第146話 声が届く距離
「出口が見つからない、か……」
相馬さんは通信機を下ろすと、机の上に広げられた図面へ目を向けた。
俺も隣から覗き込んだ。古い排水路を示す細い線が、現在の管理図面では壁になっている場所まで続いている。
連絡が取れなくなっていた作業員から、ようやく声が届いた。少なくとも、通信が入った時点では意識があり、自分の状況を伝えられる状態だったということだ。
ただ、無事だと安心するには早すぎる。
水が来ている。
出口が見つからない。
その二つの言葉だけでは、作業員がどこにいて、どんな危険にさらされているのか分からなかった。
「瀬川、管理室にもう一度確認してくれ。最後に通信が入った時刻と、使っていた通信機の種類を知りたい。それから、現場の設備図面は全部こちらへ送ってもらおう」
「分かりました」
瀬川さんが端末を操作し始めると、相馬さんは設備担当の職人さんへ向き直った。
「水位の変化はどうですか?」
「まだ上がっています。ただ、どこから水が入っているのかは確認できていません。古い排水路が現在の設備につながっている可能性はありますが、図面だけでは判断できませんね」
「水門を操作して止めることは?」
「今は勧められません。別の場所へ水が流れるかもしれませんし、地下にいる人へ影響が出る可能性もあります」
相馬さんは頷いた。
「分かりました。管理側にも、こちらの確認が終わるまでは設備を勝手に操作しないよう伝えてください」
「了解です」
俺は二人のやり取りを聞きながら、図面の上に描かれた通路を目で追った。
さっきまで俺たちがいた古い水門の地下とは、別の区域だ。現在も点検に使われている施設の奥に、今は管理図面から消えている排水路が残っているらしい。
そこへ作業員が入り込んだのか、それとも現在の点検区画で動けなくなっているのか。
どちらにしても、本人の居場所が分からなければ救助の方法を考えられない。
「相馬さん」
「どうした?」
「先に退避した人から、何か聞けませんか?」
相馬さんは顔を上げた。
「もう一人の作業員か?」
「はい。一緒に点検していたなら、どこで別れたのか分かるかもしれません」
「そうだな。管理室には確認を頼んであるが、本人から直接聞いた方が早いこともある」
相馬さんは通信機を取り出した。
「瀬川、退避した作業員は今どこにいる?」
「管理棟の救護室で体調を確認してもらっているそうです。大きな怪我はないと聞いています」
「話ができる状態なら、こちらへ来てもらえるか確認してくれ。ただし、無理はさせるなよ」
「分かりました」
俺は少しだけ息を吐いた。
少なくとも、二人のうち一人は安全な場所へ戻れている。
その人が覚えていることが、もう一人を助ける手がかりになるかもしれない。
フェナが俺の隣へ来た。
「ナオトさん、今度の方は一人なんですよね」
「うん。もう一人は無事に退避できたそうだ」
「早く見つかるといいですね」
「ああ」
フェナは図面を見つめた。
「でも、今度はどこにいるのか分からないんですよね」
「そうなんだ」
俺は頷いた。
《帰り道》で見えるのは、俺が帰るための道筋だけだ。離れた場所にいる人の位置も、そこへ向かう道も教えてくれない。
だから、今の段階では俺の能力を使っても作業員を探せない。
それでも、もし見つけることができれば、帰る方向を示す役には立てるかもしれない。
もちろん、道が見えたからといって、安全に通れるとは限らない。水が流れ込んでいたり、床が崩れていたりすれば、別の方法を考える必要がある。
俺はそのことを、今回の救難で嫌というほど思い知らされていた。
「久世」
相馬さんが俺を呼んだ。
「はい」
「お前は現地へ入る可能性がある。装備の確認は済んでいるか?」
「はい。ただ、さっき地下で使ったものがあるので、予備と交換しておきたいです」
「分かった。瀬川に頼んでくれ。それと、フェナさん」
「はい」
「今回は、まず管理室との連絡をお願いできますか。現地の情報が入り次第、こちらへ伝えてほしいんです」
フェナは少し驚いた顔をした。
「私が、ですか?」
「ええ。瀬川も図面の確認で手が離せないことがありますから。通信の内容を整理してもらえると助かります」
フェナは俺を見た。
俺が頷くと、彼女も真剣な表情で答えた。
「分かりました。任せてください」
俺は少し安心した。
フェナは、さっきの救難でもずっと動き続けていた。本人は元気そうにしているけれど、疲れていないはずがない。
今回は、無理に地下へ入る必要はない。
それぞれができることをやればいい。
相馬さんが言っていた通りだ。
しばらくして、管理棟から一人の男性がやってきた。
作業服を着た、四十歳前後に見える人だった。顔色はあまりよくないが、歩き方はしっかりしている。
瀬川さんが男性を案内してきた。
「相馬さん、退避した作業員の方です。救護担当から、短時間なら話をしても問題ないと言われています」
「ありがとうございます」
相馬さんは男性へ向き直った。
「お疲れのところ、すみません。確認したいことがあります」
「いえ……。それより、もう一人は見つかったんでしょうか?」
男性は落ち着かない様子で尋ねた。
「まだです。ただ、本人から通信が入りました。出口が見つからないと言っていたそうです」
「……そうですか」
男性は唇を噛んだ。
「すみません。俺が一緒に戻っていれば……」
「今は責任の話をするつもりはありません。まず、最後に一緒にいた場所を教えてください」
相馬さんが図面を広げると、男性は机へ近づいた。
「ここです」
男性が指したのは、現在の管理図面で行き止まりになっている点検区画の手前だった。
「俺たちは、この辺りで排水設備の点検をしていました。水位を確認して、異常がなければ戻る予定だったんです」
「そこで別れたんですか?」
