第135話 下りなくていい
フェナからの連絡が途切れてから、十分ほど経っていた。
俺たちは境目の監視室に残り、現場からの報告を待っていた。神代さんは机の上に安全帯とロープを並べ、使える道具を確認している。ただ、現場の状況が分からない以上、何を渡すかは決められない。
「相馬さん、向こうには高い場所で作業する人もいるんですよね?」
俺が尋ねると、相馬さんは頷いた。
「見張り台を修理していたくらいだからな。高所作業の経験がある人間はいるだろう。ただ、救助までできるかは別の話だ」
「ザイルなら登れそうですけど」
「登れることと、安全に人を連れて下りられることは違う。まして足場が崩れているなら、力任せにどうにかできる問題じゃない」
相馬さんの言う通りだった。
ザイルは身体が大きく、力も強い。昨日の救難でも負傷者を運ぶ際に頼りになったと聞いている。それでも、足元が崩れれば踏ん張る場所すらなくなる。
俺の《帰り道》も同じだ。
帰るための道が見えたところで、壊れた足場が元に戻るわけではない。今回のように取り残された場所が分かっているなら、俺が現場へ向かう理由もなかった。
「久世さん、これを見てください」
神代さんが声をかけた。
机の上には、昨日フェナたちに貸したものと同じ搬送用スリングが置かれていた。
「昨日はこれで怪我人を運びましたよね。でも、今回の救助にそのまま使えるわけではありません」
「高いところから下ろすには向いてないってことですか?」
「そうです。身体を支えて運ぶためのものと、高い場所で転落を防ぐためのものは、必要な性能が違います。形が似ているからといって、代わりに使ってはいけないんです」
神代さんは安全帯を持ち上げた。
「こちらも、渡せばすぐに使えるわけではありません。正しい装着方法や、身体を支える場所の強度を確認する必要があります」
「じゃあ、今の段階では何も渡せないですね」
「現場の人たちが何をしようとしているのか、まず聞かないといけませんね」
俺は頷いた。
昨日は必要な道具がはっきりしていた。負傷者を安全に運びたいという目的があり、フェナたちは実際に使い方を確認してから持ち帰った。
今回は違う。
子どもが取り残されていることは分かっているが、そこへどう近づくのかさえ決まっていない。
そんな状態で道具だけを渡しても、かえって危険な使い方をさせてしまうかもしれなかった。
その時、通信機から音が鳴った。
『ナオト、聞こえる?』
リュシアだった。
「聞こえるよ。どうなった?」
『フェナが話す』
少し間があって、フェナの声に変わった。
『お待たせしました。現場をもう一度確認しました』
相馬さんが通信機へ近づく。
「状況を教えてくれ」
『見張り台は石造りの土台の上に木の足場を組んだものです。壊れたのは上へ登るための足場で、子どもがいる場所はまだ残っています』
「上の部分は安全なのか?」
『そこまでは分かりません。見たところ大きく傾いてはいませんが、古い木材なので、いつまで持つかは判断できないそうです』
相馬さんは眉を寄せた。
「子どもは動いているか?」
『いいえ。ザイルが声をかけて、その場から動かないように伝えています』
「それでいい。無理に下りようとさせるな」
『はい』
フェナは一度言葉を切った。
向こう側から、何人かが話している声が聞こえる。
『それと、別の場所から近づけるかもしれません』
「別の場所?」
『見張り台の裏側に、少し高くなった石の通路があります。そこからなら、長い梯子を使って上へ近づけるかもしれないと、修理をしていた職人が言っています』
「その通路は崩れた足場とつながっているのか?」
『いいえ。見張り台の裏側にある別の通路です。ただ、梯子をかけられるかどうかは、今確認しているところです』
相馬さんは少し考えた。
「分かった。梯子を使うなら、支える場所も確認してくれ。見張り台の壊れた部分に体重をかけないことが重要だ」
『はい。職人にも伝えます』
「それと、子どもの様子は?」
