第137話 石の向こうから
「久世、出発する前に確認しておく」
相馬さんは、俺が手に取った装備を見ながら言った。
「今回、お前に頼みたいのは道案内だ。作業員を探すことでも、崩れた石を動かすことでもない。そこは間違えるなよ」
「はい。作業員の居場所は、向こうの人たちが確認していますから」
「そうだ。お前の《帰り道》が役に立つ場面はあるかもしれないが、それだけで救助できるとは考えるな」
相馬さんの言葉に、俺は頷いた。
見張り台の下にある古い通路で、作業員が一人取り残されている。足を石に挟まれて動けず、入ってきた道も途中で崩れてしまったらしい。
裏手では別の入口らしき場所が見つかっているものの、大きな石で塞がれている。そこが本当に作業員のいる場所へつながっているのかも、まだ分かっていなかった。
「神代さんはどうしますか?」
俺が尋ねると、神代さんは準備していた鞄を閉じた。
「私はいったん監視室に残ります。向こうの現場に医療関係者がいるか確認していますし、怪我の状態が分かれば、こちらから助言できることもあると思います」
「分かりました」
「久世さんも、現場で気になることがあったら必ず相談してくださいね。特に、作業員の方を動かす時は慎重にお願いします」
「はい」
相馬さんは通信機を手に取った。
「フェナ、こちら相馬だ。久世をそちらへ向かわせる。現場の責任者に、まだ誰も内部へ入らせないよう伝えてくれ」
『分かりました。こちらで待っています』
「それと、救助に入るかどうかは現場の安全確認が済んでから決める。久世が着いたからといって、すぐに動く必要はない」
『はい。ザイルにも伝えます』
通信を終えると、相馬さんは俺へ向き直った。
「じゃあ、行くぞ」
「相馬さんも来るんですか?」
「現場の状況を見ておきたい。こちらから協力できることがあるかもしれないからな」
俺たちは監視担当に出発を伝え、青い膜の向こうへ進んだ。
境目を越えると、リュシアが待っていた。
『ナオト!』
「お待たせ。フェナは?」
『見張り台。ザイルと一緒』
「作業員の人は?」
『まだ中。声は聞こえる』
リュシアはそう答えたあと、俺の持っている装備を見た。
『ナオト、中に入る?』
「まだ決まってないよ。まずは現場を見てから」
『そっか。じゃあ、案内する』
リュシアはすぐに歩き始めた。
いつもなら途中で何かと話しかけてくるのに、今日はほとんど口を開かなかった。俺たちの歩く速さに合わせながら、時々振り返っては道の先を確認している。
「リュシア、何かあった?」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ足を緩めた。
『あの人、怖がってた』
「作業員の人?」
『うん。フェナが話した時、最初は大丈夫って言ってた。でも、途中で早く出してくれって』
「そうか……」
『だから、早く助けたい』
リュシアは前を向いた。
俺も同じ気持ちだった。
ただ、焦って救助を始めれば、かえって状況を悪くするかもしれない。さっきの見張り台では、フェナがザイルを止めたことで、無理な救助をせずに済んだ。
今度も、その判断が必要になる。
「リュシア、向こうの人たちは何か準備してる?」
『うん。石を調べる人が来た』
「石を?」
『古い建物を直す人。フェナが呼んだ』
相馬さんが隣で頷いた。
「それなら、まずその人に話を聞こう。石を動かしていいかどうか、俺たちだけでは判断できないからな」
リュシアは振り返り、真剣な顔で頷いた。
『分かった』
見張り台が見えてきたのは、それからしばらく歩いた頃だった。
遠くからでも、建物の周囲に人が集まっているのが分かった。ただ、見張り台のすぐ近くにいる人間は少なく、ほとんどが少し離れた場所で待機している。
フェナたちが立ち入りを制限しているのだろう。
俺たちに気づいたザイルが、大きく手を振った。
『ナオト! こっちだ!』
「ザイル、状況は?」
『まだ中にいる。声は聞こえるが、出られねえ』
ザイルは悔しそうに見張り台を振り返った。
『石さえどかせりゃ、助けに行けると思うんだがな』
「その石を動かしていいかどうか、確認してるんだよね?」
『ああ。だから待ってる』
ザイルは腕を組んだ。
以前なら、自分の力で何とかしようとしたかもしれない。
でも、今は違う。
