第144話 動かしてはいけないもの
崩れた壁の奥から、重い金属が擦れる音が聞こえていた。
俺は通信機を握ったまま、怪我人の足元にある部品を見つめた。古い鉄の棒が壁の中へ伸びていて、その先で何かが動いているらしい。さっきまで動かなかった部品が、今はわずかに揺れているように見えた。
「全員、壁から離れてください。久世さんは怪我人の反対側へ回って、足元を照らしてもらえますか」
先頭の隊員に指示され、俺は慎重に場所を移した。
「分かりました。でも、この人は動かせないんですよね?」
「はい。足が挟まったままなので、無理に引っ張ることはできません。まずは周囲の状態を確認します」
もう一人の隊員は、意識のない男性の呼吸を確かめていた。男性の胸はゆっくり上下しているものの、呼びかけへの反応はない。
部屋の奥では、フェナが意識のある男性に状況を説明していた。
『今、救助の方法を考えています。危ないので、こちらへ少し離れていてください』
『でも、あいつは……』
『大丈夫です。救助の人たちがそばについていますから』
男性は何度も怪我人の方を振り返りながら、フェナに支えられて壁から離れた。
俺は明かりを固定し、隊員たちが作業しやすいように足元を照らした。
金属製の部品は、男性の右足首の上に斜めに重なっていた。部品の下には石材があり、足はその間に挟まれている。
問題は、金属の部品だけではなかった。
部品の上には崩れた石材がいくつも重なり、その一部が壁の奥へ続いている。無理に持ち上げれば、周囲の石まで動いてしまうかもしれない。
「……動いていますね」
隊員が低い声で言った。
俺も目を凝らした。
金属の棒と壁の隙間に、さっきより少し広くなった部分がある。
「これ、放っておいたらどうなるんですか?」
「分かりません。ただ、今の状態が続くのはよくありません。挟まっている足に、さらに力がかかる可能性があります」
俺は怪我人を見た。
男性は何も知らないまま、静かに横たわっている。
もし、このまま部品が動いてしまったら。
そう考えると、胸の奥が冷たくなった。
「相馬さんに、もう一度詳しく伝えます」
俺が通信機を取り出すと、隊員が頷いた。
「お願いします。金属の棒が壁の奥へつながっていることと、部品が少しずつ動いていることを伝えてください」
「はい」
通信機へ向かって呼びかけると、すぐに相馬さんの声が返ってきた。
『久世、状況はどうだ?』
「怪我人の足を挟んでいる部品が、少しずつ動いています。壁の奥へ金属の棒が続いていて、そこから重い音もしています」
『分かった。今、職人さんにも図面を確認してもらっている。無理に動かさず、そのまま待ってくれ』
「でも、このままだと足にもっと力がかかるかもしれないそうです」
『そうか……。隊員にも代わってもらえるか?』
俺は通信機を隊員へ渡した。
隊員は怪我人の状態と周囲の構造を説明し、必要な道具について相談し始めた。
俺はその間、明かりを向け続けた。
地下の部屋は静かだった。
水が流れる音と、隊員が話す声。そして、壁の奥から時々聞こえる金属音だけが響いている。
意識のある男性は、フェナのそばで膝を抱えるように座っていた。
俺が目を向けると、男性は不安そうな顔でこちらを見た。
『……まだ、助けられないのか?』
フェナが通訳してくれた。
「今、道具を準備してもらっています。足を無理に引っ張ると危ないので、安全に外す方法を考えているところです」
男性は頷いたものの、表情は暗いままだった。
『俺が、もっと早く気づいていれば……』
フェナが顔を上げた。
『何にですか?』
男性は怪我人を見た。
『あいつは、あの部品を動かすなって言ってたんだ。でも、俺には何のことか分からなかった』
俺は男性のそばへ近づいた。
「その時のことを、もう少し教えてもらえますか?」
フェナが通訳すると、男性は少し考えた。
『俺たちは、通路で崩れてきた石に足を挟まれたんだ。何とか石をどかして、ここまで逃げ込んだ。でも、こいつは足を痛めていて、ほとんど歩けなかった』
男性は両手を握りしめた。
『それから水が入ってきて、壁の奥で大きな音がした。あの部品が倒れてきて、また足を挟まれたんだ』
「二回、足を挟まれたんですね」
『ああ。俺も何とか動かそうとしたんだけど、こいつが止めたんだ。動かすなって、何度も言って……』
男性はそこで言葉を詰まらせた。
『でも、そのうち返事をしなくなった。俺は怖くなって、何度も呼んだんだ』
フェナが男性の肩へ手を添えた。
『それから、壁を叩いて助けを呼んだんですね』
男性は頷いた。
『ああ。誰かに気づいてほしくて、ずっと叩いてた』
俺は怪我人を見た。
最初の怪我だけでも、相当な痛みがあったはずだ。
