第127話 追わない
倒木を使った仮の渡り道は、すぐに使える状態になったわけではなかった。
ザイルとガルドがロープの固定を確認し、フェナと神代さんが幹の状態を見る。俺たちが引いたことで倒木の向きは変わったが、亀裂の両側へ均等に乗っているわけではなく、こちら側の先端は岩へ引っかかる形で止まっている。人が渡っている途中でずれれば、それだけで危険だった。
神代さんが言う。
「まず、動ける人が一人で渡って固定を確認しましょう。向こう側からも支えられる状態を作ってから、次の人です」
リュシアが訳すと、ザイルがすぐ前へ出た。
しかし、フェナがそれを止める。
二人の間で短いやり取りが続いた。
「何て?」
俺が聞く。
『ザイル、最初に行く。フェナ、重いから最後にしろって』
「フェナの方が正しい気がします」
『私も』
ザイルは納得していない顔をしたが、結局フェナが先に渡ることになった。身体が軽く、反対側へ着いたあとに地面や固定場所を確認できるという理由もある。
フェナは腰へ確保用のロープを取り付け、慎重に倒木へ片足を乗せた。こちら側ではザイルとガルドがそのロープを保持する。
すぐには進まず、幹へ少しずつ体重を預ける。沈みやずれがないことを確かめてから、姿勢を低くし、必要ならこちら側から確保できる状態のまま一歩ずつ前へ進んだ。
神代さんもこちら側から倒木の動きを見ている。
「そのまま、ゆっくりで」
リュシアがすぐ伝える。
倒木は途中でわずかに軋んだが、大きく動くことはなかった。
フェナは最後の数歩を渡り切ると、反対側へ下り、その場でしゃがんで幹の接地部分を確認する。少しして問題がないと判断したのか、こちらへ手を上げた。
『大丈夫って』
リュシアが言う。
次に神代さんが渡る。
ミアを移動させる時、反対側にも支える人が必要になるためだ。
神代さんは剣が木へ引っかからないよう位置を直し、補助ロープを使いながら進んだ。フェナより体重はあるが、幹に目立った変化はない。
反対側へ着くと、すぐ近くの太い木へ新たにロープを取り、こちらから渡した補助索を固定する。
これで、亀裂の両側から渡る人を支えられるようになった。
そのあと、リュシア、俺、ガルドの順に渡る。
ザイルはミアを最後までこちら側で支えるために残った。
俺も倒木へ足を乗せる。
中央付近まで進んだところで、ふと亀裂の下が目に入った。
底は暗く、どこまで続いているのか分からない。
見なければよかったと思った。
反対側からリュシアが呼ぶ。
『ナオト』
「何?」
『前見て』
「見てます」
『今、下見てた』
「ちょっとだけです」
『落ちる』
「だからもう見てません」
神代さんも向こう側から言う。
「久世さん、会話してないで渡ってください」
「はい」
俺は余計なことを考えず、足元と前だけを見て残りを渡った。
俺が反対側へ着くと、いよいよミアの番になる。
ミア自身に倒木の上を普通に歩かせるのは避けた。持ってきた固定具とロープで上半身と腰を支え、負傷した左脚にはできるだけ力がかからないようにする。
完全に宙へ吊るすのではなく、ザイルが後ろから身体を支えながら、ミア自身も右脚を使って少しずつ進む方法だった。
反対側では神代さんとガルドがロープを保持し、フェナが到着時に左脚を受ける。
リュシアは倒木と周囲の両方を確認できる位置についた。
「急がなくていいです」
俺が言う。
リュシアが訳すと、ザイルもミアへ何か話しかける。
ミアは一度頷いた。
最初の一歩を倒木へ乗せる。
身体が少し揺れたが、ザイルがすぐ後ろから支えた。反対側の神代さんたちもロープを張りすぎず、倒れない程度の力で保持している。
二歩、三歩と進む。
ミアは痛みをこらえているようだったが、途中で止めてほしいとは言わなかった。
