第138話 返事のない石壁
「返事をしなくなったって、どういうことだ!」
相馬さんが通信機に向かって声を上げた。
『さっきまでは話せていたんです。でも、急に返事がなくなって……。何度呼んでも答えてくれません!』
フェナの声が震えていた。
俺は開いたばかりの点検口と、作業員が閉じ込められている石壁の方を交互に見た。
ようやく別の入口が見つかったというのに、肝心の作業員から返事がなくなってしまった。足を石に挟まれたまま、長い時間を暗い通路で過ごしている。痛みも強くなっていると聞いていたし、水まで流れ込み始めていた。
意識を失ったのかもしれない。
そう考えた途端、足が勝手に点検口へ向かおうとした。
「久世、待て」
相馬さんに肩をつかまれ、俺は立ち止まった。
「でも、相馬さん!」
「分かってる。俺だって今すぐ助けたい。ただ、お前が中へ入ったところで、通路が崩れたらどうする」
「それは……」
「まず、フェナのところへ行こう。医者もいるんだろう。今の状態を確認する方が先だ」
相馬さんは俺の肩から手を離すと、近くにいた職人へ声をかけた。開いた点検口には誰も入らせず、内部の状態を確認する作業だけを続けてもらうらしい。
俺たちはフェナのいる石壁へ急いだ。
壁の下にある細長い隙間では、町の医者が作業員へ呼びかけていた。その隣でフェナが膝をつき、返事を待っている。
『聞こえますか! 返事をしてください!』
医者の声が石壁に反響した。
しばらく待っても、返事はなかった。
「フェナ、いつから?」
俺が尋ねると、フェナは顔を上げた。
『ほんの少し前です。水が増えてきたって話していたんですけど、途中で声が途切れてしまって……』
「それまでは普通に話せてた?」
『はい。でも、かなり疲れているみたいでした』
相馬さんが医者へ状況を尋ねた。
フェナが間に入り、短いやり取りが続く。
『医者も、今の状態は分からないそうです。声が届いていないだけなのか、意識がなくなっているのか、ここからでは判断できないって』
「呼吸の音は?」
『水の音がしていて、よく聞こえないそうです』
俺は石壁へ目を向けた。
さっきまで小さかった水音が、今ははっきり聞こえている。隙間から流れ出している水も、地面に細い筋を作るほどになっていた。
「俺、もう一度呼んでみてもいいですか?」
医者が頷いたので、俺は隙間から少し離れた位置で声をかけた。
「聞こえますか! 久世直人です!」
返事はなかった。
「さっき話してたナオトです! 別の入口が見つかりました! 今、助けに行く準備をしています!」
耳を澄ませる。
水の流れる音と、どこかで石が擦れるような音が聞こえた。
俺はもう一度呼びかけようとしたが、その時、フェナが腕をつかんだ。
『ナオト、待って』
「どうした?」
『今、何か聞こえた気がします』
俺たちは黙った。
しばらくすると、石壁の向こうから小さな音が聞こえた。
こつん、と何かが石に当たるような音だった。
「今の……」
俺が顔を上げると、フェナも頷いた。
『聞こえました』
相馬さんがすぐに医者へ確認した。
『本人が何かを叩いたのかもしれません。ただ、石が落ちた音という可能性もあります』
フェナがそう伝えると、相馬さんは頷いた。
「分かった。もう一度、反応を確認してみよう」
医者が石壁の向こうへ声をかけた。
『聞こえていたら、何か音を出してください!』
少し間が空いた。
今度は、何も聞こえなかった。
フェナが唇を噛む。
俺も胸の奥が重くなった。
音がしたことは確かだ。でも、それが作業員からの返事だったのかどうかは分からない。
「相馬さん、やっぱり中へ入る方法を急いだ方が……」
「ああ。俺もそう思う」
相馬さんはすぐに答えた。
「ただし、準備を飛ばすわけにはいかない。久世、職人たちのところへ戻るぞ」
俺は頷き、フェナへ声をかけた。
「ここはお願いしてもいい?」
『はい。医者と一緒に様子を見ています。何か変わったら、すぐに知らせます』
「頼む」
フェナは頷いたが、その表情には不安が残っていた。
俺は何か言おうとして、結局、言葉が見つからなかった。
大丈夫だと伝えたかった。
でも、今の状況で簡単に大丈夫だと言うことはできない。
だから俺は、フェナにもう一度頷いてから、相馬さんの後を追った。
見張り台の側面では、職人たちが開いた点検口を調べていた。
木の板はすでに外され、入口の奥には暗い通路が見えている。幅は大人一人が通れる程度で、入口付近の床には細かな砂が積もっていた。
「どうですか?」
相馬さんが尋ねると、年配の職人が振り返った。
『入口の周りは確認した。すぐに崩れそうな様子はない。ただ、奥まで同じ状態かどうかは分からん』
「中へ入れる可能性はありますか?」
『ある。だが、まずは入口から見える範囲を調べたい。古い図面通りなら、少し進んだところに広い場所があるはずだ』
職人は手元の図面を広げた。
昔の見張り台の内部には、細い通路がいくつか描かれている。今回開いた点検口から入ると、最初の通路を進んだ先で二つに分かれ、その片方が作業員のいる場所へ続いているらしい。
ただし、それは古い図面の話だ。
長い間使われていなかった建物なら、途中で塞がれている場所もあるかもしれない。
「ここから作業員のところまで、どのくらいあるんですか?」
俺が尋ねると、職人は図面を指でなぞった。
『距離だけなら、それほど遠くない。ただ、途中の通路が残っていればの話だ』
「崩れた場所を通る必要は?」
