第119話 帰してきた
リュシアとフェナが再び木々の奥へ消えてから、俺たちは宮坂さんを人間側へ受け入れる準備に入った。
問題は、境目を越えた直後の場所だった。
人間側の境目周辺では床が沈み、細い亀裂も増えている。事故が起きた場所へ救難員を立たせることはできず、右脚を負傷している宮坂さん自身に歩いてもらうこともできない。
現地救難班長が図面と監視映像を見比べながら説明する。
「宮坂さんが境目を越えたら、そのまま安全範囲までロープで引き込みます」
神代さんが確認した。
「人は境目付近まで行かないんですね」
「行きません。手前の安定した岩盤に二点固定して、搬送用のロープを境目側へ伸ばします。向こうで付けてもらったハーネスをそのまま使えば、危険な床に本人の体重をできるだけかけずに移動できます」
完全に吊り上げるのではなく、身体を支える力をロープ側へ逃がしながら安全範囲まで移す方法だった。宮坂さんの右脚を守るため、こちらで引く方向や身体の向きも事前に決めておく。
相馬さんが聞く。
「引き込み索はどう渡す」
「さっき救助用品を送った補助索を使います。向こう側でリュシアさんたちに受け取ってもらえば接続できます」
設備職員も頷いた。
「既設ケーブルも補助索も生きています。人を支える荷重には使いませんが、引き込み索を向こうへ送るだけなら問題ありません」
人間側で準備できることは、ほぼ終わった。
あとは宮坂さんが境目まで戻ってくるのを待つしかない。
小日向からも連絡が入る。
『久世さん、病院側の受け入れ準備もできてます。右下腿の圧迫損傷と骨折疑いで伝えてあります』
「ありがとう」
『こちらへ戻ったら、そのまま搬送できる状態です』
「分かった」
宮坂さんが境目を越えられたとしても、そこで救難が終わるわけではない。まず危険な床から離し、未記録亀裂の入口まで運んだあと、第五層から地上へ搬送して医療側へ引き継ぐ必要がある。
神代さんが俺の隣で画面を見る。
「宮坂さんがこちらへ戻っても、すぐには《帰り道》を確認できませんね」
「はい。俺はまだ管理側にいますから」
「現地班が亀裂入口まで運んで、そこで私たちが合流してからですね」
「そのつもりです」
俺が宮坂さんと同じ救難班として、一緒に地上へ帰る状態になって初めて確認する。
そこは無理に早める必要がなかった。
監視画面に最初の人影が見えたのは、それから三十分ほど経った頃だった。
黒い木々の間からリュシアが現れ、その少し後ろをフェナが歩いている。二人とも何度も後方を確認しながら進んでいた。
さらに少し待つと、三人目の姿が見えた。
ザイルだった。
その背中には、搬送用のハーネスで宮坂さんが固定されている。
「来ました」
俺が画面へ少し身を乗り出す。
宮坂さんの右脚は板材で固定され、地面へぶつからないようフェナが横から支えていた。リュシアは少し先を歩き、足場を確認してから二人へ合図を送っている。
四人は急いでいなかった。
狭い場所では身体の向きを変え、段差では一度止まり、宮坂さんの脚へ無理な力がかかっていないことを確かめてから進んでいる。
神代さんが画面を見ながら言った。
「丁寧ですね」
「ですね」
ザイルの体格なら、宮坂さん一人を抱えてもっと速く運ぶこともできそうに見える。それでもそうせず、フェナとリュシアにも確認しながら少しずつ進んでいる。
昨日まで説明でしか知らなかった魔族側の救難が、今は監視画面の中で実際に行われていた。
四人が境目からよく見える位置まで来ると、リュシアが先にこちらへ走ってきた。
音声回線を開く。
『ナオト!』
「聞こえてる。宮坂さんは?」
リュシアが振り返る。
『話せる。でも痛い』
神代さんが続けて聞いた。
「気分が悪くなったり、急に眠くなったりしてませんか?」
リュシアは宮坂さんのところへ戻って本人へ確認し、少しして戻ってくる。
『大丈夫って。でも早く帰りたいって』
「分かりました」
宮坂さん自身が帰りたいと意思を示せている。
あとは、安全にこちらへ引き取るだけだった。
班長がリュシアへ説明する。
「こちらからロープを送ります。宮坂さんのハーネスへ接続してください」
俺も簡単な言葉に言い換える。
「人間側から太い紐を送る。それを宮坂さんについてる道具につなぐ。こっちからゆっくり引く」
『分かった』
補助索を使い、引き込み用のロープが少しずつ境目へ送られる。
リュシアは前と同じように剣の鞘を使って先端を受け取り、ザイルとフェナのところまで運んだ。
画面越しに、三人が接続部分を確認している。
宮坂さんも何か話していた。
設備担当だけあって、金具の向きや固定方法は本人も確認できているようだった。
しばらくして、リュシアが境目近くへ戻ってくる。
『できた』
班長が確認する。
「宮坂さん本人も固定を見た?」
『見た』
「ザイルさんとフェナさんも?」
『見た』
「了解」
人間側でも、ロープと固定点をもう一度確認する。
境目手前の危険な床へは誰も入らず、安全範囲にいる三人の救難員が引き込みを担当する。
班長が言った。
「まず境目を越えるところまでは、こちらから強く引きません。向こうでザイルさんたちが身体を支えて、こちらはロープが緩まない程度に張ります」
リュシアが通訳すると、ザイルが短く返した。
『分かったって』
「宮坂さんにも伝えて」
『うん』
宮坂さんがカメラの方へ顔を向ける。
細かな表情までは分からないが、意識ははっきりしているように見えた。
