第126話 道があっても帰れない
古い石組みが残る道へ入ってからも、《帰り道》の光は途切れず前へ伸びていた。
フェナの記録とも大きく外れてはいない。ただ、道の状態は進むほど悪くなっている。両側に残っていた石組みは途中から崩れ始め、地面には太い根が張り出していた。昔は歩きやすいよう整えられていたのかもしれないが、今は足を取られないよう、一歩ずつ場所を選んで進む必要がある。
ミアの移動にも時間がかかっていた。
平らな場所ではザイルとガルドが左右から身体を支え、段差がある場所では一度止まって向きを変える。左脚へできるだけ体重をかけないよう進むため、普通に歩くよりかなり遅い。それでも状態が悪化している様子はなく、フェナが定期的に固定を確かめ、神代さんもミアの表情や受け答えを見ながら進んでいた。
俺はその少し前で、《帰り道》の方向を確認する。
「このまま前です」
リュシアがフェナへ伝える。
フェナは記録板を見たあと、進行方向を指した。
『記録も同じ』
「まだ道は続いてるんですね」
『記録では』
その言い方にも慣れてきた。
記録に道が残っていることと、今もそこを通れることは別だ。
俺たちは足元を確かめながら、さらに古い道の奥へ進んだ。
しばらくすると、先頭を歩いていたリュシアが急に速度を落とし、フェナも同時に足を止めた。
『待って』
リュシアが片手を上げる。
全員がその場で止まった。
俺の位置からは、二人の先に大きな岩があるようにしか見えない。
神代さんが聞く。
「何かありますか?」
リュシアはすぐには答えず、岩の横まで慎重に進んだ。フェナも記録板を持ったままそのあとを追い、少し先を確認してから二人そろって戻ってくる。
リュシアが言った。
『道、ない』
「ない?」
俺たちも安全な位置まで前へ移動する。
そこで、ようやく意味が分かった。
道が途中で切れていた。
正確には、以前は続いていたと思われる場所が大きく崩れ、俺たちのいる側と向こう側の地面との間に深い亀裂ができている。幅は狭いところでも数メートルほどあり、底は見えない。左右を見ても崩れた場所はかなり長く続いていて、簡単に回り込めるようには見えなかった。
神代さんが亀裂の手前まで進み、十分な距離を残して足元を確認する。
剣の鞘で周囲の岩を軽く叩き、縁が崩れやすくなっていないか確かめていると、ザイルも前へ出ようとした。
リュシアがすぐ止める。
『重い』
ザイルが不満そうな顔をした。
「今はリュシアの方が正しいと思います」
『ナオトも弱い』
「俺の話はしてないでしょう」
こんな時でも、そこだけは忘れないらしい。
フェナは亀裂の手前で記録板を何枚か見比べていた。向こう側の地形と記録を何度も確認したあと、一枚の板をリュシアへ見せる。
俺が聞く。
「昔はここ、どうなってた?」
リュシアがフェナへ確認し、答えを聞いてから前方を指した。
『橋みたいなの、あった』
「橋?」
フェナが記録板をこちらへ向ける。
文字は読めないが、道を示す線の途中に細長い記号が描かれていた。
『木と石。向こうまで渡る』
「今は全部落ちた?」
『たぶん』
亀裂の縁をよく見ると、不自然に平らな石が残っている場所があった。反対側にも似た形が見えるため、以前はここに簡単な橋か通路があったのだろう。
今は、その中央部分が完全になくなっている。
俺は足元へ視線を落とした。
《帰り道》の光は消えていない。
淡い光は亀裂の手前まで伸び、向こう側にも同じ方向で続いているように見えた。
神代さんが俺の視線に気づく。
「向こうへ続いてますか?」
「はい。ただ、亀裂の中を通ってるようには見えません。ここで途切れて、向こう側からまた続いてます」
リュシアが首を傾げた。
『道ないのに?』
「今のままじゃ通れないってことなんでしょうね」
