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ハズレスキル《帰り道》しかないF級探索者、遭難したS級パーティを全員連れて帰ったら救難依頼が殺到しました  作者: ころもぐら


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第145話 図面から消えた通路  

瀬川さんからの通信が終わっても、相馬さんはしばらく古い水門を見つめていた。


 俺も同じ方向へ目を向けた。ついさっきまで、あの扉の向こうで二人の救助に当たっていた。意識を失った男性の足を挟んでいた金属の部品も、壁の奥から聞こえていた重い音も、まだはっきり覚えている。


 ようやく二人を外へ連れ出せたというのに、今度は図面に載っていない通路が見つかったらしい。


「相馬さん、古い図面には載っているんですよね?」


「ああ。瀬川の話では、昔の排水設備につながる点検通路らしい。ただ、今の管理図面では、その部分がなくなっている」


「埋められたんじゃないんですか?」


「その可能性はある。問題は、埋めたという記録が見つかっていないことだ」


 相馬さんは通信機を腰へ戻した。


「使わなくなった設備を図面から外すこと自体は珍しくない。だが、実際に残っているなら話は別だ。今回みたいに水の流れが変わった時、どこへ影響が出るか分からなくなる」


「じゃあ、調べないといけませんね」


「調べる。ただし、俺たちが今すぐ地下へ戻る必要はない」


 相馬さんは俺の顔を見た。


「久世。お前、もう一回入ろうとしてただろ」


「……顔に出てました?」


「出てる」


 即答だった。


 そんなに分かりやすいだろうか。


 俺が苦笑すると、相馬さんは少しだけ表情を緩めた。


「二人を運び出したばかりだ。まずは全員の状態を確認する。それから設備の専門家と相談する。順番を間違えるなよ」


「はい」


 その時、救護班の方から声が聞こえた。


「搬送車、出ます!」


 俺たちは振り返った。


 意識のない男性を乗せた担架が、搬送車の中へ運び込まれるところだった。救護の隊員が付き添い、呼吸の状態を確認しながら手早く準備を進めている。


 男性の顔は青白く、目は閉じられたままだった。


 地下から連れ出すことはできた。でも、あの人が無事に回復するかどうかは、まだ分からない。


 俺は無意識に拳を握っていた。


「久世さん」


 隣から声をかけられた。


 振り向くと、フェナが立っていた。


「どうした?」


「あの方が、ナオトさんに聞きたいことがあるそうです」


 フェナの視線を追うと、もう一人の男性が救護用の椅子に座っていた。


 地下では何度も仲間を心配して立ち上がろうとしていたが、今は救護の人に毛布をかけてもらい、少し落ち着いた様子だった。


 ただ、その目はずっと搬送車へ向けられている。


「分かった。行こう」


 俺が近づくと、男性は顔を上げた。


『あいつは、助かるんだろうか』


 フェナが通訳してくれた。


 俺は男性の隣にしゃがんだ。


「今、治療を受けられる場所へ運んでもらうところです。詳しい状態は、向こうで調べてもらわないと分かりません」


 男性は唇を噛んだ。


『そうか……』


「あなたも診てもらってください。長い間、冷たい地下にいたんですから」


『俺は大丈夫だ。それより、あいつを……』


 そこまで言って、男性は言葉を止めた。


 フェナが静かに声をかける。


『心配ですよね。でも、あなたが倒れてしまったら、あの方も悲しむと思います』


 男性はしばらく黙っていた。


 それから、毛布を握りしめたまま小さく頷いた。


『……分かった』


 俺は少し安心した。


 男性はもう一度搬送車を見たあと、何かを思い出したように顔を上げた。


『そういえば、あいつが最後に言っていたことなんだけど……』


「最後に?」


『足を挟まれて、動けなくなった時だ。俺が金属の部品を持ち上げようとしたら、あいつは絶対に触るなって言ったんだ』


 それは地下でも聞いた話だった。


 俺が頷くと、男性は続けた。


『そのあと、何か言っていた。水を止めたら、別の場所へ流れるとか……そんなことだったと思う』


「水を止めたら?」


『ああ。俺もよく聞き取れなかった。あいつは苦しそうだったし、俺も何とか助けようとして必死だったから』


 男性は申し訳なさそうに俯いた。


『ちゃんと聞いておけばよかった』


「そんなことないですよ」


 俺は首を横に振った。


「その時は、あなたも大変だったんです。今、思い出してくれただけでも助かります」


 フェナが通訳すると、男性は少し驚いた顔をした。


『……役に立つのか?』


「はい。もしかしたら、古い設備を調べる手がかりになるかもしれません」


 男性は俺を見つめたあと、ゆっくりと頷いた。


『そうか。それならよかった』


 俺はフェナへ目を向けた。


「今の話、相馬さんにも伝えておこう」


「はい」


 フェナは頷き、男性へもう一度声をかけた。


『ありがとうございました。あとは私たちで確認しますから、安心して休んでください』


 男性は小さく頭を下げた。


 俺たちが相馬さんのところへ戻ると、ちょうど一台目の搬送車が出発したところだった。


 もう一人の男性も、救護の人に付き添われて別の車へ向かっている。


 俺は二台の車を見送ってから、さっき聞いた話を相馬さんへ伝えた。