目の前に助けを待つ人がいても、勝手に動こうとはしていなかった。
フェナがこちらへ駆け寄ってきた。
『ナオト、相馬さん。来てくれてありがとうございます』
「作業員の状態は?」
相馬さんが尋ねる。
『意識はあります。ただ、足の痛みが強くなっているそうです。今は町の医者にも来てもらって、外からできることを確認しています』
「呼吸は?」
『苦しくはないと言っています。会話もできます』
「そうか。まずは現場を見せてくれ」
フェナは頷き、俺たちを見張り台の裏手へ案内した。
近づくにつれて、建物の古さがよく分かった。
石造りの土台にはところどころ苔が生え、石と石の間には細い隙間ができている。上に組まれた木製の足場は修理の途中らしく、新しい木材と古い木材が混ざっていた。
その裏側に、問題の入口があった。
「これか……」
俺は思わず声を漏らした。
石壁の一部が、縦長の四角い形に区切られている。
よく見ると、周囲には扉を取り付けていたような跡が残っていた。ただ、今はその内側まで石が積まれていて、人が通れる隙間はない。
「昔はここから出入りしていたんですか?」
『そうみたいです。でも、いつ塞がれたのかは分かっていません』
フェナが答える。
その横では、年配の職人が石壁を調べていた。
男は俺たちに気づくと、手を止めて近づいてきた。
『この石を動かしたいんだろう?』
フェナが俺たちに説明してくれる。
『町で石造りの建物を修理している職人です。古い見張り台のことも、ある程度知っているそうです』
相馬さんが尋ねた。
「この入口は開けられそうですか?」
フェナが通訳すると、職人は首を横に振った。
『今すぐは無理だ。石を外すこと自体はできるかもしれないが、上の壁がどうなっているか分からない』
「上の壁?」
『ここを塞いでいる石は、ただ積んであるだけじゃない。周りの石壁と組み合わさっている部分がある。下手に外せば、上まで崩れるかもしれん』
俺は入口を見上げた。
確かに、四角い跡の上には何段もの石が積まれている。
見た目には頑丈そうだったが、その内側がどうなっているのかまでは分からない。
「じゃあ、ここから入るのは難しいんですね」
『少なくとも、今すぐ開けるわけにはいかん』
職人はそう答えた。
ザイルが不満そうに腕を組む。
『俺なら石を動かせると思うんだが』
『力の問題じゃない』
職人は即座に言い返した。
『お前が石を持ち上げられても、残った壁が崩れたらどうする。中にいる男まで潰しかねんぞ』
ザイルは口を閉じた。
俺も何も言えなかった。
助けるために入口を開けた結果、取り残された作業員を危険にさらしてしまっては意味がない。
相馬さんが職人へ尋ねる。
「ほかに内部へ入れそうな場所はありますか?」
『今のところ見つかっていない。ただ、土台の外側に小さな隙間がある。そこから中の男と話せる』
「見せてもらえますか?」
職人は頷き、俺たちを少し離れた場所へ案内した。
石壁の下の方に、細長い隙間があった。
大人の手も通らないほど狭いが、内側から音が聞こえるらしい。
隙間の周囲には小さな石が落ちており、地面には湿った土が広がっていた。
「ここですか?」
フェナが頷いた。
『はい。ここから声をかけると、作業員の人が返事をしてくれます』
相馬さんは石壁の状態を確認してから、職人へ尋ねた。
「この隙間は、最初からあったものですか?」
『いや。以前はこんなに開いていなかったはずだ』
「最近広がった可能性があると?」
『そうだな。ただ、いつからこうなったのかは分からん』
職人は地面に落ちた土を見た。
『それに、ここは少し湿っている。昨日は雨も降っていないのにな』
俺は足元へ目を向けた。
確かに、周囲の地面と比べて、この場所だけ色が濃い。
「地下に水があるんですか?」
『分からん。古い建物だから、どこかから染み込んでいるのかもしれない』
職人はそう答えた。
相馬さんがフェナへ向き直る。
「中の作業員にも、水があるかどうか聞いてみよう」
『分かりました』
フェナは隙間から少し離れた位置で声をかけた。
『聞こえますか!』
しばらくして、石壁の向こうから返事があった。
『……聞こえる』
男の声だった。
小さかったが、確かに聞こえた。
『今、助ける方法を考えています。もう少しだけ頑張ってください』