『図面通りなら、ないはずだ。作業員が入った点検口とは、別の側から近づける』
俺は少し安心した。
入ってきた道が崩れていても、別の道から作業員のところへ行けるかもしれない。
それなら、俺の《帰り道》も役に立つはずだ。
もちろん、作業員の居場所を見つけることはできない。危険な場所が分かるわけでもない。
それでも、救助に入った人たちが戻る時、帰る道を示すことはできる。
「相馬さん、俺も入る準備をしておきます」
「ああ。ただ、まだ中へ入るとは決まっていない。職人の確認を待とう」
「はい」
職人たちは入口から照明を向け、見える範囲の石壁や天井を確認していた。
俺も少し離れた場所から中を見た。
入口のすぐ先は、思っていたより狭かった。
石を積み上げて作られた壁にはところどころ隙間があり、床も平らではない。奥へ進むにつれて天井が低くなっているように見える。
こんな場所で怪我人を運び出すのは、簡単ではなさそうだった。
「ザイルは中に入れそうですか?」
俺が尋ねると、職人はザイルの身体を見て首を横に振った。
『あいつには狭すぎる。無理に入れば、途中で動けなくなるかもしれん』
ザイルは不満そうな顔をした。
『俺が行けば、石くらい動かせるんだがな』
『だから、石を動かせばいいという話じゃないんだ』
職人に言われ、ザイルは大きく息を吐いた。
『分かってるよ。じゃあ、俺は外で待つ』
俺はザイルの方を見た。
「外でも、手伝ってほしいことはあると思うよ」
『何だ?』
「怪我した人を運び出す時とか。俺たちだけじゃ大変だろうし」
ザイルは少し考えてから頷いた。
『それなら任せろ。中から出てきたら、俺が運ぶ』
「うん。頼りにしてる」
ザイルはようやく笑った。
その様子を見て、相馬さんも小さく頷いた。
「そういうことだ。今回は中に入る人間だけで救助するわけじゃない。外で待つ人間にも役割がある」
俺はその言葉を聞きながら、もう一度、点検口の奥を見た。
助けるためには、いろいろな人の力が必要になる。
俺の《帰り道》も、その一つにすぎない。
しばらくして、職人たちの確認が終わった。
年配の職人が相馬さんのところへ戻ってくる。
『入口から見える範囲には、大きな崩れはなさそうだ。ただ、奥へ進んだ先までは分からん。俺が先に入って、通れる状態か確かめたい』
相馬さんはすぐには答えなかった。
「中へ入るのは危険ではありませんか?」
『危険がないとは言えん。だが、外から確認できることには限りがある。少しずつ進んで、異常があれば引き返すしかない』
「分かりました。ただ、少しでも危険だと思ったら中止してください」
『もちろんだ』
職人は頷いた。
その後、相馬さんは監視室の神代さんへ連絡し、現在の状況を伝えた。
神代さんからは、現場の医者と連携し、救助に入る人数を必要最小限にするよう助言があった。特に、怪我人を見つけたあと、無理に足を引き抜かないことを改めて確認していた。
「久世、お前は職人と一緒に入る。まずは通路の状態を確認するだけだ」
「はい」
「作業員のいる場所まで行けたとしても、勝手に動かすなよ。医者の判断を待つんだ」
「分かってます」
「それと、お前の《帰り道》は、帰るための道を示す力だ。安全な道を保証するものじゃない。現場の状況を見て、無理だと思ったら引き返せ」
俺は頷いた。
今までにも、帰る道が見えているのに進めなかったことはある。
道が分かっていても、そこを通れるとは限らない。
その違いは、十分に理解しているつもりだった。
「行ってきます」
俺が言うと、相馬さんは短く頷いた。
「頼む。ただし、無事に戻ってこいよ」
「はい」
俺は職人の後について、点検口へ向かった。
入口をくぐると、外の明るさが急に遠くなった。
照明で足元を確認しながら進む。
通路の壁は冷たく、ところどころ湿っていた。床には小さな石が転がっており、歩くたびに靴の裏で音がする。
先を行く職人は、壁や天井の状態を確かめながら慎重に進んでいた。
俺もその後ろをついていく。
「思ったより狭いですね」
俺が声をかけると、職人は振り返らずに答えた。
『昔は点検のためだけに使っていた場所だからな。人が何人も通ることは考えていなかったんだろう』
「怪我人を運ぶのは大変そうです」
『そうだな。まずは見つけることが先だが、運び出す方法も考えないといかん』
俺は頷いた。
しばらく進むと、通路が少し広くなった。
図面に描かれていた分岐点らしい。
正面と右側に、それぞれ通路が続いている。
職人は図面を取り出し、照明を当てた。
『作業員のいる場所へ続いているのは、右側のはずだ』
「こっちですね」
俺は右の通路を見た。
その時、意識を《帰り道》へ向けてみた。
いつものように、俺にだけ見える帰るための道が示される。
光は今来た通路の方へ続いていた。
当然だ。
俺がここから帰るなら、入口へ戻ればいい。
ただ、それが分かったからといって、作業員のいる場所が分かるわけではない。
「久世、どうだ?」
職人が尋ねる。
「帰る道は分かります。今来た通路を戻れば、外へ出られます」
『そうか。それなら、戻る方向は確認できるな』
「はい。でも、実際に通れるかどうかは別なので、帰る時も確認が必要です」
『分かってる。俺も通路の状態を見ながら進む』
職人は頷き、右側の通路へ進んだ。
俺も後を追う。
分岐点を過ぎると、床の状態が変わった。
さっきまで乾いていた石の表面が、少しずつ濡れ始めている。
照明を向けると、壁の下の方から細い水の筋が流れていた。