「水を止めたら、別の場所へ流れる……か」


 相馬さんは考え込んだ。


「正確な言葉は分からないそうです。でも、怪我をしていた人は、地下の設備について何か気づいていたのかもしれません」


「あり得るな。壁に残っていた図も見ていたんだろ?」


「はい」


「分かった。瀬川にも伝えておく」


 相馬さんは通信機を取り出した。


 俺はその間、もう一度水門を見た。


 地下の水位を下げるために、水門を切り替えた。


 その結果、怪我人の足を挟んでいた古い部品が動き始めた可能性がある。


 もし、あの設備が別の排水路にもつながっていたとしたら。


 俺たちが知らない場所で、今も何かが動いているのかもしれない。


 ただ、それを確かめる方法は俺には分からなかった。


 《帰り道》は、設備の状態を教えてくれる能力ではない。水がどこへ流れているかも、壁の向こうに何があるかも分からない。


 だからこそ、図面や記録を調べられる人たちの力が必要だった。


 しばらくして、相馬さんが通信を終えた。


「瀬川がこっちへ来る。古い図面も持ってくるそうだ」


「じゃあ、それまで待機ですか?」


「ああ。お前たちは一度休憩してこい」


「でも……」


「久世」


 相馬さんが俺の言葉を遮った。


「今から図面を見ても、すぐに地下へ入るわけじゃない。休める時に休んでおけ」


「……分かりました」


 言われてみれば、地下へ入ってからずっと動きっぱなしだった。


 緊張が解けたせいか、足の重さもさっきよりはっきり感じる。


 フェナも俺の顔を覗き込んだ。


「ナオトさん、少し休みましょう。私も喉が渇きました」


「そうだな」


 俺たちは救護所の隣に設けられた休憩場所へ向かった。


 椅子に座ると、思っていた以上に体が疲れていることに気づいた。


 水を飲んでいると、フェナが隣へ座った。


「ナオトさん」


「うん?」


「さっきの方、最後に少し笑っていましたね」


「ああ」


「地下にいた時は、ずっと怖そうな顔をしていましたから」


 俺は頷いた。


 あの男性は、仲間を助けようとして何度も金属の部品を動かそうとしていた。


 自分だって疲れ切っていたはずなのに、最後まで仲間のことばかり心配していた。


「仲がよかったんだろうな」


「そうですね」


 フェナは手に持った水を一口飲んだ。


「ナオトさんは、あの方が何度も謝っていたことを覚えていますか?」


「うん。もっと早く気づいていればって言ってたよな」


「はい。でも、私はあの方が悪いとは思いません」


 フェナは少しだけ視線を落とした。


「自分も怖かったはずなのに、仲間を置いて逃げなかったんです。助けが来るまで、ずっとそばにいたんですよね」


「……そうだな」


 俺は地下で見た光景を思い出した。


 暗い部屋で、怪我をした仲間のそばに座っていた男性。


 何度も壁を叩き、声を出し、誰かが来るのを待っていた。


 あの人が諦めずに助けを求めてくれたから、俺たちは二人を見つけることができた。


「今度会えたら、ちゃんと伝えたいな」


「何をですか?」


「仲間を守ってくれてありがとうって」


 フェナは少し驚いた顔をしたあと、嬉しそうに笑った。


「はい。きっと喜んでくれると思います」


 俺も笑った。


 その時、休憩場所の入口から声が聞こえた。


「久世さん、フェナさん!」


 振り向くと、瀬川さんが書類の入ったケースを抱えて立っていた。


「瀬川さん。もう着いたんですか?」


「はい。相馬さんから急ぎで来てほしいと言われまして」


 瀬川さんは俺たちの顔を見比べた。


「二人とも大丈夫ですか?」


「少し疲れましたけど、大丈夫です」


「それならよかったです。相馬さんが、休憩が終わったら来てほしいと」


「図面の件ですね」


「はい。ちょっと気になることがありまして」


 瀬川さんはそう言うと、抱えていたケースを持ち直した。


「詳しいことは、現場で説明します」


 俺は立ち上がった。


 フェナも水の容器を片づけ、俺の隣へ来た。


「行きましょうか」


「うん」


 俺たちは瀬川さんについて、仮設の作業場所へ向かった。


 そこでは相馬さんと設備担当の職人さんたちが、机の上に広げた図面を確認していた。


 机には大きな紙が二枚並んでいる。


 一枚は古く、端が黄ばんでいた。


 もう一枚は新しい管理図面らしく、細かい文字や記号が整理されている。


「来たか」


 相馬さんが顔を上げた。


「はい」


「ちょうどいい。瀬川、説明してくれ」


「分かりました」


 瀬川さんは二枚の図面を指した。


「こちらが現在の管理図面です。水門の位置、点検通路、排水設備の配置が記載されています」


 俺は図面を覗き込んだ。


 地下へ入った時に通った道も描かれている。


 途中の曲がり角や、怪我人がいた部屋につながる通路も確認できた。


「こっちは見覚えがあります」


「そうですよね。今回、救助に入る時に使った図面と同じものですから」


 瀬川さんは隣の古い図面へ指を移した。


「問題はこちらです」


 俺は目を凝らした。


 古い図面には、今の図面よりも多くの線が描かれていた。


 水門の横から細い通路が伸び、その先で二つに分かれている。


 一方は今回使った点検通路につながっていた。


 もう一方は、壁の奥へ回り込むように描かれている。


「これが、消えていた通路ですか?」


