第132話 呼ぶ基準
「今回は、お前を呼ばないかもしれない」
相馬さんにそう言われたまま、俺たちは境目の監視場所へ向かった。
救難要請が来ている以上、話を聞かないわけではない。ただし、俺が向こう側へ行くことを前提にはしない。さっき決めたばかりの方針を、最初の一件から本当に使うらしい。
境目まで来ると、リュシアが青い膜の向こうで待っていた。
俺たちの姿を見るなり、こちらへ近づいてくる。
『遅い』
「さっき帰ったばかりでしょう」
『今度は仕事』
「分かってるよ」
人間側から来たのは、俺と神代さん、相馬さん、小日向、それに境目担当の救難員だった。瀬川は管理側に残り、こちらから送る情報を記録することになっている。
相馬さんが小型スピーカー越しに言う。
「リュシア。最初から聞く」
リュシアが頷く。
『うん』
「帰れないのは二人で間違いないな。二人は一緒にいる?」
『いる』
「場所は分かってる?」
『分かる』
「今もそこにいる?」
『動いてない。待ってる』
相馬さんはそこで一度区切った。
俺なら、この辺りでもう「じゃあ行こう」と考えていたかもしれない。けれど相馬さんは、まだ俺を見ようともしなかった。
「怪我してるのは一人だけか」
『うん。一人、足』
「どの辺だ」
リュシアは自分の右脚の、膝より少し下を指した。
『ここ。石、落ちた』
「挟まれた?」
『もう出した。血、少し。立てない』
神代さんが一歩前へ出る。
「意識はありますか?」
『ある』
「足先は動かせます?」
リュシアは少し考えてから頷いた。
『動く。痛い』
「出血は止まっていますか?」
『フェナがやった』
「フェナさんが一緒にいるんですか?」
『フェナとザイル、いる』
俺はそこで初めて、昨日とはかなり状況が違うことに気づいた。
「もう二人とも着いてるの?」
『うん』
「じゃあ、救難側はもう合流できてるんだ」
『そう』
昨日は、ザイルとフェナ自身も救難対象と一緒に帰れなくなり、リュシアだけが人間側まで助けを求めに来た。
今回は違う。
救難対象二人の場所は分かっていて、ザイルとフェナもすでにそこへ到着している。
相馬さんが続ける。
「帰る道は分かってる?」
『分かる』
「崩れてない?」
『大丈夫』
「魔物がいて通れないわけでもない?」
『今はいない』
「じゃあ、何で帰れない」
リュシアは少し考えながら答えた。
『運べない』
相馬さんの表情は変わらなかった。
「そこを詳しく」
リュシアは手振りを交えながら説明する。
救難対象がいる場所から町へ戻る道自体は、今も使えるらしい。ただし途中に、岩の間を下りる狭い場所がある。
健康な人なら問題なく通れる。
昨日確認した近道ほど厳しい場所ではないが、一人を背負ったまま下りるには身体を安定させにくく、左右から二人で支えるには道幅が足りない。負傷した脚を岩へぶつけずに下ろすのも難しいという。
神代さんが確認する。
「担いで通るのが危ないんですね」
『うん。ザイル、やろうとした。フェナ止めた』
「フェナさんが正しいと思います」
俺が言うと、リュシアも頷いた。
『私も止めた』
「ザイル、力で何とかしようとしすぎじゃない?」
『強いから』
「強くても落としたら駄目でしょう」
『ザイルも今は分かってる』
どうやら、無理に運ぼうとしているわけではないらしい。
現場で一度止まり、人間側へ相談する。
その判断ができているなら、昨日よりずっと状況は整理されている。
相馬さんがそこで初めて俺を見る。
「久世。今の話で、お前が必要な理由はあるか」
急に振られた。
俺はもう一度、リュシアから聞いた内容を頭の中で整理する。
場所は分かっている。
救難対象二人は一緒にいる。
ザイルとフェナもすでに合流している。
帰る経路も分かっていて、道そのものが失われているわけでもない。