「水が……」
俺が声を漏らすと、職人も足を止めた。
『ここまで来ているのか』
「作業員の人が言ってた水ですよね」
『同じものかどうかは分からんが、つながっている可能性はある』
職人は水の流れを確認したあと、少し考えた。
『この先へ進む前に、もう一度天井を見ておこう』
俺は黙って頷いた。
職人が照明を上へ向ける。
石造りの天井には古い継ぎ目があり、ところどころ色が変わっていた。ただ、見える範囲で新しく石が落ちている様子はなかった。
『今のところ、大きな異常は見えん。ただ、奥へ行くほど水が増えているかもしれない。慎重に進もう』
「はい」
俺たちは再び歩き始めた。
少し進むと、通路の先に大きな石が見えてきた。
最初は壁の一部かと思ったが、近づくにつれて、通路の途中に崩れ落ちた石だと分かった。
職人が足を止める。
『ここか……』
「通れませんか?」
『いや。横に人が通れるくらいの隙間はある。ただ、石がどこから落ちたものなのか確認したい』
職人は照明を動かし、周囲を慎重に見た。
俺も少し離れた位置から確認する。
大きな石の横には、人が身体を横向きにすれば通れそうな隙間があった。ただ、その先は暗く、何があるのか分からない。
「この向こうに作業員の人がいるんでしょうか」
『図面通りなら、もう少し先に小さな部屋がある。その辺りかもしれん』
職人は石の状態を調べながら答えた。
その時、奥からかすかな音が聞こえた。
俺は顔を上げた。
「今、何か聞こえませんでした?」
『ん?』
職人も耳を澄ませる。
少し間が空いた。
すると、今度ははっきり聞こえた。
誰かが苦しそうに息を吐く音だった。
「人がいる!」
俺は思わず声を上げた。
職人もすぐに奥へ呼びかける。
『聞こえるか! 救助に来たぞ!』
返事はなかった。
でも、確かに人の息遣いが聞こえている。
俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
ここまで来て、ようやく作業員のいる場所に近づけたのかもしれない。
「相馬さんに連絡しましょう」
『ああ。そうだな』
職人は持っていた連絡用の道具で、外にいる仲間へ状況を伝えた。
大きな石があること。
その先から人の息遣いらしき音が聞こえること。
そして、今のところ俺たちは無事であること。
外からは、無理に進まず、周囲の状態を確認してから判断するよう返事があった。
職人は頷き、石の横にある隙間を調べた。
『通れるかもしれん。ただ、身体をぶつけないように気をつけろ』
「はい」
俺たちは慎重に隙間を抜けた。
その先には、図面に描かれていた小さな部屋があった。
そして、照明が奥を照らした瞬間、俺は息をのんだ。
「いた……!」
石壁にもたれかかるように、一人の男が座っていた。
片足は大きな石の下に挟まれ、身体をほとんど動かせない状態になっている。
服は泥と水で濡れ、顔色も悪かった。
それでも、胸が小さく上下しているのが分かった。
「聞こえますか!」
俺が声をかけると、男のまぶたがわずかに動いた。
「久世直人です! 助けに来ました!」
男はゆっくり顔を上げた。
焦点の合わない目が、俺の方を向く。
『……ナオト?』
小さな声だった。
でも、確かに俺の名前を呼んだ。
「はい! さっき石壁の向こうから話してたナオトです!」
『……来たのか』
「はい。別の入口から来られました」
男は何か言おうとしたが、うまく声にならなかった。
俺はすぐに近づこうとした。
けれど、職人が腕を伸ばして止めた。
『待て。足元を見ろ』
「え?」
照明を下へ向ける。
男の足元には、水が流れ込んでいた。
深さはまだそれほどないものの、床の低い部分に水が溜まり始めている。
それだけではなかった。
男の足を挟んでいる石は、周囲の壁から崩れ落ちたものらしい。
上を見上げると、天井の一部に隙間ができていた。
『これは……』
職人の表情が変わった。
「どうしたんですか?」
『石が落ちた場所だ。上に残っている石が、どう支えられているのか分からん』
俺は思わず男を見た。
すぐそこにいる。
手を伸ばせば届く距離だ。
なのに、まだ助け出せない。
「この石、動かせないんですか?」
『今すぐは無理だ。上の石まで動くかもしれん。まずは状態を調べる必要がある』
「でも、作業員の人が……」
『分かってる。俺だって助けたい。だからこそ、ここで崩れたら困るんだ』
職人の声は厳しかった。
俺は口を閉じた。
焦っているのは俺だけじゃない。
この人だって、目の前に助けを待つ人がいる。
それでも、危険なことをしないようにしているのだ。
「……すみません」
『謝る必要はない。お前はあの人に声をかけてやってくれ。俺は石の状態を確認する』
「分かりました」
俺は男の近くへ移動し、しゃがみ込んだ。
「聞こえますか?」
『……ああ』
「今、石を動かせるか確認しています。もう少しだけ待ってください」
男は小さく頷いた。
『……悪いな』
「謝らないでください」
『俺が……中へ入らなけりゃ……』
「その話は、外へ出てからにしましょう」
俺が言うと、男は少しだけ目を開いた。
「外には仲間の人たちが待っています。みんな無事です。だから、あなたも帰りましょう」
『……ああ』
男はゆっくり息を吐いた。
俺はその様子を見ながら、職人の作業が終わるのを待った。
しばらくして、職人が戻ってきた。
『久世、外へ連絡してくれ。本人は見つかった。意識もある。ただ、足を挟んでいる石をすぐに動かせる状態じゃない』