「はい」


 瀬川さんは頷いた。


「正確には、現在の図面で省略されている通路です。完全に埋められたのか、入口だけ塞がれたのか、今の資料では判断できません」


「長さはどれくらいあるんですか?」


「図面上では、それほど長くありません。ただ、途中に古い排水設備があるようです」


 職人さんが口を開いた。


「この設備は、昔の水門を動かしていた頃に使われていたものだと思います。今の仕組みとは違って、水を別の場所へ逃がすための通路が設けられていたようですね」


「水を逃がす?」


 俺が聞き返すと、職人さんは頷いた。


「水門を閉めれば、当然その手前に水が溜まります。昔は、その水を別の排水路へ流す仕組みがあったんでしょう」


 俺はさっき男性から聞いた言葉を思い出した。


 水を止めたら、別の場所へ流れる。


「じゃあ、怪我をしていた人が言っていたのは……」


「この仕組みのことかもしれません。ただ、本人が何を見てそう判断したのかは分かりませんね」


 職人さんは慎重に答えた。


 相馬さんも頷いた。


「そこは決めつけるな。今分かっているのは、古い排水設備が残っている可能性があるということだけだ」


「はい」


 俺はもう一度図面を見た。


 古い通路の先には、小さな四角い記号が描かれていた。


「この四角は何ですか?」


 俺が尋ねると、瀬川さんが顔を近づけた。


「それですね。私も気になっていたんです」


「分からないんですか?」


「記号の説明が残っていないんですよ」


 職人さんも図面を覗き込んだ。


「昔の点検口かもしれません。ただ、当時の設備を実際に見ていないので、断定はできません」


 俺は顔を上げた。


「点検口なら、外から確認できたりしませんか?」


「その可能性はあります」


 瀬川さんが答えた。


「だから、今の地形と照らし合わせているところなんです」


 相馬さんは机の端に置かれた別の資料を手に取った。


「問題は、ここだ」


 相馬さんが示したのは、水門の外側にある管理用の通路だった。


「古い図面を現在の配置に重ねると、この辺りに点検口があったことになる」


「……近いですね」


 俺は思わず呟いた。


 そこは、さっき救護班が作業していた場所から、それほど離れていない。


 今は搬送が終わり、人も少なくなっているはずだ。


「もう確認したんですか?」


「いや。今からだ」


 相馬さんは職人さんへ目を向けた。


「外から調べられますか?」


「まずは周囲の状態を確認しましょう。ただし、古い点検口が残っていたとしても、すぐに開けるのは危険です」


「分かっています」


 相馬さんは頷いた。


「久世、お前たちはここで待機してくれ」


「俺たちは行かなくていいんですか?」


「現場の位置確認は設備担当がやる。お前の能力が必要な作業じゃない」


「……そうですね」


「それに、今回は中へ入る必要があるかどうかも分からない。まずは外から確認する」


 俺は頷いた。


 救難の仕事をしていると、どうしても自分が現場へ行かなければと思ってしまう。


 でも、何でも俺が確認する必要はない。


 むしろ、専門の人に任せた方が安全で早いことも多い。


 俺は机の上の図面へ目を戻した。


「じゃあ、俺はこっちで、通った場所を説明します」


「助かる」


 相馬さんは頷き、職人さんたちと一緒に外へ向かった。


 残った俺たちは、図面を見ながら地下での出来事を整理し始めた。


「久世さん、まず最初に水が溜まっていた場所を教えてもらえますか?」


 瀬川さんがペンを持った。


「はい。ここです」


 俺は通路の曲がり角を指した。


「この辺りから水が深くなっていました。奥へ進むほど足元が見えにくくなって、壁の近くにも水が流れていました」


「水門を切り替えたあとは?」


「少しずつ水位が下がりました。ただ、怪我人がいた部屋の奥では、金属の部品が動き始めたんです」


 瀬川さんはメモを取りながら頷いた。


「音が聞こえたのは、どの辺りですか?」


「部屋の奥です。金属の棒が壁の中へ伸びていて、その向こうから聞こえていました」


 俺は図面を指でなぞった。


 怪我人がいた部屋と、古い排水通路の位置を見比べる。


 すると、二つの場所が思っていたより近いことに気づいた。


「瀬川さん」


「はい?」


「これ、怪我人がいた部屋のすぐ裏側ですよね」


 瀬川さんは図面へ顔を近づけた。


「……そうですね」


「金属の棒が伸びていた方向とも、だいたい合っている気がします」


 瀬川さんは少し考えた。


「ただ、図面の縮尺や位置が正確とは限りません。古い資料なので、多少ずれている可能性もあります」


「そうですよね」


「でも、確認する価値はありそうです」


 瀬川さんは新しいメモを追加した。


 俺は図面を見つめた。


 もし本当に、あの金属の棒が古い排水設備につながっていたとしたら。


 水門を切り替えたことで、水の流れが変わり、古い設備が動いたのかもしれない。


 そして、その影響は今も続いている可能性がある。


 俺は少し不安になった。


「瀬川さん。あの設備、今も動いているんでしょうか」


「分かりません。ただ、止まったという確認はできていません」


「じゃあ、危ないですよね」


「だから、今調べているんです」


 瀬川さんは落ち着いた声で答えた。