「はい。奥の計測器の数値がおかしかったので、あいつが確認に向かいました。俺は手前の設備を調べていたんです」
男性は少し考えてから続けた。
「でも、しばらくして水位の警報が鳴りました。それで作業を中止して戻ろうとしたんですけど、あいつが戻ってこなくて……」
「通信は?」
「最初はつながりました。戻るように伝えたら、向こうも分かったって答えたんです」
「そのあと連絡が取れなくなった?」
「はい。ただ、一度だけ声が聞こえました」
俺は顔を上げた。
「何て言っていたんですか?」
男性は俺を見た。
「……通路が違う、って」
「通路が違う?」
「はい。詳しいことを聞こうとしたんですが、そこで通信が切れてしまいました」
俺は図面を見た。
現在の管理図面では、奥の点検区画は行き止まりになっている。
でも、古い図面ではその先に通路が続いている。
「相馬さん」
「ああ。気になるな」
相馬さんは男性へ尋ねた。
「奥の点検区画には、分かれ道があるんですか?」
「いえ。俺が知っている限りではありません。奥に点検用の扉があって、その先は使われていないはずです」
「扉?」
「はい。古い金属製の扉です。普段は閉まっていますし、俺たちが点検する範囲には入っていません」
相馬さんと瀬川さんが顔を見合わせた。
瀬川さんは古い図面を広げ、男性が指した場所を確認した。
「その扉、もしかしてこの位置ですか?」
男性は図面を覗き込んだ。
「……たぶん、そうです」
「ここから先に、古い排水路が描かれています」
「え?」
男性は驚いた顔をした。
「そんな通路があるんですか?」
「昔の図面には載っています。ただ、現在の管理図面では省略されているんです」
男性はしばらく図面を見つめていた。
それから、小さく首を横に振った。
「知りませんでした。俺たちは、そこが使われていないことしか聞いていません」
相馬さんは頷いた。
「分かりました。ありがとうございます」
男性は顔を上げた。
「あの……あいつは、そこへ入ってしまったんでしょうか?」
「可能性はあります。ただ、まだ決まったわけではありません」
「もし入っていたら、戻れますか?」
相馬さんはすぐには答えなかった。
古い図面を見つめ、少し考えてから口を開いた。
「まずは本人の位置を確認します。救助が必要なら、現場の状態を調べたうえで迎えに行きます」
男性は深く頭を下げた。
「お願いします。あいつ、今日の作業が終わったら家に帰るって、朝からずっと言ってたんです」
俺は男性を見た。
「家に、ですか?」
「はい。休みの日に子どもと出かける約束をしているらしくて。今日は絶対に残業しないって、笑ってたんですよ」
男性は無理に笑おうとした。
でも、うまくいかなかった。
「だから……どうか、お願いします」
俺は何も言えなかった。
救難の現場では、助けを待っている人のことばかり考えてしまう。
でも、その人にも普段の生活がある。
帰る家があって、待っている人がいる。
今日の仕事を終えたら、いつも通り帰るつもりだったはずだ。
それが、突然できなくなってしまった。
「……分かりました」
俺は男性へ答えた。
「必ず助けられるとは、今は言えません。でも、俺たちもできることを全部やります」
男性は俺を見た。
それから、ゆっくりと頷いた。
「お願いします」
相馬さんは男性へ休むよう伝え、瀬川さんに救護室までの案内を頼んだ。
男性が離れると、相馬さんは再び図面へ目を向けた。
「久世、どう思う?」
「古い通路へ入った可能性はあると思います。でも、どうして入ったのか分かりません」
「そうだな。本人が間違えて入ったのか、水が来て戻れなくなったのか。それとも、別の理由があるのか」
相馬さんは腕を組んだ。
「どちらにしても、現場を確認しないと始まらない」
俺は頷いた。
その時、設備担当の職人さんが戻ってきた。
「相馬さん、現在の点検区画について確認できました」
「どうでした?」
「入口側の水位は、今のところ作業用通路まで達していません。ただ、奥の計測器では水位が上がっています。古い排水路とつながっている可能性があるので、そこから先は危険です」
「安全に近づけるのは、どこまでですか?」
「点検区画の手前までは確認できます。ただし、奥へ進むなら救難用の装備が必要です。途中に水が溜まっている場所もあるかもしれません」
相馬さんは頷いた。
「分かりました。まずは入口側から確認しましょう。無理に奥へ進む必要はありません」
「こちらから設備担当を一人同行させます。現場の構造を説明できる者がいた方がいいでしょう」
「助かります」
相馬さんは通信機を取り出した。
「救難班、準備を始めてくれ。今回は行方不明者一名。現在の点検区画から接近し、現場の状態を確認する。ただし、危険があればそこで中止だ」
通信機から了解の返事があった。
俺は装備を持ち直した。
「相馬さん、俺も行きます」
「ああ。ただし、今回はお前が先頭に立つ必要はない」
「分かっています」
「現場の安全確認は救難隊員と設備担当が行う。お前は帰路の確認と、必要な情報の共有を頼む」
「はい」
俺は頷いた。
今度は、誰かを探すために《帰り道》を使うわけじゃない。
相手を見つけたあと、安全に帰るために何ができるかを考える。
その役割を忘れないようにしよう。
俺たちは現地へ向かった。
今回の入口は、さっきまで救助に入っていた古い水門とは別の場所にあった。
現在も設備の点検に使われている施設で、入口には管理用の扉が設けられている。
周囲には救難隊員たちが集まり、装備の確認を進めていた。
俺が到着すると、先頭を担当する隊員が声をかけてきた。
「久世さん、よろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
