第129話 帰る場所
古い道を抜けてしばらく進むと、フェナが持っている記録板と実際の道が、ようやくきれいに重なった。
それまでのように崩れた石組みを探したり、昔の記録と今の地形を見比べたりする必要はない。地面には新しい足跡が残り、左右の木々にも人の手が入った跡がある。道幅にも余裕があり、ザイルとガルドが並んでミアを支えたまま進める広さがあった。
リュシアが前方を指す。
『ここから、いつもの道』
「町まで続いてる?」
『うん』
フェナも記録板を閉じた。
完全に安全になったわけではないが、少なくとも長く使われていなかった道は抜けたらしい。
俺は足元の《帰り道》を確認する。
淡い光も、今使われている道と同じ方向へ伸びていた。
神代さんが聞く。
「ここから町まで、どのくらいですか?」
リュシアが少し考える。
『今の速さなら、三十分くらい』
「ミアさんの状態を見ながらなら、もう少しかかりそうですね」
『うん』
ここまで来たからといって、最後だけ急ぐ理由はない。
ミアは長い距離を移動してきている。左脚へ強く体重をかけてはいないが、痛みが続いていることに変わりはなく、神代さんとフェナは一定の間隔で固定と腫れを確認していた。
俺たちは少し広い場所を見つけ、もう一度休憩を取ることにした。
ミアを座らせると、ガルドがすぐ水を渡す。ザイルも少し離れた場所へ腰を下ろしたが、休むより先に周囲を確認していた。
神代さんが小さな声で言う。
「ザイルさん、ずっとああですね」
「休んでるように見えないですね」
リュシアが聞きつける。
『ザイル、いつもあれ』
「疲れないんですか?」
『疲れる。でも顔に出さない』
「相馬さんみたいですね」
リュシアが首を傾げる。
『ソウマも怖い』
「そこじゃないです」
神代さんが少し笑った。
フェナはその間にミアの左脚を確認していた。
腫れは残っているものの、急に広がった様子はない。足先の感覚もあり、本人も痛みの程度は大きく変わっていないと答えた。
神代さんが言う。
「ここまで来たなら、今の固定のままでいいと思います。町に怪我を診られる人はいますか?」
リュシアが訳す。
ミアが答え、フェナも何か付け加えた。
『いる。怪我見る人いる』
「なら、着いたらすぐ診てもらった方がいいです」
『分かった』
俺はそのやり取りを聞きながら、少しだけ安心した。
向こう側でどんな治療をしているのか、人間側と同じ方法なのかは分からない。それでも、怪我をした人を受け入れる場所があるということだけは分かった。
今はそれで十分だった。
休憩を終え、俺たちは再び歩き始めた。
現在使われている道へ入ってからは、進み方もかなり安定した。大きな段差や深い亀裂はなく、ミアを左右から支えたまま進める。リュシアとフェナも古い記録を何度も確認する必要がなくなった分、周囲へ意識を向ける余裕が増えていた。
しばらくすると、道の脇に小さな印が立っているのが見えた。
木の板のようなものに、俺には読めない文字が刻まれている。
「これは?」
俺が聞く。
『町までの印』
「案内板みたいなもの?」
『たぶん同じ』
「読めないけど」
『ナオト、読めない』
「そこ強調しなくていいです」
リュシアが少し笑う。
フェナはその印を見たあと、自分の記録板にも何かを書き込んだ。
今回通ってきた古い道の状態を残すつもりなのかもしれない。
俺は以前、フェナが話していたことを思い出す。
道が変わった場所。
危険な場所。
魔物が出た場所。
行きと帰り。
そういうものを記録していると言っていた。
「さっきの亀裂とかも記録する?」
俺が聞く。
リュシアがフェナへ伝える。
フェナはすぐ頷いた。
『するって。古い道、今の形と違うから』
「倒木で渡ったところも?」
『する』
「じゃあ、次に使う人は今日より分かりやすいですね」
リュシアが訳すと、フェナは少し考えたあと頷いた。
その反応を見て、俺は何となく瀬川を思い出した。
見たことを見たまま残す。
分からないことを勝手に決めつけない。
やっていることは、向こうでもそれほど違わないのかもしれない。
道の先には、少しずつ人工物が増えていった。
最初は木の柵のようなものだった。その先には石を積んだ低い壁があり、さらに進むと、道の脇に畑のような場所も見えてくる。黒い地面をいくつかに区切り、見たことのない植物が規則的に植えられていた。
