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ハズレスキル《帰り道》しかないF級探索者、遭難したS級パーティを全員連れて帰ったら救難依頼が殺到しました  作者: ころもぐら


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第141話 まだ数えていない一人

北の見張り台の近くで地面が沈み、古い石の扉が見つかった。


その報告を聞いてから、俺たちは避難している人たちを町の北側にある建物へ案内する準備を急いでいた。


ただし、移動先が本当に安全なのかは、まだ確認が終わっていない。


「久世、こっちは任せていいか?」


相馬さんが、住民たちの集まっている方を指した。


「はい。フェナと一緒に人数を確認します」


「頼む。俺は管理人と建物の状態を見てくる。北の見張り台についても、現地の担当者から詳しい話を聞いておきたい」


「分かりました」


相馬さんは管理人と職人二人を連れ、少し先にある建物へ向かった。


俺はフェナのところへ戻り、避難してきた住民たちの確認を始めた。


東の通りに住んでいた十三人は、全員そろっている。作業小屋に閉じ込められていた年配の職人も、今は近くの椅子に座って休んでいた。


広場から移動してきたほかの住民たちについては、管理人が用意した名簿を使い、家族や仕事仲間ごとに確認している。


「フェナ、東の通りの人たちは大丈夫そう?」


『はい。十三人ともこちらにいます。体調が悪い方もいないそうです』


「よかった。小さい子たちは?」


『少し眠そうですが、リュシアが一緒にいてくれています』


フェナが指した先では、リュシアが子どもたちに囲まれていた。


どうやら、さっきから続けている人数を数える遊びが気に入ったらしい。


『じゃあ、今度はみんなで数えてみよう!』


リュシアが声をかけると、子どもたちが楽しそうに答えた。


俺はその様子を見て、少し安心した。


突然家を離れることになった子どもたちにとって、今夜は不安なことばかりだろう。それでも、こうして笑っていられる時間があるのはありがたい。


「リュシア、ありがとう」


声をかけると、リュシアが振り返った。


『ナオト! もうすぐみんなのお家に帰れる?』


「それは、まだ分からないんだ。今夜は別の場所で休んでもらうことになると思う」


『そっか。でも、みんな一緒なら大丈夫だよね!』


「うん。そうだね」


俺は頷いた。


ただ、心の中では少し引っかかっていた。


今、町で起きている異常の原因は分かっていない。


東と西の見張り台。


広場の地下。


そして、北の見張り台。


古い水路が関係している可能性は高いものの、どこで何が起きているのか、まだ誰にも説明できない状況だった。


だからこそ、今は安全だと確認できる場所へ人を移すしかない。


俺たちが住民の確認を終えた頃、相馬さんが戻ってきた。


「久世、建物の方は使えそうだ」


「本当ですか?」


「ああ。職人たちが外から確認した限り、土台に異常は見つからなかった。周囲にも水が出ている様子はない」


相馬さんの説明によると、避難先として考えている建物は、町の北西側にある集会所だった。


広場よりも高い場所に建っており、土台の一部には地面から露出した大きな岩が使われているらしい。


職人たちは建物の周囲を調べ、少なくとも今すぐ使用を中止しなければならないような異常は見つからなかったという。


「ただし、地下まで調べたわけじゃない。今夜の一時的な避難場所として使いながら、周囲の状態を確認し続ける」


「分かりました」


「それと、建物に入る人数も記録しておこう。あとで誰がどこにいるのか分からなくなると困るからな」


俺は頷いた。


避難する場所が決まったからといって、それで仕事が終わるわけではない。


誰が移動したのか。


体調の悪い人はいないか。


途中で別の場所へ行った人がいないか。


そうしたことを確認しておかなければ、いざという時に取り残された人がいるかどうかも分からなくなってしまう。


「フェナ、みんなに移動先が決まったことを伝えてもらえる?」


『はい。すぐに説明します』


フェナが住民たちへ声をかけ始めた。


俺も荷物を持つ人たちを手伝いながら、移動の準備を進める。


集会所までは、歩いて数分ほどだった。


道は緩やかな上り坂になっているが、石畳が整備されているため、年配の人たちも周囲の助けを借りながら進めそうだった。


俺は列の後ろにつき、誰かが遅れていないか確認しながら歩いた。


途中で一人の女性が立ち止まった。


『すみません。少し休んでもいいですか?』


フェナが通訳してくれる。


「もちろんです。急がなくて大丈夫ですよ」


俺は近くにあった石の腰掛けを指した。


女性は小さく頷き、腰を下ろした。


腕には眠っている子どもを抱えている。


「ずっと抱っこしていたんですか?」


『ええ。家を出る時から眠ってしまって……』


女性は困ったように笑った。


俺は少し考えてから尋ねた。


「荷物だけでも持ちましょうか?」


『それなら、お願いできますか?』


「はい」


俺は女性の持っていた袋を受け取った。


それほど重くはなかったが、子どもを抱えたまま持ち続けるには負担だったのだろう。


女性は何度も礼を言ってくれた。