「久世さんが地下で見たことは、できるだけ詳しく残しておきたいです。後から設備を調べる人にとって、重要な情報になるかもしれませんから」


「分かりました」


 俺は頷き、覚えていることを一つずつ話し始めた。


 水の深さ。


 通路の幅。


 壁の亀裂。


 金属の部品が動いた方向。


 怪我人の足を外す時に聞こえた音。


 瀬川さんは俺の話を途中で遮らず、必要なところだけ確認しながら記録していった。


 しばらくして、通信機が鳴った。


『こちら相馬。瀬川、聞こえるか』


「はい。聞こえています」


『古い点検口らしいものが見つかった』


 俺は思わず顔を上げた。


「本当ですか?」


 瀬川さんが通信機へ向かって尋ねる。


「状態はどうですか?」


『今、設備担当が確認している。入口らしい金属製の蓋が残っているんだが、周囲が土砂で埋まっている』


「開けられそうですか?」


『まだ触っていない。蓋の周囲に水が滲んでいるから、先に状態を調べる』


 俺は息をのんだ。


 水が滲んでいる。


 地下で聞こえていた金属音が、頭の中によみがえった。


 瀬川さんも表情を変えた。


「水の量は多いんですか?」


『今のところ、表面が濡れている程度だ。ただ、さっきより範囲が広がっているように見える』


「分かりました。こちらでも図面を確認します」


『頼む。それと、周囲には誰も近づけないようにしてある』


 通信が終わった。


 俺は瀬川さんを見た。


「……大丈夫なんでしょうか」


「まだ分かりません。でも、今のうちに見つかってよかったと思います」


「どうしてですか?」


「もし知らずに人が近づいていたら、危険な状態になってから気づいたかもしれません。今なら、周囲を立入禁止にして調べられます」


 なるほど。


 危険な場所があると分かった時点で、人を近づけないようにする。


 それだけでも、事故を防ぐことにつながる。


 俺は少しだけ安心した。


 ただ、問題が解決したわけではない。


 古い設備の状態は分からないままだ。


 俺たちは引き続き図面を確認した。


 その時、瀬川さんが古い図面の端を指した。


「……あれ?」


「どうしました?」


「ここ、何か書いてありますね」


 俺は顔を近づけた。


 古い図面の隅に、小さな文字が並んでいる。


 紙が傷んでいるせいで、ところどころ読めなくなっていた。


「何て書いてあるんですか?」


「ちょっと待ってください」


 瀬川さんは端末で図面の画像を拡大した。


 画面には、かすれた文字が映し出された。


「……旧排水路、使用停止」


 瀬川さんが読み上げた。


「その下に、閉塞工事……」


 俺は続きを待った。


 瀬川さんは画面を見つめたまま、眉を寄せた。


「……予定?」


「予定ですか?」


「はい。少なくとも、この部分は『閉塞工事予定』と読めます」


 俺は首を傾げた。


「じゃあ、工事が終わったとは書いてないんですね」


「そうなんです」


 瀬川さんは別の資料を確認した。


「現在の図面では、この通路がなくなっています。だから、どこかの時点で使われなくなったのは確かなんでしょうけど……」


「本当に埋めたかどうかは分からない」


「はい」


 俺は古い図面を見つめた。


 予定。


 たった二文字だった。


 でも、その二文字があるだけで、今までの話が少し変わってくる。


 工事を予定していたことと、実際に工事が終わったことは違う。


 もし工事が行われていなかったら、古い通路は今も残っているかもしれない。


 そして、そこへ水が流れ込んでいる可能性もある。


「瀬川さん、相馬さんに伝えた方がいいですよね」


「もちろんです」


 瀬川さんはすぐに通信機を取った。


「相馬さん、こちら瀬川です。古い図面に気になる記載がありました」


『何だ?』


「消えている通路について、『閉塞工事予定』という記載があります。ただ、完了したという記録はまだ確認できていません」


 通信機の向こうで、相馬さんが少し黙った。


『……そうか』


「現在の図面では通路がなくなっていますが、実際に埋められたかどうかは不明です」


『分かった。こちらの職人さんにも伝えておく』


「お願いします」


 相馬さんは続けた。


『それと、点検口の周囲は引き続き立入禁止にする。今のところ人が入れる状態じゃないし、無理に開ける必要もない』


「了解しました」


 通信が終わると、瀬川さんは椅子へ座り直した。


「……ちょっと厄介ですね」


「そうですね」


 俺は頷いた。


 ただ、今回は少し違う。


 地下に取り残されている人を探しているわけではない。


 今、俺たちがやろうとしているのは、次の事故を起こさないための確認だった。


 それでも、危険な場所が分からないという不安は、救難の時とよく似ていた。


 どこが安全なのか。


 何を動かしてはいけないのか。


 誰が、どこまで確認できているのか。


 そういうことを一つずつ確かめなければ、安心して作業を進めることはできない。


 俺は図面の上に置かれたペンを見た。


「瀬川さん」


「はい?」


「救難の仕事って、助けに行くことだけじゃないんですね」


 瀬川さんは顔を上げた。


「どうしました、急に」


「いや、今回のことを考えていたんです。地下にいた二人を助けるのは、もちろん大事です。でも、同じ場所でまた事故が起きたら、今度も誰かを助けに行かなきゃいけなくなるじゃないですか」