『怪我はしていないようですが、かなり怖がっています。声をかけても、時々しか返事をしてくれません』
俺は思わず通信機を見た。
高い場所に一人で取り残され、下りるための足場まで崩れてしまったのだ。大人でも怖いだろう。
まして子どもなら、助けが来るまでじっとしているだけでも大変なはずだ。
「リュシアは何してるの?」
俺が聞くと、フェナが少し笑った。
『子どもに話しかけています。さっきからずっと』
「何を話してるんですか?」
『好きな食べ物とか、町で遊ぶ場所とか。あとは、自分が小さい頃に木から落ちた話をしています』
「そんなことあったんだ」
『本人は笑い話にしていますけど、今は子どもの気を紛らわせるのに役立っているみたいです』
俺も少し安心した。
リュシアは難しい説明が得意な方ではない。それでも、人と話すことは好きだし、相手を怖がらせないように接することもできる。
現場にいる人間だからこそ、できることがあるのだと思った。
「フェナ、リュシアにはそのまま話しかけてもらって。子どもが落ち着いているなら、無理に何かさせなくていいと思う」
『はい。私もそう伝えています』
通信が終わったあと、神代さんが小さく息をついた。
「裏側から近づけるなら、少し状況が変わりますね」
「そうですね。でも、まだ梯子が使えるか分からないんですよね」
「はい。だからこそ、現場で確認してもらう必要があります」
相馬さんは監視担当へ連絡を入れ、向こう側から報告があればすぐに知らせるよう指示した。
俺たちは再び待つことになった。
ただ、今度はさっきまでとは少し違っていた。
子どもがいる場所と、そこへ近づくための候補が分かった。救助に必要なことが、一つずつ具体的になってきている。
あとは現場の人たちが、安全に動けるかどうかだった。
しばらくして、通信機から再びフェナの声が聞こえた。
『梯子を持ってきました。修理をしていた職人が、使える場所を確認しています』
「子どもは?」
『まだ上にいます。リュシアが話しかけています』
相馬さんが尋ねる。
「梯子を使って誰が登るつもりだ?」
『ザイルが行くと言っています。でも、職人が先に確認したいそうです』
「職人は高い場所での作業に慣れているのか?」
『はい。見張り台の修理も、その人が担当しています』
「なら、現場の判断を優先しよう。こちらから無理に登れとは言えないからな」
『分かりました』
フェナの声が少し遠くなった。
向こう側で誰かと話しているらしい。
やがて、リュシアの声が聞こえた。
『ナオト』
「どうした?」
『子ども、泣いてる』
「そっか」
『お母さんのところに帰りたいって』
俺は返事に詰まった。
当然だと思った。
こんな場所に取り残されて、帰りたいと思わない子どもはいないだろう。
『私、帰れるって言った』
「うん」
『でも、まだ下りられない』
リュシアの声には、いつもの明るさがなかった。
俺は少し考えてから答えた。
「リュシア、帰れるって言ってくれていいと思うよ。ただ、今すぐ下りなくてもいいってことも伝えてあげて」
『下りなくても?』
「うん。怖いのに無理して動いたら危ないから。助けに行く人たちが準備してる間は、そこにいていいんだって」
少し間が空いた。
『分かった。言ってくる』
リュシアの声が遠ざかる。
そのあと、子どもに話しかけているらしい声が小さく聞こえた。
言葉までは分からなかったが、リュシアはいつもよりゆっくり話していた。
俺は通信機を見つめながら、返事を待った。
しばらくして、フェナが戻ってきた。
『ナオト、ありがとうございます』
「え?」
『子どもが少し落ち着きました。リュシアが、今は動かなくていいって伝えたんです』
「よかった」
『さっきまでは自分で下りようとしていたみたいです。でも、今は助けを待つって言ってくれました』
俺は胸をなで下ろした。
助けを待つというのは、簡単なことのようで難しい。
怖い場所から早く離れたいと思えば、どうしても身体を動かしたくなる。けれど、その一歩が危険につながることもある。