少し休んでから、俺たちは再び歩き始めた。


集会所へ到着すると、すでに管理人と職人たちが入口で待っていた。


建物の中には広い部屋があり、床には厚手の敷物が用意されている。壁際には水の入った容器や毛布も運び込まれていた。


『今夜はここを使ってくれ』


管理人が住民たちへ説明した。


『必要なものがあれば、遠慮なく言ってほしい。できる限り用意する』


住民たちは安心したように頷き、それぞれ休む場所を探し始めた。


俺はフェナと一緒に、もう一度人数を確認した。


東の通りから避難してきた十三人。


広場から移動してきた住民たち。


そして、案内を手伝ってくれた人たち。


管理人の名簿と照らし合わせながら、一人ずつ確認していく。


時間はかかったが、全員の所在を確認することができた。


「これで大丈夫そうですね」


俺が言うと、フェナも頷いた。


『はい。今のところ、行方が分からなくなっている方はいません』


「よかった」


俺はようやく肩の力を抜いた。


その時だった。


建物の入口から、慌ただしい足音が聞こえてきた。


「相馬さん!」


俺が振り返ると、北の見張り台から来た男が立っていた。


先ほど、地面が沈んだことを知らせに来てくれた見張り番だ。


相馬さんもすぐに気づいた。


「どうした? 何か変わったのか?」


男は息を整えながら答えた。


『すまない。確認してほしいことがある』


フェナが通訳する。


『北の見張り台にいた、もう一人の見張り番のことなんだが……』


俺は顔を上げた。


「もう一人?」


相馬さんの表情も変わった。


「二人とも建物から離れたと聞いているが?」


『ああ。それは間違いない。ただ、地面が沈んだ時、俺たちは別々の場所にいたんだ』


男の説明によると、二人は見張り台から出たあと、建物の周囲を確認していたらしい。


一人は町へ続く道へ下がり、もう一人は裏手にある石段の近くにいた。


その時、地面の一部が沈んだ。


幸い、二人とも巻き込まれなかった。


ただ、石段の近くにいた見張り番は、町へ戻る道を失ってしまったという。


「今も、そこにいるんですか?」


俺が尋ねると、男は頷いた。


『ああ。声は届くし、姿も見える。怪我もしていない。ただ、こちらへ戻ってこられないんだ』


相馬さんがすぐに尋ねた。


「その場所は、今すぐ崩れるような状態なのか?」


『分からない。本人は動かずに待っている』


「分かった。現場を確認しよう」


相馬さんは俺を見た。


「久世、行けるか?」


「はい」


俺はすぐに答えた。


ただ、相馬さんは続けた。


「先に言っておくが、無理に助けに行くつもりはない。地面の状態が分からない以上、俺たちまで危険な場所へ入るわけにはいかないからな」


「分かっています」


「職人にも来てもらおう。建物の裏手を知っている人が必要だ」


俺は頷いた。


フェナも一緒に行くことになった。


リュシアには、集会所で子どもたちと待っていてもらう。


『ナオト、また行くの?』


「うん。まだ戻ってきていない人がいるんだ」


『その人も、ちゃんと帰ってこられる?』


俺は少し考えた。


「そのために、今から確認してくるよ」


リュシアは俺を見つめたあと、頷いた。


『分かった。みんなで待ってるね』


「ありがとう」


俺はリュシアに手を振り、相馬さんたちと一緒に集会所を出た。


北の見張り台へ向かう道は、町の中心から少し離れた場所にあった。


建物の近くには、すでに何人かの職人が集まっている。


ただし、全員が沈んだ地面から十分に距離を取っていた。


俺たちは案内役の見張り番についていき、安全が確認されている場所まで進んだ。


「……思っていたより、大きいですね」


俺は思わず呟いた。


地面が沈んだ場所には、黒い穴が開いていた。


周囲の石畳が崩れ、下にある古い石組みが露出している。


穴の底までは、ここからではよく見えない。


ただ、どこかで水が流れているらしく、低い音が聞こえていた。


見張り台そのものは、まだ立っている。


しかし、建物の裏手へ続く道が途中で崩れ、石段の一部が孤立していた。


そして、その先に一人の男が立っていた。


『おーい!』


男がこちらに向かって手を振った。


俺も手を振り返す。


「よかった。元気そうですね」


フェナが声をかけると、男は大きく頷いた。


『怪我はしてない! ただ、そっちへ戻れないんだ!』


相馬さんは周囲を確認した。


「今いる場所から、別の方向へ移動できるのか?」


フェナが通訳する。


男は後ろを振り返った。


『石段が上へ続いてる! でも、その先は古い柵で塞がれてるんだ!』


俺は男の背後を見た。


確かに、石段は見張り台の裏手を回り込むように続いていた。


その先には木製の柵が見える。


ただ、暗くて詳しい状態までは分からなかった。


相馬さんが職人へ尋ねた。


「この石段がどこへ続いているか、分かりますか?」


職人の一人が頷いた。


『ああ。昔は、見張り台の裏に資材置き場があったんだ。あの石段は、そこへ荷物を運ぶための道だったはずだ』


「今も通れるんですか?」


『長いこと使ってないからな。ただ、反対側から確認できるかもしれない』


相馬さんは少し考えた。


「なら、まずはそちらを調べましょう。地面が沈んだ場所を無理に渡る必要はありません」