ザイルが何か言う。
『光、嘘?』
「嘘かどうかじゃなくて、光は渡り方まで教えてくれないんです」
俺は亀裂の向こうを見る。
進む方向があちらなのは分かる。
でも橋はない。
ミアを連れてこの亀裂を越える方法も、光は教えてくれない。
リュシアが俺の言葉を訳す。
ザイルはしばらく亀裂を見たあと、また何か言った。
『じゃあ、帰れない』
「今のままなら」
『なら光、役に立たない』
「そういう時もあります」
ザイルはまた難しい顔をした。
神代さんが俺の横で言う。
「少なくとも、進むならこの方向だと分かった意味はあります」
「はい。ここを安全に通れる状態へ変えられるなら、この先へ進める。でも無理なら別の方法を考える。それだけです」
俺たちはいったん亀裂から離れ、持っている道具と周囲の地形を確認することにした。
人間側から持ってきたロープはあるものの、長さには限りがあり、本格的な渡河装備まではない。ザイルたちも救難対象を探すための装備が中心で、この規模の亀裂を越える道具は持っていなかった。
神代さんが左右を見る。
「回り込めませんか?」
リュシアとフェナが記録板を確認する。
しばらくして、リュシアが首を横に振った。
『右、ずっと深い。左は昔の道ある。でも遠い』
「どのくらい?」
『今からだと、かなり』
ミアの負傷と日が落ちるまでの時間を考えると、簡単に選べる迂回ではなさそうだった。
その時、ザイルが亀裂の向こう側を指した。
一本の太い木が倒れている。
幹そのものは十分な太さがあり、倒れる方向もこちら側に近い。ただ、先端はこちらの地面まで届いておらず、そのまま橋として使うことはできない。
リュシアとザイルが短く話したあと、リュシアが説明する。
『あの木、こっちまで動かせれば渡れるかも』
神代さんが距離を確認する。
「こちら側から直接は触れませんね」
『向こうに行けば動かせる』
「どうやって向こうへ?」
リュシアが亀裂を見た。
『私なら跳べるかも』
「駄目です」
俺はすぐ答えた。
リュシアがこちらを見る。
『まだ何も言ってない』
「今言ったでしょう」
『行ける』
「失敗したら?」
『落ちる』
「だから駄目です」
リュシアは不満そうな顔をした。
ザイルも横から何か言う。
『ザイルも反対』
「そこは同意です」
『珍しくない』
リュシアが言い返す。
神代さんは二人を気にせず、周囲へ視線を向けた。
「跳ぶ以外の方法を探しましょう」
俺たちが持っているロープを使うにしても、まずは反対側へ何かを届ける必要がある。
周囲を調べていると、フェナが記録板を置き、亀裂の左側へ歩いていった。リュシアも後を追い、二人で地面に半分埋まっている細長い金属を掘り出す。
『昔の橋の道具』
「固定具みたいなもの?」
『たぶん』
同じような金属部品が少し離れた場所からもう一つ見つかった。
神代さんが状態を確認する。
「古すぎますね。人の体重を預けるのは危ないです」
フェナも同じ判断らしく、その部品を再利用しようとはしなかった。
ただ、昔の固定具が残っていた場所の近くには太い木があり、こちら側でロープを固定する場所なら作れそうだった。
俺は持ってきたロープを見る。
「こっち側の固定点は作れますね」
神代さんが頷く。
「はい。ただ、向こう側へどうやってロープを掛けるかです」
俺たちはもう一度、反対側の倒木を見る。
幹の先端は届いていなくても、枝の一部はこちらへ向かって伸びている。そこへ何かを掛けられれば、こちら側から少しずつ向きを変えられるかもしれない。
考えていると、ガルドが自分の荷物から細い紐の束を取り出した。
先端には、小さな金属片が結ばれている。
リュシアが説明する。
『道を見る仕事で使う。高いところとか、距離見る時』