『頼む……。足が、抜けないんだ』
俺は思わず隙間を見つめた。
声はすぐ近くから聞こえているように感じた。
でも、石壁の向こうにいる男の姿は見えない。
こんなに近くにいるのに、助けに行けない。
その距離が、もどかしかった。
フェナが続けて尋ねる。
『足元に水はありますか?』
少し間が空いた。
『水?』
『はい。地面が濡れていたり、水が流れていたりしませんか?』
『……濡れてる。さっきから、石の下が冷たい』
フェナの表情が変わった。
『水が流れているんですか?』
『分からない。暗くて、よく見えないんだ』
男は苦しそうに息を吐いた。
『でも、最初はこんなに濡れてなかったと思う』
俺は相馬さんを見た。
相馬さんも職人へ視線を向けていた。
「この見張り台の下に、水が通る場所はありますか?」
フェナが伝えると、職人は少し考え込んだ。
『昔、この辺りには雨水を逃がすための溝があったと聞いている。だが、今も残っているかどうかは知らん』
「見張り台の下を通っているんですか?」
『そこまでは分からない。古い話だからな』
相馬さんは頷いた。
「分かりました。水のことも確認しておきましょう。ただ、今の段階では原因を決めつけない方がいい」
俺も同じことを考えていた。
地面が濡れているからといって、すぐに危険な状態だとは限らない。
ただ、通路の中に水が入り始めているなら、無視できない情報だった。
フェナはもう一度、石壁の向こうへ声をかけた。
『ほかに痛いところはありませんか?』
『足だけだと思う……。でも、ずっと同じ姿勢だから、身体がつらい』
『分かりました。医者にも伝えます。無理に動かないでください』
『ああ……』
男の返事は弱々しかった。
フェナは少し迷ったあと、尋ねた。
『ほかの四人は無事ですよ。みんな外で待っています』
その言葉に、男が反応した。
『……そうか』
『はい。全員、怪我はありません』
『よかった』
男は小さく息を吐いた。
『俺が中に入ったせいで、みんなを巻き込んだかと思った』
フェナは首を振った。
『そんなことありません。今はあなたが無事に戻ることだけ考えてください』
しばらく返事がなかった。
やがて、男が小さな声で言った。
『……頼む。帰りたい』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
俺は今まで、何度も同じような言葉を聞いてきた。
帰りたい。
ただ、それだけの願いだ。
でも、帰る道が分からなかったり、怪我をして動けなかったりすれば、その当たり前のことが難しくなる。
俺には《帰り道》がある。
帰るための道を知ることができる。
けれど、今この場所で必要なのは、それだけではなかった。
「必ず助けるから、もう少し待っててください」
俺が声をかけると、石壁の向こうから小さな返事があった。
『……ありがとう』
そのあと、フェナは医者に確認した内容を伝えるため、いったん隙間から離れた。
俺も相馬さんのところへ戻る。
「相馬さん、どうしますか?」
「まずは入口を開けられるかどうか、職人たちに詳しく調べてもらう。それと、元の点検口から入れるかどうかも確認が必要だ」
「でも、そっちは途中で崩れているんですよね?」
「ああ。だから、通れるかどうかを現場の人間に判断してもらう必要がある」
相馬さんは見張り台を見上げた。
「久世、お前が《帰り道》で帰る方向を示せても、崩れた石の向こうへ進めるわけじゃない。そこは分かってるな?」
「はい」
「なら、今は救助に入るための方法を探そう」
俺は頷いた。
職人たちは、古い入口の周囲を調べ始めた。
ザイルも手伝おうとしたが、石を動かす作業はまだできないと説明され、少し離れた場所で待機している。
リュシアはフェナと一緒に、石壁の向こうにいる男へ声をかけていた。
俺はその様子を見ながら、もう一度、見張り台の構造を確認した。
入口は二つ。
一つは、作業員が入った点検口。
もう一つは、裏手にある古い入口だ。
点検口から続く通路は途中で分かれていて、外側の通路の奥が崩れている。
裏手の入口は石で塞がれているが、そこが作業員のいる場所へつながっている可能性がある。
ただ、どちらも今の状態では安全に入れない。
「相馬さん」
「何だ?」
「作業員の人は、崩れた通路の向こうに別の道があるって言ってましたよね」