俺は頷いた。


確かに、目の前の穴を越えようとするより、別の道を探した方が安全そうだった。


ただ、古い石段が今も使えるかどうかは分からない。


俺たちは職人の案内で、見張り台から少し離れた道へ回った。


資材置き場は、町の北側にある小さな高台の上にあった。


今はほとんど使われていないらしく、古い木材や石材が積まれている。


その奥に、木製の柵が見えた。


「ここですか?」


俺が尋ねると、職人は頷いた。


『ああ。この向こうが、さっきの石段につながっているはずだ』


相馬さんは柵の周囲を確認した。


「地面の状態はどうですか?」


職人たちは明かりを近づけ、石の継ぎ目や周囲の地面を調べ始めた。


しばらくして、一人が顔を上げた。


『こっちは大丈夫そうだ。少なくとも、さっきの穴の近くとは違って、石段の土台がしっかり残っている』


「柵は開けられそうですか?」


『確認してみる』


職人が留め具を調べた。


しかし、長い年月の間に錆びついてしまったらしく、簡単には動かなかった。


『こりゃ、道具がいるな』


もう一人の職人が頷いた。


『留め具を外せば開くはずだ。柵そのものを壊す必要はない』


相馬さんは確認した。


「作業する場所は安全ですか?」


『ああ。こちら側は安定している。無理な力をかけなければ大丈夫だろう』


「分かりました。お願いします」


職人たちは道具を取り出し、留め具を外す作業を始めた。


俺は少し離れた場所から、石段の向こうへ声をかけた。


「聞こえますか!」


フェナが通訳する。


しばらくすると、返事があった。


『聞こえるぞ!』


「今、柵を開けています! そちらから石段を上がれそうですか!」


男は足元を確認した。


『途中までは大丈夫そうだ! ただ、暗くて先がよく見えない!』


相馬さんがすぐに言った。


「動かずに待ってもらおう。こちらの準備が終わってから、明かりを使って確認してもらう」


フェナがその言葉を伝える。


男は素直に頷いた。


俺は少し安心した。


助けを待っている人が、焦って動こうとしていない。


それだけでも、今の状況では大きなことだった。


職人たちの作業は、思っていたより時間がかかった。


古い留め具がなかなか外れず、何度か道具を持ち替える必要があったからだ。


俺も手伝えることがないか尋ねたが、職人からは明かりを持っていてほしいと言われた。


「分かりました。ここを照らしておきます」


俺は手元の明かりを調整し、作業している場所を照らした。


しばらくして、金属が外れる音がした。


『よし、取れたぞ!』


職人が声を上げた。


柵がゆっくりと開く。


その向こうには、古い石段が続いていた。


俺は思わず身を乗り出しかけたが、相馬さんに肩を押さえられた。


「久世、まだ近づくな」


「あ、はい」


「まずは石段の状態を確認してもらおう」


職人たちは頷き、柵の向こうを照らした。


石段は途中までしっかり残っている。


ただ、下の方は暗く、地面が沈んだ場所との距離も分かりにくかった。


「ここから声は届きますか?」


俺が尋ねると、フェナが呼びかけた。


『こちらの声が聞こえますか!』


『聞こえる!』


男の返事があった。


相馬さんは職人たちと相談し、男を石段の上へ誘導することにした。


ただし、途中で足元に異常が見つかった場合は、すぐに動きを止めてもらう。


こちら側からも明かりを向け、確認できる範囲を少しずつ広げることになった。


「焦らず、一段ずつお願いします!」


フェナが大きな声で伝える。


男は頷き、ゆっくりと石段を上り始めた。


俺は明かりを持ったまま、その姿を見守った。


最初の数段は問題なかった。


男は足元を確かめながら、慎重に進んでいる。


しかし、途中で動きが止まった。


『……待ってくれ!』


俺は息をのんだ。


「どうしました!」


フェナが尋ねる。


『石が少し動いた!』


相馬さんがすぐに声をかけた。


「その場で止まってください! 無理に進まないで!」


男は動きを止めた。


俺は石段を見た。


男の足元にある石が、わずかに傾いているように見える。


ただ、ここからでは詳しい状態までは分からない。


職人の一人が明かりを近づけた。


『あそこは、石段の端が傷んでるな』


「通れそうですか?」


俺が尋ねると、職人は首を横に振った。


『今のままでは危ない。足を置く場所を間違えれば、石が外れるかもしれない』


俺は男を見た。


あと少しで、こちらへ戻れそうなのに。


それでも、無理に進ませるわけにはいかなかった。


「相馬さん、どうしましょう」


相馬さんは石段を見ながら答えた。


「まず、別の足場がないか確認しよう。それでも難しければ、ロープを使って身体を支える方法を考える」


職人たちは相談を始めた。


石段の中央部分には、比較的状態のよい石が残っているらしい。


ただ、男がそこへ移動するには、足元の不安定な場所を避けなければならない。


「ロープなら、こちらから渡せそうですか?」


俺が尋ねると、相馬さんは頷いた。


「距離はそれほどない。ただし、ロープだけで引っ張り上げるつもりはないぞ。本人が安全に歩けることが前提だ」


「はい」


俺たちは職人たちと協力し、ロープを用意した。


資材置き場の奥には、太い木の柱が残っていた。