「今回は奥の状態が分かりません。途中で水が増えていたり、通路が傷んでいたりした場合は、すぐに引き返します」
「はい」
「それと、帰る方向が見えても、通れるとは限らないんですよね?」
俺は頷いた。
「そうです。道筋は見えますけど、途中に何があるかまでは分かりません」
「了解しました。そこは私たちで確認します」
隊員はそう言うと、同行する人たちへ目を向けた。
今回、奥へ進むのは四人だった。
先頭の救難隊員。
その後ろに設備担当の職人さん。
俺。
そして、最後尾を担当するもう一人の救難隊員。
入口側にも別の隊員が待機し、通信と退路の管理を担当することになっている。
相馬さんは外で全体の指揮を執り、瀬川さんとフェナが管理室からの情報を整理する。
全員の役割を確認してから、俺たちは扉の前へ集まった。
「通信確認します」
先頭の隊員が通信機を操作した。
『こちら相馬。聞こえている』
「こちらも問題ありません」
『無理に進むなよ。危険があれば、確認できた情報だけ持って戻ってこい』
「了解しました」
隊員は扉を開けた。
中には、照明のついた管理用の通路が続いていた。
さっきまでいた古い水門の地下とは違い、壁も床も整備されている。
ただ、奥の方からは水が流れるような音が聞こえていた。
「行きます」
先頭の隊員が声をかけた。
俺たちは慎重に中へ入った。
最初の通路は、特に問題なく進めた。
壁には点検用の表示があり、床にも大きな破損は見当たらない。
設備担当の職人さんが、途中にある計測器を確認しながら説明してくれた。
「ここまでは通常の点検範囲です。奥の区画へ進むと、古い設備が残っている場所になります」
「普段は人が入らないんですか?」
俺が尋ねると、職人さんは頷いた。
「定期点検で手前までは確認します。ただ、その先の古い設備は使用停止になっているので、通常の作業では入りません」
「じゃあ、今回の人は……」
「そこへ入ったかどうかも、まだ分かりません」
俺は頷いた。
決めつけてはいけない。
それは、相馬さんにも何度も言われていることだった。
俺は《帰り道》を意識した。
入口へ戻るための道筋が見える。
今のところ、通ってきた通路をそのまま戻れば外へ出られる。
ただ、それだけだ。
作業員がいる方向は分からない。
俺は見えている道筋を確認しながら、隊員たちについて進んだ。
しばらくすると、床に水が溜まっている場所へ出た。
深さはそれほどないように見えるが、奥へ向かって少しずつ水が流れている。
「止まってください」
先頭の隊員が手を上げた。
俺たちは足を止めた。
隊員は床の状態を確認し、設備担当へ尋ねた。
「この水は、普段から流れているんですか?」
「いえ。通常、この通路に水が溜まることはありません」
「分かりました。ここから先は慎重に確認します」
隊員は水の深さや流れを調べ始めた。
俺はその様子を見守った。
水があるからといって、すぐに危険だと決まるわけではない。
でも、何も確認せずに進むわけにはいかない。
特に今回は、奥の水位が上がっていることが分かっている。
俺たちは確認が終わるまで、その場で待った。
やがて、隊員が顔を上げた。
「この先の点検区画までは進めそうです。ただし、これ以上水が増えた場合は引き返します」
「分かりました」
俺たちは再び歩き始めた。
通路の奥へ進むほど、水の音が大きくなっていく。
壁には古い金属製の配管が残り、ところどころに錆が浮いていた。
やがて、少し広い場所へ出た。
そこには、古い金属製の扉があった。
「ここです」
設備担当の職人さんが言った。
「現在の管理図面では、この先は使われていない区画になっています」
俺は扉を見た。
扉は完全には閉まっていなかった。
片側が少し開き、その隙間から暗い通路が見えている。
「……開いてますね」
俺が呟くと、先頭の隊員が頷いた。
「はい。ただ、いつから開いていたのかは分かりません」
職人さんは扉の周囲を確認した。
「普段は閉まっているはずなんですが……」
「鍵は?」
「古い設備なので、現在の管理用の鍵とは違います。そもそも、今も施錠できる状態なのか分かりません」
俺は扉の隙間を見つめた。
その先には、古い図面に描かれていた通路が続いているのだろうか。
先頭の隊員が通信機を取り出した。
「こちら現地班。古い点検扉を確認しました。扉は一部開いていますが、内部の状態は不明です」
『こちら相馬。了解した。無理に入るな。まずは周囲を確認してくれ』
「了解しました」
隊員たちは扉の周囲を調べ始めた。
俺は少し離れた場所で待っていた。
すると、設備担当の職人さんが床を指した。
「……これ、見てください」
俺たちは顔を向けた。
扉の手前に、泥のついた靴跡が残っていた。
水で一部が崩れているものの、扉の隙間へ向かって続いているように見える。
「作業員のものですか?」
俺が尋ねると、隊員は首を横に振った。
「可能性はありますが、これだけでは分かりません。いつついたものかも判断できませんから」
「そうですよね」
俺は頷いた。
ただ、誰かがこの扉を通った可能性はある。
隊員は靴跡の位置を記録し、通信機で報告した。
その時だった。
ザザッ、と通信機から雑音が聞こえた。
俺たちは顔を上げた。
『……こちら……』
途切れ途切れの声だった。
先頭の隊員がすぐに応答した。
「こちら救難班です。聞こえますか?」
雑音が続いた。
俺は思わず通信機を見つめた。
『……誰か……』
今度は、少しはっきり聞こえた。
「聞こえています! こちら救難班です!」
隊員が声を上げた。
「あなたは、点検作業員の方ですか?」
しばらく返事はなかった。
俺は息を詰めた。
通信機から聞こえるのは、細かな雑音ばかりだ。
やがて、かすかな声が返ってきた。
『……助け……』
俺は思わず顔を上げた。