それでも、この部屋まで逃げてきた。
そして、再び足を挟まれた時には、部品を動かしてはいけないと仲間へ伝えていた。
どうして、動かしてはいけないと分かったのだろう。
「その人は、古い設備に詳しかったんですか?」
俺が尋ねると、男性は首を横に振った。
『いや、詳しいわけじゃない。ただ、ここへ来る前に、通路の壁にあった図を見ていたんだ』
「図?」
『ああ。古い文字と、何かの仕組みが描かれていた。俺にはよく分からなかったけど、こいつはしばらく見ていた』
俺は顔を上げた。
「その図が、どこにあったか覚えていますか?」
男性は少し考えた。
『ここへ来る途中だ。大きな曲がり角の手前だったと思う』
俺たちが通ってきた通路にも、曲がり角があった。
もしかしたら、そこに古い設備の説明が残っているのかもしれない。
「隊員さん!」
俺は通信を終えた隊員へ声をかけた。
「ここへ来る途中の壁に、古い設備の図があったそうです。怪我をしている人は、それを見ていたみたいなんです」
隊員は顔を上げた。
「図ですか?」
「はい。金属の部品を動かしてはいけないと言っていたのも、その図を見たからかもしれません」
隊員は少し考えた。
「確認する価値はありますね。ただ、今は怪我人のそばを離れられません」
「俺が見に行きます」
そう言うと、隊員は首を横に振った。
「一人では行かせられません。通路の状態も変わっているかもしれませんから」
「……そうですよね」
俺は頷いた。
早く確認したい気持ちはある。
でも、ここで俺まで動けなくなったら、救助の邪魔になってしまう。
隊員は通信機を取り出した。
「外にいる人たちへ確認を頼みましょう。道具を運んでくる途中で、壁の図を探してもらえればいい」
「お願いします」
隊員は相馬さんへ連絡し、通路の途中に古い設備の図が残っている可能性を伝えた。
相馬さんはすぐに確認すると答えてくれた。
俺は少し安心した。
今できることが、一つ増えた。
ただ、それだけで怪我人を助けられるわけではない。
壁の奥では、相変わらず低い音が続いていた。
しばらくして、通信機が鳴った。
『こちら相馬。久世、聞こえるか?』
「はい!」
『職人さんが、古い図面の中に似た設備を見つけたそうだ』
俺は思わず顔を上げた。
「本当ですか!」
『ああ。ただし、現物と同じものかどうかは確認が必要だ。今から説明するから、隊員にも聞いてもらってくれ』
俺は通信機を隊員へ渡し、隣で話を聞いた。
『昔、この水門には水の流れを調整するための補助設備があったらしい。水位の変化に合わせて、内部の金属の腕が動く仕組みだったそうだ』
「金属の腕……」
隊員が怪我人の足元を見た。
『今は使われていないはずだが、古い設備が残っている可能性がある。水門を切り替えたことで水圧が変わり、内部の部品が動き始めたのかもしれない』
俺は息をのんだ。
水門を切り替えたのは、地下への水の流入を止めるためだった。
そのおかげで、二人がいる部屋の水位は下がり始めている。
でも、同時に別の設備へ力がかかってしまった可能性があるのか。
「じゃあ、水門を元に戻せば……」
俺が呟くと、隊員は首を横に振った。
「それは危険です。元に戻したことで、また水が流れ込んでくるかもしれません」
『その通りだ』
相馬さんの声が返ってきた。
『職人さんも、今は水門を動かさない方がいいと言っている。まずは内部の設備を固定できるか確認する』
隊員は頷いた。
「分かりました。こちらでも、金属の部品がどの方向へ動いているか確認します」
『頼む。必要な道具は今、運ばせている。無理な作業はするなよ』
「了解しました」
通信が終わると、隊員たちは再び金属の部品を調べ始めた。
俺は明かりを向けながら、動きを確認した。
部品は一定の方向へ動き続けているわけではなかった。
少し動いて、止まる。
また少し動いて、元の位置へ戻る。
そのたびに、壁の奥から重い音が聞こえていた。
「……水の圧力で揺れているんでしょうか」
俺が尋ねると、隊員は頷いた。
「可能性はあります。ただ、今の段階では断定できません」
隊員は金属の棒と周囲の石材を見比べた。
「問題は、足を挟んでいる部分が、この動きに巻き込まれていることですね」
「はい」
「まずは、これ以上動かないようにする必要があります。そのうえで、足を抜くための隙間を作れるか考えましょう」
俺は頷いた。
その時、怪我人のそばにいたもう一人の隊員が声を上げた。
「呼吸が少し浅くなっています」
俺は振り返った。
「大丈夫なんですか?」
「今すぐどうなると決まったわけではありません。ただ、状態はよくありません。早く外へ運び出したいですね」
隊員は怪我人の状態を確認しながら、通信機で地上へ報告した。
