第133話 久世はいらない
リュシアが境目の向こうへ戻ってから、俺たちはそのまま監視場所に残った。
待つだけなら簡単だと思っていたが、実際にはそうでもない。向こう側の様子は見えず、リュシアが持っていった搬送用のスリングや固定具がうまく使えているのかも分からない。負傷者の状態が途中で変わる可能性だってある。
それでも、今の時点で俺たちにできることはなかった。
俺が向こうへ行ったところで、怪我人の状態を良くできるわけではない。《帰り道》が見えたとしても、今回は帰る経路そのものが分からないわけでもなかった。
必要な道具は渡し、使い方も伝えた。
あとは現場にいるザイルたちが、安全に二人を帰してくるのを待つしかない。
小日向が近くの椅子へ座りながら聞く。
「こういうの、今までありました?」
「何が?」
「久世さんが救難の話を聞いてるのに、現場へ行かずに待ってるの」
俺は少し考えた。
「人間側の救難なら普通にあるよ。俺が呼ばれない案件の方が多いし」
「そうじゃなくて」
小日向が境目を見る。
「久世さんが行ける場所に救難対象がいるのに、それでも行かないって判断する方です」
言われてみれば、そちらは珍しいかもしれない。
これまで俺が関わってきた救難は、最初から普通の方法では帰れない案件が多かった。だから呼ばれた時点で、《帰り道》が必要になる可能性も高かった。
今回は違う。
救難対象の場所は分かっていて、ザイルとフェナもすでに合流している。町へ戻る経路も分かっており、問題は負傷者を安全に運ぶ方法だけだった。
「初めてかもしれない」
俺が答えると、小日向は少し意外そうな顔をした。
「やっぱり落ち着かないですよね」
「まあね」
相馬さんがすぐ横から言う。
「慣れろ」
「簡単に言いますね」
「お前が全部の救難へ行く方がおかしい」
「分かってますけど」
「なら待て」
正しい。
正しいけれど、待っている間まで気楽になれるわけではない。
神代さんは境目の近くで、リュシアへ渡したものと同じ搬送用スリングを確認していた。向こうへ渡したものとは別に、予備として残してある方だ。
「まだ気になります?」
俺が聞く。
「使い方をちゃんと伝えられたかは気になります」
「リュシアなら大丈夫じゃないですか」
「リュシアさんは大丈夫だと思います」
「じゃあ何が?」
神代さんは少しだけ間を置いた。
「ザイルさんです」
「ああ」
それなら分かった。
力がある分、本人が大丈夫だと思えばそのまま持ち上げようとする可能性がある。もちろん、昨日の救難で何も学んでいないわけではないだろうが、心配になる理由は十分にあった。
小日向が聞く。
「そんなに力任せな人なんですか?」
俺と神代さんが、ほとんど同時に答えた。
「まあ」
「少し」
小日向が笑う。
「評価が微妙ですね」
「頼りになるのは間違いないんだけど」
俺は境目を見ながら続ける。
「困った時に、『俺が持つ』って最初に言いそうなんだよ」
相馬さんが横から口を挟む。
「悪いことじゃない」
「ですよね」
「ただし、救難ではできることと、やっていいことは別だ」
昨日から何度も聞いているような話だった。
でも、今回の救難はまさにそれだった。
ザイルなら負傷者を背負えるだろうし、自分一人なら狭い場所も問題なく下りられるのだと思う。それでも、背負った相手を連れている時に足を滑らせれば、二人とも危険になる。
できるからやるのではなく、安全に帰せる方法を選ぶ。
今回必要なのは、それだった。
しばらくすると、管理側に残っている瀬川から連絡が入った。
『こちら瀬川。経過時間、予定範囲内です。境目側に変化ありますか』
相馬さんが答える。
「なし。向こうからの戻りもまだだ」
『了解です。記録継続します』
短いやり取りで通信が終わる。
俺は時計を見る。
リュシアが戻ってからかなり時間が経ったように感じるが、実際にはまだ予定の範囲内だった。待っているだけだから、余計に長く感じているのだと思う。
神代さんが俺の視線に気づく。
