第121話 今度は、こっち
宮坂さんの救難から四日が過ぎた。
御影ダンジョンの境目周辺では、その後、大きな変化は確認されていない。事故の時に広がった床の亀裂は残ったままだが、新たな崩落はなく、青い境目の位置にも目立った変化はなかった。
だからといって、安全になったと判断したわけではない。
人間側は立入禁止範囲を維持したまま、有線監視設備と遠隔計測だけを続けている。傾いた監視カメラも交換しておらず、映像と音声が使える以上、危険な場所へ人を入れてまで直す理由はないというのが相馬さんの判断だった。
一方で、今後どうしても境目へ近づく必要が出た場合に備え、御影側では亀裂入口から境目手前までの安全確認を進めていた。岩盤が露出している場所を基準に、長い器具や遠隔カメラを使って状態を調べ、事故地点へ直接体重をかけずに近づくための仮設経路も検討されている。
ただし、まだ人が使う許可は出ていない。
急ぐ理由がないなら、急がない。宮坂さんの事故以降、その方針は以前より徹底されていた。
俺は救難所で、瀬川がまとめた御影からの定時報告を見ていた。
「昨日も変化なし?」
「映像上は、です」
瀬川が端末をこちらへ向ける。
「境目の右端、床の亀裂、監視設備の傾き。前日の映像との比較では目立った差はありません。ただ、境目そのものの状態を測る方法はないので、『安定した』とは書いてません」
「うん。それでいいと思う」
瀬川は事故以降、以前にも増して言葉を選ぶようになっていた。変わっていないように見えることと、安全であることは違う。宮坂さんの件で、それは嫌というほど分かっている。
神代さんは隣の机で、装備点検の記録を確認していた。
「宮坂さん、どうなりました?」
俺が聞くと、小日向が別の端末から顔を上げる。
「病院から連絡ありました。手術は必要だったみたいですけど、命に関わる状態ではないそうです」
「そう」
「設備担当の人からは、退院したらカメラの件を確認したいって連絡が来てます」
相馬さんがすぐ反応した。
「退院しても当分あいつを御影の奥に入れるな」
小日向が笑う。
「本人にも伝えときます」
宮坂さんなら、本当に行きかねない。
そんな話をしていた時だった。
御影ダンジョンの監視回線から、通常とは違う通知音が鳴った。
小日向がすぐ画面を切り替える。
「御影から緊急呼び出しです」
俺たちの視線が一斉に監視画面へ向く。
定時連絡の時間ではない。
青い境目と黒い地面が映る画面の奥から、一人の人影がこちらへ走ってきた。
銀色の髪。
リュシアだった。
「また走ってる」
俺が言うと、神代さんもすぐ席を立った。
リュシアは境目の前まで来ると、呼吸を整える余裕もないまま収音機へ向かって声を上げた。
『ソウマ! ナオト!』
小日向が音声回線を開く。
俺が通信機を取った。
「聞こえてる。どうした?」
リュシアは俺の声を確認すると、一度だけ大きく息を吸った。
『助けて』
その一言で、部屋の空気が変わった。
相馬さんが俺の横へ来る。
「誰だ」
リュシアは少し言葉を探してから答えた。
『ザイルとフェナ。帰れない』
俺は画面へ少し近づいた。
「二人が?」
『二人だけじゃない。四人』
「四人?」
リュシアが頷く。
『ザイル、フェナ。あと二人。助けた人』
相馬さんは椅子を引き寄せ、そのまま画面の前に座った。
「最初から聞く。急がなくていい」
リュシアも、こちらが何を知りたいのか少しずつ分かってきているらしい。一度考えてから、順番に説明を始めた。
『昨日、町に戻らない人、二人いた』
「魔族?」
『うん』
「二人とも大人?」
『大人。一人男、一人女』
相馬さんが小日向を見ると、小日向はすでに記録を始めていた。
「続けてください」
『道を見る仕事。いつも戻る時間、戻らなかった。私とザイル、フェナ、探しに行った』
フェナの記録を使い、三人で普段その二人が通る道を確認したところ、途中で崩れた場所を見つけたらしい。そこからさらに先へ進み、二人とも発見できた。
「二人は生きてる?」
俺が聞く。
『生きてる』
「怪我は?」
『一人、歩けない。左の足、痛い。腫れてる。もう一人は歩ける』
神代さんが続けて確認する。
「意識はありますか? 出血は?」
『二人とも話せる。血、大きくない』
今の情報だけなら、すぐ命に関わる状態には聞こえない。
ただし、帰れていない。
相馬さんが聞く。
「ザイルとフェナは怪我してるか」
『してない』
「なら、どうして四人で帰れない」
リュシアの表情が少し険しくなった。
『帰る道、壊れた』
「行く時に使った道?」
『うん。見つけたあと、戻ろうとした。地面落ちた』
どうやら、三人が救難対象の二人と合流したあとで崩落が起きたらしい。
フェナが記録していた通常の帰路は使えなくなり、別の道を探した結果、リュシアだけなら通れる細い場所が見つかった。
『ここ、こう』
リュシアが両手を狭くして見せる。
『一人なら通れる。途中、登る。足悪い人、無理』
「ザイルが背負っても?」
神代さんが聞く。
『狭い。二人だと引っかかる。下、深い』
狭い岩場か、亀裂のような場所なのだろう。負傷者を背負ったまま通れば、本人だけでなく運ぶ側まで落ちる可能性がある。
「それでリュシアだけ戻ってきた?」
『うん。助け呼ぶため』
ザイルとフェナは、救難対象二人のそばに残った。
今、境目の向こうでは四人が帰れなくなっている。
小日向が確認する。
「食料と水はありますか?」
俺がリュシアへ聞き直す。
『少しある。今日すぐなくならない』
「魔物は?」
リュシアの表情が少し変わる。
