第131話 帰ったあと
『ミア、歩けるって』
魔族側の町から戻った翌日。
御影ダンジョンの未記録亀裂、その手前に設けられた境目の監視場所で、リュシアは会うなりそう言った。
「もう?」
俺が聞き返すと、リュシアは首を横に振る。
『まだ少しだけ。いっぱい歩く、駄目』
「そりゃそうか」
昨日、ミアは左足首を大きく腫らし、自力では長い距離を歩けない状態だった。
ザイルとフェナが救難に向かい、ガルドとミアを見つけたところまではよかったものの、その後に帰路が崩れて四人とも戻れなくなった。助けを求めて人間側まで来たリュシアと一緒に、俺と神代さんも初めて自分たちの意思で境目を越えた。
四人と合流し、全員で町へ帰ると決めた時、《帰り道》は魔族側の奥へ向かって現れた。ただ、その光を追えば簡単に帰れたわけではない。古い道には崩れた場所が残り、橋を失った亀裂もあり、負傷したミアには使いにくい近道もあった。途中では魔物とも遭遇したが、それでも七人で進み、昨日のうちに全員を町まで帰すことができた。
そのミアが、もう少しなら歩けるらしい。
神代さんがリュシアへ確認する。
「骨は折れていなかったんですか?」
リュシアは少し困った顔をした。
『骨……難しい』
自分の足を指しながら、言葉を探す。
『中、ひどくないって。休めば大丈夫』
「向こうの診断方法までは分からないですね」
神代さんが俺を見る。
「そうですね。ただ、昨日より悪くなっていないならよかったです」
俺が答えると、リュシアも頷いた。
『フェナ、ナオトに言えって』
「フェナが?」
『うん。心配するから』
「俺、そんなに心配してた?」
『してた』
即答だった。
「普通に救難対象の状態を気にしてただけだけど」
『それを心配って言う』
言われてみれば、その通りだった。
神代さんが少し笑う。
「今回はリュシアさんの方が正しいですね」
「今回はって何ですか」
『いつも私、正しい』
「それは違う」
リュシアは不満そうな顔をしたが、それ以上は言い返さなかった。
境目の向こうには、今日はザイルもフェナも来ていない。救難の相談ではなく、昨日の結果だけを伝えるためにリュシアが一人で来たらしい。
ミアは治療を受けながら休んでおり、ガルドも大きな怪我はなかったため、すでに仕事へ戻るつもりだという。フェナは昨日使った古い道について、崩れていた場所や通れなくなっていた経路を記録し直しているらしい。
そしてザイルは――。
『ザイル、ナオト弱いって言ってた』
「それ、報告しなくていいから」
『でも帰したって』
「後半だけでいいでしょう」
リュシアが笑う。
ザイルなりに認めてくれた、ということにしておく。
少なくとも、昨日の救難は終わった。四人は町へ帰り、俺と神代さんも人間側へ戻った。今日確認したかったのは、救難のあとにミアの状態が悪化していないかということだけだったので、それが分かれば十分だった。
「今日はもう戻る?」
俺が聞く。
『うん』
「わざわざありがとう」
リュシアは一度だけ境目の向こうを見てから、こちらへ向き直る。
『また来る』
「何かあったら?」
『何もなくても来る』
「それ、相馬さんに怒られない?」
『ソウマいない時に来る』
「覚えるところ間違ってるよ」
リュシアは楽しそうに笑い、そのまま境目の向こうへ戻っていった。
青い膜の奥へ姿が消えるのを見届け、俺たちは監視担当へ一言伝えて管理側へ戻った。
人を帰す仕事自体は昨日で終わっている。
ただ、救難所ではその後の仕事がまだ残っていた。
中へ入ると、瀬川がすでに端末を開いており、小日向もその隣に座っている。
俺たちを見るなり、小日向が聞いた。
「ミアさん、どうでした?」
「少し歩けるって。長く歩くのはまだ駄目らしい」
「よかった」
「フェナからの伝言だって」
「ちゃんと結果まで返してくれるんですね」
瀬川が端末から視線を上げる。
「その情報も記録しますか?」
少し離れた机にいた相馬さんが答えた。
「昨日の救難記録には足すな。今日確認した経過として別に残せ」
「了解です」
瀬川はすぐ入力を始める。
小日向が首を傾げた。
「同じ人の話なのに、分けるんですか?」
「昨日確認できてなかった情報を、昨日の時点で分かってたみたいに混ぜるなってことだ。いつ何が分かったかも含めて記録だからな」
「なるほど」
小日向が頷く。
俺も横から端末を見る。
昨日の記録は、すでにかなり整理されていた。
魔族側でザイルたち四人と合流したあと、七人で町へ帰る集団として《帰り道》が現れたこと。古い道には現在使えない場所が残り、橋を失った亀裂では倒木と持参したロープを使って通れる状態を作ったこと。途中で確認した近道は、歩ける人だけなら使えそうだったものの、負傷したミアを連れて通るには適さないと判断して選ばなかったことも記録されている。