「そうですね」


「だったら、次に事故が起きないようにすることも、救難につながるのかなって」


 瀬川さんは少し考えたあと、頷いた。


「そうだと思います」


 俺は続きを待った。


「ただ、事故を防ぐ仕事は、救難班だけでできるものではありません。設備を管理する人、危険な場所を調べる人、利用者に注意を伝える人。いろんな人が関わらないと、うまくいかないんです」


「……そうですよね」


「今回も同じです。久世さんたちが地下で確認したことを記録して、設備の人たちへ伝える。それをもとに専門の人が調べる。そうやって、少しずつ安全な状態にしていくんです」


 俺は頷いた。


 地下で怪我人の足を外した時も、同じだった。


 俺には金属の部品を動かす方法が分からなかった。


 でも、隊員たちが道具を使って支えを設置し、慎重に作業してくれた。


 俺は明かりを向けたり、必要な情報を伝えたりすることしかできなかったけれど、それでも役割はあった。


「じゃあ、今回も俺が見たことをちゃんと伝えないとですね」


「はい。お願いします」


 瀬川さんは笑った。


 俺も少し笑い、再び図面へ目を向けた。


 その時だった。


 外から、何かを叩くような音が聞こえた。


 ガン、と短い音だった。


 俺は顔を上げた。


「……今の、何ですか?」


 瀬川さんも入口の方を見た。


「作業の音でしょうか」


 続いて、もう一度音がした。


 今度は少し大きかった。


 ガンッ。


 俺は思わず立ち上がった。


 地下で聞こえていた金属音とは違う。


 もっと近くから聞こえている。


 その直後、通信機が鳴った。


『瀬川、こちら相馬!』


 相馬さんの声が、さっきより大きかった。


「はい! どうしました?」


『点検口の周囲から水が出始めた。今、全員を離している!』


 俺は息をのんだ。


「水が?」


『ああ。まだ大量ではないが、蓋の隙間から流れ出している。設備担当が圧力の変化を確認中だ』


 瀬川さんはすぐに答えた。


「分かりました。こちらで何かできることはありますか?」


『まずは管理側に連絡して、周囲の通路を完全に閉鎖してくれ。作業員も近づけるな』


「了解しました!」


 瀬川さんは別の通信機を取り出し、管理側へ連絡を始めた。


 俺はその様子を見ながら、拳を握った。


 やっぱり、古い設備はまだ動いているのかもしれない。


 でも、ここで俺が飛び出しても、何もできない。


 相馬さんたちはすでに現場を確認している。


 俺が今できることは、必要な情報を伝えることだった。


「瀬川さん、俺も何か手伝います」


 瀬川さんは通信を終えると、俺を見た。


「それなら、図面を持って相馬さんのところへ行きましょう。ただし、危険な場所には近づかないでください」


「はい!」


 俺たちは図面をまとめ、外へ向かった。


 古い水門の近くでは、相馬さんたちが作業していた。


 点検口の周囲には立入禁止のための柵が設置され、作業員たちも離れた場所から様子を確認している。


 俺は相馬さんのところへ近づいた。


「相馬さん!」


「久世、来たか」


「水が出ているって聞きました」


「ああ。見てみろ。ただし、ここから先へは行くなよ」


 俺は柵の向こうへ目を向けた。


 地面の一部が濡れていた。


 古い金属製の蓋の周囲から、水が少しずつ流れ出している。


 最初は細い筋のようだったものが、今は地面の低い方へ向かって広がっていた。


「……本当に出てますね」


「ああ」


 相馬さんは頷いた。


「今のところ、周囲に人はいない。管理側にも連絡して、ここへ続く通路は閉鎖してもらった」


「よかったです」


「ただ、原因はまだ分からない」


 職人さんが近づいてきた。


「相馬さん、確認できました」


「どうでした?」


「この点検口の奥に水が溜まっている可能性があります。ただ、圧力がどの程度かは、今の状態では分かりません」


「蓋は開けられますか?」


「今はやめた方がいいですね。水が押しているなら、開けた瞬間に大量に流れ出す危険があります」


 相馬さんは頷いた。


「分かりました。開けずに確認できる方法を考えましょう」


 職人さんは続けた。


「それと、古い排水設備が現在の水門とどこかでつながっている可能性があります。水門の操作記録も確認したいです」


「手配します」


 相馬さんはすぐに通信機を取り出した。


 俺は柵の向こうを見た。


 水はまだ流れ続けている。


 量はそれほど多くない。


 でも、地下で二人を助けていた時のことを思い出すと、安心はできなかった。


 あの時も、最初は少しずつ状況が変わっていた。


 気づいた時には、金属の部品が動き始め、怪我人の足をさらに圧迫する危険が出ていた。


 今回も、同じようなことが起きるかもしれない。


 俺は相馬さんへ声をかけた。


「相馬さん、あの水が増えたら、どうなるんですか?」


「場所による。周囲へ流れ出すだけで済むかもしれないし、地面の下に別の空間があれば、そっちへ影響が出る可能性もある」


「じゃあ、今のうちに調べないと……」


「そのために人を離して、設備の人たちに確認してもらっている」


 相馬さんは俺を見た。


「焦るな。危険な場所を見つけたからといって、すぐに中へ入ればいいわけじゃない」


「……はい」


「まずは、何が起きているかを調べる。それから必要な対応を決める。救難でも設備の確認でも、そこは変わらない」


 俺は頷いた。


 相馬さんの言う通りだった。