今回は、何もしないことが子ども自身を守る行動になっていた。
その時、向こう側で大きな声が上がった。
『フェナ! こっちへ来てくれ!』
ザイルの声だった。
フェナがすぐに応じる。
『どうしたの?』
『梯子をかける場所が決まった。職人が上まで届くって言ってる』
『分かった。今行く!』
足音が遠ざかり、通信機には周囲のざわめきだけが残った。
俺は思わず立ち上がった。
「始まるみたいですね」
「ああ。ただ、まだ救助が終わったわけじゃない」
相馬さんは落ち着いた声で答えた。
「今は向こうの判断を待つしかない」
俺は椅子へ座り直した。
ここから現場の様子を見ることはできない。
何人が梯子を支えているのか、どのくらいの高さまで登るのか、子どもがどんな顔をしているのかも分からない。
それでも、通信機の向こうでは確かに救助が進んでいた。
しばらくして、フェナの声が戻ってきた。
『梯子を使って、職人が上へ近づいています』
「足場は大丈夫なのか?」
相馬さんが尋ねる。
『梯子は石の通路から、壊れていない壁の部分へかけています。職人が確認して、見張り台の足場には体重をかけない方法を選びました』
「分かった。続けてくれ」
『はい』
フェナは現場の様子を確認しながら、短く報告を続けた。
職人は梯子の上から子どもに声をかけ、すぐには動かさず、まず身体を支えられる位置まで近づこうとしているらしい。
ザイルは梯子の下で待機し、ほかの作業員と一緒に支えている。
リュシアは少し離れた場所から、子どもに話しかけていた。
『大丈夫。こっち見て』
その声が通信機から聞こえた。
『お母さん、待ってるよ。だから、ゆっくりでいい』
子どもの返事は聞き取れなかった。
代わりに、フェナの声が入る。
『職人が子どもの近くまで行けました』
俺は息を止めた。
『今、身体を支えています。子どもが怖がっているので、少し待っています』
相馬さんは何も言わなかった。
神代さんも通信機を見つめている。
向こう側から、職人が何かを指示する声が聞こえた。
続いて、ザイルの返事。
『分かった! こっちは任せろ!』
少し間が空いた。
その時だった。
乾いた木の割れる音が、通信機から響いた。
『危ない!』
誰かが叫んだ。
俺は反射的に立ち上がった。
「フェナ!」
返事がない。
代わりに、何人もの声が重なって聞こえてくる。
『動くな!』
『梯子はそのまま!』
『子どもを離すな!』
何が起きたのか分からなかった。
俺たちは現場にいない。
今すぐ走っても、間に合う距離ではない。
通信機を握りしめる俺の横で、相馬さんが声を上げた。
「フェナ、聞こえるか! 状況を教えてくれ!」
数秒後、フェナの声が返ってきた。
『聞こえます! 子どもがいた場所の端が崩れました!』
「子どもは?」
『職人が支えています! 梯子は無事です!』
「怪我は?」
『まだ分かりません!』
相馬さんは一度だけ息を吸った。
「分かった。今は現場の人間の判断に任せろ。こちらへ報告するために手を止める必要はない」
『はい!』
通信が途切れた。
俺は椅子の背もたれを握った。
さっきまで子どもがいた場所が崩れた。
もし、もう少し救助が遅れていたら。
そんな考えが頭をよぎったが、今は何も分からない。
職人が子どもを支えている。
梯子も無事だ。
まずは、その二つの情報を信じるしかなかった。
「久世」
相馬さんが俺を呼んだ。
「はい」
「焦るな。向こうは今、救助の最中だ」
「……分かってます」
「お前が何かしたくなるのは分かる。でも、今は現場の人間が集中できるようにすることが大事だ」
俺は頷いた。
相馬さんは俺を落ち着かせようとしているだけではない。
本当に、その通りなのだ。
俺たちが何度も通信を入れれば、現場の人たちは返事をしなければならなくなる。
今必要なのは、こちらから指示を増やすことではなかった。
俺は通信機から手を離し、椅子へ座った。
どのくらい時間が経ったのか分からない。