問題は、負傷者を安全に運ぶ方法だけだ。
「……今のところ、ないです」
「《帰り道》があれば何か変わるか?」
「たぶん、変わらないと思います」
相馬さんが眉を上げる。
「たぶん?」
「実際に向こうへ行ってないので断定はできません。でも、帰る方向で困ってるわけじゃないなら、俺が行っても搬送できるようになるわけじゃないです」
「そうだ」
相馬さんは、それ以上何も言わなかった。
その答えで十分だったらしい。
小日向が横から聞く。
「じゃあ今回は、久世さんなしですか?」
「まだ決めてない」
相馬さんが答える。
「久世がいらないことと、人間側の支援までいらないことは別だ」
そのまま神代さんを見る。
「何があれば運べると思う」
神代さんは少し考えた。
「道の形をもう少し知りたいです。狭くなる場所の長さと傾斜、それから負傷者を寝かせた状態で通せる幅があるかですね」
相馬さんがリュシアへ伝える。
リュシアは分からないところを聞き返しながら、こちらの質問を理解していく。
『寝たまま……運ぶ?』
「そうです」
神代さんが説明する。
「背負って下りるのではなく、身体を固定して、上と下からロープで支えながら少しずつ移動できるなら、その方が安全かもしれません」
リュシアはしばらく考えたあと、手で幅を示す。
『一人寝るなら通る』
「段差は?」
『大きいところ、二つ』
「下から誰か支えられます?」
『ザイル行ける』
「上にも人を残せる?」
『フェナと、もう一人いる』
救難対象は二人で、怪我をしていないもう一人は動ける。
神代さんがさらに聞く。
「ロープはありますか?」
『ある。でも、身体を乗せるものない』
そこで、話が見えた。
必要なのは、道ではない。
人手が足りないわけでもない。
負傷者を安全に運ぶための道具が足りていない。
相馬さんも同じ結論だったらしい。
「担架はその幅で通るか」
神代さんが首を横に振る。
「普通のものだと厳しいかもしれません。折り畳み式でも、実際の道幅を正確に確認できていないので、持っていって使えない可能性があります」
境目担当の救難員が言う。
「搬送用のスリングならあります。身体を包んで固定するタイプです。ロープと組み合わせれば、担架より幅を取りません」
神代さんが頷いた。
「そちらの方が良さそうですね。負傷した脚を別に固定して、身体を支えた状態で少しずつ下ろせるなら使えると思います」
俺は話を聞きながら、昨日の亀裂を思い出していた。
ミアを倒木の上で移動させた時も、誰かが背負って一気に渡ったわけではない。身体をロープで支え、両側から補助しながら少しずつ進んだ。
今回も同じだ。
安全に運べないなら、安全に運べる形を作る。
《帰り道》が必要な問題ではなかった。
相馬さんがリュシアへ言う。
「道具を渡す。それでザイルたちだけで帰せそうか、確認してこい」
リュシアが首を傾げる。
『ナオトは?』
「行かない」
少し間があった。
リュシアが俺を見る。
『行かない?』
「今の話なら、俺が行ってもやることないと思う」
『道、見ない?』
「道はもう分かってるんでしょう?」
『分かってる』
「なら大丈夫」
リュシアはまだ少し不思議そうだった。
昨日は、自分から俺を呼びに来た。
そして俺は神代さんと一緒に境目を越え、町まで行った。
だから今回も、同じように俺が来ると思っていたのかもしれない。
『ナオト、救難しない?』
「するよ」
『行かないのに?』
「俺が行くことだけが救難じゃないから」
リュシアはすぐには答えなかった。
相馬さんが横から言う。
「久世を連れていく必要がないなら、連れていかない。それで帰せる方がいい」
リュシアが相馬さんを見る。
『ソウマ、ナオト嫌い?』
「何でそうなる」
「俺も今ちょっと思いました」
「お前は黙ってろ」