俺は何も言えなかった。
ここまで来ることはできた。
二人を見つけることもできた。
でも、怪我人を助けるために必要なことは、まだたくさん残っている。
俺は《帰り道》を意識した。
帰るための道筋は、今も入口へ向かって続いている。
あの通路を戻れば、外へ出られる。
ただ、それは俺が帰る方向を示しているだけだ。
目の前の金属を動かす方法も、怪我人の状態も、何一つ教えてくれない。
俺は能力に頼るのをやめ、隊員たちの作業へ目を向けた。
今は、できることを一つずつ進めるしかなかった。
やがて、通路の方から足音が聞こえてきた。
「道具を持ってきました!」
声とともに、救助用の道具を持った人が現れた。
隊員が入口へ向かい、荷物を受け取った。
その中には、金属の部品を支えるための道具や、石材を固定するための資材が入っていた。
さらに、通路の途中にあった図についても確認できたらしい。
「相馬さんから伝言です。曲がり角の手前に、古い設備の図が残っていました」
俺は顔を上げた。
「本当ですか!」
「はい。かなり傷んでいましたが、職人さんが確認したところ、今の設備と似た構造が描かれていたそうです」
隊員は持ってきた紙を広げた。
そこには、古い図を写し取った簡単な線が描かれていた。
俺は隣から覗き込んだ。
大きな水門のようなものがあり、その横に細い棒が伸びている。
棒の先には、斜めに動く金属の部品が描かれていた。
「これ……」
俺は怪我人の足元を見た。
形が似ている。
もちろん、図だけで同じものだと決めつけることはできない。
でも、少なくとも何のために使われていた設備なのか、考える手がかりにはなりそうだった。
隊員は図を確認しながら言った。
「この棒は、水の流れを調整する板につながっていたようですね」
「じゃあ、今もその板が動いているんですか?」
「可能性はあります。ただ、どこまで元の仕組みが残っているかは分かりません」
隊員は図の一部を指した。
「ここに、動きを止めるための固定部分が描かれています」
俺は目を凝らした。
確かに、棒の途中に小さな四角い印がある。
「これを使えば、止められるんですか?」
「使える状態で残っていれば、ですが」
隊員は慎重に答えた。
「古い設備ですから、今も機能するとは限りません。それに、固定部分を操作することで別の場所が動く可能性もあります」
俺は頷いた。
ここまで何度も教えられてきたことだ。
仕組みが分かったからといって、すぐに動かしていいわけではない。
まずは、何が起きるのかを確認しなければならない。
隊員たちは図と現物を見比べながら、固定部分が残っているか調べ始めた。
俺は明かりを向け続けた。
しばらくすると、一人が声を上げた。
「……ありました」
俺は顔を上げた。
「どこですか?」
隊員は金属の棒が壁へ入っている部分を指した。
そこには、錆びついた小さな金具が残っていた。
「図に描かれている位置と合っています。ただ、かなり傷んでいますね」
「使えそうですか?」
「まだ分かりません。まずは、これが何を固定するものなのか確認します」
隊員は通信機で地上の職人へ連絡し、金具の形や位置を説明した。
職人は図面を確認しながら、慎重に答えてくれた。
『その位置なら、昔の固定具かもしれん。ただし、今の状態で動かせるかどうかは別だ。無理に力をかけるなよ』
「分かりました」
『それと、金具が残っていても、周りの石材が傷んでいるなら使わない方がいい。固定したつもりで、壁ごと動いてしまうこともある』
俺は思わず壁を見た。
確かに、金具の周囲には細い亀裂が入っている。
ここへ強い力をかけるのは危険そうだった。
隊員も同じことを考えたらしい。
「この固定具は使わない方がよさそうですね」
『そうだな。別の方法を考えよう』
通信が終わると、隊員は持ってきた道具を確認した。
「金属の棒そのものを無理に止めるのではなく、足を挟んでいる部品が動かないように支えられるかもしれません」
「どうするんですか?」
「周囲の状態を確認して、安定している場所に支えを設置します。そのうえで、必要な部分だけを少し動かせるか試します」
俺は頷いた。
ただ、隊員の表情は慎重なままだった。
「もちろん、危険だと判断したら中止します。今は怪我人の状態も悪いので、時間をかけすぎるわけにはいきませんが、無理をして事故を起こすわけにもいきません」
「分かりました」
俺は怪我人を見た。
男性はまだ意識を取り戻していない。
隣にいた仲間が、心配そうにその顔を見つめていた。
フェナが男性へ声をかけた。
『今、足を助けるための準備をしています。もう少しだけ待っていてください』
男性は頷いた。
『……分かった』