職人が状態を確認し、十分な強度があることを確かめてから、ロープを固定する。


相馬さんは結び目を確認し、もう一度職人へ尋ねた。


「これで大丈夫ですか?」


『ああ。少なくとも、人が身体を支えるためには使えるはずだ』


「分かりました」


俺たちはロープの先を男へ渡した。


男は受け取ると、指示に従って身体へ回し、結び目を確認した。


こちら側では、相馬さんと職人たちがロープを支える。


俺も手伝おうとしたが、相馬さんからは明かりを持つように言われた。


「久世は足元を照らしてくれ。本人がどこを踏むのか見えるようにしておきたい」


「分かりました」


俺は明かりを持ち直した。


男は慎重に足を動かした。


職人が安全そうな場所を指示し、フェナがその言葉を伝える。


一段。


もう一段。


少しずつ、こちらとの距離が縮まっていく。


俺は男の足元から目を離さなかった。


あと数段で、柵のある場所までたどり着ける。


そう思った時だった。


足元で、乾いた音がした。


男が踏んでいた石の端が欠けた。


『うわっ!』


男の身体が傾く。


俺は思わず声を上げた。


「危ない!」


相馬さんたちがロープを支えた。


男は咄嗟に石段へ手をつき、身体を立て直そうとしている。


ただ、足元が安定しない。


「動かないでください!」


フェナが叫んだ。


男はその場で動きを止めた。


相馬さんが声をかける。


「身体を支えています! 慌てず、まず足元を確認してください!」


フェナが通訳する。


男は大きく息を吐き、ゆっくりと頷いた。


俺は明かりを向けたまま、職人たちの指示を待った。


欠けた石の隣には、まだしっかりした足場が残っている。


ただ、男がそこへ足を移すには、身体の向きを少し変える必要があった。


職人が声をかける。


『右足を、少しだけ内側へ動かしてくれ! そこの大きな石だ!』


フェナが伝える。


男は慎重に足を動かした。


俺は息を止めるようにして見守った。


やがて、男の右足が安定した石の上に乗った。


『……よし』


職人が小さく頷いた。


『そのまま、ゆっくりだ』


男はもう一度、足元を確認した。


そして、残りの石段を一段ずつ上り始めた。


俺は明かりを動かしながら、その姿を追った。


あと二段。


一段。


そして、男の足が柵のこちら側に届いた。


「よかった……!」


俺は思わず声を上げた。


相馬さんと職人たちが男の身体を支え、安全な場所まで移動させる。


男はその場に座り込み、大きく息を吐いた。


『助かった……。本当に、もう駄目かと思ったよ』


フェナが通訳してくれる。


俺は男のそばへしゃがんだ。


「怪我はありませんか?」


男は自分の手を見た。


石段へ手をついた時に擦ったらしく、手のひらに小さな傷ができている。


ただ、それ以外に大きな怪我はなさそうだった。


『少し擦りむいたくらいだ。歩けるよ』


「念のため、あとで診てもらいましょう」


男は素直に頷いた。


相馬さんも近づいてきた。


「よく待っていてくれましたね」


フェナが通訳すると、男は苦笑した。


『本当は、何度か無理に戻ろうと思ったんだ』


俺は顔を上げた。


『でも、下の石が崩れる音を聞いたら、怖くなってな。自分で動いて、もっと悪いことになったら困ると思ったんだ』


相馬さんは頷いた。


「その判断でよかったと思います」


男は少し驚いた顔をした。


『そうなのか?』


「はい。無理に動かなかったからこそ、こちらも安全な方法を考える時間がありました」


フェナが伝えると、男はしばらく黙っていた。


そして、小さく笑った。


『そうか。なら、待っていてよかったんだな』


俺も頷いた。


「はい。戻ってきてくれて、よかったです」


男は照れくさそうに頭をかいた。


俺はその様子を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


今回、俺の《帰り道》は使っていない。


そもそも、男がどこにいるのかは最初から分かっていた。


必要だったのは、崩れた場所を避けて安全に戻るための知識と、現場の状態を確認する人たちだった。


職人が古い石段を知っていたから、別の道を見つけることができた。


相馬さんが無理に進ませなかったから、危険な場所で立ち止まることができた。


そして、男自身が指示を守ってくれたから、最後まで落ち着いて救助を進められた。


俺一人では、きっと同じことはできなかったと思う。


「久世」


相馬さんが声をかけた。


「はい」


「そろそろ戻るぞ。ここはもう、必要な人以外が近づかないようにした方がいい」


「分かりました」


俺は立ち上がった。


職人たちは柵を閉じ、資材置き場へ続く道にも立ち入りを禁止するための目印を置いた。


北の見張り台の周囲については、今夜はこれ以上近づかず、離れた場所から状態を確認することになった。


俺たちは救助した男と一緒に、集会所へ戻り始めた。


歩きながら、俺は男へ尋ねた。


「さっき、石段で待っていた時は怖くなかったですか?」


フェナが通訳すると、男は少し考えた。


『怖かったよ。最初は、すぐに戻れると思ってたんだ。でも、地面が沈んで道がなくなった時は、本当にどうしたらいいか分からなかった』