「相馬さん!」
先頭の隊員が通信機を切り替えた。
「こちら現地班! 行方不明の作業員と思われる人物から通信が入りました!」
『聞こえている。本人の位置は?』
「まだ分かりません。ただ、こちらの呼びかけに反応しています」
『分かった。無理に進まず、通信を続けてくれ』
「了解しました!」
隊員は再び呼びかけた。
「聞こえますか? こちらは救難班です。あなたを探しています!」
雑音が返ってきた。
「今、どこにいますか? 周りに見えるものを教えてください!」
少しの沈黙。
それから。
『……扉……』
俺は顔を上げた。
隊員も通信機へ顔を近づけた。
「扉ですか? 近くに扉があるんですね?」
『……古い……扉……』
俺は目の前の金属製の扉を見た。
もしかして。
「隊員さん、あの扉の向こうじゃないでしょうか」
俺が言うと、隊員は頷いた。
「可能性はあります。ただ、ほかにも扉があるかもしれません」
隊員は通信機へ向かって続けた。
「こちらは古い金属製の扉の前にいます。あなたの近くにいるかもしれません。こちらの声が聞こえますか?」
返事はなかった。
俺たちは耳を澄ませた。
水の流れる音が聞こえる。
その奥から、何かを叩くような音がした。
コン。
俺は思わず扉を見た。
「……今、音がしましたよね?」
先頭の隊員が頷いた。
「はい」
もう一度、音がした。
コン、コン。
金属を叩くような、乾いた音だった。
「向こうに誰かいるんでしょうか」
俺が尋ねると、隊員は慎重に答えた。
「まだ分かりません。設備の音かもしれませんし、別の場所から響いている可能性もあります」
隊員は通信機を取り出した。
「こちら救難班です。もし私たちの声が聞こえていたら、もう一度音を出せますか?」
しばらく待った。
水の音だけが続いた。
俺は扉の向こうを見つめた。
そして。
コン、コン、コン。
今度は三回、続けて音がした。
俺は思わず声を上げた。
「聞こえました!」
隊員も頷いた。
「反応している可能性が高いですね」
隊員はすぐに通信機で相馬さんへ報告した。
「こちらの呼びかけのあと、金属を叩くような音が三回聞こえました。行方不明者が近くにいる可能性があります」
『分かった。ただし、音だけで位置を決めつけるなよ。設備担当にも確認してもらえ』
「了解しました」
設備担当の職人さんは古い図面を広げた。
「この扉の先は、昔の排水路につながっていたはずです。ただ、途中にもう一つ点検用の区画があるようですね」
「距離はどれくらいですか?」
「図面上では、それほど離れていません。ただ、今も同じ構造かどうかは分かりません」
俺は図面を覗き込んだ。
古い扉の先には、短い通路が描かれている。
その先で、もう一度道が曲がっていた。
もし作業員がそこまで進んでいたら、こちらから姿が見えなくてもおかしくない。
「中へ入れそうですか?」
俺が尋ねると、隊員は扉の向こうを見た。
「まずは内部の状態を確認します。水が流れている可能性がありますから」
隊員たちは照明を向け、扉の隙間から内部を調べ始めた。
俺は後ろで待っていた。
奥には古い石造りの通路が続いている。
床の一部には水が溜まっていたが、入口付近には大きな崩落は見当たらなかった。
ただ、通路の奥から水が流れる音が聞こえている。
「……水位が上がっている場所とつながっている可能性がありますね」
設備担当の職人さんが言った。
先頭の隊員は頷いた。
「そうですね。ここから先は、退路を確保しながら進む必要があります」
俺は通信機を見た。
さっきの声は、もう聞こえない。
でも、確かに誰かが助けを求めていた。
俺は拳を握った。
今すぐ進みたい。
扉の向こうへ行けば、助けを待っている人がいるかもしれない。
ただ、その気持ちだけで動いてはいけないことも分かっていた。
俺が勝手に進んでしまえば、今度は俺を助けるために誰かが危険な場所へ入らなければならなくなる。
それだけは避けたかった。
隊員たちは周囲の状態を確認し、必要な安全措置を整えていった。
入口側の隊員とも通信を取り、退路の状況を共有する。
水位が変化した場合には、すぐに引き返す。
通信が途切れた場合も、無理に奥へ進まない。
そうした条件を確認したうえで、ようやく先へ進む準備が整った。
「久世さん」
先頭の隊員が俺を見た。
「はい」
「これから扉の先を確認します。ただし、危険があればすぐに戻ります。久世さんは、帰る方向を確認していてください」
「分かりました」
俺は頷いた。
隊員が先に進み、設備担当の職人さんが続く。
俺はその後ろを歩いた。
最後尾の隊員も、全員の位置を確認しながらついてきた。
古い扉を越えると、空気が少し変わった。
湿気が強く、壁には水滴がついている。
床には薄く水が流れていた。
俺は足元を確認しながら進んだ。
《帰り道》の道筋は、今も入口の方へ続いている。
ただ、ここから先に何があるのかは分からない。
先頭の隊員が慎重に歩き、設備担当が壁や床の状態を確認する。
俺は二人の後ろから、見えている帰路と実際の通路の状態を確かめていた。
しばらくすると、通路が右へ曲がっていた。
「ここですね」
設備担当の職人さんが図面を見た。
「古い図面にも、この曲がり角が描かれています」
「その先は?」
「小さな点検区画があるはずです」
先頭の隊員が明かりを向けた。
曲がり角の先には、少し広い空間が見えていた。
ただ、その手前から水の音が大きくなっている。
「止まってください」
俺たちは足を止めた。
隊員は先の状態を確認した。
水は通路の低い部分を流れているようだった。
奥へ向かって進むほど、水の量が増えている。
「……この先は慎重に判断する必要がありますね」
隊員が言った。
設備担当も頷いた。
「はい。古い排水路が生きているなら、水が急に増える可能性があります」
