩の力が抜けた気がした。
外では、救難隊員たちが装備の片づけを始めている。
設備担当の職人さんたちも、古い通路の状態を確認しながら、今後の対応について話し合っていた。
今回の救助は終わった。
でも、設備の問題が解決したわけではない。
水位が上がった原因も、まだ分かっていない。
古い排水路が現在の設備とどうつながっているのかも、詳しく調べる必要があるだろう。
俺はそのことを考えながら、机の上の図面を見た。
すると、相馬さんが瀬川さんへ声をかけた。
「瀬川、設備担当から新しい情報は入っているか?」
「はい。今、確認しています」
瀬川さんは端末を操作した。
しばらくして、その表情が変わった。
「……相馬さん」
「どうした?」
「少し気になる報告があります」
相馬さんが顔を上げた。
「聞かせてくれ」
「先ほどまで水位が上がっていた古い排水路ですが、現在は水位が下がり始めているそうです」
俺は少し驚いた。
「下がっているんですか?」
「はい。ただ、設備担当によると、まだ水門の操作は行っていないそうです」
相馬さんの表情が険しくなった。
「……自然に下がったのか?」
「それが、分からないそうです」
瀬川さんは端末の画面を見つめた。
「ただ、別の場所で水位が上がっているという報告が入りました」
俺は顔を上げた。
「別の場所?」
「はい。現在も使われている管理用の排水設備です」
相馬さんはすぐに図面を広げた。
「場所は?」
瀬川さんが指したのは、古い排水路から少し離れた区画だった。
現在の管理図面では、そこに排水設備が設けられている。
俺はその位置を見た。
「……ここって」
相馬さんも図面を見つめていた。
しばらくして、低い声で呟いた。
「古い排水路の先か」
俺は息をのんだ。
古い排水路の水位が下がった。
その一方で、別の排水設備の水位が上がっている。
偶然なのか。
それとも、どこかで水がつながっているのか。
相馬さんは通信機を取った。
「設備担当に確認してくれ。現在の排水設備に、古い排水路から水が流れ込む可能性はあるのか?」
瀬川さんがすぐに連絡を取った。
俺は図面を見つめた。
今回、俺たちは古い図面のおかげで作業員を助けることができた。
でも、その図面には、今の設備とのつながりがすべて描かれているわけではない。
もし、まだ分かっていない通路が残っていたら。
そこを水が流れていたら。
俺は思わず相馬さんを見た。
「……相馬さん」
「ああ。まだ何も決まったわけじゃない」
相馬さんは図面から目を離さずに答えた。
「ただ、確認は必要だ」
その時、瀬川さんの端末が鳴った。
瀬川さんは画面を確認し、すぐに顔を上げた。
「相馬さん、設備担当からです」
「どうした?」
「現在の排水設備で、水位上昇の警報が出たそうです」
相馬さんは頷いた。
「分かった。まずは設備の使用を止めて、関係者を安全な場所へ退避させるよう伝えてくれ」
「はい!」
瀬川さんが連絡を返す。
俺は図面を見つめた。
さっきまで助けを待っていた男性は、もう安全な場所へ戻っている。
でも、古い排水路の問題は、まだ終わっていないのかもしれない。
その時、相馬さんが俺へ目を向けた。
「久世」
「はい」
「今回は、もう一度確認しなければならないことがありそうだ」
俺は頷いた。
「……はい」
相馬さんは図面の上に指を置いた。
「古い排水路と、現在の管理設備。そのつながりが分からないままでは、同じことが起きる可能性がある」
俺は図面を見た。
そこには、古い通路と新しい設備が重なるように描かれていた。
俺たちは一人の作業員を助けることができた。
でも、救難の仕事は、誰かを連れて帰ったところで終わるとは限らない。
次に同じ危険が起きないようにすることも、大切なのだと思う。
俺は顔を上げた。
「……俺にできることがあれば、言ってください」
相馬さんは頷いた。
「ああ。まずは状況を確認しよう」
その時、管理棟の外から警報音が聞こえた。
瀬川さんが顔を上げる。
「……相馬さん!」
俺も立ち上がった。
相馬さんはすぐに通信機を取った。
「こちら相馬。状況を報告してくれ!」
少しの雑音。
それから、管理室の担当者の声が聞こえた。
『現在の排水設備で、水位が急上昇しています!』
俺は息をのんだ。
『それと……もう一つ、確認できたことがあります!』
「何だ!」
『古い排水路から現在の設備へつながる通路が、図面に載っていない場所に残っている可能性があります!』
相馬さんは図面へ目を向けた。
俺も、その指の先を見た。
そこには、現在の管理図面では何も描かれていない場所があった。
でも、古い図面には。
一本の細い線が、まだ続いていた。
俺はその線を見つめた。
帰る道が見つかったからといって、すべてが終わるわけじゃない。
誰かが安全に帰れる場所を守るためには、まだ知らないことを確かめなければならない。
そして今、その先にあるものが、俺たちの次の仕事になろうとしていた。