「ああ」
「それって、裏手の入口につながっているんでしょうか?」
「可能性はある。ただ、古い図面にも描かれていない道だからな。実際に確認しないと分からない」
俺は石壁を見た。
もし裏手の入口が作業員のいる場所へつながっているなら、そこを開けることで助けに行けるかもしれない。
でも、石を動かすのは危険だと言われている。
それなら、別の方法を考えるしかない。
俺がそう思っていると、職人の一人が相馬さんたちを呼んだ。
『ちょっと来てくれ!』
フェナがすぐに駆け寄る。
『何か分かりましたか?』
『この入口なんだが、どうも妙なんだ』
職人は石壁を指した。
『外から見れば、古い扉を塞いだように見える。でも、石の積み方が途中から違う』
「どういうことですか?」
フェナが尋ねる。
『下の方は古い石だが、上の方は比較的新しい。しかも、周りの壁と組み合わさっている』
相馬さんが口を開いた。
「つまり、あとから補強した可能性があると?」
フェナが伝えると、職人は頷いた。
『そうかもしれん。少なくとも、ここを通れるようにするには、かなり慎重に調べる必要がある』
「今すぐ開けるのは難しいですね」
『ああ』
職人はそう答えたあと、少し考えた。
『ただ、もう一つ気になることがある』
「何ですか?」
『この見張り台は、もともと今の形ではなかったらしい』
俺は顔を上げた。
「どういうことですか?」
『昔はもっと低い建物だったと聞いている。今の見張り台は、その上に増築されたものだそうだ』
相馬さんが眉を寄せた。
「それなら、土台の中にある通路も、昔の建物の一部だった可能性がありますね」
『そうだ。今の見張り台を修理している人間が、中の構造を知らないのも不思議じゃない』
職人は頷いた。
『昔の建物について分かるものがあれば、別の入口を見つけられるかもしれん』
フェナがすぐに反応した。
『古い図面なら、管理している人が持っていました』
『あれは今の見張り台の図面だろう。もっと古いものが残っていればいいんだが……』
「探してみましょう」
フェナはそう言って、リュシアへ声をかけた。
『リュシア、町の管理人さんにもう一度話を聞いてきてもらえる?』
『分かった!』
リュシアはすぐに走り出そうとしたが、途中で振り返った。
『ナオト、ここにいる?』
「うん。作業員の人の様子を見てるよ」
『じゃあ、行ってくる!』
リュシアは大きく手を振り、町の方へ走っていった。
俺はその背中を見送った。
古い建物の構造が分かれば、救助の方法も変わるかもしれない。
ただ、それを待っている間にも、作業員の足の痛みは続いている。
できるだけ早く、安全な方法を見つけたかった。
しばらくして、フェナが俺のところへ戻ってきた。
『ナオト、少しお願いしてもいいですか?』
「何?」
『作業員の人に、もう一度声をかけてほしいんです』
「俺が?」
『はい。さっき、あなたが声をかけた時、少し安心したみたいだったので』
俺は頷いた。
「分かった」
フェナと一緒に石壁の近くへ戻る。
隙間の向こうからは、男の荒い息遣いが聞こえていた。
「聞こえますか?」
俺が声をかけると、少し間があって返事があった。
『……ああ』
「久世直人です。さっき話した者です」
『ナオト……』
「今、みんなで助ける方法を探しています。古い入口も見つかったんですが、安全に開けられるか確認しているところです」
『そうか……』
「すぐに出してあげられなくて、すみません」
俺が言うと、男は少しだけ笑ったようだった。
『謝るなよ。俺が勝手に中へ入ったんだ』
「でも、足場の状態を調べようとしたんですよね?」
『ああ。あのまま作業を続けたら、誰かが落ちるかもしれないと思ってな』
男は苦しそうに息を吐いた。
『土台の石がずれてたんだ。上の足場が揺れるたびに、下の石も動いてる気がして……』
俺は相馬さんへ視線を向けた。
相馬さんも話を聞いていた。
「それで、中へ入ったんですか?」
『ああ。外からじゃ、よく分からなかったからな』
「中では何が見えたんですか?」
『石の間に隙間があった。それから……』
男は言葉を切った。
『水が、染み出してた』
俺は息をのんだ。
「水ですか?」
『ああ。最初は少しだった。でも、奥へ進むと、地面が濡れてたんだ』
相馬さんが俺の隣へ来た。
