第123話 境目の向こうへ
御影ダンジョンへ到着した時には、境目までの接近経路について最終確認が終わっていた。
宮坂さんの事故が起きた床は今も立入禁止のままで、代わりに使うのは未記録亀裂の入口から壁際に沿って進む経路だった。岩盤が露出している場所だけを選び、入口側の固定点から安全索を取り、一人ずつ境目の手前まで移動する。
現地救難班長が図面を指しながら説明した。
「事故地点の中央には入りません。壁際を進んで、ここで一度停止します。次の人が来る前に、先行者は境目を越えてください」
神代さんが確認する。
「境目の直前では、二人並ばないんですね」
「はい。床への荷重をできるだけ増やさないため、一人ずつです」
俺も聞く。
「向こうへ越えたあと、安全索はどうします?」
「境目を通すつもりはありません。手前で外してください」
宮坂さんの救難ではロープやハーネスも境目を通過したが、あれは負傷者をこちらへ戻すために必要だった。今回は自分で歩ける俺たちが向こうへ行くため、人間側の安全索まで持ち込む理由はない。
境目を越えた先では、リュシアが待っている。
そこから先は、人間側で用意した安全設備の範囲外になる。
相馬さんが通信機越しに言った。
『久世』
「はい」
『もう一回だけ言う。境目を越えた時点で何か変だと思ったら、その場で戻れ』
「分かってます」
『光が出るかどうかは関係ない。まず自分たちが戻れる状態か確認しろ』
「はい」
『神代さんもお願いします』
神代さんが答える。
「分かりました」
相馬さんはそのまま続けた。
『それと、向こうで何か珍しいものを見つけても触るな』
「触りませんよ」
『久世に言ってる』
「何で俺だけなんですか」
『神代さんは触らないからだ』
隣を見ると、神代さんが少し笑っている。
「否定してくれてもいいんですよ」
「相馬さんの認識で合ってるので」
「ひどい」
こんな時でもいつも通りのやり取りができるだけで、少し気持ちが落ち着いた。
俺は装備を背負い直す。
水、救急用品、固定具、短いロープ、ライト。必要最低限に絞ったため、普段の救難より荷物は軽い。
神代さんも剣以外の装備は最低限にしている。
今回、四人を探しに行くわけではない。リュシアが現場まで案内してくれるため、俺たちの役目は四人と合流してからだ。
「行きましょう」
神代さんが言う。
「はい」
俺たちは現地救難班と一緒に未記録亀裂へ入った。
入口からしばらくは、これまでにも人が通っている場所だった。事故地点へ近づくと、壁際には新しく安全索が張られ、足元にも通行位置を示す目印が付けられている。
ただし、それは安全を保証するものではない。
今日確認した時点で、大きな変化が見られなかった場所を選んでいるだけだ。
先頭の救難員が一歩進むたびに床面と壁を確認し、俺たちは十分に距離を空けながら後ろを進んだ。
やがて、傾いた監視カメラが見えてくる。
その先には、宮坂さんの事故が起きた場所もあった。
床には亀裂が残り、一部の岩盤は境目側へ傾いたままだ。映像では何度も見ていた場所だが、実際に目の前にすると、ついそちらへ意識が向いてしまう。
「久世さん」
神代さんに呼ばれる。
「はい」
「見すぎです」
「分かってます」
俺は足元へ視線を戻した。
事故原因を調べに来たわけではない。
俺たちは壁際の経路だけを使い、境目の手前まで進んだ。
青い膜が、すぐ目の前にある。
監視画面では何度も見てきたが、実際に近くで見ると印象が違った。
壁のように完全に遮っているわけでもなく、光の板が立っているわけでもない。向こう側の景色は普通に見えているのに、その間へ薄い青色だけが重なっている。
その向こうで、リュシアが待っていた。
俺たちに気づくと手を上げる。
『ナオト!』
境目越しでも、これだけ近ければ声は直接聞こえた。
「聞こえてる」
『来た』
「来ました」
リュシアが神代さんを見る。
『ミナミも』
神代さんが頷いた。
「よろしくお願いします」
リュシアも短く頷き返す。
先頭の救難員が俺の安全索を確認した。
「ここで外します」
「お願いします」
金具が外される。
ここから先は、人間側の固定点につながっていない。