実際には数分だったのかもしれないが、ずいぶん長く感じられた。
やがて、通信機からリュシアの声が聞こえた。
『ナオト!』
俺はすぐに顔を上げた。
「リュシア!」
『下りた!』
「え?」
『子ども、下りた! 大丈夫!』
一瞬、言葉が出なかった。
続いてフェナの声が聞こえる。
『無事に救助できました。職人が子どもを支えて、梯子から安全な場所まで下ろしました。今、怪我がないか確認しています』
「よかった……」
俺は思わず声を漏らした。
神代さんも胸に手を当てている。
相馬さんは落ち着いた表情のまま、通信機へ向かった。
「救助した職人に怪我は?」
『ありません。梯子を支えていた人たちも無事です』
「分かった。子どもの状態を確認して、必要なら医者に診せてくれ。それから、見張り台には誰も近づけないようにしておくんだ」
『はい。ザイルが周囲の人たちを離しています』
「よし。まずはお疲れさま」
フェナの声が少し柔らかくなった。
『ありがとうございます』
通信機の向こうから、リュシアの声が聞こえた。
『ナオト! 子ども、笑った!』
「本当?」
『うん! お母さん来た!』
俺も思わず笑った。
「よかったね」
『うん!』
リュシアは嬉しそうだった。
さっきまで怖がっていた子どもが、無事に母親のところへ戻れた。
それだけで、十分だった。
通信を終えると、神代さんが机の上の道具を片づけ始めた。
「結局、こちらの道具は使いませんでしたね」
「そうですね」
俺が答えると、相馬さんが口を開いた。
「それでよかったんだよ」
神代さんも頷いた。
「現場にあるものと、現場の人たちの技術で助けられたんですから」
「昨日とは違いますね」
俺が言うと、相馬さんは少し笑った。
「昨日も今日も、必要なことをしただけだ。昨日は道具を渡す必要があった。今日は必要なかった。それだけの違いだよ」
俺はその言葉を聞きながら、机の上の記録用紙を見た。
昨日の救難では、道具を貸した。
今日は、ほとんど何もしていない。
それでも、子どもは無事に帰れた。
救難というのは、必ずしも誰かが現場へ駆けつけたり、特別な道具を使ったりすることではないのかもしれない。
危険なことをしないと判断するのも、救難の一つだ。
少なくとも、今日のフェナたちはそれを実行していた。
俺がそんなことを考えていると、瀬川さんから連絡が入った。
『相馬さん、現場の報告を確認しました。救助された子どもに大きな怪我はなく、念のため町の医者に診てもらうそうです』
「了解。見張り台の周囲は?」
『ザイルさんたちが立ち入りを止めています。修理をしていた職人も、残った部分が安全かどうか分からないので、作業を中断したそうです』
「それでいい。事故の原因が分かるまでは、近づかない方がいいな」
『はい。ただ、一つ気になる報告がありました』
相馬さんの表情が変わった。
「何だ?」
『見張り台の修理についてです。今回崩れた足場は、最近交換したばかりの部分だったそうです』
俺は顔を上げた。
「古くなった足場が崩れたんじゃなかったんですか?」
『最初はそう聞いていました。ただ、職人が確認したところ、古い木材だけでなく、新しく組んだ部分も外れていたそうです』
相馬さんが腕を組む。
「原因は分かっているのか?」
『まだです。木材そのものに問題があったのか、組み方に問題があったのか、今の段階では判断できないとのことです』
「そうか。なら、原因を決めつけない方がいいな」
『はい。それと、もう一つあります』
瀬川さんは少し間を置いた。
『町の外には、同じような見張り台がほかにもあるそうです』
「ほかにも?」
『はい。今回の事故を受けて、フェナさんが修理の状況を確認したところ、別の見張り台でも足場の交換作業が進んでいることが分かりました』
相馬さんは机の上の記録用紙を手に取った。
「同じ職人が担当しているのか?」
『一部は同じ作業員だそうです。ただ、足場の組み方まで同じかどうかは分かりません』