「分かりました」
俺は外にいる相馬さんへ状況を伝えた。
作業員を発見したこと。
意識があり、会話できること。
足が石に挟まれていて、まだ動かせないこと。
そして、部屋の床に水が溜まり始めていること。
相馬さんはすぐに返事をした。
『分かった。医者にも伝える。職人の判断で安全に動かせる状態になるまでは、無理に石を動かすな』
「はい」
『それと、久世。お前自身は大丈夫か?』
「大丈夫です。怪我もしてません」
『分かった。だが、少しでも異常があったら引き返せ。作業員を見つけたからといって、無理をする必要はない』
「はい」
通信を終えると、職人は石の状態をもう一度確認し始めた。
俺は男のそばに残り、声をかけ続けた。
「名前、聞いてもいいですか?」
男は少しだけ目を開いた。
『……名前?』
「はい。さっきから作業員の人って呼んでたので」
男は弱々しく笑った。
『今さらかよ……』
「すみません」
『……まあ、いい』
男は小さく息を吐いた。
『みんなには……親方って呼ばれてる』
「親方、ですか?」
『ああ。俺が……この修理の責任者なんだ』
俺は驚いて顔を上げた。
「そうだったんですか」
『だから……俺が確かめに来た。若い連中を……危ない場所に入れるわけにいかなかったからな』
男はそこで言葉を切った。
俺は黙って続きを待った。
『でも……結局、みんなに迷惑かけちまった』
「迷惑なんて思ってないですよ」
『そうかね……』
「外にいる人たち、ずっと心配してました。ザイルも、何か手伝えることはないかって何度も聞いてましたよ」
男は少し笑った。
『あの大きいのか……』
「はい」
『あいつなら……石を持ち上げられそうだな』
「そうですね。でも、勝手に動かしたら危ないって、職人さんに止められてました」
男は目を閉じたまま頷いた。
『……それでいい』
「え?」
『石は……力任せに動かしちゃ駄目だ。支えてるものが……分からねえからな』
俺は男の顔を見た。
自分の足が石に挟まれているのに、そんなことを考えている。
『あいつらにも……伝えてくれ』
「何をですか?」
『無理すんなって……。俺を助けようとして……誰かが怪我したら……』
男は苦しそうに息を吐いた。
俺はその言葉を最後まで聞いてから答えた。
「分かりました。ちゃんと伝えます」
男は小さく頷いた。
「でも、親方も諦めないでくださいね。みんなで助ける方法を考えてますから」
『……ああ』
俺はその返事を聞き、少しだけ安心した。
まだ会話はできる。
ただ、長く話すのはつらそうだった。
俺はそれ以上質問せず、男の様子を見守ることにした。
その時、職人が俺を呼んだ。
『久世、少し来てくれ』
俺は男に声をかけてから立ち上がった。
「どうしました?」
『石の状態を確認した。すぐに動かすのは危険だが、上の部分を支えられれば、足を挟んでいる石だけを動かせる可能性がある』
「本当ですか?」
『ああ。ただ、道具が必要だ。ここにあるものだけじゃ足りん』
俺は頷いた。
「外に相談しましょう」
『そうだな。それと、医者にも来てもらいたい。足の状態を確認しないまま動かすわけにはいかん』
「分かりました」
俺はすぐに相馬さんへ連絡した。
職人の説明を伝えると、相馬さんは必要な道具について確認し始めた。
外ではザイルたちが準備を進めているらしい。
医者も、通路の状態を確認したうえで中へ入ることになった。
「久世、お前はどうする?」
相馬さんが尋ねる。
「俺はここに残ります。親方が一人にならないようにしたいので」
『分かった。ただし、職人の指示には必ず従え。危険だと言われたら、すぐに戻るんだぞ』
「はい」
通信を終えたあと、俺は再び男のところへ戻った。
「親方、聞こえますか?」
『……ああ』
「石を動かせるかもしれません。今、必要な道具を準備してもらっています」
男は目を開いた。
『本当か……?』
「はい。でも、安全に動かすための準備が必要なので、もう少し時間がかかります」
『……分かった』
男は小さく頷いた。
その時、足元の水が動いた。
俺は思わず視線を下げた。
さっきより、水が広がっている。
「職人さん、水が増えてませんか?」
俺が尋ねると、職人も床を確認した。
『増えてるな。ただ、今すぐ身体が浸かるような量ではない』
「でも、このまま増え続けたら……」
『そうだな。救助を急ぐ必要はある。ただ、焦って石を動かせば、もっと危険になる』
俺は頷いた。
職人は続けた。
『久世、お前は帰る道が分かるんだったな』
「はい」
『なら、ここから外へ戻る道を確認しておいてくれ。怪我人を運ぶ時、途中で迷うわけにはいかんからな』
「分かりました」
俺は《帰り道》へ意識を向けた。
俺にだけ見える道は、今来た通路を戻る方向へ続いている。
途中の分岐点を通り、開いた点検口へ向かう道だ。
ただ、その途中には大きな石が落ちている場所もある。
俺たちは身体を横向きにして通れたが、怪我人を運ぶ時には同じようにはいかないかもしれない。
「職人さん、一つ気になることがあります」
『何だ?』
「帰る道は分かるんですけど、途中に狭い場所がありますよね。親方を運ぶ時、あそこを通れるでしょうか」
職人は少し考えた。
『確かに、あのままじゃ難しいかもしれん』
「ですよね」
『ただ、石を動かさなくても、通し方を工夫できるかもしれん。まずは医者と相談して、どう運ぶか決めよう』
「分かりました」
俺は頷いた。
作業員を見つけた。