俺は奥を見た。
暗い空間の向こうから、水の音が聞こえている。
その時。
コン。
また、金属を叩く音がした。
俺は顔を上げた。
「今の……!」
隊員が手を上げた。
「静かにしてください」
俺たちは口を閉じた。
水の音が続く。
その奥から、もう一度音がした。
コン、コン。
俺は思わず通信機を見た。
先頭の隊員が呼びかける。
「こちら救難班です! 聞こえますか!」
少しの沈黙。
それから、かすかな声が聞こえた。
「……誰か、いるのか!」
俺は息をのんだ。
今度は通信機からではなかった。
通路の奥から、直接声が聞こえてきた。
「います!」
俺は思わず答えた。
「救難班です! 助けに来ました!」
先頭の隊員がすぐに俺の肩へ手を置いた。
「久世さん、ここから先は私が対応します」
「……はい!」
俺は頷いた。
隊員は声を張った。
「こちら救難班です! あなたは点検作業員の方ですか!」
「そうだ! こっちにいる!」
声は確かに聞こえた。
俺は思わず奥を見た。
明かりの届く範囲には、まだ誰の姿も見えない。
「怪我はありませんか!」
「……足を少し痛めた! でも、動ける!」
俺は胸を撫で下ろした。
少なくとも、本人は受け答えができている。
ただ、足を痛めているらしい。
隊員は続けた。
「今、そちらへ向かう方法を確認しています! 無理に動かず、その場で待っていてください!」
「分かった!」
返事が聞こえた。
俺は隊員を見た。
「見つかりましたね」
「声は確認できました。ただ、まだ姿が見えていません。位置と周囲の状態を確認しましょう」
「はい」
俺は頷いた。
嬉しくて、つい先走りそうになってしまった。
でも、まだ救助できたわけではない。
隊員は通信機で相馬さんへ報告した。
「こちら現地班。行方不明の作業員と思われる人物と、直接声で連絡が取れました!」
『本当か! 状態は?』
「本人は足を少し痛めていると言っています。意識ははっきりしていますが、正確な位置はまだ確認できていません」
『分かった。無理に接近するな。周囲の状態を確認してから救助方法を決めよう』
「了解しました」
俺は通信を聞きながら、奥へ明かりを向けた。
通路の先には、古い金属製の柵のようなものが見えている。
その向こうから水が流れていた。
先頭の隊員が慎重に近づき、状態を確認した。
「……ここから先は、水の流れが強くなっていますね」
俺も少し離れた場所から覗き込んだ。
柵の向こうには、低くなった床があった。
そこを水が流れている。
さらに奥には、少し高くなった場所が見えた。
その上に、誰かが座っていた。
「……いました!」
俺は思わず声を上げた。
明かりの先で、人影が動いた。
「こっちだ!」
男性の声が響いた。
俺は胸が熱くなるのを感じた。
見つけた。
ようやく、見つけることができた。
ただ、男性と俺たちの間には水が流れていた。
距離はそれほど離れていない。
でも、簡単に渡れる状態ではなかった。
「そこから動かないでください!」
隊員が声をかけた。
「今、救助の方法を確認しています!」
「分かった!」
男性は大きく頷いた。
俺は明かりを向けながら、その姿を確認した。
男性は作業服を着ていた。
片足を伸ばし、もう片方の足を曲げて座っている。
周囲には水が流れているが、男性がいる場所は少し高くなっていて、今のところ水に浸かっていない。
ただ、すぐ近くまで水が迫っていた。
「……あそこまで行ければ」
俺が呟くと、先頭の隊員が首を横に振った。
「距離だけで判断してはいけません。水の流れもありますし、床の状態も分かりません」
「そうですよね」
「まずは、あの人がいる場所まで安全に近づける経路がないか確認します」
設備担当の職人さんが図面を広げた。
「古い図面では、この区画の横に点検用の通路があるはずです」
「別の道があるんですか?」
俺が尋ねると、職人さんは頷いた。
「はい。ただ、今も残っているかどうかは分かりません」
俺は図面を覗き込んだ。
確かに、水が流れている場所の横を回り込むように、細い線が描かれていた。
その先は、男性が座っている高い場所の近くへつながっている。
「もし通れたら、向こうへ行けるかもしれませんね」
「そうですね。ただ、まずは入口を確認しましょう」
隊員たちは周囲を調べ始めた。
俺は男性へ目を向けた。
男性はこちらを見ている。
その表情には、不安と疲れが浮かんでいた。
「大丈夫ですか!」
俺が声をかけると、男性は頷いた。
「何とか!」
「寒くないですか!」
「少し寒い! でも、大丈夫だ!」
俺は頷いた。
それから、少し考えて声をかけた。
「外では、あなたの仲間が待っています!」
男性は顔を上げた。
「……あいつは、無事なのか!」
「はい! 先に退避できています!」
男性はしばらく黙っていた。
それから、大きく息を吐いた。
「……よかった!」
その声には、はっきりと安心した様子があった。
俺は少し笑った。
「あなたのことも心配していました!」
「そうか……」
男性は俯いた。
しばらくして、もう一度顔を上げた。
「悪い! 迷惑かけた!」
俺は首を横に振った。
「謝るのは、外へ出てからにしましょう!」
男性は少し驚いた顔をした。
それから、小さく笑った。
「……そうだな!」
俺も笑った。
でも、その時だった。
男性の表情が変わった。
「……待ってくれ!」
俺は顔を上げた。
「どうしました!」
「水が……!」
男性は足元を見た。
俺も明かりを向けた。
高くなった場所の端に、水が触れ始めていた。
さっきまでは、少し余裕があったはずだ。
でも、今は違う。
水が少しずつ増えている。
「隊員さん!」
俺が声を上げると、先頭の隊員もすぐに確認した。
「……水位が上がっていますね」
設備担当の職人さんが計測器を取り出した。