「久世、代わってくれ」
俺は場所を譲った。
相馬さんは隙間へ向かって、ゆっくり話しかけた。
「相馬です。少し確認させてください。水が出ていた場所は、今いるところと同じですか?」
『……違う。もっと入口に近い方だ』
「水はどこから出ていましたか?」
『石の隙間だ。壁の下の方から、少しずつ……』
「分かりました。今いる場所では、水が増えていますか?」
男はすぐには答えなかった。
しばらくして、小さな声が返ってきた。
『……さっきより、濡れてる気がする』
相馬さんの表情が険しくなった。
「水の深さは分かりますか?」
『いや……。足が挟まってるから、よく見えない』
「分かりました。無理に確認しようとしなくて大丈夫です」
相馬さんはそう伝えたあと、フェナへ向き直った。
「医者に今の話を伝えてくれ。それと、職人にも水が染み出していた場所を確認してもらいたい」
『分かりました』
フェナが走っていく。
俺は相馬さんへ尋ねた。
「水が増えてるんですかね?」
「まだ分からん。ただ、土台の状態が悪くなっている可能性は考えた方がいい」
「見張り台が崩れることもあるんですか?」
「そこまでは判断できない。だからこそ、現場の職人に確認してもらうんだ」
俺は頷いた。
作業員の足が挟まっているだけでも大変なのに、通路の中へ水まで入り始めているかもしれない。
時間が経てば状況が悪くなる可能性がある。
そう考えると、じっと待っているのがつらかった。
「相馬さん、俺に何かできることはありませんか?」
「今は作業員と話していてくれ。意識がはっきりしているか確認できるし、向こうも一人で待つよりはいいだろう」
「分かりました」
俺は再び石壁へ向き直った。
「聞こえますか?」
『……ああ』
「もう少し話しててもいいですか?」
『助かる。暗いところで一人だと、どうしても嫌なことばかり考えちまう』
「そうですよね」
『お前さん、救助の仕事をしてるのか?』
「はい。まだ経験は浅いですけど」
『そうか……。大変だな』
「いえ、俺はみんなに助けてもらってばかりなので」
男は少し笑った。
『それでも、助けに来てくれたんだろう?』
「はい」
『なら、十分だ』
その言葉に、俺は少しだけ救われた気がした。
俺は特別な力を持っている。
でも、それだけで何でもできるわけじゃない。
今だって、石壁の向こうにいる人を助ける方法が分からず、こうして話しかけることしかできていない。
それでも、俺がここにいることで少しでも安心してもらえるなら、意味はあるのかもしれなかった。
「ところで、見張り台の修理って、いつからやってたんですか?」
俺が尋ねると、男は少し考えて答えた。
『三日前からだ。足場の傷みがひどくてな』
「そんなに古かったんですか?」
『ああ。でも、木を替えれば使えると思ってた』
男はそこで言葉を切った。
『まさか、下の石までおかしくなってるとは思わなかったよ』
「土台の異常には、いつ気づいたんですか?」
『今朝だ。足場が揺れた時、下から変な音がしてな』
「変な音?」
『石が擦れるような音だ。最初は気のせいかと思ったんだが、何度か続いたから……』
男は苦しそうに息を吐いた。
『それで、中を見に行った』
俺は黙って聞いていた。
『奥へ進んだところで、大きな音がした。振り返ったら、通路が崩れてたんだ』
「それから、別の出口を探したんですね」
『ああ。暗かったが、少し先に道が見えた。そっちへ行こうとしたら、足元の石が動いて……』
男の声が途切れた。
「大丈夫ですか?」
『……ああ。ちょっと痛みが強くなっただけだ』
俺はすぐにフェナを呼んだ。
フェナは医者と一緒に戻ってきて、男の状態を確認し始めた。
その間、俺は少し離れた場所で待つことになった。
医者が質問し、フェナが返事を伝える。
男はまだ会話できているようだったが、声はさっきより弱くなっていた。
相馬さんが隣へ来た。
「久世、よく話を聞いてくれたな」
「いえ。何か役に立ちましたか?」
「ああ。少なくとも、土台の異常が今朝から起きていたことと、内部で水が染み出していたことは分かった」
「そうですね」
「それに、本人がどういう順番で動いたのかも確認できた。通路の構造を考える材料にはなる」
俺は少し安心した。
ただ、作業員を助け出す方法はまだ見つかっていない。