帰る道も分かっている。
でも、それだけではまだ足りない。
怪我人を安全に運ぶためには、通路の広さや身体の状態まで考えなければならない。
俺は改めて、救難の難しさを感じていた。
しばらくして、外から連絡が入った。
必要な道具の準備ができ、医者が中へ向かうという。
俺たちは通路の状態を確認しながら、到着を待った。
やがて、奥から足音が聞こえてきた。
照明の光が揺れ、医者が姿を現した。
『怪我人は?』
職人が男のいる場所を示す。
医者はすぐに近づき、意識や呼吸の状態を確認し始めた。
俺は邪魔にならないよう、少し離れた位置で待った。
医者は男へ何度か質問し、足の状態を確認している。
しばらくして、俺たちの方へ顔を向けた。
『意識はある。かなり疲れているが、今のところ受け答えはできる。ただ、足の状態が心配だ』
フェナが外で通訳してくれているわけではないので、俺は職人に説明してもらいながら話を聞いた。
医者によると、足には強い痛みがあり、石に挟まれた部分の状態を詳しく確認する必要があるらしい。
無理に引き抜くことはできない。
まずは、職人が周囲の石を安全に動かせる状態にする必要があった。
「どのくらい時間がかかりますか?」
俺が尋ねると、職人は道具を確認しながら答えた。
『分からん。ただ、準備はできた。あとは慎重に進めるしかない』
俺は頷いた。
その後、職人は仲間と連絡を取りながら、石を支えるための作業を始めた。
俺は医者の指示に従い、男へ声をかけ続けた。
「親方、もう少しです」
『……ああ』
「外ではみんな待ってますから」
『分かってる……』
男は苦しそうに息を吐いた。
俺はその様子を見ながら、少しでも安心してもらえるよう話しかけた。
「そういえば、親方はずっと見張り台の修理をしてるんですか?」
『……長いな』
「何年くらいですか?」
『もう……二十年近い』
「そんなに?」
『ああ。若い頃から……石を積んだり、木を替えたり……』
男は少し笑った。
『こんなところで……自分が助けられるとは……思わなかったけどな』
「俺も、こういう場所で救助するのは初めてです」
『そうか……』
「だから、みんなに助けてもらってます」
男は目を閉じたまま頷いた。
『それでいい……』
「え?」
『一人で……何でもできる奴なんて……いねえよ』
俺は黙った。
『俺だって……若い連中がいなきゃ……仕事にならねえ』
男はゆっくり息を吐いた。
『助けてもらえるなら……ちゃんと助けてもらえ』
その言葉が、妙に胸に残った。
俺は今まで、自分の力で誰かを助けたいと思ってきた。
《帰り道》があるからこそ、俺にしかできないことがある。
でも、それだけで全部を解決しようとする必要はない。
むしろ、自分にできないことを認めて、ほかの人に頼ることも大事なのだろう。
「……そうですね」
俺が答えると、男は少しだけ笑った。
『ああ……』
その時、職人が声を上げた。
『準備ができたぞ!』
俺はすぐに振り返った。
職人たちは石の状態を確認し、足を挟んでいる部分を動かす準備を終えたらしい。
医者も男のそばへ戻り、状態を確認している。
『これから石を動かす。痛みが強くなるかもしれんが、無理に足を動かさないでくれ』
男は小さく頷いた。
『……分かった』
俺は少し離れた位置で見守った。
職人たちは声をかけ合いながら、慎重に作業を進める。
石がわずかに動いた。
男が苦しそうな声を上げる。
俺は思わず一歩近づこうとしたが、医者に止められた。
『今は動かないでくれ!』
俺は足を止めた。
医者は男の状態を確認しながら、職人へ指示を出している。
作業は少しずつ進んだ。
大きな音がするたびに、俺は天井を見上げた。
崩れないでくれ。
ただ、それだけを願っていた。
やがて、職人が声を上げた。
『よし、止めてくれ!』
作業が止まった。
俺は息をのんだ。
「どうですか?」
職人は男の足元を確認していた。
『……抜ける』
「え?」
『足を挟んでいた部分に隙間ができた。医者に確認してもらおう』
俺は思わず顔を上げた。
ようやく、石を動かすことができた。
ただ、男はまだその場に座ったままだった。
医者が足の状態を確認し、慎重に石から離す準備を進めている。
俺は少し離れた位置で待った。
やがて、男の足が石の下から離れた。
「……よかった」
思わず声が漏れた。
でも、まだ終わりではない。
男は自分で立ち上がれる状態ではなかった。
医者が足の状態を確認し、動かさないように固定する。
その間にも、床を流れる水は少しずつ増えていた。
「相馬さんに連絡します!」
俺はすぐに通信機を手に取った。
「相馬さん! 親方の足が抜けました!」
『本当か!』
「はい! 今、医者が状態を確認しています!」
『分かった。よくやった。ただ、まだ救助は終わってないぞ。搬送の準備を進めよう』
「はい!」
俺は頷いた。
その後、職人たちと医者が相談し、男をどう運び出すか決めることになった。
通路は狭い。
途中には大きな石もある。
普通の担架をそのまま使うのは難しい。
ただ、外ではザイルたちが搬送の準備を進めている。
俺たちは、男の身体を支えながら、できるだけ安全に運ぶ方法を考えた。
職人が通路の幅を確認し、医者が身体の状態を見ながら、無理のない姿勢で移動できるか判断していく。
俺はその間、帰る道を確認していた。
《帰り道》が示す方向は変わらない。
ここから外へ戻るなら、来た道を戻ればいい。
