第143話 水の向こうにいる二人
「怪我をしている方に意識がないそうです」
相馬さんが通信機を下ろすと、古い水門の前にいた職人たちも作業の手を止めた。
地下の退避用の部屋には、二人が閉じ込められている。そのうち一人は怪我をして歩けず、今は意識もないらしい。
水門の操作によって地下への水の流入は弱まったようだが、部屋に溜まった水がなくなったわけではない。俺たちはまだ、二人がいる場所へたどり着くことさえできていなかった。
「相馬さん、もう一つ確認してもらえませんか?」
俺が声をかけると、相馬さんが振り返った。
「何を確認したい?」
「意識がない人が、ちゃんと呼吸しているかどうかです」
相馬さんはすぐに頷き、通気口に残っている職人へ連絡した。
「こちら相馬。怪我人の呼吸を確認してほしい。呼吸しているなら一回、していないなら二回だ。分からない場合は無理に答えず、三回で知らせてもらってくれ」
『分かりました』
通信が途切れると、俺は古い水門の扉を見つめた。
扉の下からは、まだ細い水が流れ出している。
あの向こうにある点検通路を進めば、二人が閉じ込められている部屋へたどり着けるかもしれない。
でも、通路の状態は分からない。長い間使われていなかった施設だから、途中が崩れている可能性もある。
《帰り道》があれば、俺は帰る方向を知ることができる。
けれど、それは安全な通路を見つける能力ではない。崩れそうな天井や、水の流れを教えてくれるわけでもなかった。
「久世、今のうちに少し水を飲んでおけ」
相馬さんが水筒を差し出してくれた。
「ありがとうございます。でも、俺はまだ大丈夫です」
「大丈夫なうちに飲むんだ。地下へ入ることになったら、ゆっくり休めるとは限らないからな」
俺は水筒を受け取り、少しだけ水を飲んだ。
冷たい水が喉を通ると、自分が思っていた以上に緊張していたことに気づいた。
「相馬さんは、地下へ入るつもりなんですか?」
「安全が確認できればな。ただ、今のまま扉を開けるつもりはない。水の量も分からないし、通路の空気がどうなっているかも確認する必要がある」
「空気ですか?」
「ああ。長い間閉ざされていた地下施設だからな。水が引いたとしても、それだけで人が入れるとは限らない」
俺は頷いた。
今までも、救難の現場では何度も同じことを教えられてきた。
助けを待っている人がいるからといって、準備もせずに飛び込んではいけない。救助する側が動けなくなれば、助けられるはずだった人まで危険にさらしてしまう。
それでも、今は待つことが苦しかった。
地下の二人は、俺たちがどんな準備をしているのか分からない。
外から聞こえてくる声と、壁を叩いて返す音だけが、二人と俺たちをつないでいた。
その時、通信機が鳴った。
『相馬さん、確認できました』
「どうだった?」
『一回です。怪我をしている方は、呼吸しているそうです』
俺は思わず息を吐いた。
「よかった……」
相馬さんも小さく頷いたが、すぐに通信機へ向かって話し始めた。
「ありがとう。もう一つ頼みたい。意識のある方には、できるだけ怪我人のそばにいてもらってくれ。水に顔が浸からないよう注意してもらいたいが、無理に動かす必要はない」
『分かりました』
「それから、音を出し続ける必要はないと伝えてほしい。こちらから質問する時だけ答えてもらえればいい。体力を残してもらおう」
『了解しました』
通信が終わると、相馬さんは俺に向き直った。
「呼吸していることは確認できた。ただ、意識がない原因までは分からない。怪我の影響かもしれないし、別の問題が起きている可能性もある」
「はい」
「だからこそ、救助後にすぐ手当てできるよう準備しておく必要がある」
相馬さんは瀬川さんへ連絡し、救助に必要な人員と道具の手配状況を確認した。
瀬川さんによると、町の管理人にも協力を頼み、地下作業に使える道具を集めているところらしい。
さらに、救難に対応できる隊員二人が、必要な装備を持ってこちらへ向かっているという。
「到着まで、もう少しかかるそうだ」
相馬さんが通信機を下ろした。
「それまでに、入口の状態をできるだけ確認しておこう」
俺たちは職人たちと一緒に、古い水門の周囲を調べ直した。
建物の裏側にある石段は、地面へ向かって下りている。その先には鉄製の扉があり、扉の下から少量の水が流れ出していた。
職人が石段の上から明かりを向ける。
『さっきより水の勢いが弱くなっているな』
「やっぱり、水門の切り替えが効いたんでしょうか」
俺が尋ねると、職人は頷いた。
『その可能性は高い。ただ、中に溜まっている水がどれだけあるかは分からん。扉を開けた途端に流れ出してくることも考えられる』
「水を抜く方法はないんですか?」
『今、別の排水口がないか調べているところだ。昔の施設なら、点検通路に溜まった水を抜くための設備があるかもしれん』
職人は古い図面を広げ、石段の周囲を見比べた。
俺も隣から覗き込む。
図面には、水門の建物から地下へ続く通路が描かれていた。その途中には、退避用の部屋へつながる仕切りがある。
ただ、図面はかなり古い。
実際の建物と比べると、位置が少し違っているところもあった。
「この図面を見れば、部屋までの距離も分かるんですか?」
『大体はな。ただ、正確な長さまでは分からん。昔の工事で通路が変更されている可能性もある』
「そうなんですね」
俺は図面の上を指でたどった。
入口から点検通路へ入り、途中の仕切りを越える。
その先に、二人が待っている部屋がある。
道筋だけを見れば、決して複雑ではなさそうだった。
でも、実際に歩けるかどうかは別の話だ。