人の体重を支えられる強度はなさそうだが、こちらのロープを渡すための先導線には使えるかもしれない。
神代さんが金属片と紐を確認する。
「これなら直接太いロープを投げるより扱いやすそうです」
俺も頷いた。
「まず細い紐を倒木へ掛けて、そこからロープを送る?」
リュシアが訳すと、ガルドが頷いた。
ザイルからも意見が出る。
倒木の太い枝へロープを掛け、こちらから少しずつ引けば、幹の先端を亀裂のこちら側へ寄せられるかもしれないという。
もちろん、木そのものが腐っている可能性もあり、枝が折れれば使えない。
まずは動かせるか確かめるだけだ。
ガルドが亀裂から十分距離を取り、細い紐の先端を投げる。
最初の何度かは狙いが外れたが、投げる位置と角度を変えながら試し、やがて金属片が倒木の太い枝へ掛かった。
すぐには引かない。
フェナが紐の角度を見て、リュシアへ何か伝える。
『その枝ならいいって』
細い紐を使って、こちらのロープを少しずつ倒木の枝まで送る。
ロープが枝へ回ったところで、こちら側の太い木を固定点にし、ザイルとガルドが張力を確かめた。
神代さんが言う。
「一気に引かないでください。枝が折れたら危ないです」
リュシアが訳す。
全員が倒木の状態を見ながら、少しずつロープを引いた。
最初は動かなかったが、さらにゆっくり力を加えると、幹が地面を擦りながらわずかに向きを変える。
「動いた」
俺が言う。
『もっと?』
リュシアが聞く。
「少しずつ」
ザイルとガルドが再び力を加える。
途中で大きな枝が岩に引っかかり、一度動きが止まったため、フェナとリュシアが角度を確認し、ロープを掛ける位置を調整する。
もう一度引くと、倒木の先端が少しずつこちらへ近づいてきた。
最後に太い枝が地面へ落ちる音が響く。
幹の先端が、亀裂のこちら側へ乗った。
完全な橋とは言えない。
それでも、さっきまで離れていた両側の地面が一本の太い木でつながった。
ザイルがすぐ前へ出ようとする。
「待って」
俺が止めた。
『まだ?』
「本当に使えるか確認してからです」
神代さんも頷く。
「木の状態と固定を見ます。ミアさんを渡すなら、特に確認が必要です」
ザイルは少し不満そうに下がった。
リュシアが笑う。
『ザイル、待てない』
「さっき跳ぼうとした人が言います?」
リュシアは聞こえなかったふりをした。
神代さんとフェナが倒木のこちら側を確認し、俺たちもロープを追加して幹が動かないよう固定する。木は古いものの、表面だけでなく内部まで大きく腐っている様子はなく、太さも十分にあった。
ただし、ミアを背負ったまま普通に歩いて渡るには危険がある。
神代さんが提案する。
「歩いて渡る人も身体をロープで支えましょう。先に動ける人が反対側へ渡って、両側から補助できる状態を作る。そのあとミアさんを固定具で支えながら渡す方がいいと思います」
フェナも説明を聞いて頷いた。
俺は足元の《帰り道》を見る。
淡い光は、倒木の向こうへ続いている。
でも、俺たちがここへ着いた時、この場所は全員で通れる状態ではなかった。
進む方向が分かっても、それだけで帰れるわけではない。
通れない場所があるなら、通れるようにする。
俺が人間側で何度も経験してきたことだった。
リュシアが俺を見る。
『ナオト』
「何?」
リュシアは倒木を指した。
『これ、帰り道?』
俺も木とロープを見る。
「今は、そうしてるところです」
リュシアが少し考えたあと、頷いた。
フェナはすでに渡る順番を確認し、ザイルとガルドはロープの固定をもう一度確かめている。神代さんも反対側へ渡ったあとの配置を考え始めていた。
《帰り道》は、俺たちの代わりに橋を架けてくれない。
見えているのは、全員で帰れる可能性の高い方向だけだ。
そこを本当に帰れる道にするのは、ここにいる全員の仕事だった。