それだけで、さっきまでより境目が近く感じた。
俺は一度背後を見る。
未記録亀裂の入口へ続く人間側の道がある。
今なら、まだ普通に戻れる。
次に前を見る。
青い境目の向こうにはリュシアがいて、その先には帰れなくなっている四人がいる。
「俺から行きます」
そう言うと、神代さんがすぐ答えた。
「私が先です」
「え?」
「向こう側の足場を確認します。久世さんが先に行く理由はありません」
確かにその通りだった。
「お願いします」
神代さんは剣が周囲へ引っかからないことを確認し、境目の前に立つ。
リュシアが向こう側から足場を指した。
『まっすぐ。こっち、岩ある』
「分かりました」
神代さんが一歩踏み出す。
右手が青い膜に触れ、監視映像で見た時と同じように表面がわずかに揺れた。
そのまま腕、肩、身体が境目を越えていく。
数秒後、神代さんは完全に向こう側へ立っていた。
すぐに周囲を確認する。
「問題ありません」
「気分は?」
「特に変わりません。足場も大丈夫です」
神代さんが少し場所を空けた。
次は俺だった。
境目の前に立ち、青い膜を見る。
怖くないと言えば嘘になる。
リュシアを帰した時も、俺たちは境目の手前までしか行かなかった。宮坂さんは事故で向こうへ入り、自力では戻ってこられなかった。
人間が自分の意思でここを越え、再び戻ってきた例はまだない。
それでも、今は越える理由がある。
俺は手を伸ばした。
指先が青い膜へ触れる。
冷たくも熱くもなく、押し返される感覚もない。そのまま腕を入れると、視界の端が一瞬だけ青く揺れた。
さらに一歩進む。
身体全体が境目を抜けた瞬間、足の裏に硬い地面の感触が戻ってきた。
「ナオト」
すぐ近くでリュシアの声がする。
「はい」
自分の声も普通に出る。
神代さんが俺を見る。
「大丈夫ですか?」
「今のところは」
俺は手足を動かし、身体の状態を確認する。息苦しさもなく、持ってきた装備にも見た範囲で変化はなかった。
振り返ると、青い境目の向こうに人間側の救難員が見えている。
距離にすれば数歩しか離れていない。
それでも、自分が今まで立っていた場所とは明らかに違うところへ来たのだと感じた。
境目近くに設置された小型スピーカーから、相馬さんの声が聞こえた。
『久世、聞こえるか』
「聞こえます」
俺の声も、境目近くの収音機が拾っている。ここにいる間なら、人間側と直接やり取りできる。
『神代さんは』
「大丈夫です」
『境目を越えた直後の異常は』
「今のところありません」
『なら、その場から一度離れろ。境目のすぐ近くに残るな』
「はい」
俺たちはリュシアに案内され、境目から少し離れた露出岩盤まで移動した。
三人が立っても十分な広さがある。
そこで改めて周囲を見ると、黒っぽい地面の上に低い植物が点々と生え、少し離れたところには人間側では見慣れない色の木々が並んでいる。
知らないものばかりだった。
ただし、今の俺たちには一つずつ観察している理由がない。
「四人はどっち?」
俺が聞く。
リュシアは森の左側を指した。
『こっち』
「昨日言ってた迂回路を使う?」
『うん』
「道は今も大丈夫?」
『来る時は大丈夫だった。でも今も同じとは限らない』
俺は頷いた。
昨日通れたから今日も安全だとは言わない。
リュシアも、こちらの救難の考え方をかなり理解してきている。
念のため、俺は足元へ意識を向けて《帰り道》を確認した。
何も出ない。
まだザイルたち四人とは合流していないのだから、予想通りだった。
神代さんが聞く。
「出ませんか」
「出ないです」
「なら予定通りですね」
「はい」
俺たちは四人のところへ向かって歩き始めた。
先頭はリュシア、その後ろを俺が歩き、神代さんが最後尾につく。
最初のうちは比較的進みやすい道だった。固い岩の上に薄く黒い砂が積もり、その隙間から低い植物が生えている。
リュシアは速く進みすぎず、俺たちがついてこられるかを確認しながら進んだ。曲がり角や段差でも必ず一度止まり、足元を見てから次へ進む。
「いつもこの道使うの?」
俺が聞く。
『この辺は使う。でも今日は途中から違う』
「崩れたから?」
『うん』