職人は図面を折りたたみ、石段の横へ向かった。
『この辺りに、排水用の小さな穴があったはずなんだが……』
俺は明かりを向けた。
石段の横には、土と落ち葉が溜まっている。
職人は道具を使い、少しずつ土を取り除き始めた。
俺も手伝おうとしたが、相馬さんに止められた。
「久世、そこは職人さんに任せよう。古い設備だから、どこを触っていいか分からない」
「分かりました」
俺は少し離れた場所から明かりを向けることにした。
しばらくすると、土の下から小さな金属製の蓋が現れた。
『あったぞ』
職人が声を上げた。
もう一人の職人も近づき、蓋の周囲を確認した。
『これなら、点検通路の水を抜くための設備かもしれん』
「使えそうですか?」
相馬さんが尋ねた。
『まだ分からん。ただ、図面に描かれている位置とは合っている』
職人たちは蓋の状態を確認し、周囲の土を丁寧に取り除いた。
その間に、相馬さんは瀬川さんへ連絡し、排水口らしい設備が見つかったことを伝えた。
『こちらでも図面を確認します。操作する前に、排水先を確認してください』
「分かっている。現場でも慎重に進める」
相馬さんは通信機を下ろした。
俺は小さな蓋を見つめた。
この設備が使えれば、扉の向こうに溜まっている水を減らせるかもしれない。
そうすれば、地下へ入るための準備が一歩進む。
今は、それだけでもありがたかった。
やがて、職人が蓋を持ち上げた。
中には細い管が通っていたが、入口の部分に泥が詰まっていた。
『やっぱり、長い間使われていなかったんだな』
職人は慎重に泥を取り除き、管の状態を確認した。
『奥まで完全に塞がっているわけじゃなさそうだ。ただ、これだけで水を抜くには時間がかかる』
相馬さんが頷いた。
「それでも、使える可能性があるなら確認しておきたいですね」
『ああ。排水先が安全だと分かれば、少しずつ流せるかもしれん』
職人たちは作業を続けた。
俺はその様子を見ながら、地下の二人が無事でいてくれることを願った。
その時、遠くから足音が聞こえてきた。
振り返ると、装備を背負った二人の隊員がこちらへ向かってきていた。
相馬さんが手を上げる。
「こっちだ!」
二人は俺たちの前で足を止めた。
「遅くなりました。状況は聞いています」
先頭の隊員がそう言うと、相馬さんはすぐに現場の状態を説明した。
地下には二人いること。
一人は怪我をして歩けず、現在は意識がないこと。
部屋には水が溜まっているが、水門の切り替えによって水位の上昇は止まった可能性があること。
そして、古い水門の点検通路から退避用の部屋へ向かえるかもしれないこと。
隊員たちは説明を聞きながら、図面と現場を確認した。
「まずは入口の安全を確認します。扉の向こうの水位が分からない状態では開けられません」
「お願いします」
相馬さんが答えた。
二人は持ってきた道具を下ろし、石段の状態を調べ始めた。
俺は少し離れた場所から、その様子を見守った。
一人の隊員が扉の周囲を確認し、もう一人が水の流れを調べている。
職人たちも加わり、古い設備の構造について説明していた。
しばらくして、先頭の隊員が顔を上げた。
「扉の下から流れ出している水は、かなり少なくなっています。ただ、内部の水位はまだ分かりません。排水口の状態を確認してから、開放できるか判断します」
相馬さんが頷いた。
「分かりました」
隊員は続けた。
「それと、地下へ入る場合は、外との連絡手段と退路を確保しておきたいです。通路が途中で塞がっている可能性もありますから」
「その点は、こちらでも考えています」
相馬さんが俺を見た。
「久世には《帰り道》がある。ただし、あくまで帰る方向を知るためのものだ。通路の安全確認は別に必要になる」
隊員は頷いた。
「分かりました。能力に頼り切らず、通常の安全確認も行います」
俺は少し安心した。
《帰り道》があるからといって、無理に地下へ入ることにならなくてよかった。
俺の能力は、帰れる道を示してくれる。
でも、崩れた壁を通り抜けられるわけではないし、水の中を自由に進めるわけでもない。
だからこそ、他の人たちの力が必要だった。
その時、フェナが俺の隣へ来た。
『ナオトさん、少しお話ししてもいいですか?』
「うん。どうしたの?」
フェナは古い水門の扉を見つめた。
『もし地下へ入ることになったら、私も一緒に行きたいです』
俺は少し驚いた。
「フェナも?」
『はい。地下にいる方たちは、こちらの言葉で話しているはずです。直接会えた時、私がいればお話を聞けます』
確かに、そうだった。
俺たちは今まで、フェナの通訳に何度も助けられてきた。
地下の二人と会えたとしても、言葉が通じなければ怪我の状態や、何が起きたのかを詳しく確認するのは難しい。
「でも、危険かもしれないよ」
俺が言うと、フェナは頷いた。
『分かっています。だから、安全が確認できてからで構いません。それでも、私にできることがあるなら手伝いたいんです』
俺はフェナの顔を見た。
真剣な表情だった。
フェナはいつも、誰かのために動こうとしてくれる。
それはありがたいことだけれど、だからといって危険な場所へ連れていっていいわけではない。
「相馬さんに相談してみよう。ただ、危険だと判断されたら、外で待っていてほしい」
『はい。それは約束します』
フェナは頷いた。
俺たちは相馬さんへ事情を説明した。
相馬さんは少し考えてから答えた。
「通訳が必要なのは確かだ。ただ、地下の状態が分かるまでは判断できない。まずは隊員たちに確認してもらおう」
フェナも頷いた。
『分かりました』