「そうですよね」


『ただ、仲間が町へ知らせに行ってくれたからな。誰かが来てくれるとは思ってた』


男は前を見た。


『だから、待つことにしたんだ』


俺は頷いた。


助けを待つというのは、簡単なことではない。


特に、自分の足で動ける人なら、何とかして戻ろうと考えるだろう。


でも、状況が分からないまま動けば、危険な場所へ踏み込んでしまうこともある。


今回の男は、そこで立ち止まってくれた。


その判断が、救助する側にとっても大きな助けになったのだと思う。


「ありがとうございました」


俺が言うと、男は不思議そうな顔をした。


『何がだ?』


「無理に動かず、待っていてくれたことです」


フェナが通訳する。


男は少し驚いたあと、笑った。


『礼を言うのは、こっちの方だよ』


俺も笑った。


集会所へ戻ると、リュシアが真っ先に駆け寄ってきた。


『ナオト! おかえり!』


「ただいま」


リュシアは俺の後ろにいる男を見た。


『あっ! もう一人の人も帰ってきた!』


「うん。ちゃんと戻ってこられたよ」


『よかった!』


リュシアは嬉しそうに笑った。


俺は男を管理人のところへ案内した。


管理人は、北の見張り台にいた二人の見張り番がそろったことを確認すると、ほっとしたように息を吐いた。


『これで、あの見張り台にいた二人は無事だな』


「はい。二人とも確認できました」


俺が答えると、管理人は頷いた。


『ありがとう。本当に助かった』


「いえ。職人さんたちがいてくれたおかげです」


俺は正直に答えた。


実際、俺ができたことはそれほど多くない。


明かりを持ち、声をかけ、指示を伝える手伝いをしたくらいだ。


でも、それも救難の仕事の一つなのだと思う。


誰か一人が全部を解決する必要はない。


必要な人が、それぞれできることをする。


その積み重ねで、一人を安全な場所へ連れて帰ることができた。


俺は改めて、その大切さを感じていた。


集会所では、住民たちが少しずつ休み始めていた。


子どもたちは毛布にくるまり、年配の人たちも壁際で身体を休めている。


フェナは管理人と一緒に、今夜の見張りの担当者を確認していた。


リュシアは眠そうな顔をしながらも、まだ子どもたちのそばに座っている。


俺はその隣へ腰を下ろした。


「リュシア、眠くない?」


『ちょっとだけ』


「少し休んだら?」


『でも、まだみんなが帰ってきたか数えないと……』


俺は笑った。


「大丈夫。今は管理人さんたちが確認してくれてるよ」


『そうなの?』


「うん。だから、リュシアも休んでいいんだ」


リュシアは少し考えたあと、俺の肩にもたれかかった。


『じゃあ、ちょっとだけ……』


「うん」


俺は小さく頷いた。


しばらくすると、リュシアの寝息が聞こえてきた。


俺はそのまま動かず、周囲を見渡した。


集会所の中には、静かな時間が戻り始めていた。


外ではまだ見張りの人たちが働いているが、少なくともここにいる住民たちは、今夜休む場所を確保できている。


それだけでも、少し安心できた。


ただ、俺たちの仕事はまだ終わっていなかった。


相馬さんが集会所の入口から顔を出した。


「久世、少しいいか?」


俺はリュシアを起こさないよう、ゆっくりと立ち上がった。


近くにいたフェナが気づき、リュシアのそばへ来てくれる。


『私が見ていますね』


「ありがとう」


俺はフェナに頷き、相馬さんのところへ向かった。


「何かありましたか?」


「ああ。さっき助けた見張り番から、もう少し話を聞いておきたい」


「石段のことですか?」


「それもあるが、石の扉についてだ」


俺は顔を上げた。


北の見張り台の近くで見つかった、古い石の扉。


地面が沈んだことで、今まで見えなかったものが姿を現したという話だった。


「何か分かったんですか?」


「まだ分からない。ただ、あの男は地面が沈んだ時、扉に比較的近い場所にいた。何か見ているかもしれない」


「なるほど」


俺は頷いた。


俺たちは集会所の一角にある机へ向かった。


そこには、先ほど助けた見張り番と、年配の職人が座っていた。


机の上には、古い工事の記録が広げられている。


相馬さんが見張り番へ尋ねた。


「地面が沈んだ時のことを、もう一度教えてもらえますか?」


フェナが通訳してくれる。


見張り番は頷いた。


『最初は、地面の下から変な音がしたんだ』


「どんな音ですか?」


『石が擦れるような音だった。最初は小さかったんだが、だんだん大きくなって……』


男は少し考えた。


『そのあと、足元が揺れたんだ』


俺は息をのんだ。


「地面が揺れたんですか?」


『ああ。大きな揺れじゃない。でも、普通じゃないと思って、すぐに離れた』


「それで、地面が沈んだんですね」


男は頷いた。


『そうだ。石畳が割れて、その下に空間が見えた』


相馬さんが尋ねた。


「石の扉は、その時に見つかったんですか?」


『ああ。地面が沈んで、古い壁みたいなものが見えたんだ。その一部に、扉らしいものがあった』


「扉は開いていましたか?」


『いや。閉まっていた』


「誰かが触りましたか?」


『誰も触っていない。危ないと思ったからな』


相馬さんは頷いた。


「それでいいと思います」


俺も安心した。