それから、俺たちを見た。
『何か、俺にもできることはないか?』
フェナが通訳してくれた。
俺は少し考えた。
男性も、長い時間この地下で過ごしてきた。
体力はかなり落ちているはずだ。
無理に作業を手伝ってもらうわけにはいかない。
「今は、あなたも体を休めてください。外へ出る時に、歩けるだけの力を残しておいてほしいんです」
フェナが通訳すると、男性は少し驚いた顔をした。
『俺も、外へ出るのか?』
「もちろんです」
『でも、こいつが……』
「二人とも助けるために来ました。だから、あなたにも無事に帰ってもらわないと困ります」
男性は俺を見つめた。
それから、ゆっくりと頷いた。
『……そうか』
俺は少し笑った。
「はい。だから、今は休んでいてください」
男性は小さく息を吐き、壁にもたれかかった。
その表情には、まだ不安が残っている。
でも、さっきより少しだけ落ち着いたように見えた。
俺は隊員たちの作業へ戻った。
持ち込まれた道具を使い、金属の部品の周囲を確認していく。
隊員たちは何度も手を止め、壁や床の状態を調べていた。
俺は指示された場所へ明かりを向け、必要な道具を渡した。
時々、壁の奥から音が聞こえた。
そのたびに作業は中断された。
金属の部品が動いていないか、周囲の石材に変化がないかを確認する。
それを繰り返しているうちに、少しずつ支えを設置できる場所が見つかってきた。
「……ここなら、使えそうですね」
隊員が床の一部を指した。
そこは崩れた石材から少し離れていて、周囲よりも安定しているようだった。
もう一人の隊員も確認した。
「はい。ただ、支えを設置する前に、上の石材がどこへ力をかけているか確認しましょう」
俺は二人のやり取りを聞きながら、明かりを向け続けた。
救助の現場では、こういう確認が何度も必要になる。
急いでいる時ほど、手順を飛ばしてはいけない。
頭では分かっている。
それでも、目の前に意識のない人がいると、どうしても焦ってしまう。
俺は一度深く息を吸い、気持ちを落ち着かせた。
今は、隊員たちを信じるしかない。
しばらくして、支えの設置が始まった。
金属の部品へ直接力をかけるのではなく、周囲の石材が動かないようにするための準備だった。
隊員たちは少しずつ位置を調整し、何度も状態を確認していた。
俺は明かりを持ったまま、怪我人の顔を見た。
男性の額には汗が浮かんでいる。
意識は戻っていないが、呼吸は続いている。
もう一人の隊員が状態を確認し、地上へ報告した。
「呼吸はあります。ただ、早急に搬出したい状態です」
通信機の向こうから、相馬さんの声が返ってきた。
『分かった。外では受け入れの準備を進めている。無理はするな。ただ、できるだけ早く運び出せるよう頼む』
「了解しました」
俺はその言葉を聞き、もう一度怪我人を見た。
外では、たくさんの人が待っている。
相馬さんも、職人たちも、瀬川さんも。
みんなが、この二人を助けるために動いてくれている。
俺たちは、決して四人だけで救助しているわけではなかった。
そのことを思い出すと、少しだけ心が軽くなった。
やがて、隊員が顔を上げた。
「支えの設置が終わりました」
俺は思わず声を上げた。
「じゃあ、足を外せるんですか?」
「まだです。まずは、部品が動かないか確認します」
隊員たちは慎重に状態を調べた。
壁の奥から音が聞こえるたびに、金属の部品の動きを確認する。
しばらくして、一人が頷いた。
「今のところ、足を挟んでいる部分に大きな動きはありません」
俺は息を吐いた。
「よかった……」
「ただし、これで完全に安全になったわけではありません。作業中も確認を続けます」
「はい」
隊員は怪我人の足元へ近づいた。
「これから、挟まっている部分を少しずつ緩められるか確認します。久世さんは、引き続き明かりをお願いします」
「分かりました」
俺は明かりを向けた。
隊員たちは慎重に作業を始めた。
金属の部品へ少しだけ力をかけ、その動きを確認する。
周囲の石材が動いていないか、壁の状態に変化がないかを調べる。
そのたびに、作業は一度止められた。
俺は息を詰めるようにして見守っていた。
少しずつ、金属の部品と石材の間に隙間ができ始めた。
「……動いています」
俺が呟くと、隊員は頷いた。
「はい。ただ、まだ足を抜けるほどではありません」
隊員は再び作業を続けた。
金属の部品がわずかに持ち上がる。
その瞬間、壁の奥から重い音が聞こえた。
ゴトン。
「止めてください!」
もう一人の隊員が声を上げた。
作業が止まった。
俺は思わず壁を見た。
「何か動いたんですか?」
「今の音が、こちらの作業によるものか確認します」
隊員たちは慎重に周囲を調べた。