その後、排水口の確認が進み、職人たちから報告があった。
『相馬さん、排水先が確認できたぞ』
「どこにつながっていましたか?」
『現在の水路の下流側だ。さっき切り替えた水門とは別の経路になっている』
相馬さんは図面を確認した。
「水路の水位は問題なさそうですか?」
『ああ。ただし、一度に大量の水を流すのは避けたい。少しずつ抜いて、様子を見ながら進める方がいい』
「お願いします」
職人たちは排水口の泥を取り除き、水が流れる状態を整えた。
すると、管の奥から小さな水音が聞こえ始めた。
最初はかすかな音だったが、しばらくすると一定の間隔で水が流れるようになった。
「動いたんですか?」
俺が尋ねると、職人は頷いた。
『ああ。水が流れ始めた。ただ、これだけで通路の水が全部なくなるわけじゃない。様子を見よう』
俺は頷いた。
少しずつでも水を減らせるなら、地下へ入れる可能性は高くなる。
隊員たちは扉の下から流れ出す水の量を確認しながら、排水口の状態も調べていた。
その間、相馬さんは通気口に残っている職人へ連絡し、地下の二人の様子を確認した。
『水位は増えていないようです。意識のある方からも、返事がありました』
「怪我人の呼吸は?」
『今も呼吸しているそうです』
俺は胸を撫で下ろした。
ただ、意識は戻っていないらしい。
それを聞いて、安心している場合ではないと思った。
水の流入が止まっていても、怪我人の状態が悪くなっている可能性はある。
早く助けなければならない。
しばらくして、隊員の一人が相馬さんへ声をかけた。
「入口側の水位が下がってきました。扉の状態も確認しましたが、少しずつ開けられる可能性があります」
相馬さんが顔を上げた。
「本当か?」
「はい。ただし、一気に開けることはできません。内部の水圧を確認しながら、少しずつ動かします」
「分かりました。お願いします」
隊員たちは職人と相談し、扉を開けるための準備を始めた。
俺たちは石段から離れ、安全な場所で待つことになった。
一人の隊員が扉の取っ手を確認し、もう一人が周囲の状態を見ている。
職人たちも、扉の構造について説明していた。
「少し動かします」
隊員の声が聞こえた。
俺は思わず息を止めた。
古い鉄製の扉が、低い音を立てて動いた。
しかし、すぐに止まった。
「……固いですね」
隊員が言った。
職人が近づき、扉の周囲を確認した。
『長い間開けられていなかったからな。錆びついているんだろう』
「無理に動かすと壊れそうですか?」
『可能性はある。少しずつ様子を見るしかない』
隊員たちは道具の位置を変え、再び慎重に扉を動かした。
ギギギ、と金属が擦れる音が響いた。
今度は、扉が少しだけ開いた。
その隙間から、水が流れ出してきた。
俺は思わず一歩前へ出かけたが、相馬さんに止められた。
「久世、まだ近づくな」
「はい」
隊員たちは水の勢いを確認しながら、扉をその位置で固定した。
しばらくすると、流れ出す水の量が少しずつ減ってきた。
「水圧は落ち着いてきています」
隊員が報告した。
相馬さんは頷いた。
「分かった。引き続き慎重に頼む」
さらに時間をかけ、扉は少しずつ開かれていった。
やがて、人が通れるほどの隙間ができた。
俺は明かりを向けた。
扉の向こうには、暗い石造りの通路が続いていた。
床にはまだ水が残っている。
ただ、入口付近の水深は浅くなっているようだった。
「……入れそうですね」
俺が呟くと、相馬さんは頷いた。
「ああ。ただし、ここから先の確認が必要だ」
隊員たちは通路の入口で装備を使い、内部の空気の状態を調べ始めた。
俺はその様子を見守った。
しばらくして、先頭の隊員が顔を上げた。
「入口付近の測定値には問題ありません。ただ、奥まで同じ状態とは限らないので、進みながら確認します」
相馬さんが頷いた。
「分かりました」
「それと、通路の天井や壁も確認しながら進みます。危険な状態なら、途中で引き返すことになります」
「お願いします」
俺は通路の奥を見つめた。
暗闇の向こうには、まだ何も見えない。
でも、あの先に二人がいる。
助けを求める音を返してくれた二人が、俺たちを待っている。
相馬さんは俺へ向き直った。
「久世、準備はできているか?」
「はい」
「ただし、今回はお前が先頭に立つ必要はない。通路の安全確認は隊員たちに任せる。お前には、帰りの誘導を頼みたい」
「分かりました」
「それと、何かおかしいと思ったら、すぐに伝えてくれ。ただし、《帰り道》で危険を判断しようとする必要はない」
俺は頷いた。
「はい。俺に分かることだけを伝えます」
相馬さんは少し笑った。
「それでいい」
地下へ入るのは、隊員二人と俺、そしてフェナの四人になった。
相馬さんは地上に残り、通信と救助全体の指揮を担当する。
フェナについては、通路の安全が確認された範囲で同行し、地下の人たちと直接会えた時に通訳をすることになった。
「フェナ、無理はしないでね」
俺が声をかけると、フェナは頷いた。
『ナオトさんもですよ』
「うん。分かってる」
俺たちは必要な装備を確認した。
隊員たちは救助用の道具と、怪我人を運ぶための折りたたみ式の担架を持っている。
俺は明かりと通信機を受け取り、フェナも足元を照らす道具を持った。
隊員たちは外に残る人たちと連絡を取り、通路へ入る準備を整えた。
「では、進みます」
先頭の隊員がそう言った。
俺たちは古い水門の石段を下り、開いた扉の前に立った。
中からは、冷たい空気が流れてきた。
水の匂いと、長い間使われていなかった石の匂いが混じっている。
俺は一度だけ後ろを振り返った。
相馬さんがこちらを見ていた。