「分かった。まずは作業を止めてもらうよう、フェナに伝えてくれ。安全を確認するまでは、無理に続けない方がいい」
『了解しました』
通信が終わった。
俺は相馬さんを見る。
「また事故が起きるかもしれないってことですか?」
「可能性はある。ただ、今の情報だけで危険だと決めつけることもできない」
相馬さんは記録用紙を机へ置いた。
「でも、確認する価値はあるだろうな」
神代さんが頷いた。
「もし同じような問題があるなら、誰かが怪我をする前に見つけられるかもしれません」
「そうだな」
相馬さんは俺へ顔を向けた。
「久世、今日の救難で一番大事だったことは何だと思う?」
少し考えた。
子どもが無事に帰れたこと。
それが一番大事なのは間違いない。
ただ、相馬さんが聞いているのは、たぶんそれだけではない。
「無理に助けようとしなかったこと、ですかね」
「どういうことだ?」
「ザイルは登ろうとしたけど、フェナが止めました。子どもも自分で下りようとしていたけど、リュシアが待つように伝えました。職人も、安全に近づける場所を探してから動いたんですよね」
「そうだな」
「だから、助けられたんだと思います」
相馬さんは頷いた。
「俺もそう思う。助けたい気持ちが強いほど、急いで動きたくなる。でも、そこで一度止まれるかどうかが大事なんだ」
俺は机の上に置かれた安全帯を見た。
今日は使わなかった道具だ。
もし現場の状況を確認せず、これを渡していたらどうなっていただろう。
使い方を間違えたり、安全ではない場所にロープを固定したりして、別の事故につながっていたかもしれない。
もちろん、道具が必要な救難もある。
昨日のように、道具があったからこそ助けられた人もいる。
だから大事なのは、使うか使わないかを決めることではなく、何が必要なのかを確かめることなのだろう。
「相馬さん」
「何だ?」
「ほかの見張り台の確認って、俺たちも手伝えるんですか?」
「何を手伝うつもりだ?」
「いや、まだ分からないですけど。もし同じような事故が起きる可能性があるなら、何かできないかなって」
相馬さんは少し考えた。
「現場の構造を調べるのは、向こうの職人たちの仕事だ。俺たちが知らない建物を、遠くから安全だとか危険だとか判断するわけにはいかない」
「そうですよね」
「ただ、確認した結果を記録したり、事故が起きた時の対応を考えたりすることなら協力できるかもしれないな」
神代さんも頷く。
「救助に必要な道具についても、事前に相談してもらえれば確認できますね」
俺は少し安心した。
今回の事故で、向こう側の人たちだけでも救助できることが分かった。
でも、それで俺たちの役割がなくなるわけではない。
必要な時に協力できるよう、準備しておくことにも意味がある。
その時、通信機が鳴った。
『ナオト、聞こえる?』
リュシアだった。
「聞こえるよ。どうした?」
『フェナが話したいって』
「分かった」
少しして、フェナの声が聞こえた。
『相馬さん、ナオト。先ほどはありがとうございました』
「子どもは大丈夫だった?」
『はい。医者にも診てもらいましたが、大きな怪我はありませんでした。今は家族と一緒に休んでいます』
「よかった」
『それと、見張り台の件で相談があります』
相馬さんが通信機へ近づく。
「ほかの見張り台についてか?」
『はい。町の人たちと話して、修理を一度止めることになりました』
「それはよかった」
『ただ、問題が一つあります』
フェナの声が少し低くなった。
『見張り台は、町の外を見張るために使っています。全部の作業を止めてしまうと、見張りを続けられない場所が出てくるんです』
「なるほど」
『だから、修理を止めたままにするわけにもいきません。でも、安全かどうか分からない場所で作業を続けるのも危険です』
相馬さんは黙って聞いていた。
フェナが続ける。
『そこで、町の人たちと相談して、まずは今ある見張り台を全部確認することになりました』
「それがいいだろうな」