「このまま増えるなら、あの場所も危険になります」
俺は男性を見た。
男性も水の様子を見つめている。
さっきまで少し笑っていた顔が、再び不安そうになっていた。
「どうすればいい!」
男性が叫んだ。
先頭の隊員がすぐに答えた。
「その場から動かないでください! 今、救助方法を確認しています!」
「でも、水が上がってきてる!」
「分かっています! こちらでも確認しています!」
俺は拳を握った。
見つけることはできた。
声も届く。
でも、まだ手が届かない。
たったそれだけの距離が、今はとても遠く感じた。
隊員は通信機を取り出した。
「こちら現地班。要救助者を目視確認しました。意識はあり、会話も可能です。ただし、足を痛めているようです」
『こちら相馬。了解した。救助は可能か?』
「現在、要救助者との間に水が流れています。直接近づくのは危険です。別の通路がないか確認しています」
『水位は?』
「上昇しています。要救助者がいる場所にも、水が届き始めました」
通信機の向こうで、相馬さんが少し黙った。
『……分かった。現地の安全を最優先にしてくれ。設備担当にも状況を伝える』
「了解しました」
隊員は通信を終えると、設備担当の職人さんへ向き直った。
「横の点検通路、確認できますか?」
「入口らしい場所はあります。ただ、かなり古い設備です。今も通れる状態かどうかは……」
職人さんは壁の一部を指した。
そこには、錆びついた小さな扉があった。
古い図面に描かれていた通路の入口らしい。
俺は思わず近づこうとした。
でも、隊員が手を上げた。
「久世さん、ここで待ってください」
「……はい」
俺は足を止めた。
隊員たちは扉の周囲を確認した。
扉は古く、金属の表面には錆が広がっている。
周囲の壁にも、細い亀裂が見えた。
「……簡単には開けられそうにありませんね」
設備担当の職人さんが言った。
先頭の隊員も頷いた。
「無理に開けるのは危険です。別の方法を考えましょう」
俺は男性の方を見た。
水は少しずつ増えている。
男性は高い場所の奥へ体を寄せていた。
ただ、足を痛めているせいか、動きはぎこちない。
俺は思わず声をかけた。
「無理に動かないでください!」
男性は頷いた。
「分かってる!」
でも、その声には焦りが混じっていた。
俺も同じだった。
目の前に助けを待っている人がいる。
あと少しで手が届きそうなのに、水が邪魔をしている。
それでも、無理に渡るわけにはいかない。
俺が水へ入ってしまえば、流されるかもしれない。
隊員たちだって、同じだ。
俺は深く息を吸った。
今できることを考えよう。
俺には、帰る方向が見える。
でも、今の場所から男性のところへ安全に渡る方法は分からない。
だったら、その方法を知っている人たちと一緒に考えるしかない。
「隊員さん」
「はい?」
「俺の《帰り道》では、今いる場所から入口へ戻る道筋は見えています。でも、向こうへ渡る方法は分かりません」
隊員は頷いた。
「分かっています」
「だから、俺にできることがあれば言ってください。道具を運ぶことでも、連絡を取ることでも」
隊員は少しだけ笑った。
「ありがとうございます。では、要救助者へ声をかけ続けてもらえますか。今は、こちらが救助の準備をしていることを伝えてほしいんです」
「分かりました」
俺は頷いた。
男性へ向き直る。
「聞こえますか!」
「聞こえる!」
「今、別の道を確認しています! すぐには渡れませんけど、助ける方法を考えています!」
男性は頷いた。
「分かった!」
「足は、どんな状態ですか!」
「さっき転んで、ひねった! 立てるけど、歩くと痛い!」
俺は隊員へ目を向けた。
隊員は頷き、通信機で状態を報告した。
俺は再び男性へ声をかけた。
「無理に歩かなくて大丈夫です! 今は安全な場所にいてください!」
「……分かった!」
男性は壁へ背中を預けた。
俺はその姿を見つめた。
さっき聞いた話が頭に浮かんだ。
この人は、今日の仕事が終わったら家に帰るつもりだった。
休みの日には、子どもと出かける約束をしているらしい。
そんな普通の予定が、今は危うくなっている。
俺は拳を握った。
帰ってほしい。
ちゃんと家に帰って、約束を守ってほしい。
そのために、俺たちはここへ来たのだから。
しばらくして、通信機から相馬さんの声が聞こえた。
『現地班、こちら相馬。聞こえるか』
「はい、聞こえています」
『設備担当から連絡があった。古い排水路の横に、もう一つ点検用の通路がある可能性が高いそうだ』
俺は顔を上げた。
「さっきの扉ですか?」
先頭の隊員が通信機へ向かって尋ねた。
「こちらでも古い扉を確認しています。ただ、周囲が傷んでいるため、無理に開けるのは危険だと判断しました」
『その判断でいい。問題は、その通路へ別の場所から入れないかということだ』
俺は思わず図面を見た。
古い点検通路。
その先は、男性がいる場所の近くへつながっている。
もし反対側から入れたら。
「相馬さん、別の入口があるんですか?」
『今、確認している。古い図面では、現在の管理施設側にも接続していたようなんだ』
俺は息をのんだ。
現在の管理施設。
俺たちが入ってきた場所とは、別の区画かもしれない。
相馬さんは続けた。
『ただし、実際に通れるかどうかは分からない。設備担当が外から確認する。お前たちは今の場所で待機してくれ』
「了解しました」
通信が終わった。
俺は男性を見た。
水はまだ増えている。
でも、別の道があるかもしれない。
俺は声をかけた。
「聞こえますか!」
「聞こえる!」
「別の場所から、そちらへ行ける道がないか調べています!」
男性は顔を上げた。
「……本当か!」
「はい! まだ確認中ですけど、可能性があります!」