「久世、頼んだぞ」
「はい。必ず戻ります」
俺は頷き、隊員たちのあとについて通路へ入った。
中は思っていたよりも狭かった。
石造りの壁が左右に続き、天井もそれほど高くない。
床には浅い水が溜まっていて、歩くたびに小さな音がした。
先頭の隊員が足元を確認しながら進む。
俺たちは少し間隔を空けて、そのあとに続いた。
「足元に段差があります。気をつけてください」
隊員が声をかけた。
俺は明かりを向けた。
確かに、床の一部が少し高くなっている。
古い石材がずれているらしく、踏み外せば転んでしまいそうだった。
俺たちは一人ずつ、慎重に段差を越えた。
「大丈夫?」
俺がフェナへ尋ねると、フェナは頷いた。
『はい。ありがとうございます』
通路の奥からは、水の流れる音が聞こえていた。
ただ、入口付近ほど水は動いていないようだった。
隊員は壁や天井の状態を確認しながら進み、時々立ち止まって空気の状態も調べている。
俺はその作業を邪魔しないよう、少し後ろからついていった。
しばらく進むと、通路が右へ曲がっていた。
先頭の隊員が立ち止まる。
「図面では、この先に仕切りがあるはずです」
俺たちは図面を確認した。
確かに、曲がった先に小さな印がある。
その向こうが、退避用の部屋へ続く通路になっているようだった。
「ここまでの状態はどうですか?」
俺が尋ねると、隊員は答えた。
「今のところ、大きな問題は見つかっていません。ただ、奥はまだ確認できていませんから、慎重に進みます」
「分かりました」
俺たちは再び歩き始めた。
曲がり角を越えると、通路の先に大きな金属製の仕切りが見えてきた。
仕切りは閉じられている。
その下には、水が溜まっていた。
「これですね」
隊員が言った。
俺は明かりを向けた。
仕切りの中央には、古い取っ手がついている。
ただ、表面には錆が浮いていて、長い間動かされていないことが分かった。
「この向こうに、二人がいるんでしょうか」
俺が尋ねると、隊員は図面を確認した。
「退避用の部屋は、この先です。ただ、仕切りの向こうにも短い通路があるようですね」
俺は頷いた。
あと少しで、二人のいる場所へ近づけるかもしれない。
そう思った時、仕切りの向こうから音が聞こえた。
コン、コン、コン。
俺は顔を上げた。
「……今の!」
フェナも仕切りを見つめた。
『聞こえました。三回です』
俺たちは顔を見合わせた。
通気口で聞こえていたのと同じ、三回の音。
地下の人たちが、助けを求めるために出していた合図だった。
「相馬さん、聞こえますか?」
俺は通信機へ声をかけた。
少し雑音が入ったあと、返事があった。
『聞こえている。どうした?』
「仕切りの向こうから、三回の音が聞こえました」
『そうか。地下の人たちが近くにいるのかもしれないな』
「はい。今、仕切りの前にいます」
『分かった。無理に開けず、隊員の判断に従ってくれ』
「了解しました」
通信を終えると、フェナが仕切りへ向かって声をかけた。
『聞こえますか! こちらは救助に来た者です!』
俺たちは耳を澄ませた。
少し間があった。
そして、仕切りの向こうから音が返ってきた。
コン。
一回だった。
フェナは嬉しそうに俺を見た。
『聞こえています!』
俺も頷いた。
「うん。すぐ近くまで来られたんだ」
先頭の隊員は仕切りの状態を確認しながら言った。
「まずは、向こうの水位を確認したいですね。ここを開けた時に水が流れ込んでくる可能性があります」
俺は頷いた。
「フェナ、向こうの水がどれくらいあるか聞いてもらえる?」
『はい』
フェナは仕切りへ向かって声をかけた。
『今いる場所の水は、膝より高いですか! 高いなら一回、低いなら二回、音を出してください!』
俺たちは待った。
しばらくして、音がした。
コン、コン。
二回だった。
「膝より低いんですね」
俺が言うと、隊員は頷いた。
「それなら、さっきより水が減っている可能性があります。ただ、仕切りのすぐ向こうも同じ水位とは限りません」
隊員たちは仕切りの下を調べた。
そこには細い隙間があり、少量の水が流れていた。
「水圧はそれほど強くなさそうですが、まだ確認が必要です」
先頭の隊員が言った。
もう一人の隊員が、仕切りの周囲を調べ始めた。
俺は少し離れた場所で待った。
フェナも隣に立っている。
「もう少しだね」
俺が言うと、フェナは頷いた。
『はい。でも、怪我をしている方が心配です』
「そうだね」
俺は仕切りを見つめた。
向こうには、意識のある人が一人いる。
その人は、もう一人の怪我人を守りながら、ずっと助けを待っているのかもしれない。
暗い地下で、水が増えていくのを見ていた時、どれほど怖かっただろう。
俺はその気持ちを考え、胸が苦しくなった。
「ナオトさん」
フェナが小さく声をかけた。
「うん?」
『助けられますよね』
俺は少し考えてから答えた。
「うん。助けるために、ここまで来たんだから」
フェナは頷いた。
『はい』
その時、隊員が声を上げた。
「仕切りの状態を確認できました。少しずつ開けられそうです」
俺は顔を上げた。
「本当ですか!」
「はい。ただし、向こうから水が流れてくる可能性があるので、皆さんは少し下がってください」
俺たちは指示に従い、仕切りから離れた。
隊員たちは道具を使い、慎重に取っ手を動かし始めた。
最初は、ほとんど動かなかった。
金属が擦れる音が響く。
隊員は一度手を止め、仕切りの周囲を確認した。
「少し固着していますね」
もう一人の隊員が頷いた。
「無理に動かさない方がいい。位置を変えてみよう」