『ただ、確認する人たちも、何を見ればいいのか分からない部分があるそうです』
「建物の専門的なことなら、こちらでも簡単には判断できないぞ」
『はい。それは分かっています』
フェナはすぐに答えた。
『だから、教えてほしいんです』
「何を?」
『危ない場所で作業する時、どんなことに気をつければいいのか。怪我人が出てから助けるだけじゃなくて、怪我をしないために何を確認すればいいのか』
俺は思わず神代さんを見た。
神代さんも少し驚いた顔をしていた。
フェナは続ける。
『昨日は怪我人を運ぶ方法を教えてもらいました。今日は、無理に動かないことが大事だと分かりました』
「うん」
『でも、事故が起きる前に気づけることもあるんじゃないかと思ったんです』
相馬さんは少し考えてから答えた。
「そうだな。全部の事故を防げるわけじゃないが、危険を減らすためにできることはある」
『それを、町の人たちにも教えてもらえませんか?』
相馬さんは神代さんを見る。
神代さんは頷いた。
「建物の安全性を判断することはできませんけど、作業前の確認や、危険な場所へ近づかないための基本的な考え方なら、お伝えできると思います」
「だそうだ」
相馬さんが答える。
『ありがとうございます!』
フェナの声が明るくなった。
その横から、リュシアが口を挟む。
『ナオトも来る?』
「俺?」
『うん。みんなで勉強するなら、ナオトも来たらいい』
「俺、教えられることあんまりないと思うけど」
『じゃあ、一緒に覚える』
「それならできるかも」
俺が答えると、リュシアが笑った。
『決まり!』
「いや、まだ何も決まってないからね」
フェナが慌ててリュシアを止める声が聞こえた。
そのやり取りに、神代さんも笑っていた。
相馬さんは通信機へ向かって言った。
「まずは、向こうで何を確認したいのか整理してくれ。それを見て、こちらで協力できることを考える」
『分かりました。町の人たちと相談して、まとめておきます』
「頼む」
通信が終わった。
俺は椅子へ座り直し、机の上の記録用紙を見た。
昨日は、怪我人を運ぶための道具について相談された。
今日は、取り残された子どもを助けるための相談だった。
そして今度は、事故を起こさないために何ができるかという話になっている。
少しずつ、相談される内容が変わってきていた。
「久世」
相馬さんが俺を呼んだ。
「はい」
「お前、さっき一緒に覚えるって言ってたな」
「言いましたけど」
「なら、ちょうどいい。神代と一緒に、こっちの作業前確認の資料を見ておけ」
「俺もですか?」
「当然だろ。知らないことを教えるわけにはいかないからな」
「それはそうですけど……」
神代さんが笑いながら、書類の束を持ってきた。
「大丈夫ですよ。久世さんにも分かるように説明しますから」
「お願いします」
俺は渡された資料を開いた。
そこには、高所作業の注意事項や、道具の点検方法、作業を中止する判断について書かれていた。
知らないことばかりだった。
今まで俺は、誰かが遭難した時に《帰り道》を使って助けてきた。
帰る道が分からない人を連れて帰る。
それが俺にできることで、救難の中心にあるものだと思っていた。
でも、今は少し違う。
帰る道を見つける必要がない救難もある。
俺が現場へ行かなくても、助けられる人がいる。
そして、そもそも救難が必要にならないようにすることだって、考えなければならない。
俺は資料を読みながら、ふと顔を上げた。
「相馬さん」
「何だ?」
「これって、向こうの人たちだけじゃなくて、こっちの救難にも関係ありますよね」
「ああ」
「だったら、俺もちゃんと覚えた方がいいですね」
相馬さんは少し笑った。
「今さら気づいたのか」
「すみません」
「まあ、いい。覚える気があるなら十分だ」
俺はもう一度、資料へ目を落とした。
その時、神代さんが別の紙を差し出した。
「久世さん、これも見てください」
「何ですか?」
「今回の見張り台の事故について、フェナさんから追加で確認してもらいたいことをまとめました」