班長が合図する。
「始めます」
人間側でロープがゆっくり張られる。
向こう側ではザイルとフェナが宮坂さんを支えながら、境目の手前まで近づいていく。リュシアは一歩先に出て、足元と青い膜の状態を確認していた。
ザイルが宮坂さんの身体をゆっくり前へ動かす。
最初に、固定された右脚が境目へ触れた。
映像に少しノイズが入る。
宮坂さんの脚はそのまま青い膜を通り、続いて腰、胸、肩がこちら側へ移っていく。ロープにもハーネスにも、画面で確認できる範囲では異常は起きていなかった。
事故の時とは違い、今回は向こう側でザイルとフェナが身体を支え、人間側でもロープを一定の張力で保持している。
宮坂さんの身体がほとんど境目を通過したところで、ザイルがゆっくり手を離した。
人間側の救難員がロープを引く。
宮坂さんの身体が完全にこちら側へ移った。
今度は監視映像から消えることもなく、ハーネスもそのまま残っている。
ただし、戻った場所はまだ事故が起きた床の近くだった。
「そのまま引きます!」
班長の指示で、救難員三人が一定の速さでロープを引く。
宮坂さんの身体はハーネスで支えられ、負傷した右脚を床へ強く当てない状態で危険範囲を移動していく。細い亀裂の近くも、本人の体重をほとんど預けることなく通過した。
安全な岩盤まで数メートルになったところで、宮坂さんが何か声を上げる。
班長が現地へ確認した。
『本人、意識あり。「大丈夫」だそうです』
「そのまま続けろ」
数秒後、宮坂さんの身体が事故前から安全を確認していた場所まで到達した。
待機していた救難員がすぐに近づき、右脚の固定状態や出血、意識を確認してから担架へ移す。
班長が無線で聞いた。
「宮坂さん、聞こえますか?」
『聞こえます』
初めて本人の声が、こちらにもはっきり入った。
疲れてはいるものの、受け答えはできている。
「今、人間側へ戻っています。右脚はそのまま固定します。痛みは?」
『かなりあります。でも大丈夫です』
「気分は悪くないですか?」
『今のところは』
神代さんが現地救難員へ伝える。
「長時間圧迫されていた脚なので、局所だけではなく全身の状態も見ながら運んでください。変化があれば止まって連絡を」
『了解』
宮坂さんが担架へ固定されたところで、現地班は未記録亀裂の入口へ向けて搬送を始めることになった。
俺と神代さんはまだ管理側にいる。
ここから先は、現地班が安全を確認している区間を使って亀裂入口まで運び、そこで俺たちが合流する。
《帰り道》を確認するのも、そのあとだ。
俺は監視画面へ目を戻した。
境目の向こうでは、リュシア、フェナ、ザイルの三人がまだこちらを見ている。宮坂さんが安全な場所まで移動するのを確認するまで帰らずに待っていたらしい。
俺は通信機を取る。
「リュシア」
『ナオト』
「宮坂さん、人間側に戻りました。意識もあります」
リュシアの表情が少し緩んだ。
『よかった』
「ザイルとフェナにも、ありがとうって伝えて」
リュシアが二人へ話す。
フェナは安心したように笑い、ザイルは短く何かを返した。
「ザイルは何て?」
『まだ帰ってないって』
俺は少し笑う。
「そうですね」
宮坂さんは境目を越えただけで、まだ第五層の奥にいる。
ザイルの言う通り、人間側へ戻っただけでは終わりではない。
「ここからは、俺たちが地上まで帰します」
リュシアが頷く。
『ナオトの仕事?』
「ここからは、俺たちの仕事です」
『じゃあ、任せる』
さっきまで、俺たちが向こう側の三人に宮坂さんを任せていた。
今度は、その続きをこちらが引き取る。
「任されました」
リュシアが少し笑った。
ザイルとフェナも、木々の方へ戻る準備を始めている。
俺は最後に言う。
「リュシアたちも気をつけて帰って。今日は何回も往復してるんだから、ちゃんと休んでください」
『ナオト、うるさい』
「倒れたら、今度はそっちの救難になるでしょう」
リュシアが嫌そうな顔をし、その横でフェナが笑った。
ザイルも何か言う。
『ザイル、私も休めって』
「珍しく意見が合いましたね」
『珍しくない』
リュシアは少し不満そうに答えたあと、二人と一緒に木々の方へ戻っていった。
監視画面から三人の姿が消える。
今度はこちらの番だった。
現地班から連絡が入る。
『宮坂さん、搬送開始します。未記録亀裂入口まで戻します』
班長が答える。
「了解。足元の変化があればすぐ止まれ」
『了解』
俺と神代さんも装備を確認する。
「入口で合流ですね」
神代さんが言う。
「はい。そこからは一緒に地上へ帰ります」
「《帰り道》もそこで確認する」
「そのつもりです」
宮坂さんを見つけ、岩から右脚を助け出し、崩れた道を越えて境目まで運んだのはリュシアたちだった。人間側は必要な道具を渡し、境目からこちらを引き継いだ。
最初から最後まで同じ班が動いているわけではない。
それでも、宮坂さんを帰すための動きは途中で途切れていなかった。
しばらくして、現地班から次の報告が入る。
『亀裂入口まで、あと少しです。対象者の意識状態に変化なし』
俺は立ち上がった。
「行きましょうか」
「はい」
神代さんも立ち上がる。
次に宮坂さんと会う時には、今度こそ俺も同じ救難の中に入る。
向こう側が境目まで帰してくれた一人を、ここから先は俺たちが地上まで帰す。
境目を挟んで別々に動いていた救難が、初めて一人の帰還としてつながろうとしていた。