俺がそちらを見ていると、神代さんが言う。
「久世さん」
「分かってます。観光じゃないです」
「まだ何も言ってません」
「言おうとしてましたよね」
「少しだけ」
リュシアが振り返る。
『ソウマに怒られる?』
「帰ってから、余計なことしたって言われたくないので」
『ナオト、ソウマ怖い』
「怖いんじゃなくて、正しいこと言われるのが嫌なんです」
神代さんが横から言う。
「それ、かなり怖がってる人の言い方ですよ」
「違いますって」
そんなやり取りをしているうちに、前方の景色が開けた。
木々の向こうに、建物が見える。
人間側の住宅とは形が違い、石と木を組み合わせた低い建物が多い。屋根の形も一様ではないが、道の両側へ建物が並び、その間を人が行き来している様子は、思っていたよりずっと普通だった。
リュシアが言う。
『町』
俺は足を止めそうになったが、すぐミアを見る。
まだ町へ着いただけだ。
救難は終わっていない。
「ミアさんを診てもらえる場所は?」
リュシアが前方を指す。
『もう少し先』
俺たちはそのまま進んだ。
町の入口らしい場所には大きな門はなく、道の両側に石柱が立っているだけだった。
俺たちが近づくと、最初にこちらへ気づいた魔族が足を止めた。
少し遅れて別の人も振り返る。
視線が一斉に集まった。
当然だと思う。
角のない俺と神代さんは、どう見てもこの町の人間ではない。
一人が何か声を上げる。
少し離れた場所にいた別の人も、こちらを見る。
神代さんが声を落とした。
「警戒されてますね」
「そりゃしますよね」
リュシアが前へ出て、周囲の人たちへ大きな声で何かを説明する。
俺には内容は分からない。
ただ、途中でザイルやフェナの名前が出たことだけは聞き取れた。
話を聞いていた人たちの視線が、俺たちからミアへ移る。
そこで空気が少し変わった。
一人がすぐ町の奥へ走っていき、別の二人がこちらへ近づいてミアへ声をかける。
ミアが答えた。
リュシアが俺たちへ説明する。
『ミア知ってる人』
「家族?」
『一人、家の近くの人。もう一人、仕事一緒』
その二人は俺と神代さんを気にしてはいたが、今はミアの状態を確認することを優先していた。
少しすると、町の奥から数人が簡単な担架のようなものを持ってこちらへ来た。
フェナが何か説明し、神代さんもリュシアを通して左脚の状態を伝える。
「強く腫れています。長く歩かせない方がいいです。足先は動いていて、感覚もありますが、骨の状態までは分かりません」
リュシアが訳す。
向こうの一人が真剣に聞き、ミアの脚を確認する。
そのあとフェナとやり取りをしながら、ミアを担架へ移すことになった。
ここまで支えてきたザイルとガルドが身体を持ち上げ、神代さんとフェナが負傷した左脚を支える。
ミアが担架へ乗ると、周囲からいくつか声が上がった。
何を言っているのかは分からない。
ただ、ミアの表情は少し緩んでいた。
ガルドも近くにいた一人へ何か話している。
俺はリュシアを見る。
「何て言ってるの?」
『帰ってきたって』
それだけだった。
俺はもう一度ミアを見る。
怪我をしている。
疲れてもいる。
それでも、町の人たちに囲まれた表情は、道中で見ていたものとは違った。
ここがミアの帰る場所なんだと思った。
担架が町の奥へ運ばれていく。
ガルドもそのあとを追おうとしたが、一度こちらへ戻り、俺たちに何かを言った。
リュシアが訳す。
『ありがとうって』
「無事に帰れてよかったです」
リュシアが伝える。
ガルドは一度深く頭を下げてから、ミアのあとを追っていった。
フェナも一緒に行こうとする。
神代さんが呼び止めた。
「フェナさん」
フェナが振り返る。
「ミアさんの状態があとで分かったら、リュシアさんに伝えてください」
リュシアが訳す。
フェナは頷き、記録板を持ち直して二人のあとを追った。
残ったのは、俺、神代さん、リュシア、ザイルの四人だった。
俺は足元を見る。
《帰り道》の光は、まだ消えていない。
ただし、さっきまでとは少し状況が違う。
ガルドとミアは町の人たちに引き継がれ、俺の中でも、もう一緒に移動する救難対象ではなくなっている。
それでも光は残り、町の中へ少しだけ続いていた。
神代さんが聞く。
「まだ見えてますか?」
「はい」
「ザイルさんとリュシアさんがいるからでしょうか」
「かもしれません。でも、今ここで決めつける必要はないと思います」