 今は、怪我人を助けるために急いでいるわけではない。


 誰も近づいていないなら、時間をかけて安全な方法を考えることができる。


 その時間を、自分から捨てる必要はなかった。


 しばらくして、瀬川さんが図面を持って戻ってきた。


「相馬さん、古い図面の記載をもう一度確認しました」


「どうだった?」


「やはり、閉塞工事は予定として記載されています。ただ、完了したという記録は見つかっていません」


 相馬さんは図面を受け取った。


「そうか」


「それと、点検口の位置ですが、古い図面と現在の地形を重ねると、ほぼ一致しています」


「つまり、あの通路が今も残っている可能性が高い?」


「はい。ただし、どこまで通れる状態なのかは分かりません」


 相馬さんは頷いた。


「分かった。まずは水の流れを確認しよう」


 職人さんも図面を覗き込んだ。


「もしこの通路が残っているなら、水門の切り替えによって、古い排水路へ水が流れ込んでいる可能性があります」


「止められますか?」


「現在の設備側で調整できるかもしれません。ただ、今すぐ操作するのは危険です。どこへ影響が出るか確認してからでないと」


 俺は思わず口を開いた。


「地下にいた時も、同じようなことがありました」


 相馬さんと職人さんが俺を見た。


「水門を切り替えたあと、怪我人の足を挟んでいた部品が動き始めたんです。だから、今度も何かを動かす前に、全部確認した方がいいと思います」


 職人さんは頷いた。


「その通りですね」


 相馬さんも俺を見た。


「よく覚えてたな」


「忘れられませんよ。あの時は、本当に怖かったので」


 俺が答えると、相馬さんは少し笑った。


「そういう経験は、ちゃんと次に生かさないとな」


「はい」


 俺は頷いた。


 その時、職人さんが図面の一部を指した。


「……待ってください」


 俺たちは顔を上げた。


「どうしました?」


 職人さんは古い図面を見つめていた。


「この排水路、点検口で終わっていませんね」


「え?」


 俺は図面を覗き込んだ。


 確かに、点検口の記号から先にも細い線が伸びている。


 今まで、そこには気づかなかった。


「この先は?」


 相馬さんが尋ねた。


 職人さんは図面を指でなぞった。


「古い排水路の出口につながっているようです。ただ、現在の地形だと……」


 職人さんは新しい図面を隣へ並べた。


 しばらく二枚を見比べたあと、表情を変えた。


「……ここですね」


 俺は指された場所を見た。


 そこは、水門から少し離れた場所だった。


 現在の管理図面には、細い管理用通路が描かれている。


 その先には、小さな施設があるらしい。


「ここ、何があるんですか?」


 俺が尋ねると、瀬川さんが答えた。


「現在は設備の管理用に使われている場所ですね。普段は人が常駐しているわけではありませんが、点検の時には作業員が入ります」


 俺は少し不安になった。


「そこにも水が流れている可能性があるんですか?」


 職人さんは頷いた。


「可能性はあります。ただ、実際につながっているかどうかは確認が必要です」


 相馬さんはすぐに通信機を取り出した。


「管理側へ連絡する。今、その場所に人がいないか確認してくれ」


 瀬川さんも端末を操作し始めた。


 俺は図面を見つめた。


 古い排水路。


 今は使われていないはずの通路。


 その先に、現在も使われている設備がある。


 もし二つがつながっていたら、今回の水門操作が別の場所にも影響しているかもしれない。


 俺は思わずフェナを見た。


 フェナも真剣な表情で図面を見つめていた。


「ナオトさん」


「うん?」


「もし、向こうに人がいたら……」


「うん。早く知らせないと」


 俺たちは相馬さんの連絡を待った。


 しばらくして、通信機から返事があった。


『こちら管理室。該当する設備を確認しました』


 相馬さんがすぐに答えた。


「現在、人はいますか?」


『今、確認しています。少々お待ちください』


 俺は息を詰めた。


 ほんの数秒だったと思う。


 でも、妙に長く感じた。


 やがて、通信機から再び声が聞こえた。


『確認できました。現在、設備点検の担当者が二名、そちらの区域で作業しています』


 俺は思わず顔を上げた。


 二人。


 また、二人だ。


 ただし、今度は地下で遭難しているわけではない。


 普通に設備の点検をしている人たちだ。


 相馬さんは落ち着いた声で尋ねた。


「その二人とは連絡が取れますか?」


『はい。通信機を持っています』


「すぐに作業を中止させてください。古い排水設備から水が流れ込んでいる可能性があります。安全な場所へ退避するよう伝えてください」


『了解しました』


 通信が切れた。


 俺は少し息を吐いた。


 連絡が取れるなら、すぐに避難してもらえるはずだ。


 まだ事故が起きたわけではない。


 今なら、間に合う。


 相馬さんは職人さんへ向き直った。


「向こうの設備に影響が出ているか、確認する方法はありますか?」


「管理室に水位の記録が残っているはずです。まずはそれを見ましょう」


「分かりました」


 瀬川さんが端末を操作し、管理室から送られてきた資料を開いた。


 画面には、いくつかの数字が並んでいた。


 俺には詳しい意味が分からない。


 ただ、職人さんの表情が少し変わったことだけは分かった。


「……上がっていますね」