『いる。でも今いる場所、すぐ来ないと思う。ザイルいる』
相馬さんが言った。
「『安全』とは書くな。今のところ近くに大型の魔物を確認していない、までだ」
小日向がすぐ返す。
「はい」
俺は画面の中のリュシアを見る。
「フェナの記録に、他の帰り道はないの?」
『探した』
「なかった?」
『昔の道、ある。でも今どうなってるか分からない。ずっと使ってない』
「そこは確認してない?」
『遠い。それに途中、記録ないところある』
完全に帰る方法がなくなったわけではない。
ただ、今いる四人が安全に使える道が分からない。
俺はそこで、自分の足元へ意識を向けた。
ザイル、フェナ、それから名前も知らない二人の魔族。
境目の向こうで帰れなくなっている四人を帰したいと意識し、《帰り道》を確認する。
光は出なかった。
予想通りだった。
俺はまだ四人と合流しておらず、同じ集団として一緒に帰る状態になっていない。
神代さんが俺の動きに気づく。
「出ませんよね」
「はい。ここからじゃ無理です」
相馬さんもその会話を聞いていたが、特に反応はしなかった。
今までの《帰り道》の使われ方を考えれば、当然の結果だった。
リュシアが画面越しに俺を見る。
『ナオト』
「何?」
『来て』
短い言葉だった。
以前なら、それだけで行こうと考えていたかもしれない。
今は違う。
助けに行く前に、助けに行ける状況かを確認する。
「俺が行けば、四人のところまで案内できる?」
『できる』
「境目からそこまでの道は?」
『私一人なら帰ってきた。三人でも行けると思う。でも狭いところある』
「途中に大きな崩れは?」
『ある。でも越えられる』
神代さんが俺の横から聞く。
「魔物は?」
『出るかもしれない』
「大型は近くに?」
リュシアは少し考えて首を横に振る。
『今は見てない』
神代さんはそれ以上何も言わなかった。
行けると判断したわけではない。
必要な情報を集めているだけだ。
相馬さんが聞く。
「リュシアさん。お前が一人で戻ってきた道を、負傷していない人間二人が通れるか」
『たぶん』
「幅は?」
リュシアは両手を使いながら説明する。
一人ずつなら通れる場所があり、途中には手を使って登る程度の段差もある。ザイルほど大きな体格だと窮屈だが、俺や神代さんなら通れそうだという。
もちろん、それだけで安全が保証されたわけではない。
相馬さんは続けて境目そのものについて確認した。
「そっち側の境目周辺は、宮坂さんの時から変わってるか」
『大きくは変わってない』
「人間側はまだ危険だ。こっちから境目まで近づく方法も確認が必要になる」
『分かった』
リュシアは急かさなかった。
宮坂さんの救難で、助ける側まで帰れなくなれば救難そのものが難しくなることは理解している。
それでも、画面越しに見える表情には焦りがあった。
ザイルとフェナが帰れない。
いつもなら誰かを助ける側にいる二人が、今は救難対象と一緒に戻れなくなっている。
神代さんが聞く。
「四人は、今いる場所でしばらく待てますか?」
『少しなら。でも長くは嫌』
「理由は?」
『夜になると魔物、増える』
こちらと向こうでは時間の数え方が違うため、リュシアに太陽の位置や普段の行動時間を使って説明してもらう。
今すぐ危険というわけではない。
ただし、今日中に方針を決めた方がよさそうだった。
相馬さんが立ち上がる。
「御影に連絡。境目までの人間側経路をもう一度確認させろ。仮設経路は使う前提じゃない。まず現状だけ見ろ」
小日向が答える。
「はい」
「リュシアさんからは、四人の状態と場所をもう少し聞く。久世と神代さんは準備だけしておけ」
俺が聞く。
「行く可能性はある?」
相馬さんが俺を見る。
「救難対象がいて、向こうから救難要請が来てる。必要なら行かせる」
そこで一度言葉を切った。
「ただし、お前のスキルが使えるかもしれないってだけで越えさせるつもりはない。人間側から境目まで安全に行けること、越えたあともリュシアさんが現場まで案内できること、そこまで行く意味があること。その三つを確認してからだ」
「分かってます」
神代さんも頷く。
「私もそれでいいと思います」
俺にも異論はなかった。
今回、宮坂さんの時とは状況が違う。
向こう側に誰がいるか分からないわけではない。
ザイルとフェナがいる。
救難対象の二人もすでに発見されている。
リュシアはそこまでの道を知っていて、一人で境目まで戻ってきた。
そして今、その四人が帰れる道を見つけられずにいる。
リュシアがもう一度俺の名前を呼ぶ。
『ナオト』
「はい」
『ザイル、フェナ、帰したい』
「うん」
『二人も』
「うん」
リュシアは少し黙ってから、こちらを見る。
『今度は、こっち』
その意味はすぐに分かった。
宮坂さんが向こう側で帰れなくなった時、リュシアたちは人間一人を境目まで運んでくれた。
今度は魔族側で、四人が帰れなくなっている。
俺は頷いた。
「まず、俺たちが安全に行けるか確認します」
『分かった』
リュシアはそれ以上急かさなかった。
俺は自分の装備へ目を向ける。
まだ境目を越えると決まったわけではない。
それでも今回の救難は、人間側から道具を送って待つだけでは終わらない可能性が高かった。
境目の向こうで、四人が帰れなくなっている。
そのうち二人が、つい数日前に宮坂さんを助けてくれた相手だから行くわけではない。借りを返すためでもない。
帰れない人がいて、助けを求められた。
それなら、帰す方法を考える。
俺たちが今までやってきたことと、何も変わらなかった。