男性はしばらく俺を見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「分かった。待ってる!」
俺は頷いた。
「お願いします!」
その時、男性が少し笑った。
「……なあ!」
「はい!」
「俺、今日の仕事が終わったら、家に帰るつもりだったんだ!」
俺は思わず顔を上げた。
「聞いてます!」
「そうか!」
男性は笑った。
でも、その笑顔はすぐに消えた。
「子どもと約束してるんだ! 次の休みに、一緒に出かけるって!」
俺は頷いた。
「はい!」
「だから……帰りたい!」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
俺は男性を見つめた。
帰りたい。
それは、俺が何度も聞いてきた言葉だった。
遭難した人たちが、暗い場所で何度も口にしてきた言葉。
誰かが待っている場所へ戻りたい。
いつもの生活へ帰りたい。
ただ、それだけの願い。
俺は大きく頷いた。
「帰りましょう!」
男性が顔を上げた。
「絶対に、とは今は言えません! でも、俺たちはあなたを助けるために来ました!」
俺は続けた。
「だから、今は諦めないでください! 俺たちも諦めません!」
男性はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……分かった!」
俺は少し笑った。
その時、通信機が鳴った。
『久世、聞こえるか』
相馬さんだった。
「はい!」
『別の入口が見つかった』
俺は息をのんだ。
「本当ですか!」
『ああ。古い図面に描かれていた点検通路の反対側だ。現在の管理施設の中に、入口らしい場所が残っている』
「じゃあ、そこから……!」
『まだ入れるとは決まっていない。今、設備担当が周囲を確認している。ただ、そちらより水位が低く、入口付近は乾いているそうだ』
俺は思わず隊員を見た。
隊員も真剣な表情で通信を聞いている。
『現地班は、今の場所から無理に進まなくていい。まずは安全に戻れる状態か確認してくれ。別の入口から救助できるなら、そちらを使う』
「了解しました!」
隊員が答えた。
俺は男性へ目を向けた。
男性は不安そうにこちらを見ていた。
「どうした!」
俺は声を張った。
「別の入口が見つかりました!」
男性は目を見開いた。
「……本当か!」
「はい! そこから助けに行けるか確認しています!」
男性は大きく頷いた。
「分かった!」
俺は少し安心した。
ただ、その時だった。
男性の足元で、水が大きく波打った。
俺は顔を上げた。
「……え?」
水の流れる音が、急に大きくなった。
設備担当の職人さんも顔を上げた。
「……まずいですね」
「どうしました?」
先頭の隊員が尋ねた。
「水の流れが変わっています。奥から入ってくる量が増えたのかもしれません」
俺は男性を見た。
男性が座っている場所の端まで、水が広がっていた。
さっきより、明らかに増えている。
「隊員さん!」
俺が声を上げると、隊員はすぐに通信機を取った。
「こちら現地班! 水位の上昇を確認しました! 要救助者の足元まで水が迫っています!」
『こちら相馬。了解した。別の入口の確認を急がせる。ただし、そちらも危険なら退避しろ!』
「了解しました!」
俺は男性へ声をかけた。
「聞こえますか!」
「聞こえる!」
「水が増えています! 今いる場所から、もう少し高いところへ移れますか!」
男性は周囲を見た。
でも、首を横に振った。
「……無理だ! これ以上、上がれる場所がない!」
俺は息をのんだ。
先頭の隊員が俺の隣へ来た。
「久世さん、ここからは私が指示します」
「……はい」
隊員は男性へ声をかけ、周囲の状態を確認し始めた。
俺はその様子を見守った。
目の前にいるのに、手が届かない。
帰る方向は見えているのに、そこまで連れていく方法が分からない。
俺は拳を握った。
でも、今は焦ってはいけない。
別の入口が見つかった。
そこから助けに行ける可能性がある。
だからこそ、ここで無理をしてはいけない。
その時、通信機から相馬さんの声が聞こえた。
『現地班、こちら相馬! 別の入口の確認が取れた!』
俺は顔を上げた。
「どうでした!」
『入口は開けられる状態だ。ただし、その先の通路はまだ確認できていない。今、救難隊員と設備担当が準備している』
俺は少しだけ息を吐いた。
希望が見えた。
まだ、助けられるかもしれない。
でも、次に聞こえた言葉で、俺の表情は変わった。
『それと、久世。お前に確認したいことがある』
「……何ですか?」
『古い図面をもう一度調べたんだが、反対側の点検通路には、途中に大きな段差があるらしい』
「段差ですか?」
『ああ。昔の設備を点検するための通路だからな。今の状態では、担架を運べるか分からない』
俺は男性を見た。
足を痛めている。
自分で歩けると言っていたが、水の中を移動するのは難しそうだ。
もし別の通路から近づけても、そこを安全に戻れるとは限らない。
相馬さんは続けた。
『だから、現地の状態を確認してから搬送方法を決める。お前たちは今の場所で無理に動くな』
「分かりました」
俺は頷いた。
その時、男性が叫んだ。
「おい!」
俺は振り返った。
「どうしました!」
「水が……もう、足まで来た!」
俺は明かりを向けた。
男性が座っている場所へ、水が流れ込み始めていた。
男性は慌てて足を引き寄せようとしたが、痛みがあるのか顔をしかめた。
俺は思わず一歩前へ出た。
でも、先頭の隊員がすぐに止めた。
「久世さん、下がってください!」
「……はい!」
俺は足を止めた。
隊員は男性へ声をかけた。
「その場で姿勢を保ってください! 無理に水へ入らないでください!」
「分かった!」
男性は壁に手をつき、体を支えた。
俺はその姿を見つめた。
あと少し。
別の入口が見つかった。
