第118話 待つ救難
リュシアが救助用の道具を持って木々の奥へ消えてから、十五分ほど経っていた。
監視画面に映っているのは、青い境目と、その向こうに広がる黒い地面だけだった。人影はなく、収音機から聞こえてくるのも風のような音と、ときどき遠くで何かが動く気配だけだ。
宮坂さんがいる場所までは、普通に歩いても五分以上かかるらしい。ただし、今は途中の道が崩れて一人ずつしか通れず、リュシアは慣れない人間側の救助用品まで抱えている。急いで戻ったとしても、ある程度時間がかかるのは当然だった。
それでも、こちらから何も見えないまま待つ時間は長く感じる。
俺が監視画面を見続けていると、相馬さんが隣から声をかけた。
「見てても早くならないぞ」
「分かってます」
「なら座れ」
「座ってますよ」
「気持ちの話だ」
それはなかなか難しかった。
俺は椅子に座っているし、今できる準備も一通り終わっている。それでも、境目の向こうに宮坂さんがいると思うと、何か見落としていることがないか、ほかに送れる物はないかと考えてしまう。
神代さんは俺とは違い、待っている間にも帰還後の対応を確認していた。
「宮坂さんが戻ってきた場合、境目から亀裂入口まではどう運びますか?」
現地救難班長が図面を指す。
「境目周辺の床には入れないので、こちら側へ戻せた位置次第です。事故前に安全を確認できていた場所まで移せれば、そこから救難員二人で担架へ乗せます」
「右脚は挟まれていたんですよね。骨折の可能性は?」
「高いと見ています。救急側にもその前提で伝えています」
管理棟の外には、すでに救急搬送用の車両が待機している。宮坂さんが戻れば、こちら側で応急処置を行い、そのまま病院へ搬送できるよう準備されていた。
境目の向こうへ行けないからといって、人間側にやることがないわけではない。
戻ってきたあとに必要な物を揃え、次の搬送を止めないよう準備しておくことも、救難の一部だった。
そう考えていると、小日向から連絡が入った。
『追加の救助用品、準備できてます』
「何を用意した?」
『固定ベルト二本と、小型の滑車、それから追加の板材です。さっき送ったジャッキだけで岩が持ち上がらなかった時に使えそうな物を、設備担当の人と選びました』
班長が相馬さんを見る。
「送りますか?」
相馬さんは首を横に振った。
「向こうから必要だと言われてからだ。何でも送ればいいわけじゃない」
『了解です』
今は向こう側に、道具を受け取る人もいない。
リュシアたちは宮坂さんのところまで戻っているため、こちらから追加の装備を送っても境目付近に置かれるだけになる。何が必要なのか分からないまま先回りしすぎれば、かえって現場の判断を邪魔する可能性もあった。
再び待つ時間になった。
瀬川は隣の机で、ここまでの経過を記録している。
俺は一度画面から目を離した。
「今、何て書いてる?」
「宮坂さんの状態については、本人確認じゃなくて、リュシアさんからの申告として残してます。それと、魔族側三名が救助活動中。人間側から小型油圧ジャッキ、固定用品、救急用品を提供」
「救助成功とかは?」
「まだ書けません」
「だよね」
「それと、人間側から境目を越えた救難員はゼロです。そこも事実として残してます」
瀬川はその点を明確に記録していた。
今回の救難では、人間側が境目を越えないまま救助が進んでいる。それが後から何を意味するかはまだ分からないが、今は評価せず、起きたことだけを残しておけばいい。
神代さんが監視画面を見ながら言う。
「リュシアさんたちは、こちらが待っていることをどう思っているでしょうね」
「助けに来ないって思ってる?」
「逆です。向こうにも救難があるなら、無理に入ってこない方がいいと考えているかもしれません」
俺は少し考えた。
リュシア自身、俺が「帰したいから今は行かない」と言った時には納得していた。あの時は簡単に答えたつもりだったが、実際にこうして待っていると、やはり自分で動けないことへの落ち着かなさは残る。