二人は道具の位置を調整し、もう一度慎重に力をかけた。
すると、仕切りがわずかに動いた。
「……動きました」
俺は息を止めた。
仕切りは少しずつ開き、その隙間から水が流れ出してきた。
隊員たちはすぐに動きを止め、水の勢いを確認した。
流れはそれほど強くなかった。
しばらく待つと、水の勢いがさらに弱まった。
「このまま少しずつ開けます」
隊員が言った。
俺たちは頷いた。
仕切りは、ゆっくりと開かれていった。
やがて、人が通れるほどの隙間ができた。
その向こうには、さらに短い通路が続いていた。
そして、通路の先に四角い部屋が見えた。
「……あそこですか?」
俺が尋ねると、隊員は頷いた。
「図面通りなら、あれが退避用の部屋です」
俺は明かりを向けた。
部屋の入口付近には、水が溜まっている。
ただ、奥の方には少し高くなった場所があるようだった。
そして、その上に何かが動くのが見えた。
「……人?」
俺が呟いた時だった。
『誰か!』
奥から声が聞こえた。
俺は思わず顔を上げた。
フェナも驚いた表情になった。
『人の声です!』
「聞こえた!」
俺は部屋の奥を見つめた。
暗闇の向こうから、もう一度声が聞こえた。
『誰かいるのか!』
フェナがすぐに答えた。
『います! 救助に来ました!』
少し間があった。
そして、奥から震える声が返ってきた。
『……本当に?』
フェナは頷きながら答えた。
『はい! 今、そちらへ向かっています!』
俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
今まで、壁を叩く音でしか連絡できなかった相手と、ようやく声を交わせた。
向こうにいる人も、俺たちが近くまで来たことを分かってくれたはずだ。
先頭の隊員が声をかけた。
「ここから先も安全を確認しながら進みます。焦らず、指示に従ってください」
「はい」
俺たちは仕切りを越え、退避用の部屋へ向かった。
通路の床には水が残っていたが、歩けないほど深くはなかった。
ただ、ところどころに石材が落ちていて、足元には注意が必要だった。
先頭の隊員が一つずつ確認し、俺たちはそのあとを進んだ。
部屋の入口へ近づくと、ようやく中の様子が見えてきた。
そこには、二人の男性がいた。
一人は壁にもたれかかるように座っている。
もう一人は、そのすぐ横に横たわっていた。
座っている男性は、俺たちの姿を見ると、信じられないという顔をした。
『……来てくれたのか』
フェナが頷いた。
『はい。助けに来ました』
男性は口を開いたまま、しばらく何も言わなかった。
それから、震える手で顔を覆った。
『もう、誰も来ないと思ってた……』
その声を聞いた瞬間、俺は胸が締めつけられるような気持ちになった。
男性は何度も息を吐きながら、涙を拭っていた。
『何度も壁を叩いたんだ。でも、誰にも聞こえていないと思って……』
フェナは男性のそばへ近づき、優しく声をかけた。
『聞こえていましたよ。外にいる人たちが、あなたたちの音に気づいてくれたんです』
男性は顔を上げた。
『本当に?』
『はい。だから、私たちはここまで来られました』
男性は何度も頷いた。
『よかった……本当に、よかった……』
俺はその姿を見ながら、言葉を失っていた。
壁を叩く音。
たったそれだけの合図が、外にいる俺たちへ届いた。
そして、俺たちはその音を頼りに、ここまで来ることができた。
でも、まだ終わりではない。
男性の隣には、意識のない人が横たわっている。
俺はすぐに隊員へ声をかけた。
「怪我をしている人をお願いします!」
「分かっています」
隊員たちは二人のそばへ近づき、状態を確認し始めた。
一人が意識のない男性の呼吸を確認し、もう一人が周囲の状況を調べている。
俺は少し離れた場所で待った。
フェナは座っている男性へ話しかけた。
『この方は、いつから意識がないんですか?』
男性は横たわっている人を見た。
『分からない……最初は話していたんだ。でも、だんだん返事が少なくなって……』
『怪我をしたのは、いつですか?』
『ここへ逃げ込む前だ。通路で足を挟まれて、それから動けなくなった』
フェナが通訳してくれた。
俺は顔を上げた。
「足を挟まれたんですか?」
男性は頷いた。
『ああ。崩れてきた石に足を挟まれたんだ。俺が何とかここまで連れてきたけど、それからずっと痛がっていて……』
俺は横たわっている男性を見た。
隊員が慎重に足の状態を確認している。
「呼吸はあります。ただ、意識がありません。早く外へ運び出す必要があります」
先頭の隊員が言った。
俺は頷いた。
「担架で運べますか?」
「状態を確認してから判断します。無理に動かすと怪我を悪化させる可能性がありますから」
隊員たちは慎重に確認を続けた。
その間、フェナは意識のある男性へ水を飲めるか尋ね、体調を確認していた。
男性は少しだけ水を飲み、何度も礼を言っていた。
『ありがとう……本当にありがとう……』
フェナは首を横に振った。
『まだお礼を言うのは早いですよ。これから一緒に外へ出るんですから』
男性は頷いた。
『……そうだな』
俺はその言葉を聞いて、少し笑った。
そうだ。
まだ救助は終わっていない。
二人を安全な場所へ連れ出して、初めて今回の救難が終わる。
俺は通信機を取り出し、相馬さんへ連絡した。
「相馬さん、聞こえますか?」
少し雑音が入ったあと、返事があった。
『聞こえている。どうした?』
「二人を見つけました!」
通信機の向こうで、相馬さんが息を吐く音が聞こえた。
『そうか。二人ともいたんだな?』