救助の準備も進んでいる。
でも、水は待ってくれない。
俺は通信機を握った。
「相馬さん!」
『どうした、久世!』
「水が、もうあの人の足元まで来ています!」
『分かった。こちらでも確認している。今、別の入口から接近できるか調べているところだ』
「……お願いします!」
『ああ。任せろ』
俺は通信機を下ろした。
その時、フェナの声が聞こえた。
『ナオトさん、聞こえますか?』
「フェナ?」
『はい。こちらで、もう一つ確認できたことがあります』
俺は顔を上げた。
「何?」
『古い図面の点検通路ですが、途中にある段差の横に、別の設備が描かれているそうです』
「別の設備?」
『はい。昔、道具を上げ下ろしするために使っていた場所かもしれないそうです』
俺は息をのんだ。
道具を上げ下ろしする場所。
それなら、段差があっても何かを運ぶための仕組みが残っているかもしれない。
もちろん、今も使えるとは限らない。
でも、確認する価値はある。
「フェナ、それって……!」
『はい。相馬さんたちも、今確認しています』
俺は頷いた。
「ありがとう!」
『ナオトさんも、無理をしないでくださいね』
「うん。分かってる」
通信が終わった。
俺は男性を見た。
男性は壁に手をつきながら、必死に姿勢を保っている。
水は少しずつ増えていた。
俺は大きく息を吸った。
帰る道は、まだある。
ただ、その道を通るためには、俺一人の力では足りない。
救難隊員たちが安全を確認し、設備担当が古い仕組みを調べ、相馬さんたちが全体を見ながら判断する。
その全部が必要だった。
俺は男性へ声をかけた。
「聞こえますか!」
「聞こえる!」
「もう少しです! 別の場所から助けに行く準備をしています!」
男性は頷いた。
「……分かった!」
俺は続けた。
「だから、今はそこにいてください! 俺たちも、ここから声をかけ続けます!」
男性はしばらく俺を見つめていた。
それから、少しだけ笑った。
「……頼む!」
俺は頷いた。
「はい!」
その時、先頭の隊員が俺の肩へ手を置いた。
「久世さん、こちらも一度戻る準備をします」
「……戻るんですか?」
「はい。別の入口から救助するなら、ここに長く留まる必要はありません。それに、水位が上がっている以上、こちらも安全とは言い切れません」
俺は男性を見た。
あの人を残して戻る。
そう考えると、胸が苦しくなった。
でも、隊員の判断は正しい。
俺たちがここで動けなくなれば、救助する人が増えてしまう。
「……分かりました」
俺は頷いた。
隊員は男性へ声をかけた。
「こちらは一度、安全な場所へ戻ります! 別の入口から救助する準備を進めていますので、今いる場所で待っていてください!」
男性は驚いた顔をした。
「……戻るのか!」
「はい! ただし、救助をやめるわけではありません! 別の場所から近づくためです!」
男性はしばらく黙っていた。
俺はその姿を見つめた。
怖いはずだ。
ようやく助けが来たのに、その人たちが離れていく。
また一人になるかもしれない。
俺は声をかけた。
「聞こえますか!」
男性が顔を上げた。
「俺たちは、あなたを置いて帰るわけじゃありません!」
俺は続けた。
「安全に連れて帰るために、別の道を探します! だから、もう少しだけ待っていてください!」
男性は俺を見つめた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
俺は頷き返した。
隊員たちが退避の準備を始めた。
俺は最後にもう一度、男性の姿を確認した。
水は足元まで来ている。
でも、男性は壁に手をつき、こちらを見ていた。
「必ず、また声をかけます!」
俺が言うと、男性は小さく笑った。
「……待ってる!」
俺は頷いた。
そして、隊員たちと一緒に来た道を戻り始めた。
《帰り道》の道筋は、入口へ向かって続いている。
その方向に沿って進みながら、俺は何度も後ろを振り返りそうになった。
でも、今は戻るしかない。
あの人を助けるために。
別の入口から、安全に近づく方法を見つけるために。
俺たちは足元を確認しながら、慎重に通路を進んだ。
その途中、通信機が鳴った。
『久世、こちら相馬』
「はい!」
『別の入口から入った隊員が、古い点検通路の途中まで確認できた』
俺は顔を上げた。
「どうでした!」
『段差はあるが、通路自体は残っているそうだ。ただし、奥の状態はまだ分からない』
「じゃあ、向こうへ行ける可能性があるんですね!」
『ああ。今、救助用の道具を運び込む準備をしている』
俺は少し安心した。
別の道が、確かに残っている。
それだけでも、大きな前進だった。
でも、相馬さんは続けた。
『ただし、もう一つ問題がある』
「……何ですか?」
『古い点検通路の途中に、金属製の扉があるらしい』
俺は足を止めかけた。
「扉?」
『ああ。図面には描かれていない扉だ。今、設備担当が確認している』
「開けられそうですか?」
『まだ分からない。ただ、扉の向こうから水の音が聞こえているそうだ』
俺は息をのんだ。
水の音。
それは、今まさに男性の足元へ迫っている水と、つながっているのかもしれない。
相馬さんは静かに続けた。
『だから、無理に開けるわけにはいかない。まずは、向こう側の状態を確認する必要がある』
「……分かりました」
俺は頷いた。
別の入口が見つかった。
通路も残っている。
でも、その先にはまだ越えなければならないものがある。
俺は通信機を握り直した。
今度こそ、あの人を安全に連れて帰りたい。
そのためには、焦ってはいけない。
でも、時間がないことも分かっている。
俺は前を向いた。
帰るための道筋は、今も見えている。
その道を、あの人と一緒に歩くために。
俺たちは、もう一つの入口へ向かう準備を進めていた。