「自分で行った方が楽ですね」
「そうでしょうね」
「でも、行かないですけど」
「はい。私も同じです」
神代さんも画面から目を離さなかった。
戦える神代さんなら、俺以上にそう感じているのかもしれない。向こうへ行けば役に立てる可能性は高いが、安全に帰れる保証がない以上、今は越えない。
強いから行くのではなく、必要だから行く。
必要がなければ待つ。
神代さんがこれまで救難で覚えてきたことと同じだった。
リュシアが戻ってきたのは、それからさらに十分ほど経った頃だった。
木々の間から銀色の髪が見えた瞬間、俺たちは全員画面へ目を向けた。
リュシアは行きより少しゆっくりした足取りで境目へ戻ってきた。怪我をした様子はないが、何度も後ろを確認している。
音声回線を開く。
「リュシア、聞こえる?」
『聞こえる』
「宮坂さんは?」
『生きてる。話せる』
その言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
神代さんが続けて状態を確認する。
「脚はどうですか?」
リュシアは現場の様子を思い出しながら答えた。
『右脚、岩の下。膝より下。フェナ、触った。足先、少し動く。感じるって』
「出血は増えてませんか?」
『増えてない』
「ジャッキは使えました?」
リュシアは首を横に振る。
『一つだけだと、岩が動く。でも上がらない』
班長がすぐ反応した。
「支点が足りないか?」
『ザイル、板入れた。でも岩、大きい』
どうやらジャッキそのものは使えたものの、宮坂さんの脚を抜けるだけの隙間までは作れなかったらしい。
「宮坂さん本人は話せてる?」
俺が聞く。
『話せる。道具の使い方も言った』
設備担当者らしい。
自分が岩に挟まれている状態でも、ザイルたちへジャッキの使い方を説明しているようだった。
リュシアが続ける。
『宮坂、もう一つ、引くもの欲しいって』
「引くもの?」
『岩を上げながら、横に引く』
班長が設備職員を見る。
設備職員は少し考えてから答えた。
「滑車と固定ベルトですね。ジャッキで荷重を抜きながら、岩を少しずらせれば脚を抜ける可能性があります」
準備していた物が使えそうだった。
相馬さんが言う。
「送れ」
すぐに補助索へ追加の道具が取り付けられる。
今回はすでに一度方法を確認しているため、作業は前より早かった。滑車とベルトを分けて送り、リュシアが剣の鞘を使って一つずつ魔族側へ引き込む。
すべて受け取ったところで、班長が使い方を説明した。
固定する場所やベルトをかける向き、ジャッキと同時に力をかけすぎないことまで、一つずつ確認する。リュシアも分からないところは曖昧にせず、何度も聞き返した。
『ザイルがやる。宮坂も見る』
「そうしてください。少しでも岩が不安定になったら中止です」
『分かった』
俺も一つだけ付け加える。
「宮坂さんに、痛みが急に強くなったり、気分が悪くなったらすぐ言うよう伝えて」
『言う』
リュシアは届いた道具をまとめる。
一度に全部持つのは難しいため、まず追加の固定用品を運び、必要ならフェナかザイルが残りを取りに来ることになった。
出発する前に、リュシアがこちらのカメラを見る。
『ナオト』
「はい」
『来ない?』
質問の意味はすぐに分かった。
「今は行きません」
リュシアは少し黙る。
『宮坂、帰したい?』
「帰したいです」
『なら来ない?』
俺は少し考えてから答えた。
「帰したいから、今は行かないです。俺が向こうへ入って帰れなくなったら、宮坂さんを助ける人が一人増えるんじゃなくて、助けないといけない人が一人増えるので」
リュシアはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
『分かった』
たぶん、この説明はリュシアにもよく分かる。
向こうにも救難があり、救う側が無理をすれば救難対象が増えることを知っている。