倒木の中央付近で一度動きを止める。
フェナが向こう側から声をかけ、ミアが返す。
リュシアが聞き取って訳した。
『足、痛い。でも大丈夫』
神代さんが言う。
「あと少しです。急がなくていいから、そのままで」
再び進む。
最後は神代さんとガルドが身体を引き寄せ、フェナが負傷した左脚を支えた。
ミアの右脚が反対側の地面へ着く。
無事に渡り切った。
ザイルも最後に亀裂を越える。
こちらへ着くと、最初に確認したのはミアの状態だった。本人が大丈夫だと答えると、ようやくザイルも少しだけ表情を緩めた。
俺も足元の《帰り道》を見る。
淡い光は、まだ先へ続いている。
「方向は変わってません」
神代さんが頷いた。
「少し休ませてから行きましょう」
俺たちは亀裂から十分離れた場所まで移動し、ミアを座らせた。
フェナと神代さんが左脚の固定を確認する。腫れが急に強くなった様子はなく、出血もない。
ザイルたちも水を飲み、少しだけ身体を休めた。
俺もそこでようやく肩の力を抜く。
「渡れましたね」
隣にいたリュシアが倒木を見る。
『ナオト、何もしてない』
「俺もロープ持ってたでしょう」
『少し』
「役割は人それぞれです」
『弱い人の言い方』
「それ、便利に使ってません?」
リュシアが少し笑う。
神代さんがこちらを見る。
「休憩中でも周りは見てくださいね」
「見てます」
そう答えた直後だった。
少し離れた木々の間で、枝が大きく揺れた。
神代さんの表情が変わる。
リュシアもすぐ立ち上がった。
今度は俺にも聞こえた。
枝が折れる音と、地面を踏む重い足音。
一つではない。
ザイルが剣へ手を伸ばす。
フェナはすぐミアの前へ移動し、ガルドもその横に立った。
俺は反射的に《帰り道》へ目を向ける。
光は変わっていない。
もちろん、それは周囲に危険がないという意味ではない。
「久世さん、ミアさんの近くへ」
神代さんが低い声で言う。
「はい」
俺はフェナとミアの近くまで下がった。
リュシアとザイルが前へ出る。
木々の間から最初の一匹が姿を見せた。
これまで見た小型の魔物より大きい。
四本脚で、肩の高さは俺の腰より上まである。全身は黒っぽい毛に覆われ、頭には後ろへ伸びる二本の角が生えていた。
さらに少し離れた場所から、二匹目と三匹目が現れる。
合計三匹。
リュシアが短く何か言い、ザイルが頷いた。
「何て?」
『この辺にいるやつ。三匹なら戦える』
神代さんが剣を抜く。
「倒す必要は?」
リュシアは魔物を見たまま答えた。
『追い払えればいい』
「分かりました」
その答えが少し意外だった。
リュシアは戦うことをためらっているわけではない。
ただ、最初から倒すことを目的にしていない。
三匹のうち一匹が先に地面を蹴った。
神代さんが前へ出る。
真正面から受けるのではなく、身体を半歩ずらして突進を外し、すれ違う瞬間に剣の腹で側面を強く打った。
魔物の身体が横へ流れる。
同時に、二匹目がリュシアへ飛びかかった。
リュシアは一歩踏み込み、相手の前脚を狙って剣を振るう。深く斬り込まず、動きを崩す程度に当てると、魔物は地面へ転がった。
三匹目はザイルへ向かう。
ザイルは避けず、真正面から剣を合わせた。
重い音が響き、魔物の頭が横へ弾かれる。
相手は数歩よろけながら後退した。
「強いな……」
思わず口に出す。
リュシアがこちらを見ずに返す。
『ナオトより』
「比べなくていいです」
最初に神代さんへ向かった一匹が、再び身体を起こす。
今度は前にいる三人ではなく、俺たちのいる後方へ視線を向けた。
その先にはミアがいる。
神代さんもすぐに気づき、位置を変えて魔物とこちらの間へ入った。
「こっちは通しません」
魔物が飛びかかる。