その時、職人がこちらへ駆け寄ってきた。
『相馬さん!』
フェナがすぐに顔を上げる。
『どうしました?』
『裏手の入口をもう一度調べたんだが、少し気になることがある』
「何ですか?」
『石の隙間から、水が出てきてる』
俺は顔を上げた。
「水が?」
職人は頷いた。
『さっきまでは湿っている程度だった。でも、今は隙間から少しずつ流れ出してるんだ』
相馬さんがすぐに尋ねた。
「量は増えていますか?」
『少しずつだが、増えているように見える』
「土台の状態は?」
『分からん。ただ、これ以上近づいて調べるのは危ないと思う』
相馬さんは頷いた。
「なら、いったん離れてください。石を動かす作業も中止しましょう」
『ああ。その方がいい』
職人はすぐに仲間へ声をかけに行った。
俺は見張り台の裏側を見た。
古い入口の下の方に、細い水の筋ができている。
最初に見た時には、そんなものはなかったはずだ。
「相馬さん……」
「ああ。状況が変わってきたな」
相馬さんは通信機を取り出した。
「神代、こちら相馬だ。現場の土台から水が染み出し始めた。作業員のいる場所でも、地面が濡れているという報告がある」
『分かりました。水の量は増えていますか?』
「少しずつ増えているようだ。ただ、原因はまだ分からない」
『了解しました。こちらでも確認できることを調べます。作業員の方の状態は?』
「意識はある。会話もできるが、足の痛みが強くなっているそうだ」
『分かりました。現場のお医者さんとも情報を共有してください』
「頼む」
通信が終わる。
俺はもう一度、石壁の方を見た。
水が増えているなら、急がなければならない。
でも、急いで石を動かせば、土台が崩れるかもしれない。
助けたいのに、簡単には動けない。
そのもどかしさが、胸の奥に広がっていた。
その時だった。
『ナオト!』
遠くからリュシアの声が聞こえた。
振り返ると、リュシアが何かを抱えて走ってきていた。
その後ろには、町の管理人らしい男もいる。
『見つけた!』
「何を?」
『古い図面!』
リュシアは息を切らしながら、抱えていた紙の束をフェナへ渡した。
フェナがすぐに広げる。
かなり古いものらしく、紙の端は傷み、ところどころ文字が薄くなっていた。
「これが昔の見張り台の図面?」
俺が尋ねると、フェナは頷いた。
『はい。管理人さんが倉庫の奥から見つけてくれたそうです』
相馬さんも近づいてきた。
「今の図面とは違うのか?」
『違います。昔の建物は、今よりずっと小さかったみたいです』
フェナは図面を指した。
『それに、土台の中に通路が描かれています』
俺は身を乗り出した。
図面には、建物の外側を回るように続く通路と、いくつかの小さな部屋が描かれていた。
今まで聞いていた構造と、少し違う。
「これ、途中で行き止まりになってないですね」
俺が言うと、フェナも頷いた。
『はい。今の図面では行き止まりになっていた場所が、昔は別の通路につながっていたみたいです』
「その通路はどこへ?」
フェナは図面を目で追った。
そして、ある場所で指を止めた。
『……ここです』
「どこ?」
『見張り台の裏側に、小さな部屋があります。その先に、外へ出るための通路が描かれています』
俺は思わず顔を上げた。
「じゃあ、裏手の入口につながってるんですか?」
『たぶん、そうだと思います』
相馬さんがすぐに尋ねる。
「その部屋は、作業員のいる場所とつながっているのか?」
フェナは図面を確認した。
『はい。途中に通路があります。ただ、今も通れるかどうかは分かりません』
「なるほど」
相馬さんは職人を呼び、図面を見せた。
職人はしばらく眺めていたが、やがて一つの場所を指した。
『ここだ』
「何か分かったんですか?」
フェナが尋ねる。
『裏手の入口だけじゃない。昔は、もう一つ外へ出る場所があったらしい』
俺は驚いて図面を見た。
「もう一つ?」
『ああ。建物の横に、小さな点検用の出入口が描かれている』
「今も残っているんですか?」
『分からん。ただ、昔の建物の一部が残っているなら、塞がれずに残っている可能性もある』
相馬さんがすぐに言った。
「その場所を確認しましょう。ただし、建物には近づきすぎないように。安全な位置から見つかるかどうか調べるだけで構いません」
『分かった』
職人たちは図面を持って、見張り台の側面へ向かった。