今の状況で、正体の分からない扉を開けるのは危険だ。


その先が水路につながっているなら、急に水が流れ出す可能性もある。


まずは何のための扉なのか、確認する必要があった。


その時、年配の職人が口を開いた。


『その扉なんだが、少し気になることがある』


俺たちは職人を見た。


『昔の水路の図面には、北の見張り台の下に点検用の通路が描かれているんだ』


「点検用の通路?」


俺が尋ねると、職人は頷いた。


『ああ。水路の状態を確認するために、人が入れるようになっていたらしい』


俺は図面を覗き込んだ。


北の見張り台の下に、細い線が描かれている。


その線は途中で曲がり、いくつかの水路と交わっていた。


「この線が通路ですか?」


『そうだと思う。ただ、今も残っているかどうかは分からん』


相馬さんが尋ねた。


「昔は、そこへ人が入っていたんですか?」


『ああ。水路の掃除や点検をする時に使っていたはずだ』


俺は少し考えた。


もし今も通路が残っているなら、石の扉の向こうには人が歩ける空間があることになる。


ただ、それが安全な状態で残っているとは限らない。


長い年月の間に崩れているかもしれないし、水が流れ込んでいる可能性もある。


「相馬さん、明日調べる時は、かなり慎重に進めないといけませんね」


「ああ。そもそも、中へ入る必要があるかどうかも含めて判断しよう」


俺は頷いた。


相馬さんは職人へ向き直った。


「ほかに、この通路について分かることはありますか?」


職人は首を横に振った。


『今のところは、これくらいだな。ただ、昔の記録をもう少し探せば、何か出てくるかもしれない』


「分かりました。今夜は無理に探さなくて大丈夫です。明日、明るくなってから確認しましょう」


職人は頷いた。


俺も、それがいいと思った。


今夜はすでに何度も危険な場所から人を移動させている。


これ以上、無理に調査を進める必要はない。


まずは町の人たちが安全に休めるようにすることが大切だった。


ただ、その時だった。


見張り番が、何かを思い出したように顔を上げた。


『……そういえば』


俺たちは振り返った。


「どうしました?」


男は少し考えながら答えた。


『石の扉の近くで、変な音を聞いたんだ』


相馬さんが尋ねた。


「地面が沈んだ時の音ですか?」


『いや。それとは違う』


男は首を横に振った。


『地面が沈んだあと、石段で待っていた時だ』


俺は顔を上げた。


「待っていた時?」


『ああ。最初は水が流れる音だと思ったんだが……』


男は少し言いにくそうにした。


『何かを叩くような音がしたんだ』


俺は思わず相馬さんを見た。


相馬さんも、少し表情を変えた。


「叩くような音?」


『ああ。石を叩いているような、低い音だった』


「何回くらい聞こえましたか?」


男は少し考えた。


『三回くらいだったと思う』


俺は首を傾げた。


「三回?」


『ああ。少し間を置いて、また三回。そんな感じだった』


相馬さんはすぐに尋ねた。


「音がした場所は分かりますか?」


『正確には分からない。ただ、石の扉が見えた辺りから聞こえた気がする』


俺は黙って聞いていた。


石の扉。


その向こうには、昔の点検用通路があるかもしれない。


そして、扉の近くから何かを叩くような音が聞こえたという。


ただ、それだけで人がいると考えるのは早い。


水が流れる音かもしれないし、石が動いている音なのかもしれない。


相馬さんも同じことを考えていたらしい。


「その音が何だったのかは、まだ分かりませんね」


男は頷いた。


『ああ。俺もそう思う。ただ、何となく気になってな』


「教えてくれてありがとうございます。大事な情報です」


相馬さんはそう答えた。


俺も頷いた。


たとえ原因が分からなくても、現場で何が起きていたのかを知ることは大切だ。


特に、今は町の地下で何が起きているのか分かっていない。


小さな情報でも、あとから役に立つかもしれなかった。


その時、相馬さんの通信機が鳴った。


『こちら瀬川です』


相馬さんが応答する。


「相馬だ。どうした?」


『北の見張り台の古い記録について、追加で確認できたことがあります』


俺は顔を上げた。


「何か見つかったんですか?」


瀬川さんは続けた。


『先ほど送ってもらった図面と、別の工事記録を照合していたんですが、北の見張り台の地下には、昔の点検用通路があったようです』


俺は相馬さんを見た。


「今、ちょうどその話をしていたところです」


相馬さんも頷いた。


「こちらでも確認している。ほかに何か分かったのか?」


『はい。通路の構造について、少し詳しい記録が残っていました』


「どんなものだ?」


『水路の状態を確認するための通路ですが、途中に作業員が待機できる小さな部屋があったようです』


俺は息をのんだ。


「部屋?」


『はい。水路の点検中に急な増水が起きた場合、作業員が一時的に退避するための場所だったようです』


相馬さんは机の上の図面を見た。


「その部屋は、どの辺りにあるんだ?」


『北の見張り台の下です。石の扉から通路を進んだ先にあるようですが、詳しい位置はまだ確認中です』


俺は図面を覗き込んだ。


北の見張り台の下に描かれた細い線。


その先に、小さな四角い印がある。