 相馬さんが尋ねた。


「水位ですか?」


「はい。古い排水路につながっている可能性がある場所で、普段より水位が高くなっています」


 俺は息をのんだ。


「じゃあ、やっぱり……」


「まだ断定はできません。ただ、無関係とは考えにくいですね」


 職人さんは画面を確認しながら続けた。


「このまま水位が上がるなら、設備の一部が浸水する可能性があります。今のうちに作業員を退避させる判断は正しいと思います」


 相馬さんは頷いた。


「分かりました。管理室からの連絡を待ちましょう」


 俺は通信機を見つめた。


 地下で二人を助けた時とは違う。


 今回は、まだ誰も怪我をしていない。


 危険な場所にいる人たちへ、早く知らせることができればいい。


 俺はそう考えていた。


 でも、次に入ってきた連絡は、思っていたものとは違った。


『こちら管理室。相馬さん、聞こえますか』


「聞こえる。作業員は退避できたか?」


『一名は退避を開始しています』


 相馬さんの表情が変わった。


「一名?」


『はい。もう一名は、設備の確認に向かっていたようで、現在の位置を確認中です』


 俺は思わず瀬川さんを見た。


 瀬川さんも通信機へ顔を向けている。


 相馬さんは声を落とした。


「通信は?」


『呼びかけていますが、今のところ応答がありません』


 俺は胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 さっきまで、二人とも普通に作業していたはずだ。


 それなのに、もう一人の位置が分からない。


 相馬さんはすぐに指示を出した。


「退避中の一名には、そのまま安全な場所へ出てもらってくれ。もう一名を探しに戻らせるな。現在地が確認できるまで、ほかの作業員も中へ入れないように」


『了解しました』


「それと、最後に確認できた場所と時刻を調べてくれ。設備のどこへ向かったのかも知りたい」


『分かりました』


 通信が終わった。


 俺は相馬さんを見た。


「……相馬さん」


「ああ」


 相馬さんは短く答えた。


 さっきまでの設備調査が、少しずつ違う状況へ変わり始めている。


 ただ、まだ遭難したと決まったわけではない。


 通信機の調子が悪いだけかもしれないし、作業に集中して呼びかけに気づいていない可能性もある。


 でも、古い排水路の水位が上がっている。


 その近くで作業していた人と連絡が取れない。


 無関係だと決めつけることはできなかった。


「久世」


 相馬さんが俺を呼んだ。


「はい」


「まだ動くなよ」


「……分かっています」


「相手の位置も、現場の状態も分かっていない。今は管理側の情報を待つ」


「はい」


 俺は頷いた。


 分かっている。


 《帰り道》では、会ったこともない人の居場所を探すことはできない。


 危険な場所を見つけることもできない。


 だから、今すぐ俺が走っていっても、何も解決しない。


 それでも、じっとしているのは難しかった。


 フェナが俺の隣へ来た。


「ナオトさん」


「うん?」


「きっと、まだ間に合います」


 俺はフェナを見た。


 フェナは真剣な表情だった。


「今度は、危険なことが起きる前に気づけたんですから」


「……そうだな」


 俺は頷いた。


 まだ、何も決まっていない。


 だからこそ、今できることを進めなければならない。


 相馬さんは瀬川さんへ声をかけた。


「現在の設備図面をもう一度確認してくれ。作業員が最後にいた場所から、外へ出られる経路を整理したい」


「分かりました」


「職人さんは、水位の変化を引き続き確認してください。危険が広がるようなら、周囲の設備も止める必要があります」


「了解です」


 俺は相馬さんへ向き直った。


「俺は何をすればいいですか?」


 相馬さんは少し考えた。


「今は待機だ。ただ、救難が必要になった時に備えて、装備を確認しておいてくれ」


「分かりました」


 俺はすぐに自分の装備を確認した。


 通信機。


 明かり。


 予備の道具。


 地下で使ったものは、汚れたり濡れたりしている。


 必要なものを点検しながら、頭の中で状況を整理した。


 古い排水路が残っている可能性がある。


 その先には、現在も使われている設備がある。


 水位が上がっている場所で、作業員の一人と連絡が取れない。


 もし救難が必要になったとしても、まずは相手の位置を確認しなければならない。


 俺にできるのは、帰る道を示すことだけだ。


 そのためには、まず相手のところまでたどり着く必要がある。


 装備を確認し終えた頃、通信機が鳴った。


『相馬さん、こちら管理室です』


 相馬さんがすぐに応答した。


「どうした?」


『退避していた作業員一名は、安全な場所へ出ました』


 俺は少し安心した。


 少なくとも、一人は無事に退避できた。


 相馬さんも頷いた。


「分かった。もう一人は?」


『まだ応答がありません。ただ、最後に向かった場所が分かりました』


「どこだ?」


『古い排水設備の点検区画です。現在の管理図面では、行き止まりになっている場所です』


 俺は思わず顔を上げた。


 行き止まり。


 でも、古い図面には、その先に通路が描かれている。


 瀬川さんも同じことに気づいたらしい。


「相馬さん!」


 瀬川さんが図面を持ち上げた。


「そこ、古い図面では行き止まりじゃありません!」


 相馬さんはすぐに振り返った。