「はい。一人は意識があります。もう一人は意識がありませんが、呼吸はしています。今、隊員たちが状態を確認しています」
『分かった。よくやった』
相馬さんの声が少し柔らかくなった。
『こちらでも受け入れの準備を進める。怪我人を運び出せるようになったら連絡してくれ』
「はい」
『それと、久世』
「何ですか?」
『ここからが大事だ。無理をせず、全員で戻ってこい』
俺は頷いた。
「分かっています。必ず戻ります」
通信を終えると、俺は部屋の中を見渡した。
石造りの壁には、古い道具がいくつか残されている。
床には水が溜まっているが、奥の方は少し高くなっていて、二人はそこに避難していたようだった。
ただ、部屋の隅には崩れた石材が積み重なっていた。
その一部は、天井から落ちてきたものらしい。
俺は明かりを向けた。
「ここも崩れたんですね」
フェナが男性へ尋ねると、男性は頷いた。
『ああ。水が入ってきた時、向こうの壁が少し崩れたんだ』
「その時、怪我をしたんですか?」
フェナが通訳すると、男性は首を横に振った。
『違う。こいつが怪我をしたのは、ここへ来る前だ』
俺は横たわっている男性を見た。
「じゃあ、ここまで運んできたんですか?」
『ああ。何とか引きずってきた。でも、途中で水が増えてきて……』
男性は言葉を詰まらせた。
『もう駄目だと思った。こいつは動けないし、俺一人じゃ外へ連れていけない。だから、せめて誰かに気づいてもらおうと思って、壁を叩き続けたんだ』
俺は静かに頷いた。
あの音には、そんな思いが込められていたのか。
外にいる誰かへ届いてほしい。
助けに来てほしい。
自分だけでは、もうどうにもできない。
そう思いながら、何度も壁を叩いていたのだろう。
「届いてよかったです」
俺が言うと、フェナが通訳してくれた。
男性は俺を見た。
『……ありがとう』
俺は首を横に振った。
「まだ、これからです」
男性は少し驚いた顔をした。
俺は続けた。
「二人とも、ちゃんと外へ連れて帰ります」
フェナが通訳すると、男性は何度も頷いた。
『頼む……こいつを、助けてやってくれ』
その声は、今にも泣き出しそうだった。
俺は頷いた。
「はい」
その時、隊員の一人が声をかけた。
「久世さん、少し手伝ってもらえますか?」
「はい!」
俺はすぐに近づいた。
隊員は折りたたみ式の担架を広げようとしていた。
「この方を運ぶ準備をします。ただ、足の状態がよくありません。できるだけ動かさないようにしたいので、明かりをこちらへ向けてください」
「分かりました」
俺は指示された場所を照らした。
隊員たちは慎重に怪我人の状態を確認している。
足には布が巻かれていた。
どうやら、意識のある男性が応急処置をしたらしい。
ただ、その布は水に濡れていて、ところどころ赤く染まっていた。
俺は思わず息をのんだ。
「……かなり怪我をしているんですね」
隊員は頷いた。
「そうですね。詳しい状態は外で確認する必要がありますが、ここで長く待たせるのは避けたいです」
俺は頷いた。
隊員たちは怪我人の体を慎重に支え、担架へ移す準備を始めた。
しかし、その時だった。
「……待ってください」
もう一人の隊員が声を上げた。
俺は顔を上げた。
「どうしました?」
隊員は怪我人の足元を見つめていた。
「この方の足、何かに引っかかっています」
俺は明かりを向けた。
横たわっている男性の片足は、崩れた石材の下へ伸びていた。
よく見ると、足首の近くに古い金属製の部品が重なっている。
「これって……」
俺が呟くと、隊員は慎重に確認した。
「古い設備の一部かもしれません。足が挟まっているようです」
俺は息をのんだ。
「じゃあ、このままじゃ運べないんですか?」
「無理に引っ張ることはできません。まずは、何に挟まれているのか確認する必要があります」
俺は金属製の部品を見つめた。
かなり大きい。
しかも、周囲には崩れた石材が重なっている。
これを動かすには、道具が必要になるかもしれない。
「相馬さんに連絡します」
俺は通信機を取り出した。
「相馬さん、聞こえますか?」
『聞こえている。どうした?』
「怪我人の足が、古い設備の部品に挟まれているようです。このままでは担架へ移せません」
『分かった。どんな状態だ?』
「金属製の大きな部品が足元にあります。周りには崩れた石もあります」
『無理に動かすな。隊員に状態を確認してもらってくれ』
「はい」
『こちらでも、必要な道具を準備する』
通信を終えると、俺は隊員へ状況を伝えた。
隊員は頷いた。
「ありがとうございます。まずは、周囲の構造を確認します」
俺は明かりを向け続けた。
隊員たちは金属製の部品と、その周囲に積み重なった石材を調べている。
しばらくして、一人が顔を上げた。
「……少し厄介ですね」
俺は胸がざわついた。
「どういうことですか?」
隊員は金属製の部品を指した。
「これ自体は動かせるかもしれません。ただ、上に重なっている石材が問題です。無理に持ち上げると、周囲の石まで動いてしまう可能性があります」
俺は天井を見上げた。
部屋の隅には、崩れた跡が残っている。
「じゃあ、下手に動かしたら……」
「さらに崩れるかもしれません」
隊員の言葉に、俺は黙り込んだ。
ようやく二人を見つけた。
あと少しで外へ連れて帰れると思った。
それなのに、怪我人の足が挟まっていて、簡単には動かせない。
俺は拳を握った。
「何か方法はありませんか?」
隊員は少し考えた。
「あります。ただし、現場の状態を詳しく確認してからです。石材を支えながら、挟まっている部分だけを動かせるかもしれません」
「本当ですか?」