「相馬さん、これでしょうか」


俺が指すと、相馬さんは頷いた。


「可能性はあるな」


瀬川さんが続けた。


『ただ、気になることがあります』


「何だ?」


『この退避用の部屋には、外へ助けを求めるための仕組みがあったようなんです』


俺は顔を上げた。


「助けを求める仕組み?」


『はい。通路が水で塞がれた場合、作業員が中から自分の位置を知らせるためのものです』


相馬さんが尋ねた。


「通信設備か?」


『いえ。もっと単純なものです』


少し間があった。


『石の壁を叩いて、外へ音を伝える仕組みだったようです』


俺は息をのんだ。


さっきの見張り番の話が、頭に浮かんだ。


石の扉の近くから聞こえた、何かを叩くような音。


それも、三回ずつ。


「瀬川さん」


俺は思わず通信機へ声をかけた。


『はい?』


「その仕組みって、音を何回鳴らすとか、決まりがあったんですか?」


通信機の向こうで、紙をめくる音がした。


『少し待ってください』


俺は黙って待った。


相馬さんも何も言わなかった。


しばらくして、瀬川さんの声が聞こえた。


『……ありました』


「何回ですか?」


『三回です』


俺は思わず顔を上げた。


『三回続けて叩き、少し間を置いて、また三回。救助を求める時は、それを繰り返すように書かれています』


俺は言葉を失った。


見張り番が聞いたという音と、同じだった。


ただ、相馬さんはすぐに結論を出さなかった。


「瀬川、その記録はいつのものだ?」


『かなり古いものです。少なくとも、今の町の排水路が整備される前の記録だと思います』


「今もその仕組みが残っているかどうかは?」


『分かりません』


「分かった。ありがとう」


相馬さんは通信機を置いた。


俺は思わず尋ねた。


「相馬さん、これって……」


「ああ。気になるな」


相馬さんは頷いた。


「ただし、まだ人がいると決まったわけじゃない。水が流れる音や、石が動く音が偶然そう聞こえた可能性もある」


「そうですよね」


俺は頷いた。


でも、胸の奥が落ち着かなかった。


もし、本当に誰かが助けを求めているのだとしたら。


その人は、今も地下に閉じ込められているかもしれない。


しかも、町の地下では水の異常が起きている。


いつまで安全な場所にいられるのかも分からない。


俺は相馬さんを見た。


「確認した方がいいですよね」


「ああ。ただ、今すぐ扉を開けるわけにはいかない」


相馬さんは図面を指した。


「もし中に水が溜まっていたら、扉を開けたことで一気に流れ出すかもしれない。逆に、外の水が中へ流れ込む可能性もある」


「はい」


「まずは、音が本当に聞こえるのか確認しよう。それと、退避用の部屋が今も残っているか、記録を調べてもらう」


俺は頷いた。


相馬さんはすぐに通信機を取り、北の見張り台を確認している職人たちへ連絡した。


「相馬だ。石の扉の近くで、何かを叩くような音が聞こえていないか確認してほしい。ただし、危険な場所へ近づく必要はない。今いる安全な場所から分かる範囲で構わない」


通信機の向こうから返事があった。


『分かった。確認してみる』


俺たちはそのまま待った。


集会所の中では、住民たちが静かに休んでいる。


リュシアも、フェナの隣で眠っていた。


俺はその姿を見ながら、少し複雑な気持ちになった。


今夜、俺たちは何度も人数を確認した。


東の通りから避難してきた十三人。


北の見張り台にいた二人。


広場から移動してきた住民たち。


全員の所在を確認できたと思っていた。


でも、もし地下に誰かがいるなら。


その人は、まだ俺たちの数えた人数に入っていない。


俺は静かに息を吐いた。


《帰り道》は、人を探す能力ではない。


誰かがどこにいるのかを教えてくれるわけでもない。


だから、今の俺には地下に人がいるかどうか分からない。


ただ、もし本当に誰かがいるなら、見つけて助けなければならない。


そのためには、まず確かな情報が必要だった。


しばらくして、通信機が鳴った。


『相馬さん、こちら北の見張り台です』


相馬さんがすぐに応答した。


「どうだ?」


『今、少し離れた場所から音を確認しています』


「何か聞こえるか?」


『水が流れるような音はしています。ただ、さっき話していたような音は、まだ……』


そこで声が止まった。


俺は通信機を見た。


「どうしました?」


少し間があった。


そして、向こうから小さな声が聞こえた。


『……待ってください』


相馬さんが尋ねた。


「何かあったのか?」


『今、音がしました』


俺は息をのんだ。


「どんな音ですか?」


『何かを叩くような音です』


相馬さんの表情が変わった。


「何回聞こえた?」


通信機の向こうで、しばらく沈黙が続いた。


そして、返事があった。


『……三回です』


俺は思わず相馬さんを見た。


『少し間を置いて、また三回聞こえました』


相馬さんはすぐに尋ねた。


「音がした場所は分かるか?」


『正確には分かりません。ただ、石の扉がある辺りから聞こえているようです』


俺は胸の奥が強く締めつけられるのを感じた。


偶然かもしれない。


でも、古い記録に残っていた救助を求める合図と、同じ音が聞こえている。