神代さんが後ろから声をかける。
「久世さん」
「はい」
「質問は必要なことだけにしてください」
「今のは必要だったでしょう」
「ぎりぎりです」
リュシアが振り返った。
『観光?』
「違います」
『ソウマに怒られる』
「分かってます」
二人に挟まれている。
それでも、こういう会話ができるくらいには落ち着いて歩けていた。
しばらく進むと、道幅が狭くなった。
両側から岩が迫り、一人ずつしか通れない。
リュシアが足を止める。
『ここから狭い』
「昨日言ってた場所?」
『一つ目』
ほかにもあるらしい。
リュシアが先に入り、身体を横へ向けながら通り抜ける。
俺も続いた。
背負った荷物が岩へ当たらないよう向きを変え、一歩ずつ進む。足元は平らではなく、一部には深い隙間も見えていた。
神代さんも問題なく抜けてくる。
「ザイルはここ通れるの?」
俺が聞く。
『通れる。でも遅い』
「あの体格だもんね」
『ナオトより強い』
「体格の話してるんですけど」
神代さんが小さく笑った。
狭い場所を抜けると、道は少し下りになった。
途中には地面が崩れた跡もあり、リュシアはそこへ近づかず、大きな岩の横を回る。俺たちも同じ足場を使って進んだ。
その時、リュシアが突然片手を上げた。
俺と神代さんが足を止める。
『音』
リュシアが前方を見る。
俺には何も聞こえなかったが、神代さんはすぐ剣へ手をかけた。
数秒後、木々の間で低い植物が揺れ、小さな影が二つ現れた。
犬ほどの大きさだが、四本脚の形は少し違う。前脚が長く、口元から細い牙が見えている。
「魔物?」
俺が小声で聞く。
『うん』
リュシアが剣へ手を伸ばし、神代さんも抜刀する。
魔物はすぐには飛びかかってこなかった。
こちらを見ながら距離を詰め、そのうち一匹が横へ回り込もうとする。
『ナオト、下がる』
リュシアに言われ、俺は一歩後ろへ移動した。
神代さんとリュシアが前へ出る。
横へ回ろうとした魔物に対し、神代さんは大きく斬り込むのではなく、進路を塞ぐように一撃を入れた。魔物が飛び退いたところへ、もう一匹がリュシアへ向かう。
リュシアも剣で前脚を払うように攻撃し、相手の動きを止めた。
二匹はしばらくこちらを警戒していたが、それ以上近づかず、やがて木々の奥へ逃げていく。
神代さんは剣を構えたまま、数秒だけその方向を確認した。
「追いません」
『うん』
リュシアもその場に残った。
俺たちは魔物を倒しに来たわけではない。
進める状態になったなら、それで十分だった。
「周りは?」
神代さんが聞く。
リュシアは少し耳を澄ませたあと頷く。
『今は大丈夫。行く』
俺たちは再び歩き始めた。
魔物と遭遇したことで、ここが人間側とは違う場所だという実感が強くなる。
環境も違い、どんな魔物がいるのか、どの道が安全なのかも俺には分からない。
《帰り道》もまだ見えていない。
もし今一人になれば、境目へ戻る道さえ自信を持って選べないだろう。
だからこそ余計なことはせず、リュシアから離れない。
今は四人のところまで行くことだけを考えた。
さらに進むと、リュシアが速度を落とす。
『もう近い』
神代さんが周囲を確認しながら聞く。
「どのくらい?」
『少し』
木々の向こうに、大きな岩が見えてきた。
その周囲だけ地面が開けている。
リュシアが足を速めた。
『ザイル!』
少し遅れて、低い声が返ってきた。
聞き覚えのある声だった。
木々の間からフェナが姿を見せ、俺たちに気づくと一瞬足を止めてからこちらへ走ってくる。
その後ろにはザイルもいた。
さらに奥、大きな岩のそばに二人の人影が見える。
一人は座り込み、もう一人がその隣についていた。
リュシアが振り返る。
『ナオト』
「はい」
『四人、いる』
俺も順番に確認した。
ザイル。
フェナ。
ガルド。
ミア。
帰れなくなっていた四人が、全員そこにいる。
ここまで来て、ようやく救難対象と合流できる。
俺はすぐに《帰り道》を確認せず、まず四人のところへ向かった。
本人たちの状態を直接見て、誰がどこへ帰りたいのかを確認する。
そのうえで、ここにいる全員で帰る。
《帰り道》を見るのは、それからだった。