しばらくして、先頭の隊員が頷いた。
「支えに変化はありません。ただ、奥の設備はまだ動いているようです」
俺は胸を撫で下ろした。
でも、安心するには早かった。
今の音が何だったのか、はっきり分かったわけではない。
隊員たちは相談し、作業を続けられるか確認した。
その間、俺は怪我人の顔を見ていた。
男性はまだ目を閉じたままだ。
俺は小さく声をかけた。
「もう少しです。あと少しで、外へ連れていけますから」
返事はなかった。
それでも、声をかけずにはいられなかった。
隣にいた隊員が、怪我人の呼吸を確認しながら言った。
「声をかけるのはいいと思います。ただ、作業の邪魔にならないようにお願いします」
「はい」
俺は頷いた。
しばらくして、作業が再開された。
今度は、金属の部品を大きく動かそうとはせず、できた隙間を保ちながら、足を抜ける状態に近づけていく。
隊員たちは慎重に確認を続けた。
俺は明かりを向けながら、その様子を見守った。
やがて、先頭の隊員が声を上げた。
「……もう少しです」
俺は顔を上げた。
「本当ですか!」
「はい。あと少し隙間ができれば、足を抜けるかもしれません」
俺は思わず拳を握った。
ようやく、助けられるかもしれない。
でも、ここで焦ってはいけない。
俺は何も言わず、明かりを向け続けた。
隊員たちは最後まで慎重に作業を進めた。
そして、しばらくして。
「……抜けます」
先頭の隊員が言った。
俺は息を止めた。
「足を動かします。体を支えてください」
もう一人の隊員が怪我人の体を支えた。
先頭の隊員は、挟まっていた足を慎重に引き出していく。
俺は明かりを向けながら、周囲の石材が動いていないか確認した。
少しずつ、足が金属の部品から離れていく。
そして。
「……外れました!」
俺は思わず声を上げた。
「やった……!」
怪我人の足が、ようやく金属の部品から解放された。
隊員たちはすぐに足の状態を確認し、必要な処置を始めた。
俺はその様子を見ながら、胸の奥に溜まっていた息を吐いた。
長かった。
ここまで、本当に長かった。
でも、まだ終わりではない。
怪我人は意識を失ったままだ。
外へ運び出さなければならない。
「久世さん、担架の準備をお願いします」
「はい!」
俺はすぐに動いた。
折りたたみ式の担架を広げ、隊員たちが使いやすい場所へ運んだ。
隊員は怪我人の状態を確認しながら、慎重に担架へ移す準備を進めていた。
その時、フェナが声をかけた。
『ナオトさん』
「うん?」
『あの方に、足が外れたことを伝えてもいいですか?』
俺は頷いた。
「もちろん」
フェナは意識のある男性へ向き直った。
『足が外れました。これから外へ運び出す準備をします』
男性は目を見開いた。
『……本当か?』
『はい』
男性は怪我人を見た。
それから、両手で顔を覆った。
『よかった……』
声が震えていた。
『本当に、よかった……』
俺はその姿を見ながら、少しだけ笑った。
まだ救助は終わっていない。
でも、今は少しだけ安心してもいいのかもしれない。
隊員たちは怪我人を慎重に担架へ移した。
足を固定し、体が動かないように確認する。
その間、俺は明かりを向け続けた。
やがて、準備が整った。
「搬送を始めます」
先頭の隊員が言った。
俺は頷いた。
「お願いします」
隊員たちは担架を持ち上げた。
怪我人の体がゆっくりと床から離れる。
俺は通路の方へ明かりを向けた。
帰るための道筋は、今も俺の目に見えている。
ただ、その先には曲がり角があり、段差もある。
担架を運ぶには、慎重に進まなければならない。
「俺が前を確認します」
俺が言うと、隊員は頷いた。
「お願いします。ただし、先に行きすぎないでください。危険な場所があれば、すぐに知らせてください」
「はい」
俺は明かりを持ち、通路の入口へ向かった。
フェナは意識のある男性のそばへ戻った。
『これから外へ出ます。歩けそうですか?』
男性は頷いた。
『ああ。大丈夫だ』
『無理をしないでくださいね。私がそばにいますから』
『ありがとう』
俺たちは退避用の部屋を出た。
先頭には俺。
その後ろを、怪我人を乗せた担架を運ぶ隊員二人が続く。
さらに後ろから、フェナと意識のある男性が歩いてきた。
通路にはまだ水が残っている。
俺は足元を確認しながら、ゆっくり進んだ。
「ここ、少し段差があります」
俺が声をかけると、隊員たちは足を止めた。
「分かりました。慎重に越えます」
担架を水平に保ちながら、少しずつ段差を越えていく。
俺は明かりを向け、足元を確認した。
全員が無事に通過できたことを確かめてから、再び歩き始めた。
曲がり角へ近づくと、俺は立ち止まった。
「ここ、少し狭くなっています」
隊員たちは担架の幅を確認した。