それは人間でも魔族でも同じだった。
リュシアは道具を持ち、再び木々の方へ走り出した。
俺たちは、その姿が見えなくなるまで監視映像を見ていた。
小日向の声が回線から入る。
『久世さん』
「何?」
『待つしかないですね』
「うん」
宮坂さんの場所は分かっていて、生きていることも確認できている。向こうにはザイルとフェナが残り、今からリュシアも戻る。
それでも、ここから先の救助作業を俺たちは直接見ることができない。
今までの救難なら、俺自身が現場へ入り、対象者と合流してから《帰り道》を確認していた。今回はそれができず、宮坂さんの居場所を示すことも、今いる場所から帰る道を作ることもできない。
だから今は、向こう側にいる三人へ任せるしかなかった。
相馬さんが言う。
「久世」
「はい」
「任せるのも救難だ」
俺は監視画面を見たまま答えた。
「分かってます」
分かっているつもりでも、自分で動くよりずっと難しい。
ただ、境目の向こうには宮坂さんがいて、そのそばには、ほんの数日前まで俺たちが正体すら知らなかった魔族たちがいる。
今はその三人が、人間一人を帰すために動いてくれている。
俺たちにできるのは、必要な道具を送り、分かることを伝え、戻ってくるのを待つことだけだった。
それでも宮坂さんが無事に帰れるなら、それでいい。
救難で大事なのは、誰が助けたかではなく、帰れなかった人がちゃんと帰れることなのだから。
それからしばらくして、リュシアが二度目に境目へ戻ってきた。
今回は先ほどよりも息を切らしている。
音声回線を開くと、リュシアは呼吸を整えながら状況を伝えた。
『脚、抜けた』
その一言で、管理棟の空気が少し変わった。
俺も思わず身を乗り出す。
「宮坂さんは?」
『痛い。でも話せる。今、フェナが脚、固めてる』
神代さんが確認する。
「出血は?」
『少ない。宮坂、気持ち悪くないって』
「立てそうですか?」
『無理』
それは想定していた。
脚を長時間岩に挟まれていた以上、自分で歩かせるつもりはない。
「運べますか?」
班長が聞く。
リュシアは少し迷った。
『そのままは無理。道、狭い』
やはり、次の問題はそこだった。
岩から救出できても、境目まで運べなければ帰還にはつながらない。
ザイルたちが普段どのように負傷者を運ぶのか確認すると、リュシアは両側から支えたり、背負ったり、布と棒で簡単な担架を作ることもあると説明した。
しかし今回は途中の道が狭く、普通の担架では通れないらしい。
神代さんが聞く。
「一人を背負って通れる幅はありますか?」
『場所による。狭いところ、二人並べない』
「ザイルさんが宮坂さんを背負って、一人ずつ通るのは?」
リュシアは少し考える。
『ザイルならできる。でも道、途中で下りる。宮坂の脚、ぶつけるかも』
無理に背負えば、救出したばかりの右脚を悪化させる可能性がある。
班長が紙へ、リュシアから聞いた道の形を書き始める。
「一番狭い場所は、どんなところですか?」
『岩と岩の間。ここ』
リュシアが両手を狭くする。
「足元は?」
『片方、高い。段差ある』
「長さは?」
『短い。三歩くらい』
完全に通れないわけではない。
設備職員が考えながら言う。
「布だけで身体を包んで、縦に近い状態で運べませんか。脚だけ別に固定して」
救難班長が頷く。
「簡易の吊り搬送か。肩と腰を支えれば、本人に体重をかけさせず、狭い場所を抜けられるかもしれない」
必要な装備を検討した結果、人間側にある搬送用ハーネスを分解して送ることになった。向こうで組み直せるよう、できるだけ単純な構造のものを選ぶ。
「また持っていける?」
俺が聞く。
リュシアは息を整えながら頷いた。
『行く』
「少し休んでからでいいよ」
『宮坂、待ってる』
「リュシアが倒れたら、助けないといけない人が一人増える」
その言葉で、リュシアが止まった。
不満そうな顔はしたものの、近くの岩へ腰を下ろす。
『少し休む』
「それでお願いします」