町へ到着したあと、ミアとガルドが別行動になり、フェナも二人に付き添った。それでも《帰り道》の表示は残り、ザイルとリュシアの報告先まで同行したところで消えた。その後、俺と神代さんが人間側へ帰ると決めた時には新しい光が境目方向へ現れ、人間側へ戻ったあとも地上まで表示が続いたことまで、確認できた順番のまま書かれていた。
「昨日見たままですね」
俺が言う。
瀬川が頷く。
「それ以外は入れてません」
「『魔族にも使える』とかは?」
「書いてません」
小日向が聞く。
「でも、実際に使えたんですよね?」
相馬さんがこちらを見る。
「昨日はな」
その一言で、小日向も意味に気づいたらしい。
「ああ……一回だけですもんね」
「一回できたことと、条件が分かったことは別だ。次も同じ人数、同じ場所、同じ状況になるわけじゃない」
「じゃあ、まだ『魔族にも《帰り道》が使える』とは言わない?」
「昨日の四人を含む集団では表示された。それだけだ」
瀬川も端末を指す。
「記録もその表現にしています」
俺も頷いた。
昨日、自分の目ではっきり光を見て、実際に町まで帰すこともできた。それでも、一度成功したから次も同じとは限らない。《帰り道》は俺自身にも分からないことが多い以上、分かったふりをして決まりを増やさない方がいい。
相馬さんが別の資料を机へ置いた。
「問題はこっちだ」
「まだ何かあるんですか?」
「ある。むしろ昨日帰ってきたから増えた」
嫌な言い方だった。
俺と神代さんも近くへ行く。
資料に並んでいたのは、昨日の救難そのものではなく、境目周辺の運用に関する項目だった。
人間側から魔族側へ渡った人数や持ち出した装備、帰還までにかかった時間、人間側と直接やり取りできなくなった地点。さらに、境目付近に残した救難員や予備装備、俺たちが予定通り戻らなかった場合の対応まで記録されている。
昨日は目の前の救難に必要なことだけを考えていたが、こうして見ると、人間二人を境目の向こうへ送るだけでも相当な準備が必要だったことが分かる。
神代さんが資料を見ながら言う。
「昨日は救難対象が四人いて、既知の帰路ではミアさんを運べなかった。だから久世さんが行く意味がありました」
「ああ」
相馬さんが頷く。
「だが次から、『向こうで誰か困ったから久世を出す』にはしない」
俺は相馬さんを見る。
「もちろん、そのつもりですけど」
「お前がそう思ってても、周りがそうなる」
「周り?」
相馬さんは机の資料を指で軽く叩いた。
「昨日、人間が魔族側へ入って、帰れなくなった連中を町まで連れて帰った。その事実は向こう側にも残る」
言われて、俺はさっきのリュシアの話を思い出した。
ミアは治療を受け、ガルドは仕事へ戻ろうとしている。フェナは昨日の道を記録し直し、ザイルも俺たちと一緒に帰ったことを知っている。
昨日の救難は、人間側だけの出来事ではない。
向こう側にも同じように残っていく。
小日向が言う。
「向こうで、『帰れなくなったらナオトを呼べ』みたいになるかもしれないってことですか?」
「可能性はある」
「いや、それは困るな……」
俺が言うと、神代さんがこちらを見る。
「久世さん、昨日かなり目立ちましたからね」
「目立ちたくて行ったわけじゃないですよ」
「分かってます」
相馬さんが続ける。
「だから先に決める」
「何をです?」
「久世を出す基準だ」
部屋が少し静かになった。
相馬さんは俺一人ではなく、その場にいる全員へ話すように続ける。
「救難要請が来たから久世を呼ぶ、そんな仕組みにはしない。まず、場所が分かってるか。帰る道が分かってるか。怪我人はいるか。向こうの救難側だけで対応できるか。人間側から道具を渡せば済むのか。その辺を確認してから判断する」
「それで駄目なら、俺?」
「そこで初めて候補に入る」
即答だった。
「候補なんですね」
「当たり前だ」
「昨日行ったばっかりなのに」
「昨日行ったから言ってる」
相馬さんは資料を俺の方へ滑らせた。
「お前一人しか見えない道に、向こうの救難まで全部乗せ始めたら終わりだ」
その考え方には覚えがあった。
久世がいるから救える。それはいい。
久世がいなければ救えない。そこまで行けば、救難としては弱くなる。
対象が人間から魔族へ広がったとしても、その部分まで変える必要はない。むしろ救難の範囲が広がった今だからこそ、以前より重要になるのだと思う。
神代さんも頷いた。
「私も賛成です。昨日も、《帰り道》だけで帰れたわけではありません」
相馬さんが聞く。
「古い道を知ってたのは誰だ」