「通れそうですが、向きを調整する必要がありますね」
俺は頷いた。
隊員たちは慎重に担架の向きを変えた。
俺は壁との距離を確認しながら、声をかけた。
「もう少し右です。……はい、そのままで大丈夫です」
担架がゆっくりと曲がり角を越えていく。
俺は息を詰めるようにして見守った。
やがて、担架が完全に通過した。
「通れました!」
俺が言うと、隊員は頷いた。
「ありがとうございます。先へ進みましょう」
俺たちは再び歩き始めた。
通路の奥から、わずかに外の明かりが見えてきた。
俺は思わず顔を上げた。
「……出口です」
フェナも明かりの方を見た。
『ナオトさん、見えますね』
「うん」
俺は頷いた。
あと少し。
あの明かりの向こうには、相馬さんたちが待っている。
怪我人を外へ運び出せれば、すぐに手当てを受けられるはずだ。
俺は足元を確認しながら、ゆっくり進んだ。
その時、後ろから声が聞こえた。
『……待ってくれ』
俺は振り返った。
意識のある男性が、足を止めていた。
フェナが心配そうに声をかけた。
『どうしました? 具合が悪いんですか?』
男性は首を横に振った。
『いや、違うんだ』
それから、担架に乗せられた仲間を見た。
『……本当に、外へ出られるんだな』
フェナは頷いた。
『はい。もう少しですよ』
男性はしばらく何も言わなかった。
それから、小さく笑った。
『そうか……』
俺はその姿を見て、胸が熱くなった。
この人は、ずっと暗い地下で助けを待っていた。
水が増えていく中で、怪我をした仲間を守りながら、何度も壁を叩いていた。
きっと、何度も諦めそうになったはずだ。
それでも、最後まで助けを求め続けた。
俺は男性へ声をかけた。
「もう少しです。一緒に帰りましょう」
フェナが通訳すると、男性は頷いた。
『……ああ』
俺たちは再び歩き始めた。
出口の明かりが、少しずつ大きくなっていく。
やがて、古い水門の扉が見えてきた。
その向こうには、相馬さんたちが待っていた。
「相馬さん!」
俺が声を上げると、相馬さんが振り返った。
「久世!」
「二人とも、連れてきました!」
相馬さんはすぐに近づき、担架の状態を確認した。
「よし。ここからは外の隊員にも手伝ってもらおう」
俺は頷いた。
外にいた人たちが、すぐに担架を受け取る準備を始めた。
隊員たちは慎重に怪我人を運び、石段を上がっていく。
俺はその様子を見守りながら、フェナと意識のある男性が無事に出てくるのを待った。
やがて、男性が扉の外へ出た。
その瞬間、男性は足を止めた。
明るい空を見上げ、しばらく動かなかった。
『……外だ』
フェナが頷いた。
『はい。外ですよ』
男性は何度も瞬きをした。
それから、ゆっくりと地面へ膝をついた。
『帰ってきた……』
俺はその姿を見つめた。
男性は両手で顔を覆い、声を殺して泣き始めた。
フェナは何も言わず、そのそばにしゃがんだ。
俺も少し離れた場所で立ち止まった。
ようやく、二人を外へ連れて帰ることができた。
でも、まだ安心はできない。
怪我人の意識は戻っていない。
隊員たちはすぐに状態を確認し、救護の準備を進めていた。
相馬さんが俺のそばへ来た。
「久世、よくやった」
俺は首を横に振った。
「俺は、ほとんど何もしていません。隊員さんたちが、怪我人の足を外してくれたんです」
相馬さんは少し笑った。
「それでいいんだよ」
「……え?」
「お前一人で何でもできる必要はない。救難は、みんなでやるものだからな」
俺は相馬さんを見た。
相馬さんは続けた。
「お前が帰る道を示して、隊員たちが怪我人を助ける。職人さんたちは設備を調べ、外では瀬川たちが受け入れの準備を進める。それぞれができることをやって、ようやく一人を助けられるんだ」
俺は頷いた。
「……はい」
「だから、自分が何もしていないなんて思う必要はない」
相馬さんは俺の肩を軽く叩いた。
「それに、まだ終わっていないぞ」
俺は怪我人の方を見た。
隊員たちが担架の周りに集まり、状態を確認している。
「はい。分かっています」
俺は頷いた。
その時、救護を担当していた隊員が声を上げた。
「相馬さん!」
俺たちは振り返った。
「どうした?」
隊員は怪我人の状態を確認しながら答えた。
「呼吸がかなり弱くなっています。急いで搬送する必要があります!」
俺は息をのんだ。
相馬さんはすぐに頷いた。
「分かった。搬送の準備を急いでくれ!」
隊員たちが動き始めた。
俺は担架に乗せられた男性を見つめた。
ようやく外へ連れて帰れた。
でも、この人はまだ助かったわけではない。
俺は拳を握った。
その時、意識のある男性が立ち上がった。
『……あいつは?』
フェナが振り返った。