ただ、途中の狭い場所をどう通るかは、みんなで考えなければならない。
「久世」
職人が俺を呼んだ。
「はい」
『帰る道は、さっきと同じか?』
「はい。途中の分岐点を戻って、開いた点検口へ向かいます」
『分かった。なら、そこを通る準備をしよう』
俺は頷いた。
その時、男が小さな声で言った。
『……帰れるのか?』
俺は振り返った。
男は疲れ切った顔で、俺を見ていた。
「はい。帰る道は分かっています」
『そうか……』
「でも、まだ運び出す準備が必要です。もう少しだけ待ってください」
男は小さく頷いた。
『……分かった』
俺はその返事を聞いて、少しだけ笑った。
「外に出たら、まず休んでくださいね」
『ああ……。そうするよ』
男は目を閉じた。
その顔には、さっきまでの強い緊張が少しだけ薄れていた。
俺たちは搬送の準備を進めた。
職人たちが通路の状態を確認し、医者が男の身体を支える方法を決める。
俺は帰る道を確認しながら、途中の狭い場所について説明した。
やがて、準備が整った。
「行きましょう」
俺が声をかけると、職人が頷いた。
『ああ。慎重にな』
男を支えながら、少しずつ通路を戻る。
途中の大きな石がある場所では、一度止まって姿勢を確認した。
無理に進めば、男の足をぶつけてしまうかもしれない。
職人と医者が相談しながら、少しずつ身体の向きを変えていく。
俺は照明を持ち、足元と通路の先を確認した。
時間はかかった。
それでも、少しずつ前へ進んでいる。
やがて、大きな石の横を抜けた。
「通れた……!」
俺は思わず声を漏らした。
職人も小さく息を吐いた。
『ああ。ここを抜ければ、あとは比較的広い通路だ』
俺は頷いた。
その先には、さっき通った分岐点がある。
《帰り道》は、左側へ戻る道を示していた。
「こっちです」
俺が指すと、職人が頷いた。
『分かった』
俺たちは分岐点を曲がり、点検口へ向かって進んだ。
途中で男が苦しそうに声を上げることもあったが、医者が状態を確認しながら、必要に応じて休憩を挟んだ。
焦らず、少しずつ。
そうして進んでいくうちに、前方が明るくなってきた。
外の光だった。
「見えました!」
俺が声を上げると、職人も顔を上げた。
『ああ。出口だ』
男がゆっくり目を開いた。
『……外か?』
「はい。もうすぐです」
『……そうか』
その声は、さっきより少しだけ明るかった。
俺たちは最後の通路を進み、点検口へ向かった。
外ではザイルたちが待っていた。
『ナオト!』
リュシアの声が聞こえる。
「リュシア! 親方を連れてきたよ!」
『本当!?』
「うん! でも、まだ運び出してる途中だから、少し待って!」
『分かった!』
外にいた人たちが、すぐに搬送を手伝えるよう準備を始めた。
ザイルも点検口の近くへ来たが、職人に言われて少し離れた場所で待機した。
『俺は何をすればいい?』
「親方が外へ出たら、運ぶのを手伝ってほしい」
『任せろ!』
ザイルは力強く頷いた。
俺たちは慎重に男を点検口から運び出した。
外の光が男の顔を照らす。
その瞬間、男は目を細めた。
『……明るいな』
俺は思わず笑った。
「外ですからね」
『そうだな……』
男は小さく息を吐いた。
そして、ゆっくり空を見上げた。
『……帰ってきた』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
ようやく帰ってこられた。
石の下に足を挟まれ、暗い通路で動けなくなっていた人が、今こうして外の空気を吸っている。
俺はその姿を見ながら、何も言えなくなっていた。
ザイルたちが男を安全な場所へ運び、医者が改めて状態を確認する。
フェナも駆け寄ってきた。
『親方!』
男はゆっくり顔を向けた。
『……フェナか』
『よかった……!』
フェナの声が震えた。
『本当に、よかったです……!』
男は少し笑った。
『心配かけたな』
『本当ですよ! 何度呼んでも返事がなくなった時は、どうしようかと思いました!』
『悪かった……。ちょっと、疲れちまってな』
フェナは目元を拭いながら頷いた。
『もう、無理しないでくださいね』
『ああ……。そうする』
そのやり取りを見て、俺もようやく肩の力が抜けた。
相馬さんが近づいてきた。
「久世、お疲れさま」
「相馬さん……」
「よく戻ってきたな」
俺は頷いた。
「みんなのおかげです」
「そうだな」
相馬さんは男を運んでいるザイルたちを見た。
「今回も、一人じゃ助けられなかった」
「はい」
「お前が帰る道を示して、職人が石を確認して、医者が怪我人の状態を見た。外ではフェナたちが情報を集めて、ザイルたちが搬送を手伝った」
俺は頷いた。
「そうですね」
「それぞれが自分にできることをしたから、助けられたんだ」
俺は男の姿を見た。
親方はまだ疲れ切っているようだったが、医者の質問には答えていた。
少なくとも、もう暗い通路で一人きりではない。
それだけで、十分だった。
「相馬さん」
「何だ?」
「俺、今回も思いました」
「何を?」
「帰る道が分かるだけじゃ、助けられない人もいるんだなって」
相馬さんは少し笑った。
「今さらだな」
「すみません」
「でも、それを忘れないのは大事だ」
俺は頷いた。
その時、フェナがこちらへ来た。
『ナオト、ありがとうございました』
「俺だけじゃないよ。みんなで助けたんだから」
『はい。分かっています』
フェナは頷いたあと、少しだけ笑った。
『でも、親方が外へ出てきた時、すごく安心しました』
「俺もだよ」