「まだ早いですよ」
「分かってます」
「五分前にも時計見てました」
「見てました?」
「見てました」
小日向が笑う。
「やっぱり落ち着いてないじゃないですか」
「結果が気になるだけ」
相馬さんが言う。
「それを落ち着かないって言うんだ」
誰も味方してくれなかった。
さらにしばらく待つ。
境目の監視担当はカメラ映像を確認し続けているが、青い膜に変化はない。
俺も椅子へ座ったり立ったりするのをやめ、結局、境目が見える壁際で待つことにした。
その時だった。
監視担当が声を上げる。
「来ます」
全員の視線が境目へ向いた。
青い膜の向こうに人影が見え、最初に姿を現したのはリュシアだった。こちら側へは来ず、向こうから大きく手を振っている。
俺は思わず一歩前へ出た。
「リュシア」
小型スピーカーを通して呼ぶ。
『ナオト』
返事がある。
表情を見る限り、悪い結果ではなさそうだった。
相馬さんがすぐ聞く。
「どうなった」
リュシアが胸を張る。
『帰した』
その一言で、肩の力が抜けた。
小日向も隣で息を吐く。
「よかった……」
神代さんが続けて確認する。
「怪我した方は?」
『大丈夫。町、着いた』
「状態は悪くなっていませんか?」
リュシアは少し考える。
『痛い。でも最初より悪くない。怪我見る人に渡した』
神代さんも頷いた。
「スリングは使えました?」
『使えた』
リュシアは手振りを交えながら、向こうでの様子を説明する。
最初にフェナが負傷した脚を固定し、教わった通りに身体をスリングへ収めた。狭い下りでは上側にフェナと、怪我をしていないもう一人の救難対象が残り、先にザイルが下へ回ったらしい。
上下からロープを使って身体を支え、一気に落ちないよう少しずつ下ろした。途中で一度だけ負傷者の身体が岩へ寄りそうになったものの、その場で止めて位置を直し、無理に進めなかったという。
狭い場所を抜けたあとは道幅も広がり、ザイルともう一人で左右から支えながら町まで戻ることができたらしい。
俺は確認する。
「ザイル、ちゃんとゆっくりやった?」
『やった』
「本当に?」
『フェナ、ずっと怒ってた』
「なら大丈夫そうだ」
リュシアが笑った。
神代さんも少し安心した様子で聞く。
「道具は問題ありませんでしたか?」
『一つ、難しい』
「どれです?」
『足、固定するやつ。フェナ分かった。でもザイル分からない』
「それはフェナさんが分かれば十分です」
『ザイル、自分でもやるって言った』
「やらせないでください」
神代さんの返事が早かった。
リュシアが楽しそうに頷く。
『言った』
俺たちのやり取りを聞いていた相馬さんが、話を救難の確認へ戻す。
「途中で道が使えなくなった場所は」
『ない』
「魔物は」
『見た。でも遠い。来なかった』
「別の経路を探す必要はあったか」
『ない』
「分かった」
相馬さんはそこで俺を見る。
「久世」
「はい」
「お前が行く必要あったか」
分かっていて聞いている。
俺は少しだけ境目の向こうへ目を向けた。
リュシアの後ろには、ザイルもフェナもいない。二人とも町へ戻り、救難対象を引き渡したあと、それぞれの仕事をしているのだろう。
「なかったです」
俺が答えると、相馬さんは一度だけ頷いた。
「それが今回の結果だ」
小日向が聞く。
「でも、人間側の道具は必要だったんですよね」
「ああ」
「じゃあ、人間側が何もしなかったわけではない?」
「当たり前だ」
相馬さんが答える。
「久世を出さなかっただけだ。必要な支援まで断ったわけじゃない」
その言葉で、俺の中でも今回の救難が少し整理できた。
人間側がやったことは、状況を聞いて必要な道具を選び、その使い方を伝えたことだけだった。俺も神代さんも境目を越えていない。
それでも、帰れなかった二人は無事に町へ戻った。
誰が現場へ行ったかではなく、帰れなかった人が帰れたかどうか。
救難の結果として必要なのは、それだった。
リュシアが俺を見る。
『ナオト』
「何?」
『いらなかった』