「可能性はあります。でも、今ある道具だけでは難しいですね」
俺は頷いた。
隊員は通信機を取り出し、相馬さんへ必要な道具を伝え始めた。
その間、俺は意識のある男性へ目を向けた。
男性は俺たちの様子を、不安そうに見つめていた。
フェナがそばへ近づき、状況を説明している。
『足が挟まっているので、今は無理に動かせないそうです。でも、外から道具を持ってきてもらいます』
男性は頷いた。
『……分かった』
それから、横たわっている人の手を握った。
『もう少しだぞ。助けが来たんだからな』
俺はその姿を見て、胸が苦しくなった。
男性は、ずっと一人で頑張ってきたのだろう。
怪我をした仲間を運び、暗い地下で水が増えていくのを見ながら、何度も助けを求める音を出していた。
その間、どれほど不安だっただろう。
俺たちが来たことで、少しでも安心してくれていたらいい。
そう思った時、男性が俺を見た。
『なあ……』
フェナが顔を上げた。
『どうしました?』
男性は少し迷ったあと、口を開いた。
『俺たち、本当に帰れるのか?』
俺はその言葉を聞いて、少しだけ息を止めた。
男性の目には、まだ不安が残っていた。
当然だと思う。
助けが来たとはいえ、仲間は意識を失っている。
しかも、足が挟まっていて動かせない。
このまま無事に帰れるのか、心配になるのも無理はなかった。
俺は男性の前にしゃがんだ。
「帰れるように、みんなで準備しています」
フェナが通訳する。
男性は俺を見つめた。
『でも、こいつは動けないんだぞ……』
「はい。だから、無理に動かさず、安全に運ぶ方法を考えています」
『……そうか』
俺は頷いた。
「俺一人では、何もできないかもしれません。でも、ここには救助の専門の人もいます。外には、道具を準備してくれている人もいます」
男性は黙って聞いていた。
「だから、もう少しだけ待っていてください。必ず、できることを探します」
フェナが通訳すると、男性はゆっくりと頷いた。
『……分かった』
俺は少し笑った。
「ありがとうございます」
男性も、ほんの少しだけ笑った。
その時、隊員が声をかけた。
「久世さん、外から道具を運んでもらえることになりました。到着まで、こちらで怪我人の状態を確認し続けます」
「分かりました」
俺は立ち上がった。
隊員たちは怪我人の呼吸や体の状態を確認しながら、できるだけ負担をかけない姿勢を保とうとしていた。
フェナは意識のある男性のそばに残り、必要なことを聞いている。
俺は部屋の入口付近へ移動し、通路の様子を確認した。
水はまだ残っている。
ただ、さっきよりも少し浅くなっているようだった。
俺は《帰り道》を意識した。
すると、俺の目には、帰るための道筋が見えた。
それは、俺たちが入ってきた通路の方へ続いていた。
俺は小さく息を吐いた。
帰る方向は分かる。
でも、今はそれだけでは足りない。
二人を安全に運び出すためには、怪我人の足を挟んでいる部品をどうにかしなければならない。
俺は部屋の中へ戻った。
その時、意識のある男性が、何かを思い出したように顔を上げた。
『そうだ……』
フェナが振り返った。
『どうしました?』
男性は崩れた石材の方を見た。
『あの金属の部品、最初からあそこにあったわけじゃないんだ』
俺は足を止めた。
「どういうことですか?」
フェナが通訳すると、男性は続けた。
『水が入ってきた時、壁の奥から大きな音がしたんだ。それで、あの部品が倒れてきた』
俺は金属製の部品を見た。
「じゃあ、壁の中にあったものなんですか?」
男性は頷いた。
『たぶんな。古い設備だと思う。でも、何のためのものかは分からない』
隊員たちも話を聞いていた。
一人が部品の形を確認し、もう一人が壁の崩れた部分へ明かりを向けた。
「……なるほど」
隊員が呟いた。
俺は顔を上げた。
「何か分かったんですか?」
「この部品、単独で置かれていたものではなさそうです。壁の中に固定されていた設備の一部かもしれません」
「じゃあ、動かすと危ないんですか?」
「まだ分かりません。ただ、上の石材を支えている可能性もあります。無理に動かす前に、構造を確認する必要がありますね」
俺は頷いた。
その時、もう一人の隊員が壁の奥を照らした。
「……待ってください」
俺たちは振り返った。
「どうしました?」
隊員は崩れた壁の隙間を見つめていた。
「この奥に、まだ空間があります」
俺は明かりを向けた。
確かに、崩れた石材の向こうには、黒い隙間が見える。
ただ、どこまで続いているのかは分からない。
「別の部屋ですか?」
俺が尋ねると、隊員は首を横に振った。
「分かりません。古い設備のための空間かもしれませんし、壁の一部が崩れてできた隙間かもしれません」
俺は頷いた。
その時、意識のある男性が、急に声を上げた。
『そこには近づかない方がいい!』
俺たちは驚いて振り返った。
フェナが尋ねる。
『どうしてですか?』
男性は震える声で答えた。
『そこから、何度も音がしていたんだ』
俺は顔を上げた。
「音?」
男性は頷いた。
『ああ。俺たちがここへ逃げ込んでから、ずっとだ』
俺は崩れた壁を見つめた。
「どんな音だったんですか?」
フェナが通訳すると、男性は少し考えた。
『最初は、水が流れる音だと思っていた。でも、違ったんだ』
「違った?」
男性は頷いた。
『何かが、壁の向こうで動いているような音だった』
俺は隊員たちを見た。
隊員たちも表情を引き締めている。
ただ、今の段階では何の音なのか分からない。
古い設備が動いているのかもしれないし、水の流れによって石材が擦れているだけかもしれない。