『あの人、町ではずっと建物を直してきた人なんです。みんなが頼りにしている人だから……』
フェナは男の方を見た。
『無事に戻ってきてくれて、本当によかったです』
俺も頷いた。
「うん」
しばらくして、医者から報告があった。
男は足に怪我をしているものの、意識ははっきりしており、町へ運んで詳しく診てもらうことになった。
俺たちは搬送の準備を手伝い、男が安全に移動できるよう見送った。
その時、男が俺を呼んだ。
『ナオト』
「はい?」
『ちょっと、いいか』
俺は近づいた。
男は疲れた顔のまま、ゆっくり口を開いた。
『助けてくれて、ありがとうな』
「いえ。俺だけじゃないですから」
『分かってるよ』
男は少し笑った。
『でも、お前が中で話しかけてくれた時……助かるかもしれねえって思えた』
俺は黙って聞いていた。
『暗いところで、ずっと一人だったからな。もう駄目かと思ったよ』
「……そうだったんですね」
『ああ。でも、お前が来てくれた』
男はゆっくり息を吐いた。
『それだけで、少し安心した』
俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
『ああ……』
男は頷いたあと、少しだけ真剣な顔になった。
『ただな、ナオト』
「はい?」
『一つ、気になることがある』
俺は顔を上げた。
「何ですか?」
男は見張り台の方を見た。
『あの水だ』
「水?」
『ああ。通路の中に流れ込んできた水……。あれが、どうしてあそこに出てきたのか分からねえ』
俺は頷いた。
「そうですね。職人さんたちも、原因はまだ分からないって言ってました」
『だろうな』
男は少し考えた。
『でも、俺が中へ入った時、変なものを見たんだ』
「変なもの?」
『ああ。土台の奥にある石の隙間から、水が出てた。その近くに、新しい石が積まれてたんだ』
俺は眉を寄せた。
「新しい石?」
『そうだ。古い建物の中なのに、そこだけ妙に新しかった』
「修理したんじゃないですか?」
『かもしれねえ。でも、俺はそんな修理の話を聞いてない』
男はゆっくり息を吐いた。
『それに、あそこは昔、水を逃がすための場所だったはずなんだ』
俺は思わず相馬さんを見た。
相馬さんも話を聞いていた。
「水を逃がす場所?」
俺が尋ねると、男は頷いた。
『ああ。昔の見張り台には、雨水を外へ流すための通り道があったらしい。俺も詳しくは知らねえが、親父から聞いたことがある』
「その場所が、石で塞がれていたんですか?」
『そう見えた。ただ、暗かったし、ちゃんと確認できたわけじゃねえ』
男は少しだけ顔をしかめた。
『もし本当に塞がれてるなら、水の逃げ場がなくなってるのかもしれねえ』
相馬さんが口を開いた。
「分かりました。その話は、現場の職人たちにも伝えておきます。ただ、今は休んでください。詳しいことは、身体が回復してから確認しましょう」
男は頷いた。
『ああ。そうする』
俺たちは男を見送った。
その後、相馬さんは職人たちへ今の話を伝えた。
新しい石が積まれていたこと。
昔、水を逃がす場所があったらしいこと。
そして、その場所が塞がれている可能性があること。
職人たちは顔を見合わせていた。
『もし本当なら、少し厄介だな』
年配の職人が言った。
「どういうことですか?」
俺が尋ねると、職人は見張り台を見た。
『水が逃げられなくなっているなら、土台の中に溜まっている可能性がある。そうなると、石の間に余計な力がかかることもある』
「それが、足場の揺れにつながったんでしょうか?」
『分からん。ただ、調べる必要はある』
相馬さんが頷いた。
「そうですね。まずは見張り台を使わないようにして、原因を確認しましょう」
『ああ。そうするしかないな』
職人は頷いた。
俺は見張り台を見上げた。
さっきまで、あの下に一人の男が閉じ込められていた。
今は無事に救助できた。
でも、建物そのものの問題はまだ残っている。
このまま使い続ければ、また事故が起きるかもしれない。
相馬さんも同じことを考えているようだった。
「久世、今回の救難はここで一区切りだ。ただ、見張り台の安全確認は別に進める必要がある」
「はい」
「向こうの人たちだけで判断できないことがあれば、こちらでも協力する。ただし、建物の修理まで俺たちが引き受けるわけにはいかないからな」
「分かってます」
俺は頷いた。
その時、フェナが近づいてきた。
『相馬さん、ナオト。少し相談があります』
「何だ?」
相馬さんが尋ねる。
フェナは見張り台を振り返った。
『町の人たちと話して、しばらく見張り台を使わないことになりました』
「それがいいと思う」
『はい。でも、問題が一つあるんです』
俺はフェナを見た。
「何?」
『見張り台を使えない間、町の外を見張る人たちをどう配置するか、決めなければいけません』
「そうか……」
『今まで三つの見張り台で確認していた場所を、別の方法で見張らないといけないんです』
相馬さんが頷いた。
「なるほど。安全な場所から見張れる方法を考える必要があるな」
『はい。それで、町の人たちから意見が出ているんです』
「どんな?」
フェナは少し困った顔をした。
『見張り台を使えないなら、代わりに人を増やして見張ればいいんじゃないかって』
「人を増やす?」
『はい。町の外に何人かずつ配置して、交代で見張るそうです』
俺は少し考えた。
確かに、それなら見張り台がなくても周囲を確認できるかもしれない。
でも、問題もありそうだった。