俺もついていこうとしたが、相馬さんに止められた。
「久世、お前はここで待ってくれ」
「でも……」
「作業員の様子を見ていてほしい。向こうで何か変化があったら、すぐに知らせてくれ」
俺は頷いた。
「分かりました」
フェナと一緒に石壁の近くへ戻る。
男はまだ意識があり、医者の質問にも答えていた。
ただ、声はかなり疲れているように聞こえた。
「聞こえますか?」
俺が声をかける。
『……ああ』
「古い図面が見つかりました。別の入口があるかもしれないので、今、調べています」
『そうか……』
「もう少しだけ頑張ってください」
男は小さく息を吐いた。
『……分かった』
その返事を聞いて、俺は少し安心した。
でも、次の言葉で表情が変わった。
『なあ……』
「はい?」
『水が……』
俺は隙間へ顔を向けた。
「水がどうしました?」
『さっきより、増えてる』
「どのくらいですか?」
『足元に……流れてきてる』
俺はすぐにフェナを呼んだ。
フェナも男へ声をかける。
『水が流れているんですか?』
『ああ……。冷たい』
「足は?」
『まだ挟まってる。動かせない』
フェナは医者へ状況を伝えた。
俺は相馬さんへ向かって声を上げる。
「相馬さん! 中の水が増えてるみたいです!」
相馬さんはすぐに戻ってきた。
「どのくらいだ?」
「まだ分かりません。でも、作業員の足元まで流れてきているそうです」
相馬さんは表情を引き締めた。
「分かった。職人たちにも伝えよう」
その時、見張り台の側面を調べていた職人が、大きな声を上げた。
『あったぞ!』
俺たちは一斉に振り返った。
職人は建物の横を指していた。
『図面にあった入口だ!』
「本当ですか?」
フェナが尋ねる。
『ああ。石の陰に隠れていたが、確かにある!』
俺は思わず立ち上がった。
「開いてるんですか?」
職人は少し離れた場所から確認しているようだった。
『いや、木の板で塞がれている。ただ、裏手の石壁とは違う。昔の点検口らしい』
相馬さんが尋ねる。
「安全に開けられそうですか?」
『まだ分からん。だが、少なくとも石を崩さずに中を確認できる可能性はある』
俺は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
ようやく、別の方法が見つかったかもしれない。
ただ、相馬さんはすぐに動こうとはしなかった。
「まずは周囲の状態を確認してくれ。開けられるとしても、中へ入るのはそのあとだ」
『分かった!』
職人たちは慎重に確認を始めた。
俺は再び石壁へ向き直った。
「聞こえますか?」
『……ああ』
「別の入口が見つかりました。今、安全に開けられるか確認しています」
『本当か……?』
「はい」
男はしばらく黙っていた。
やがて、小さな声で言った。
『……よかった』
俺は頷いた。
「もう少しです。必ず助けに行きます」
その時、男が何かを言いかけた。
『ナオト……』
「はい?」
『水が……』
「どうしました?」
男は苦しそうに息を吐いた。
『さっきより、速く流れてる』
俺は思わず相馬さんを見た。
相馬さんもすぐに通信機を手に取った。
「フェナ、職人たちに伝えてくれ。内部の水が増えている。点検口の確認を急ぎたいが、安全確認は省くな」
『分かりました!』
フェナが走り出す。
俺は石壁の向こうへ声をかけ続けた。
「聞こえますか? 今、入口を調べていますから!」
『……ああ』
「もう少しだけ、頑張ってください!」
男は返事をしなかった。
代わりに、石壁の向こうから水の流れる音が聞こえた。
最初は小さかった。
でも、耳を澄ますと、確かに水が動いている。
俺は思わず息をのんだ。
さっきまで、こんな音は聞こえなかった。
「相馬さん!」
俺が呼ぶと、相馬さんはすぐにこちらへ来た。
「どうした?」
「水の音が聞こえます!」
相馬さんは石壁の近くで耳を澄ませた。
そして、表情を変えた。
「……確かに聞こえるな」
俺たちは顔を見合わせた。
作業員はまだ中にいる。
足を挟まれて動けない。
その場所へ、水が流れ込み始めている。
もし水が増え続ければ、救助に使える時間は限られてくるかもしれない。
その時、見張り台の側面から職人の声が聞こえた。
『開けられそうだ!』
俺は振り返った。
「本当ですか?」