それも、別々の人が確認している。


相馬さんは通信機へ向かって言った。


「分かった。今いる場所から動かず、音が続くか確認してくれ。絶対に扉へ近づくな」


『了解しました』


通信が終わった。


俺は相馬さんを見た。


「相馬さん……」


「ああ」


相馬さんは静かに頷いた。


「人がいる可能性を考えて、動いた方がよさそうだな」


俺も頷いた。


ただ、相馬さんは続けた。


「まずは、地下の構造を確認する。それと、救助が必要な人がいると仮定して、どうすれば安全に接触できるか考えよう」


「はい」


俺は答えた。


今すぐ石の扉を開ければ、何か分かるかもしれない。


でも、それで地下にいるかもしれない人を危険にさらしてしまっては意味がない。


俺たちがやるべきことは、ただ中へ入ることではない。


もし誰かがいるなら、その人を無事に連れて帰ることだ。


相馬さんは通信機を取り、瀬川さんへ連絡した。


「瀬川、北の見張り台で、記録にあるものと同じ回数の音を確認した」


『本当ですか?』


「ああ。三回ずつ、間を置いて聞こえているらしい」


『……分かりました。こちらでも、退避用の部屋について詳しく調べます』


「頼む。それと、現地の地下構造を確認できる人員を手配してほしい」


『了解しました』


相馬さんは通信を終えた。


俺は集会所の入口から、北の見張り台の方を見た。


暗い夜空の下に、古い建物の影が見える。


その足元には、地面が沈んだことで見つかった石の扉がある。


そして、その向こうから、何かを叩くような音が聞こえている。


俺は拳を握った。


今夜、俺たちは何人もの人を安全な場所へ移した。


もう誰も残っていないと思っていた。


でも、まだ確認できていない場所がある。


もし、その先に誰かがいるなら。


俺たちの仕事は、まだ終わっていない。


その時、相馬さんが俺へ声をかけた。


「久世」


「はい」


「今夜は、もう少し付き合ってもらうことになりそうだ」


俺は頷いた。


「もちろんです」


相馬さんは少しだけ笑った。


「ただし、焦るなよ。まだ人がいると決まったわけじゃない」


「分かっています」


俺も小さく笑った。


それでも、胸の奥では一つのことを考えていた。


もし本当に、あの扉の向こうで誰かが助けを待っているなら。


今度は、その人を迎えに行く番だ。


俺は北の見張り台を見つめた。


その時、通信機からもう一度声が聞こえた。


『相馬さん!』


「どうした?」


『音が、また聞こえました!』


俺は息をのんだ。


『三回ずつです! それと……』


通信機の向こうで、職人が何かを確認するような声がした。


相馬さんが尋ねる。


「それと、何だ?」


『今、こちらから石を三回叩いてみたんです。安全な場所にある、古い水路の壁を』


俺は顔を上げた。


「叩いたんですか?」


『はい。音が届くかどうか、確かめたくて……』


相馬さんは黙って続きを待った。


職人は少し震える声で言った。


『そうしたら、向こうから返ってきたんです』


俺は言葉を失った。


『こっちが三回叩いたあと、少し間を置いて、同じように三回』


相馬さんの表情が変わった。


「もう一度、確認できるか?」


『はい。今からやってみます』


通信機の向こうで、何かを叩く音がした。


一回。


二回。


三回。


俺は息を止めた。


しばらく、何も聞こえなかった。


そして。


『……返ってきました』


職人の声が聞こえた。


『また、三回です』


俺は相馬さんを見た。


相馬さんも、俺を見ていた。


偶然だと決めつけるには、あまりにも気になる反応だった。


もちろん、音が伝わる仕組みや水の流れによって、同じような音が返ってきている可能性もある。


でも、もしそうではなかったら。


あの石の扉の向こうに、誰かがいるのかもしれない。


相馬さんは通信機を握り直した。


「分かった。これ以上は近づかず、その場所で待機してくれ。こちらで救難の準備を進める」


『了解しました』


通信が終わった。


俺は静かに息を吐いた。


相馬さんが俺へ向き直る。


「久世、状況が変わった」


「はい」


「地下に人がいる可能性を、無視できなくなった」


俺は頷いた。


「俺も、そう思います」


相馬さんは続けた。


「ただし、まずは安全に接触できる方法を探す。人がいるかもしれないからといって、危険な場所へ飛び込むわけにはいかない」


「分かっています」


俺は答えた。


助けを求める声が聞こえたからといって、すぐに助けられるとは限らない。


でも、確かめることはできる。


情報を集め、必要な人たちと協力し、安全に近づく方法を考える。


それが今まで、俺たちが何度もやってきたことだった。


俺はもう一度、北の見張り台を見た。


その地下には、古い水路が残っている。


そして、石の扉の向こうから、三回ずつ音が返ってきている。


俺たちはまだ、その音の正体を知らない。


ただ、一つだけ確かなことがあった。


今夜の人数確認は、まだ終わっていない。


もしかしたら、俺たちが数えていない誰かが、あの地下で助けを待っているのかもしれなかった。

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