神代さんが笑いをこらえている。
リュシアも少し笑った。
緊張が抜けたところで、人間側はすぐに必要な装備の準備へ入った。
用意したのは、搬送用のスリングと固定用ベルト、負傷した脚を動かさないための簡易固定具、それに向こう側でも扱いやすい長さのロープ数本だった。
何でも渡せばいいわけではない。
神代さんと救難員が、今回の状況で実際に使えそうなものだけを選んでいる。
道具を境目へ持ってくると、リュシアが一つずつ確認した。
当然、使い方は知らない。
神代さんがスリングを広げる。
「これで身体を包みます」
リュシアが覗き込む。
『袋?』
「袋じゃないです」
『大きい袋』
「人を入れて運ぶという意味では近いですけど、その言い方だとちょっと嫌ですね」
俺が言うと、神代さんがこちらを見る。
「久世さん、説明の邪魔をしないでください」
「はい」
神代さんは境目担当の救難員を相手に、実際の使い方を見せた。
身体の下へどう通すか。
どこを締めるか。
負傷した脚に余計な力をかけないため、どの位置で固定するか。
ロープを取り付ける場所と、引く時に一か所へ力を集中させないこと。
一度に細かく教えすぎても伝わらないので、途中でリュシアが理解できているかを確認しながら進めていく。
何度か見たあと、今度はリュシア自身が装着を試した。
救難員に横になってもらい、教わった通りにスリングを身体の下へ通す。
最初は上下を逆にしていたが、神代さんに直され、その次は問題なく固定できた。
『できた』
「はい。それなら大丈夫そうです」
『フェナにも教える』
「ザイルさんには、力任せに引っ張らないように言ってください」
『それ大事』
「そこは絶対に」
リュシアが強く頷いた。
ザイルへの信用がないわけではない。
ただ、力があるからこそ念押ししておきたい部分らしい。
準備が整う。
リュシアは道具を受け取ると、もう一度俺を見た。
『ナオト、本当に来ない?』
「行かない」
『ミナミも?』
神代さんが答える。
「今回は行きません。ザイルさんたちだけで安全に帰せるなら、その方がいいです」
リュシアは俺と神代さんを交互に見る。
昨日とは違う返事に、まだ少し納得していないようだった。
俺は言う。
「もし道が分からなくなったり、今聞いてる話とは別の理由で帰れなくなったりしたら、その時はまた考えるよ」
『その時、呼ぶ?』
「必要なら」
リュシアはようやく頷いた。
『分かった』
道具を抱え直し、境目の向こうへ戻っていく。
青い膜へ入る直前、リュシアが振り返った。
『帰してくる』
昨日までは、向こう側から「助けて」と言われれば、自分が行くことばかり考えていた。
でも今回は違う。
向こうにはザイルとフェナがいて、救難対象の場所も帰る道も分かっている。足りなかったのは、安全に人を運ぶための道具と方法だけだった。
「うん」
俺は頷いた。
「お願い」
リュシアが境目の向こうへ消える。
俺たちは、その場に残った。
小日向がぽつりと言う。
「本当に行かないんですね」
「うん」
「落ち着かなくないですか?」
「ちょっとだけ」
正直に答えると、小日向が笑った。
俺だって、救難要請が来たのに何もしないつもりはない。
ただ、今回はもう必要なものを渡した。
ここから先は、向こうにいる人たちの仕事だ。
相馬さんが言う。
「久世」
「はい」
「待つのも仕事だ」
俺は境目を見る。
青い膜の向こうに、リュシアの姿はもう見えない。
その先では今ごろ、ザイルとフェナが帰れない二人のそばにいる。
場所は分かっている。
帰る道も分かっている。
足りなかったものも、もう渡した。
今回は、《帰り道》を見る必要はなかった。
俺が行かなくても帰せるなら、その方がいい。
そう思っていても、無事に帰ったという報告を聞くまでは、少し落ち着かなさそうだった。