「それって、夜もやるんですか?」
俺が尋ねると、フェナは頷いた。
『はい。夜も見張りが必要なので』
「町の外で?」
『そうです』
俺は相馬さんを見た。
相馬さんも少し考えているようだった。
「フェナ、その場所は安全なのか?」
『それが、まだ分からないんです』
「分からない?」
『見張り台がある場所なら、普段から人が通っています。でも、代わりに見張りをする場所は、これから決めることになるので……』
相馬さんは頷いた。
「なら、場所を決める前に安全を確認した方がいい。見張り台を使わないようにしたのに、代わりの見張りで事故が起きたら意味がないからな」
『はい。私もそう思います』
フェナは少し安心したようだった。
俺も頷いた。
今日、見張り台から子どもを助けた。
そのあと、別の見張り台で作業員を助けた。
どちらも無事に救助できたが、そもそも事故が起きなければ、こんな危険な思いをする必要はなかった。
ただ、危ない場所を使わないようにするだけでは、別の問題が出てくる。
町の人たちは、見張りをやめるわけにはいかないのだ。
「相馬さん」
俺が声をかけると、相馬さんは頷いた。
「分かってる。次は、事故を起こさないための話だな」
「はい」
「ただ、それも簡単じゃないぞ」
「そうですね」
俺は見張り台を見た。
壊れた足場。
古い石造りの土台。
中に流れ込んでいた水。
そして、作業員が話していた、新しく積まれた石。
まだ分からないことが多い。
それでも、今は一人の人間を無事に帰すことができた。
まずは、そのことを喜びたいと思った。
俺は深く息を吐き、空を見上げた。
さっきまで暗い通路の中にいたせいか、外の明るさが妙に眩しかった。
その時、リュシアが隣へ来た。
『ナオト』
「何?」
『親方、帰れたね』
「うん。帰れた」
リュシアは嬉しそうに笑った。
『よかった』
「本当にね」
俺も笑った。
すると、リュシアは少し考えてから言った。
『でも、ナオト』
「ん?」
『今度は、誰もあんなところに入らなくていいようにしたいね』
俺はリュシアを見た。
いつもなら、もっと簡単なことを言いそうなのに。
今日の救難を見て、彼女も何かを感じたのかもしれない。
「そうだね」
俺は頷いた。
「そのために、みんなで考えよう」
『うん!』
リュシアは大きく頷いた。
俺はもう一度、見張り台へ目を向けた。
救助は終わった。
でも、事故を防ぐための仕事は、これから始まる。
そして、その仕事にも、きっと誰かの力が必要になる。
俺の《帰り道》が使える場面は、限られている。
それでも、必要な時には使えばいい。
必要ない時には、ほかの人に任せればいい。
そうして、みんなで帰れる場所を守っていければいいと思った。
その時、相馬さんの通信機が鳴った。
瀬川さんからだった。
『相馬さん、こちら瀬川です。見張り台の件で、町の管理人から追加の情報が入りました』
「何だ?」
『古い記録を確認したところ、今回の見張り台には、以前から水の問題があったそうです』
俺は顔を上げた。
「以前から?」
『はい。ただ、詳しい記録は残っていません。水が溜まることがあったため、昔、一度修理をしたという話があるそうです』
相馬さんが尋ねる。
「その修理の内容は?」
『それが、分からないそうです』
「分からない?」
『はい。修理をしたという記録はあるんですが、どこをどう直したのか、書かれていないそうで……』
相馬さんは少し考えた。
「分かった。まずは現場の職人たちに伝えてくれ。今の段階で原因を決めつけるのは危険だ」
『了解しました』
通信が終わった。
俺は見張り台を見た。
親方が話していた、新しく積まれた石。
昔からあったらしい、水の問題。
そして、今回の事故。
それらが本当に関係しているのかは、まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
この見張り台には、まだ調べなければならないことが残っている。
俺は相馬さんへ向き直った。
「相馬さん、次はどうしますか?」
相馬さんは少し考えたあと、答えた。
「まずは町の人たちと相談だ。見張り台を使わずに、どうやって安全に見張りを続けるか。それを考えよう」
「はい」
「それから、建物の修理については、向こうの職人たちに任せる。ただし、必要な情報は共有してもらう」
「分かりました」
相馬さんは頷いた。
「久世、今日はよく頑張ったな」
「いえ。みんなのおかげです」
「そうだな」
相馬さんは少し笑った。
「でも、お前もちゃんと役に立った。それは忘れるなよ」
俺は頷いた。
「はい」
その時、リュシアが俺の袖を引っ張った。
『ナオト』
「何?」
『お腹すいた』
俺は思わず笑った。
「こんな時に?」
『だって、ずっと動いてた』
「まあ、そうだけど」
『ナオトも食べる?』
「そうだね。少し休もうか」
リュシアは嬉しそうに頷いた。
『やった!』
俺はその笑顔を見ながら、ようやく救助が終わったことを実感した。
今日も、無事に帰ってこられた。
助けた人も。
助けに行った俺たちも。
それが、何より嬉しかった。
ただ、町の見張り台は、まだ使えないままだ。
これからどうやって町を守るのか。
その答えは、まだ出ていなかった。
俺たちはその問題を、次に考えなければならない。
そして、その答えを出すためには、またみんなで力を合わせる必要があるのだろう。
俺はそう思いながら、リュシアたちと一緒に町へ向かって歩き始めた。