五分ほど休ませ、その間に搬送用ハーネスを分解して送る準備を整える。
リュシアは水を飲み、呼吸が落ち着いてから立ち上がった。
これで三度目の往復になる。
俺は聞く。
「道、大丈夫?」
『今は』
「変わったら戻って」
『分かってる』
今度は俺に言われる前に答えた。
リュシアが道具を持って再び森の奥へ消えたあと、相馬さんが言う。
「久世」
「はい」
「今のは良かった」
「何がです?」
「リュシアさんを休ませたことだ」
「普通でしょう」
「宮坂さんのことしか見えなくなると、その普通が抜ける」
俺は少し考えてから頷いた。
救難対象は宮坂さん一人だった。
ただし、助けに動いている側まで倒れれば、そこから救難対象が増える。俺が境目を越えない理由と同じで、向こうで動いているリュシアやザイル、フェナについても、無事に帰れる側として考えておかなければならない。
それから四十分近く、リュシアは戻ってこなかった。
途中で何度か収音機に遠い音が入ったものの、人の声かどうかまでは分からない。こちらから呼ぶ方法もないため、俺たちは救急側の準備や、宮坂さんが帰還したあとの搬送手順をもう一度確認しながら待ち続けた。
小日向からも何度か状況確認が入ったが、新しい情報はない。
時間だけが過ぎていく。
それでも、誰も「人間側から入ろう」とは言わなかった。
宮坂さんの状態が急に悪化したという情報はなく、向こうでは三人が救助を続けている。今こちらから境目を越えるのは、助けるための判断ではなく、ただ待つことに耐えられないから動くことになってしまう。
そこは間違えないようにした。
やがて、神代さんが画面を指す。
「来ました」
黒い木々の間に人影が見えた。
最初は一人に見えたが、すぐ後ろからもう一人現れる。
リュシアとフェナだった。
二人ともこちらへ向かって歩いている。
その後ろにザイルの姿はない。
少し緊張したが、リュシアの表情を見る限り、悪いことが起きたようには見えなかった。
境目まで来ると、リュシアが収音機へ向かう。
『ナオト』
「聞こえてる」
『宮坂、運べる』
「境目まで?」
『うん。ザイル、一緒に来る。少し時間かかる』
フェナが隣で何かを補足する。
リュシアが聞いてから続けた。
『狭いところ、通れた。脚も大丈夫。今、休んでる』
神代さんが確認する。
「意識はありますか?」
『ある。怒ってる』
「何に?」
リュシアが少し笑った。
『仕事のカメラ、壊したって』
設備担当者らしい答えだった。
班長が思わず苦笑する。
「本人に、カメラは後でいいって伝えてください」
『言った。ザイルも怒った』
「ザイルさんが?」
『生きて帰る方が先って』
相馬さんが小さく頷く。
「その通りだ」
俺も同じだった。
リュシアが続ける。
『少し休んだら、こっち来る』
「分かりました。人間側も受け入れる準備をして待ってます」
『ナオトも?』
「待ってます」
リュシアは頷いた。
『今度は、連れてくる』
画面の向こうで、リュシアとフェナが再び木々の方へ戻っていく。
俺はその姿を見ながら、ようやく少しだけ先が見えた気がした。
宮坂さんは岩から救出され、負傷した右脚を固定した状態で、狭い道も越えられた。
あとは境目まで戻ってくる。
そこから先は人間側の救難になる。
今回、俺たちは宮坂さんを見つけていないし、岩から助け出したわけでもない。壊れた道を通して運んでいるのも、リュシアたちだ。
俺たちがしたのは、向こうへ必要な道具を送り、使い方を伝え、戻ってくる宮坂さんを受け入れる準備をしたことだった。
それでも救難は進んでいる。
相馬さんが言った通り、任せるのも救難なのだと思う。
ただ待っていればいいわけではない。
向こうが宮坂さんを境目まで連れてきてくれるなら、今度はこちらが確実に地上まで帰す必要がある。
俺はそのために、もう一度自分の装備を確認した。
次に監視画面へ誰かが映る時には、今度こそ宮坂さんも一緒にいるはずだった。