『今、手当てをしています』
男性は担架の方へ歩こうとした。
でも、足元がふらつき、すぐに膝をついてしまった。
「危ない!」
俺は慌てて駆け寄った。
男性を支えると、体が小さく震えているのが分かった。
長い間、冷たい地下で過ごしていたのだ。
体力も限界に近いのかもしれない。
「無理をしないでください」
フェナが通訳すると、男性は首を横に振った。
『でも、あいつが……』
俺は男性の肩を支えた。
「大丈夫です。今は、救護の人たちに任せましょう」
男性は俺を見た。
その目には、涙が浮かんでいた。
『……助かるんだよな?』
俺はすぐには答えられなかった。
助かると、言ってあげたかった。
でも、今の状態で無責任なことは言えない。
俺は少し考えてから答えた。
「今、みんなが助けようとしています。だから、あなたも自分の体を大事にしてください」
フェナが通訳すると、男性はゆっくりと頷いた。
『……分かった』
俺は男性を支えながら、救護の人たちがいる場所へ案内した。
そこでは、怪我人の搬送準備が進んでいた。
相馬さんは通信機で瀬川さんへ連絡し、状況を伝えている。
俺は少し離れた場所から、その様子を見守った。
ようやく、二人を地下から連れ出すことができた。
それでも、今回の救難はまだ終わっていない。
怪我人が無事に治療を受け、もう一人の男性も安心して休めるようになって、初めて一区切りつくのだと思う。
俺は深く息を吸った。
その時、相馬さんが通信機を下ろし、こちらへ向かってきた。
「久世、少しいいか?」
「はい」
相馬さんの表情は、さっきよりも険しくなっていた。
「今、瀬川から連絡があった」
「何かあったんですか?」
相馬さんは一度、古い水門の方を見た。
「地下の設備について、確認したいことがあるそうだ」
俺は首を傾げた。
「設備ですか?」
「ああ。職人さんが、古い図面をもう一度調べてくれたらしい」
相馬さんは少し間を置いた。
「その結果、気になることが分かった」
俺は相馬さんを見た。
「……何ですか?」
相馬さんは真剣な表情で答えた。
「お前たちが通ってきた点検通路は、昔の水門を管理するために作られたものだ。だが、あの地下には、もう一つ別の通路があったらしい」
俺は驚いた。
「別の通路?」
「ああ。ただ、今は使われていないはずだし、入口も塞がれている可能性が高い」
俺は古い水門を見た。
あの地下には、まだ知らない場所があるのか。
「それが、何か問題なんですか?」
相馬さんは頷いた。
「職人さんの話では、その通路が昔の排水設備につながっていた可能性があるそうだ」
俺は息をのんだ。
排水設備。
さっき、怪我人の足を挟んでいた金属の部品。
壁の奥から聞こえていた、重い音。
それらが頭の中でつながった。
「……もしかして、あの音と関係があるんですか?」
「まだ分からない。ただ、もし古い設備が今も動いているなら、放っておくわけにはいかない」
相馬さんは水門の方を見つめた。
「今回の二人は助けられた。でも、設備の状態を確認しないままにしておけば、また同じような事故が起きるかもしれないからな」
俺は頷いた。
「……そうですね」
相馬さんは続けた。
「もちろん、今すぐ地下へ戻るつもりはない。まずは図面と現場の情報を整理する。それから、専門の人たちに調べてもらう」
「分かりました」
「久世には、今回通った場所の様子を詳しく教えてほしい。どこに段差があって、どこに水が溜まっていたのか。覚えている範囲でいい」
俺は頷いた。
「はい。できるだけ詳しく伝えます」
相馬さんは少し笑った。
「頼む」
俺はもう一度、古い水門を見た。
地下には、まだ分からないことが残っている。
でも、今はまず、助け出した二人のことが大事だ。
俺は救護の人たちがいる方へ目を向けた。
担架に乗せられた男性は、これから搬送されるところだった。
そのそばでは、もう一人の男性が、心配そうに仲間を見つめている。
俺は静かに息を吐いた。
今回の救難で、俺たちは二人を地下から連れ出すことができた。
それは、俺一人の力ではない。
たくさんの人が、それぞれの役割を果たしてくれたからこそ、ここまで来られた。
俺は《帰り道》を意識した。
帰るための道筋は、今も見えている。
でも、その道を歩くのは俺だけじゃない。
誰かが怪我をした人を支え、誰かが危険な場所を調べ、誰かが外で帰りを待っている。
そうして初めて、みんなで帰ることができるのだと思う。
俺は相馬さんへ向き直った。
「相馬さん」
「どうした?」
「今回のこと、ちゃんと記録に残しておきたいです」
相馬さんは少し驚いた顔をした。
「記録?」
「はい。地下の設備のことも、救助の時に困ったことも。次に同じような場所で事故が起きた時、少しでも役に立つように」