「フェナさんです」
「亀裂を越える方法を考えたのは」
「みんなで使えるものを探しました」
「魔物を追い払ったのは」
「神代さんとリュシア、ザイルですね」
「近道がミアに向かないと判断できたのは」
俺は少し考えてから答える。
「神代さんたちが実際に道を確認したからです」
「そうだ」
相馬さんは俺を見る。
「お前がやったのは、全員で帰れる可能性の高い方向を示したことだ。それは昨日は必要だった。だから出した。だが、帰る方向も方法も分かっている救難にまで、お前を連れていく理由はない」
何も言い返せなかった。
というより、言い返す必要がなかった。
その通りだと思った。
小日向が少し笑う。
「久世さん、仕事減りますね」
「それならありがたいけど」
「寂しくないですか?」
「何が?」
「『俺がいないと救えない』みたいなやつ」
「ないよ」
俺はすぐ答えた。
本当にない。
俺がいなくても帰せるなら、その方がいい。俺が必要になるということは、それだけ誰かが普通の方法では帰れなくなっているということでもある。
だったら、呼ばれない日の方がたぶんいい日だ。
神代さんが俺を見る。
「久世さんらしいですね」
「普通じゃないですか?」
「そう思える人ばかりなら、相馬さんも苦労しないんじゃないですか」
相馬さんが小さく息を吐いた。
「神代さん、その通りです」
「何で俺の方見て言うんです?」
返事はなかった。
瀬川が端末に新しい項目を作る。
「では、魔族側から救難要請があった場合も、まず既知情報を整理して必要性を判断する。そういう形でいいですか?」
「暫定でな」
相馬さんが答える。
「決まりにしすぎるな。現場は毎回違う。ただし、最初から久世ありきにはしない」
「了解です」
瀬川が入力を始める。
俺はその画面を見ながら、昨日のことを思い出していた。
初めて境目を越えた時、《帰り道》は出なかった。四人と合流し、七人で町へ帰ると決めたところで初めて光が現れたが、その先に何でも解決してくれる便利な道が用意されていたわけではない。
通れない場所は自分たちで通れるようにし、戦わなければ進めない時には必要な分だけ戦い、使わない方がいい近道は自分たちで判断して避けた。
それでも、最後には全員帰ることができた。
それで十分だった。
相馬さんが資料をまとめる。
「今日はこれで終わりだ」
小日向が聞く。
「境目の監視は?」
「継続。向こうから何か来たら、いつも通り内容を確認する」
「リュシアさんが遊びに来たら?」
「帰せ」
「相馬さん、本人にも言えます?」
「言える」
たぶん本当に言う。
俺が笑いそうになったところで、救難所の扉が開いた。
入ってきたのは、境目の監視担当だった。
「相馬さん」
その声を聞いただけで、部屋の空気が変わった。
相馬さんが顔を上げる。
「どうした」
「境目に、またリュシアが来ています」
俺は時計を見る。
さっき戻ったばかりだった。
「忘れ物?」
俺が言う。
監視担当は首を横に振った。
「いえ。救難の相談です」
部屋の視線が一斉に集まる。
昨日、初めて向こう側へ行って四人を帰したばかりだというのに、その翌日にはもう次の救難要請が来た。
小日向が小さく言う。
「早いですね……」
俺も同じことを思った。
けれど、相馬さんはすぐには立ち上がらなかった。
代わりに、さっき瀬川が作ったばかりの項目へ目を向ける。
「内容は」
監視担当が答える。
「場所は分かっているそうです。救難対象は二人。どちらも生存確認済みです」
「怪我は」
「一人が歩けないと」
俺は反射的に立ち上がりかけた。
その瞬間、相馬さんが言う。
「久世、座ってろ」
「え?」
相馬さんは俺を見ず、そのまま監視担当へ質問を続ける。
「帰る道は分かってるのか」
「はい」
そこで俺の動きが止まった。
相馬さんはようやくこちらを見る。
「昨日とは違う」
「でも、歩けない人がいるんですよね」
「ああ」
「なら――」
「まず確認する」
相馬さんは、ついさっき自分で決めたばかりの項目を指した。
場所が分かっている。
帰る道も分かっている。
あとは怪我の状態と、向こう側の人間だけで運べるのか、それとも人間側から何かを渡せば帰せるのかを確認すればいい。
全部分かってから、必要な人間を決める。
昨日までなら、俺はもう装備の準備を始めていたと思う。
けれど、今日は違った。
相馬さんははっきり言った。
「今回は、お前を呼ばないかもしれない」
帰れない人がいる。
それでも、俺が行かない救難もある。
昨日、向こう側まで行って帰ってきたばかりだからこそ、その意味が少しだけ分かる気がした。
俺がいなくても帰せるなら、その方がいい。
たぶん、それも救難だった。