ザイルも町へ戻る途中だった。
リュシアも同じだ。
一方、俺と神代さんは最終的に人間側へ戻らなければならない。
今の光が誰を含んでいるのか、無理に結論を出す理由はなかった。
ザイルが何か言う。
リュシアが訳した。
『俺たちも戻るって』
「どこへ?」
『いつもの場所。道を見る人たちいるところ』
救難が終わったことを報告するらしい。
「じゃあ、そこまで一緒に行きます」
神代さんも頷いた。
町の中へ進む。
周囲の視線はまだ集まっている。
近くの人は俺たちを見るし、子どもらしい小さな魔族が建物の陰から顔を出している。
それでも、誰かが武器を持って囲んでくるようなことはなかった。
リュシアやザイルが一緒にいることも大きいのだと思う。
俺はなるべく余計な場所を見回さず、二人のあとを歩いた。
それでも、目に入るものはある。
荷物を運ぶ人。
建物の前で何かを売っているような人。
道具を直している人。
俺たちを警戒している人。
特に気にしていない人。
俺が勝手に想像していた「魔族の世界」という言葉より、目の前にあるのはずっと普通の生活だった。
神代さんが小さな声で言う。
「思っていたより、普通ですね」
「俺も同じこと考えてました」
前を歩いていたリュシアが振り返る。
『何?』
「何でもないです」
『怪しい』
「観光してないですから」
『まだ何も言ってない』
神代さんが少し笑った。
少し進んだところで、ザイルが一軒の大きめの建物へ入っていく。
中には何人かの魔族がいて、壁にはフェナが使っているものと似た記録板がいくつも並んでいた。
ザイルが今日のことを説明し始め、リュシアも途中から話に加わる。
俺たちに分かる言葉はほとんどないが、古い道、崩れた場所、ミアの怪我、俺たちのことを順番に説明しているらしい。
やがて、中にいた一人が俺と神代さんを見る。
警戒するような表情ではあったが、ザイルの話を聞いたあと、短く頭を下げた。
俺も頭を下げる。
それ以上は何もなかった。
今は、それで十分だった。
しばらくして、リュシアがこちらへ来る。
『終わった』
「報告?」
『うん』
「ミアさんは?」
『フェナから来た。今、怪我見るところ。大丈夫そう』
神代さんが少し表情を緩める。
「よかったです」
俺も同じだった。
ここまで運んできた相手が、自分たちの側の人へ無事に引き継がれた。
これで今回の救難対象は、ひとまず帰るべき場所まで帰れたことになる。
俺は足元を確認する。
町の中へ続いていた《帰り道》の淡い光が、少しずつ薄くなっていく。
やがて完全に見えなくなった。
「消えました」
神代さんが俺を見る。
「今ですか?」
「はい」
リュシアが聞く。
『何が?』
「《帰り道》」
『終わった?』
俺は少し考えてから答えた。
「この人たちを帰す仕事は、たぶん」
リュシアがザイルへ伝える。
ザイルは短く何か答える。
「何て?」
『なら次は、ナオトたち帰る番だって』
「そうですね」
俺と神代さんは、まだ帰っていない。
町へ来ることが目的だったわけでもない。
四人を帰すために、ここまで来ただけだ。
神代さんが言う。
「長居はしない方がいいですね」
「はい。相馬さんにも、必要なこと以外するなって言われてますし」
リュシアが首を傾げる。
『もう帰る?』
「そのつもりです」
『町、見ない?』
「見ません」
『珍しいものある』
「言わないでください。気になるから」
神代さんがすぐ横を見る。
「久世さん」
「行きませんよ」
リュシアが楽しそうに笑った。
俺は最後に一度だけ、町の奥へ目を向けた。
ミアはこの先で治療を受けている。
ガルドもいる。
フェナも戻ってくるだろう。
ザイルやリュシアには、ここでの仕事と生活がある。
魔族側へ来る前、俺にとって境目の向こうは、ほとんど何も分からない場所だった。
今も、分からないことの方がずっと多い。
それでも一つだけ、はっきり分かった。
ここにも、帰ってきた人を待つ人がいる。
怪我をした人を受け入れる場所があり、仕事を終えたあとに戻る場所がある。
だから、帰れなくなる人もいる。
そして、帰れない人がいれば助ける人もいる。
俺たちが今日ここまで来た理由は、それだけで十分だった。
「帰りましょうか」
俺が言う。
神代さんが頷いた。
リュシアとザイルも、人間側の境目まで案内するために歩き出す。
今度は、俺たちが帰る番だった。