思ったより直接来た。
「言い方」
リュシアが首を傾げる。
『ソウマ言った。ナオトいらない』
「相馬さん、そんな言い方してました?」
「してない」
相馬さんが即答する。
『同じ』
「全然違うから」
小日向が笑いをこらえ、神代さんも横を向いた。
俺は少しだけため息をつく。
「まあ、今回はそれでいいよ」
リュシアが意外そうな顔をした。
『怒らない?』
「何で?」
『いらないって言った』
「俺がいらなくて、二人が帰れたんでしょう?」
『うん』
「じゃあいいじゃん」
リュシアはしばらく黙って俺を見る。
答えが意外だったらしい。
『ナオト、変』
「それ、昨日も言われた気がする」
『普通、役に立ちたい』
「役には立ったよ」
俺は境目の脇に置かれている予備のスリングを見る。
「何が必要か一緒に考えたし、道具も渡した。でも、向こうへ行く必要はなかった。それだけ」
リュシアがじっと俺を見る。
『自分で帰したくない?』
「帰ってくれれば、誰が帰してもいいよ」
それは前から変わらない。
《帰り道》を持っているからといって、俺自身がすべての救難対象を連れて帰らなければならないわけではない。
俺がいなければ成立しない救難なら行く。
いなくても成立するなら、その方がいい。
リュシアは少し考えたあと、境目の向こうを振り返った。
『ザイルも言ってた』
「何を?」
『次からこれ使えば、ナオト呼ばなくていいって』
「それはちょっと極端だな」
今度は俺が困った。
相馬さんもすぐ口を挟む。
「毎回同じだと思うな」
リュシアが相馬さんを見る。
『また難しい』
「怪我も場所も道も毎回違う。今日使えた道具が、次もそのまま使えるとは限らない」
リュシアは話を聞きながら少し考え、やがて頷いた。
『その時、また聞く』
「それでいい」
相馬さんが答える。
今回うまくいった方法を、そのまま次の正解にはしない。
そこも昨日から変わっていなかった。
リュシアが持っていた道具を返そうとしたが、相馬さんが止める。
「今日は持って帰れ」
リュシアが首を傾げる。
『いいの?』
「貸すだけだ。使った状態もフェナに記録させろ。どこが使いにくかったかも聞きたい」
『分かった』
神代さんが付け加える。
「足の固定具は、もう一度使い方を確認してからの方がいいです。次に来る時、フェナさんも一緒なら説明できます」
『フェナ連れてくる』
「お願いします」
リュシアは道具を抱え直した。
その表情は、昨日助けを求めに来た時とは少し違って見えた。
あの時は、自分たちだけでは四人を帰せないと分かり、人間側まで俺を呼びに来た。
今日は違う。
必要なものを受け取り、自分たちで救難を終え、その結果を伝えに戻ってきた。
リュシアが俺を見る。
『ナオト』
「何?」
『待つの、仕事だった?』
相馬さんの言葉を覚えていたらしい。
俺は少し考えてから答える。
「たぶん」
『何した?』
「……待った」
『弱い仕事』
「そういう言い方する?」
リュシアが笑う。
俺も少し笑った。
それでも、今回は本当にそれでよかったのだと思う。
俺が境目を越えなくても、帰れなかった二人は町へ戻った。《帰り道》を使わなくても、現場にいる人たちと、足りない道具があれば救難は成立した。
それを確認できたことは、昨日向こう側へ行って四人を帰したこととは別の意味で大事だった。
リュシアが境目の奥へ戻っていく。
姿が見えなくなってから、小日向が俺を見る。
「久世さん」
「何?」
「本当に寂しくないですか?」
「ないって」
「ちょっとくらいは?」
「ない」
相馬さんが言う。
「それでいい」
俺は相馬さんを見る。
「褒めてます?」
「普通のこと言ってるだけだ」
「ですよね」
管理側へ戻る途中、俺はもう一度だけ境目を振り返った。
今日は、あの向こうへ行かなかった。
それでも二人は帰った。
俺がいなくても帰せる救難が一つ増えた。
《帰り道》で行ける場所が増えることより、こういう救難が増えていく方が、たぶんずっといい。