そこには、事故が起きた場所や、足場の状態、修理を始めた時期などの項目が並んでいた。
俺は一つずつ目を通した。
その中に、少し気になる項目があった。
「神代さん、これって……」
「どうしました?」
「足場が崩れた原因を確認するって書いてありますけど、もし原因が分からなかったら、ほかの見張り台も使えないままになるんですか?」
神代さんは少し考えた。
「原因が分からなくても、安全を確認できる方法があれば使えるかもしれません。ただ、それを判断するのは現場の専門家ですね」
「そうですよね」
「でも、久世さんが気にしていることは大事だと思います」
「え?」
「見張り台が使えなくなったら、町の人たちは別の方法で見張りをしなければいけません。そうすると、今までとは違う場所で作業する人が出てくるかもしれませんよね」
俺は頷いた。
「そっちでも事故が起きる可能性があるってことですか?」
「可能性はあります。だから、単に危ない場所を使わないようにするだけではなく、その代わりに何をするのかも考えないといけないんです」
なるほど。
一つの危険を避けたつもりが、別の危険を生んでしまうこともある。
そう考えると、事故を防ぐというのは、思っていたよりずっと難しいことなのかもしれない。
俺は資料の余白に、一つ書き加えた。
『作業を止めたあと、代わりに何をするのか』
それを見た神代さんが頷いた。
「いいと思います。フェナさんにも確認してみましょう」
俺はペンを置いた。
今日、子どもは無事に助かった。
それで今回の救難は終わったはずだった。
でも、事故が起きた場所をそのままにしておけば、また誰かが怪我をするかもしれない。
助けたあとに考えなければいけないことが、まだ残っていた。
その時、相馬さんの通信機が鳴った。
瀬川さんからだった。
『相馬さん、フェナさんから追加の報告が入りました』
「何だ?」
『見張り台の確認について、町の責任者とも話ができたそうです』
「早いな。それで?」
『町の外にある見張り台のうち、現在修理中のものが三つあります。そのうち一つが、今日事故のあった場所です』
「残りは二つか」
『はい。ただ、そのうち一つについて、少し気になる話が出ています』
相馬さんの表情が変わった。
「どんな話だ?」
『昨日から、作業している人たちが足場の揺れを感じていたそうです』
俺は顔を上げた。
『ただ、古い建物だから仕方がないと思って、作業を続けていたとのことです』
相馬さんはすぐに答えた。
「その場所も作業を止めているんだな?」
『はい。先ほど中止を伝えたそうです。ただ、作業員が全員下りているかどうかは、まだ確認できていません』
「分かった。まずは人数を確認してくれ。誰か残っているなら、無理に動かさず状況を聞くんだ」
『了解しました』
通信が終わった。
俺は相馬さんを見た。
「また、誰か取り残されているかもしれないんですか?」
「まだ分からん。単に報告が遅れているだけかもしれない」
相馬さんはそう言って、机の上の書類をまとめた。
「ただ、確認は必要だな」
俺も頷いた。
さっきまで、事故を防ぐために何ができるかを話していた。
その答えを考える前に、もう一つの現場で何が起きているのかを確かめなければならなくなった。
相馬さんは監視担当へ向き直った。
「向こう側から連絡が来たら、すぐに知らせてくれ。それと、フェナには作業員の人数だけじゃなく、最後に誰がどこにいたのかも確認してもらうんだ」
「了解しました」
俺は机の上の資料を閉じた。
今日、見張り台から助けられた子どもは一人だった。
ほかの見張り台にも誰かが残っているのか、それとも全員無事に下りているのか。
今はまだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
事故が起きてから助けに行くより、事故が起きる前に止められる方がいい。
俺たちはそのための確認を、今から始めようとしていた。