『ああ! ただ、中の状態はまだ分からん!』
相馬さんがすぐに向かった。
俺も後を追う。
古い点検口の前には、何枚かの木の板が取り付けられていた。長い間使われていなかったらしく、表面は傷んでいたが、周囲の石壁には大きな崩れは見られなかった。
職人が慎重に板の状態を確認している。
「ここから入れるんですか?」
俺が尋ねると、職人は首を傾げた。
『板を外せば、人が通れるくらいの広さはありそうだ。ただ、奥がどうなっているかは分からん』
相馬さんは図面を見た。
「この入口から、作業員のいる場所までつながっている可能性があるんですね?」
『ああ。図面通りならな』
俺は図面へ目を落とした。
入口から細い通路が続き、その先で別の通路と合流している。
ただ、途中の状態は分からない。
俺の《帰り道》があれば、入ったあとに戻る方向を確認することはできる。
でも、作業員のいる場所へ進めるかどうかは別の話だった。
「相馬さん」
「何だ?」
「もし中へ入れるなら、俺も一緒に行きたいです」
相馬さんは俺を見た。
「理由は?」
「通路が複雑になっているなら、帰る道を確認できます。救助に入る人たちが戻る時に、役に立てると思います」
相馬さんは少し考えた。
「そうだな。ただし、現場の安全確認が済んでからだ。それと、お前一人では入らせない」
「分かってます」
「作業員を助けるには、怪我の状態を確認できる人間と、搬送を担当する人間も必要になる。役割を決めてから動こう」
俺は頷いた。
その時、フェナが駆け寄ってきた。
『相馬さん!』
「どうした?」
『中の作業員の人が……』
フェナは息を切らしていた。
「何があった?」
『水が増えて、足元だけじゃなく、身体の下まで濡れているそうです!』
俺は息をのんだ。
「そんなに……」
『それと、さっきから声が弱くなっています。医者も、できるだけ早く救助した方がいいと言っています』
相馬さんはすぐに職人へ向き直った。
「点検口を開ける準備はできますか?」
職人は頷いた。
『周囲の石は確認した。板を外すこと自体はできそうだ。ただ、中の状態を見てからでないと、人を入れていいかは判断できん』
「分かりました。まずは内部を確認しましょう」
職人たちが作業を始める。
俺は少し離れた場所で待った。
木の板が一枚ずつ外されていく。
やがて、奥に暗い空間が見えた。
「開いた……」
俺は思わず呟いた。
職人は入口から中を確認した。
『通路がある。図面に描かれていたものと同じかもしれん』
相馬さんが尋ねる。
「奥の状態は?」
『暗くてよく見えん。ただ、入口の近くには大きな崩れはないようだ』
「水は?」
『ここには流れてきていない』
俺は少し安心した。
少なくとも、入口の近くは水が流れていないらしい。
ただ、作業員のいる場所まで安全に進めるかどうかは、まだ分からない。
相馬さんは通信機を手に取った。
「神代、こちら相馬だ。別の点検口が見つかった。内部へ入れる可能性がある」
『分かりました。現場の安全確認は?』
「職人が確認中だ。まだ人を入れる判断はしていない」
『了解しました。怪我人の搬送についても、現場のお医者さんと相談してください』
「分かった」
通信を終えると、相馬さんは俺へ向き直った。
「久世、準備しておけ」
「はい!」
俺は装備を確認した。
ようやく、救助に向かうための入口が見つかった。
ただ、ここから先が本番だ。
中に入れば、暗い通路が続いている。
作業員のいる場所まで、どんな道になっているのかは分からない。
それでも、帰る道だけは見失わないようにしたい。
俺はそう思いながら、点検口の奥を見つめた。
その時だった。
石壁の向こうから、フェナの叫び声が聞こえた。
『ナオト! 相馬さん!』
俺たちは一斉に振り返った。
「どうした!」
『作業員の人が……!』
フェナの声が震えていた。
『返事をしなくなりました!』
俺は息をのんだ。
相馬さんはすぐに通信機を取った。
「フェナ、呼びかけを続けてくれ! 医者にも確認してもらうんだ!」
『はい!』
俺は開いた点検口を見た。
ようやく見つかった、助けに行くための入口。
でも、その向こうで待っている人の声が聞こえなくなってしまった。
俺たちはまだ、中へ入れていない。
帰る道を見つける前に、助けるための時間がなくなろうとしていた。