隊員は壁の状態を確認しながら言った。
「今は近づかない方がいいですね。怪我人の救助を優先しましょう」
俺は頷いた。
その時だった。
崩れた壁の奥から、低い音が聞こえた。
ゴトン。
俺は思わず顔を上げた。
音は一度だけではなかった。
少し間を置いて、もう一度。
ゴトン。
壁の向こうで、何か重いものが動いているような音だった。
隊員がすぐに声をかけた。
「皆さん、壁から離れてください!」
俺たちは指示に従い、少し離れた場所へ移動した。
ただ、怪我人は足が挟まっていて動かせない。
隊員たちはすぐに怪我人のそばへ戻り、周囲の状態を確認した。
俺は息をのんだ。
もし、壁がさらに崩れたら。
今度こそ、怪我人を助けることが難しくなるかもしれない。
「相馬さん!」
俺は通信機へ声をかけた。
『どうした、久世!』
「退避用の部屋で、壁の奥から大きな音がしています! 怪我人の足を挟んでいる部品も、壁の中にあった設備の一部かもしれません!」
『分かった。無理に動かすな。必要なら退避しろ!』
「はい!」
通信を終えると、俺は隊員たちを見た。
先頭の隊員が壁の状態を確認している。
もう一人は、怪我人のそばにしゃがんでいた。
フェナは意識のある男性を支えながら、少し離れた場所へ移動している。
俺は拳を握った。
あと少しなのに。
ようやく二人を見つけたのに。
このままでは、怪我人を運び出すことができない。
俺は崩れた壁を見つめた。
その時、先頭の隊員が声を上げた。
「久世さん、こちらへ来てもらえますか?」
「はい!」
俺はすぐに近づいた。
隊員は壁の下にある金属製の部品を指した。
「これを見てください」
俺は明かりを向けた。
金属製の部品の下には、細い棒のようなものが伸びていた。
その棒は、崩れた壁の奥へ続いている。
「これって……」
「おそらく、古い設備の一部です。ただ、どこにつながっているのかは分かりません」
隊員は慎重に説明した。
「問題は、この部品を動かした時に、奥の設備まで動いてしまう可能性があることです」
俺は息をのんだ。
「じゃあ、足を挟んでいる部分だけを動かすのは……」
「簡単ではありません。ただ、方法がないわけではないと思います」
俺は顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい。周囲を支えながら、必要な部分だけを少しずつ動かせるかもしれません。ただし、今ある道具では難しいですね」
俺は頷いた。
外から道具を運んでもらう必要がある。
でも、その間に壁の状態が変わるかもしれない。
俺は通信機を握り直した。
その時、フェナが声を上げた。
『ナオトさん!』
俺は振り返った。
「どうしたの?」
フェナは意識のある男性のそばに立っていた。
『この方が、もう一つ思い出したことがあるそうです』
俺はすぐに近づいた。
男性は崩れた壁を見つめながら、震える声で話し始めた。
『あの音がした時、こいつはまだ意識があったんだ』
俺は頷いた。
「はい」
『それで、壁の方を見て、何か言っていた』
「何て言っていたんですか?」
男性は少し考えた。
『最初は、俺も意味が分からなかった。でも、今なら分かる気がする』
俺は男性の顔を見た。
男性は、ゆっくりと口を開いた。
『あいつは、壁を動かすなって言ってたんだ』
俺は息を止めた。
「壁を?」
男性は頷いた。
『ああ。あの部品を動かすなって。動かしたら、向こうの水が……』
そこで男性は言葉を詰まらせた。
俺は崩れた壁を見た。
金属製の部品。
その奥へ続く細い棒。
そして、壁の向こうから聞こえる重い音。
俺はようやく気づいた。
もしかしたら、あの部品は単なる古い設備ではないのかもしれない。
水の流れを調整するための仕組みと、つながっている可能性がある。
もしそうなら、怪我人の足を助けようとして部品を動かした瞬間、地下の水の流れが変わってしまうかもしれない。
「隊員さん!」
俺は声を上げた。
隊員たちが振り返った。
「この部品、動かす前に確認した方がいいです! 怪我をしている人が、動かすなって言っていたそうです!」
隊員はすぐに頷いた。
「分かりました。今は動かしません」
俺は胸を撫で下ろした。
ただ、問題が解決したわけではない。
怪我人の足は、まだ挟まれたままだ。
そして、壁の向こうからは、今も低い音が聞こえている。
ゴトン。
俺はその音を聞きながら、通信機を握った。
ようやく二人に会えた。
助けを求める音を頼りに、ここまで来ることができた。
でも、二人を連れて帰るには、まだ越えなければならない問題が残っている。
俺は意識のない男性を見た。
呼吸は続いている。
その隣では、もう一人の男性が、祈るように仲間の手を握っていた。
俺は深く息を吸った。
焦ってはいけない。
でも、諦めるわけにもいかない。
俺たちは、二人を連れて帰るためにここへ来たのだから。
その時、崩れた壁の奥から、今までとは違う音が聞こえた。
ゴゴゴ……。
何かが、ゆっくりと擦れるような音だった。
隊員が顔を上げた。
「……まずいですね」
俺は思わず尋ねた。
「どうしたんですか?」
隊員は壁の隙間を見つめたまま答えた。
「奥の設備が、少しずつ動いているようです」
俺は息をのんだ。
「それって……」
隊員は頷いた。
「このままでは、怪我人の足を挟んでいる部品も動くかもしれません」
俺は横たわっている男性を見た。
動かせない。
でも、このままにしておくこともできない。
地下の部屋には、再び重い音が響いた。
俺は通信機を握り直した。
今度こそ、急いで方法を見つけなければならなかった。