相馬さんは俺を見つめた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……いい考えだな」
俺は少し笑った。
「ありがとうございます」
「ただし、まずは休め。お前もずっと動きっぱなしだっただろう」
「……そうですね」
俺は頷いた。
気づけば、足が少し重くなっていた。
地下では緊張していて分からなかったが、かなり疲れているらしい。
相馬さんは俺の肩を軽く叩いた。
「記録は、そのあとでいい」
「はい」
俺はもう一度、救護の人たちがいる方を見た。
怪我人の搬送準備が整い、隊員たちが動き始めている。
その時、フェナが俺のそばへ来た。
『ナオトさん』
「うん?」
『あの方が、最後にもう一度お礼を言いたいそうです』
俺は振り返った。
意識のある男性が、救護の人に支えられながら、こちらを見ていた。
俺が近づくと、男性はゆっくりと頭を下げた。
『ありがとう。本当に、ありがとう』
フェナが通訳してくれた。
俺は首を横に振った。
「こちらこそ、最後まで諦めずに助けを呼んでくれて、ありがとうございます」
男性は驚いた顔をした。
『……俺が?』
「はい。あなたが壁を叩き続けてくれたから、外にいる人たちが気づくことができました」
フェナが通訳すると、男性は目を見開いた。
それから、ゆっくりと笑った。
『……そうか』
俺は頷いた。
「はい。だから、今はゆっくり休んでください」
男性は何度も頷いた。
『分かった。ありがとう』
俺は少し笑った。
その時、搬送を担当する隊員が声をかけた。
「そろそろ出発します」
男性は仲間の方を見た。
それから、俺たちへもう一度頭を下げた。
『……また、会えるといいな』
俺は頷いた。
「はい。今度は、もっと安全な場所で」
フェナが通訳すると、男性は少し笑った。
そして、救護の人たちに付き添われながら、搬送の準備が整った場所へ向かっていった。
俺はその背中を見送った。
今回の救難は、まだ完全に終わったわけではない。
でも、二人を暗い地下から連れ出すことはできた。
それだけは、確かなことだった。
俺は深く息を吐いた。
その時、相馬さんの通信機が鳴った。
『相馬さん、こちら瀬川です』
「どうした?」
『古い図面の件ですが、もう一つ確認したいことがあります』
相馬さんは顔を上げた。
「何だ?」
『今回見つかった地下の通路、どうやら現在の管理図面には載っていないようなんです』
俺は思わず相馬さんを見た。
相馬さんも、少し表情を変えた。
「……どういうことだ?」
『古い図面にはあるんですが、新しい図面では、その部分が消されています』
俺は息をのんだ。
地下の通路が、図面から消されている?
瀬川さんの声が続いた。
『ただ、完全に埋められたという記録は見つかっていません。だから、今もどこかにつながっている可能性があります』
相馬さんはしばらく黙っていた。
それから、静かに答えた。
「分かった。図面を持ってきてくれ。現場で確認しよう」
『了解しました』
通信が終わると、相馬さんは古い水門を見つめた。
俺も同じ方向を見た。
あの地下には、まだ知らない通路があるのかもしれない。
しかも、それは今の図面には載っていない。
今回の二人は、そこへ入ったわけではないはずだ。
でも、古い設備が動いていたことを考えると、無関係だと決めつけることもできなかった。
「相馬さん……」
俺が声をかけると、相馬さんは頷いた。
「ああ。気になるな」
俺は古い水門を見つめた。
救助は終わりに近づいている。
でも、事故が起きた理由については、まだ分からないことが残っていた。
そして、もし今回の事故が、古い設備の問題によって起きたのだとしたら。
それを調べずに終わらせてしまえば、また誰かが同じ場所で助けを求めることになるかもしれない。
俺は静かに拳を握った。
目の前の人を助けること。
そして、次に助けを必要とする人を、少しでも減らすこと。
どちらも、救難に関わる大切な仕事なのだと思う。
俺は相馬さんへ向き直った。
「相馬さん。俺にも、できることがあれば手伝わせてください」
相馬さんは俺を見た。
それから、少し笑った。
「もちろんだ。ただし、今度は地下へ入る前に、もっとしっかり準備するぞ」
俺は頷いた。
「はい」
古い水門の向こうには、まだ知らない場所がある。
でも、今度は焦って飛び込む必要はない。
まずは、図面を確認する。
設備の状態を調べる。
そして、必要な人たちと一緒に、安全な方法を考える。
俺はもう一度、古い水門を見つめた。
今回の救難で分かったことを、次につなげるために。
俺たちには、まだやるべきことが残っていた。