「何?」


「現在の図面では壁になっていますけど、古い図面では排水路が続いています。さっき見つかった点検口の方へつながっている可能性があります!」


 俺は図面を覗き込んだ。


 確かに、二つの場所が細い線で結ばれている。


 今の図面では消えていた通路。


 その通路の先へ、作業員が向かった可能性がある。


 相馬さんは通信機へ向き直った。


「管理室、聞こえるか?」


『はい』


「その作業員は、古い排水設備のことを知っていたのか?」


『確認します』


「頼む。それと、現場の入口は閉鎖したままにしてくれ。位置が分からない人を探すために、別の人間を危険な場所へ入れるわけにはいかない」


『了解しました』


 通信が終わった。


 相馬さんは図面を見つめた。


 俺も、その隣で古い線を追った。


 水門の近くから伸びる通路。


 途中にある古い点検口。


 その先に続く、今は使われていないはずの排水路。


 そして、現在の図面では行き止まりになっている点検区画。


 もし全部がつながっていたとしたら。


 今回、俺たちが助けた二人とは別の場所で、また誰かが危険な状況に置かれているのかもしれない。


 俺は拳を握った。


 今度は、もっと早く気づけた。


 少なくとも、作業員がいなくなったことを何時間も知らずにいるような状況ではない。


 でも、だからといって安心はできない。


 水位は上がっている。


 連絡が取れない人がいる。


 そして、正確な通路の状態は分からない。


 相馬さんは図面から顔を上げた。


「久世、フェナさん」


「はい」


「準備だけしておいてくれ。現地班と設備担当の確認が取れたら、救難に入る必要があるか判断する」


「分かりました」


 フェナも頷いた。


 俺は装備を持ち直した。


 その時、通信機から新しい連絡が入った。


『相馬さん! こちら管理室です!』


 今度の声は、明らかに慌てていた。


「どうした!」


『連絡が取れなかった作業員から、短い通信が入りました!』


 俺は息をのんだ。


「無事なんですか?」


 思わず口を挟むと、相馬さんが手で制した。


「落ち着け。管理室、内容は?」


『雑音が多くて、全部は聞き取れませんでした。ただ、本人の声だと思われます』


「何と言っていた?」


 少しの沈黙があった。


 それから、通信機の向こうで管理室の担当者が答えた。


『……水が来ている、と』


 俺は言葉を失った。


 水が来ている。


 その言葉だけで、地下で見た光景が頭に浮かんだ。


 足元へ流れ込む水。


 動き始める古い設備。


 逃げようとしても、怪我をして動けなくなった人。


 相馬さんはすぐに尋ねた。


「現在地は分かったのか?」


『いいえ。そこまでは聞き取れませんでした』


「怪我の有無は?」


『不明です』


「もう一度通信を試してくれ。こちらも救難の準備を始める」


『了解しました!』


 相馬さんは通信機を下ろした。


 俺たちの間に、短い沈黙が流れた。


 さっきまで、次の事故を防ぐために古い設備を調べていた。


 でも、もう事故が起きている可能性がある。


 しかも、相手がいるのは、現在の図面では行き止まりになっている場所だ。


 相馬さんは俺を見た。


「久世」


「はい」


「まだ相手の位置は分からない。だから、まずは現地班と連携して確認する。お前の能力で探そうとはするなよ」


「分かっています」


 俺ははっきり答えた。


 《帰り道》は、人を探すための能力じゃない。


 でも、もし相手を見つけることができたら。


 その時は、俺にもできることがある。


 俺は古い図面へ目を向けた。


 今の図面から消えている通路。


 その先に、助けを必要としている人がいるかもしれない。


 相馬さんは通信機を取り直した。


「瀬川、救難班の準備を頼む。設備担当にも同行できる人を確認してくれ。ただし、入口の安全が確認できるまでは誰も入れない」


「了解しました!」


 瀬川さんが動き始めた。


 フェナも俺の隣で装備を確認している。


 俺は一度、深く息を吸った。


 今度は、誰かが怪我をする前に助けられるかもしれない。


 そのためには、急ぐだけじゃ駄目だ。


 相手の位置を確認し、安全な経路を調べ、必要な人たちと一緒に動く。


 俺たちは、そのための準備を始めた。


 すると、通信機から再び声が聞こえた。


『相馬さん、管理室です。作業員から、もう一度通信が入りました』


「聞こえる。内容は?」


『今度は少しだけ、はっきり聞こえました』


 相馬さんは黙って続きを待った。


『作業員は、こう言っています』


 通信機の向こうで、担当者が息を整えた。


『……出口が、見つからない、と』


 俺は古い図面を見つめた。


 そこには、現在の管理図面から消えた一本の通路が描かれている。


 その線が本当に今も残っているのか。


 どこまで通れる状態なのか。


 まだ、誰にも分からない。


 でも、少なくとも一人の作業員が、帰る道を見失っている。


 俺は装備を握り直した。


 今度こそ、あの線の先を確かめなければならない。


 ただし、俺一人で行くわけじゃない。


 相馬さんたちと一緒に、必要な準備をしてから向かう。


 俺はもう一度、図面を見た。


 消された通路の先にいるかもしれない人を、無事に連れて帰るために。

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