神代さんは一歩だけ前へ出て剣を振り、前脚へ浅く一撃を入れた。
魔物は着地と同時に向きを変え、そのまま木々の方へ走っていく。
一匹が逃げたことで、残りの二匹の動きも変わった。
リュシアとザイルから距離を取り、攻め込むのではなく少しずつ後退し始める。
ザイルが一歩前へ出た。
その腕を、リュシアが伸ばして止める。
『ザイル』
ザイルが何か言い返す。
二人の間で短いやり取りが交わされたあと、ザイルはそれ以上進まなかった。
神代さんも逃げた一匹を追わず、その場で剣を構えて周囲を警戒している。
残った二匹はさらに距離を取り、やがて木々の奥へ消えた。
俺たちはすぐには動かない。
リュシアと神代さんが周囲を確認し、ザイルも耳を澄ませる。しばらく待っても、魔物が戻ってくる気配はなかった。
神代さんが剣を下ろす。
「追わなくて大丈夫ですか?」
リュシアが答えた。
『もう離れた』
ザイルが何か言う。
リュシアが少し笑った。
「何て?」
『倒せたって』
「倒せたでしょうね」
実際、ザイルと神代さん、リュシアの三人なら追えば仕留められたかもしれない。
リュシアが続ける。
『でも追わない』
「どうして?」
リュシアはミアを見る。
そのあと、フェナとガルド、俺たちにも視線を向けた。
『帰るから』
短い答えだった。
それだけで十分だった。
ザイルも何か言い、リュシアが訳す。
『こいつら倒しても、ミア帰らない』
「そうですね」
『帰す方が先』
俺はザイルを見る。
少し前まで、《帰り道》の光が本当に役に立つのか何度も疑っていた人だった。
そのザイルが今は、魔物を倒せるかどうかではなく、ミアを帰すことを優先している。
別に俺たちが教えたわけではないのだと思う。
向こう側でも、誰かを助ける時には似たような判断をしてきたのかもしれない。
ただ、人間側で何度も見てきた考え方と同じものが、ここでも自然に出てきた。
神代さんが剣についた汚れを落とし、鞘へ戻す。
「私も同じです。追っている間に別の魔物が来たら意味がありません」
リュシアが神代さんを見る。
『ミナミも追わない』
「救難中ですから」
『強いのに?』
「強いから追うわけじゃありません」
リュシアは少し考えてから、俺を見る。
『ナオトみたい』
神代さんもこちらを見る。
「そこは久世さんの考え方に近いかもしれませんね」
「俺は戦えないから、最初から追えないですけどね」
『知ってる』
「即答しなくていいです」
少しだけ緊張が抜けた。
ただし、魔物が出た以上、ここへ長く留まる理由はない。
フェナと神代さんがもう一度ミアの状態を確認し、移動に問題がないことを確かめる。
ザイルとガルドも左右から支える位置へ戻った。
俺は《帰り道》を見る。
戦闘の間も、淡い光は同じ方向へ伸び続けていた。
もちろん、その光を見ていたから魔物を追わなかったわけではない。
《帰り道》は魔物の位置も、倒すべき相手も教えてくれない。
今やるべきことを決めたのは、ここにいる俺たちだった。
「進みましょう」
俺が言う。
リュシアが皆へ伝える。
七人で再び古い道を進み始めた。
少し歩いたところで、俺は一度だけ後ろを振り返る。
魔物が消えた木々の奥に動きはない。
神代さんが言う。
「気になります?」
「少し。でも、戻って倒した方がいいとは思ってないです」
「なら前を見ましょう」
「はい」
俺は進行方向へ視線を戻した。
足元には、《帰り道》の淡い光が続いている。
俺たちの目的は、この場所の魔物を全部倒すことではない。
知らない土地を安全にすることでもない。
今ここにいる全員で帰る。
必要なものだけを相手にして、必要がなくなったら先へ進む。
逃げた魔物の背中を追うより、今は帰る道を見るべきだった。




