第116話 向こうへ落ちた人間
翌朝、御影ダンジョンから届いた最初の報告では、監視設備周辺の床に新しい変化は確認されていなかった。
昨日見つかった細い亀裂はそのまま残っているものの、夜の間に明らかに幅が広がった様子はなく、傾いた監視カメラもそれ以上動いていない。境目の右端についても、前日の計測位置から大きな変化は見られなかった。
それだけなら、しばらく遠隔監視を続けるという判断もできた。
問題は、傾いたカメラをこのまま使い続けられるかどうかだった。画面自体は映っているが、昨日の沈み込みによって撮影範囲が少し下へずれている。このまま床がさらに動けば境目全体が映らなくなる可能性があり、台座ごと倒れてケーブルを引っ張れば、有線監視設備そのものが使えなくなる。
御影側の管理責任者が回線越しに説明した。
『今日はカメラを直すのではなく、今の位置から撤去して、三メートルほど手前へ移したいと考えています』
相馬さんが聞く。
「新しい設置場所の床は確認したか」
『昨日の立入禁止範囲より手前です。旧設置記録でも岩盤が露出している場所で、朝の時点で打音と目視確認を終えています』
「人数は?」
『設備担当一人、救難員二人。昨日と同じ構成です。ただし、安全索は二系統にします』
昨日の確認時にも安全帯は使っていたが、今日はさらに条件を厳しくするらしい。一本は設備担当者自身を亀裂入口側の固定点へつなぎ、もう一本は別の壁面固定点から取る。同行する救難員二人もそれぞれ独立した安全索を使用し、三人が同じ場所へ固まらないよう距離を取る予定だった。
神代さんが確認する。
「監視カメラの撤去は、境目側へ近づかないとできませんよね」
『現在の設置位置までは行く必要があります。ただし、昨日見つかった床の亀裂より境目側へは踏み込みません。長柄の器具で固定部を外せるよう準備しています』
相馬さんは少し考えてから頷いた。
「そこまでやるなら、設備を放置するより回収した方がいい。ただし、少しでも床が動いたらその場で中止しろ」
『了解です』
俺は会話を聞きながら監視映像を見ていた。
今日はリュシアたちとの定時連絡までまだ時間があり、境目の向こうにも人影はない。画面に映っているのは、昨日までと同じ黒い地面と低い植物だけだった。
「久世」
相馬さんに呼ばれる。
「はい」
「今日は見てるだけだぞ」
「何も言ってないですけど」
「顔に出る前に言った」
「先回りしないでくださいよ」
相馬さんは気にした様子もなく続けた。
「救難対象はいない。現地には救難員が二人いる。何か起きる前から、お前と神代さんまで出す理由はない」
「分かってます」
神代さんも隣で頷く。
「私も今日は待機でいいと思います」
俺が神代さんを見る。
「本当に?」
「何で私まで疑うんですか」
「こういう時、俺より行きたそうなので」
「必要なら行きます。でも、必要がないなら行きません」
その通りだった。
俺も同じようにしないといけない。
午前十一時過ぎ、現地班が未記録亀裂へ入った。
俺たちは救難所の画面から、有線補助回線を通して送られてくる映像を確認する。先頭は救難員一人、その後ろに設備担当者、最後尾にもう一人の救難員という配置で、三人は昨日より歩幅を小さくし、足元と壁面を一つずつ確認しながら進んでいた。
既設ケーブル付近まで大きな異常がないことを確認したところで、三人はいったん止まり、安全索の固定状態を確かめる。
設備担当者につながる二本のロープは左右で異なる固定点へ取られており、どちらか一方に問題が起きても、もう一方が残る形になっていた。
『二系統とも問題なし』
『了解。その位置から先は一人ずつ動きます』
先頭の救難員だけが少し前へ出た。
床面を確認しながら慎重に進み、安全を確認したところで設備担当者へ合図する。
『ここまで大丈夫です』
『行きます』
設備担当者がゆっくり前へ出た。
昨日見つかった細い床の亀裂までは、あと一メートルほどある。そこから先へ足を置く予定はなく、持ってきた長柄の工具を伸ばしてカメラ台座の固定部を外すことになっていた。
救難員が念を押す。
『そこから先、足は出さないでください』
『了解』
設備担当者はしゃがまず、立った姿勢のまま工具を伸ばした。画面の中では、その数メートル先に青い境目が見えている。
俺は無意識に足元を見たが、《帰り道》の光は当然出ていない。今は救難対象がいるわけではなく、設備点検が行われているだけだった。
設備担当者が工具の先をカメラ台座へ引っかける。
『固定具、一つ目外します』
金属が擦れる音が入り、一つ目の留め具が外れた。
続けて二つ目へ工具を移す。
『右側、少し硬いです』
先頭の救難員がすぐ答える。
『無理に回さないでください。外れなければ置いて戻ります』
『分かってます』
設備担当者が工具の角度を少し変えた、その時だった。
画面の端に映っていた床の亀裂がわずかに伸びた。
最初は見間違いかと思う程度だったが、細かった線が横へ走り、その先で新しい亀裂が枝分かれする。
『止まって!』
救難員の声と同時に、設備担当者も工具から手を離した。
『床、動きました。全員そのまま』
最後尾の救難員がロープを握り直す。
救難所の画面にも、亀裂が少しずつ広がっていく様子が映っていた。
相馬さんがすぐ御影側へ言う。
「撤収させろ」
『はい。現地班、作業中止。順番に後退してください』
現場にも指示が届く。
先頭の救難員が設備担当者へ声をかけた。
『ゆっくり戻ります。右足から半歩後ろへ』
『了解』
設備担当者が右足を下げる。
そこまでは問題なかった。
次に左足を引こうとした瞬間、足元から低い音が響いた。岩が内部から割れるような音で、画面越しにもはっきり聞こえた。
『動かないで!』
救難員が叫び、設備担当者もその場で止まる。
しかし、今度は床の方が止まらなかった。
設備担当者が立っている場所より少し境目側で岩盤が沈み、その動きにつられるように足元の亀裂が一気に広がった。大きな岩板が斜めに傾き、監視カメラの台座も固定されたまま境目側へ滑り始める。
『下がって!』
設備担当者が後ろへ踏み出した瞬間、左足を置こうとした場所まで崩れ、身体が大きく傾いた。
二本の安全索が一気に張る。
『確保!』
『持ってます!』
救難員二人がそれぞれロープを押さえたことで、設備担当者の身体は斜めになった岩盤の上で一度止まった。
このまま引き戻せる。
そう思った直後、さらに奥で大きな岩が割れた。
傾いた岩板の下から崩れた岩塊が滑り落ち、安全索の一本を巻き込む。
『ロープ!』
救難員が叫ぶ。
張力がかかったまま岩の鋭い破断面に擦られたロープが激しく震え、一本目が切れた。
設備担当者の身体が大きく境目側へ振られる。
残った一本の安全索が全荷重を受けた。
『引け!』
二人の救難員が残ったロープを引く。
設備担当者の上半身が一度こちらへ戻りかけたが、その足元で岩板がさらに傾いた。
同時に、青い境目の右端が大きく揺れる。
神代さんが画面を見ながら言った。
「境目も動いてます」
昨日まで膜のように見えていた青い光が横へ広がり、それまで人間側だった岩盤の一部を覆っていく。
設備担当者は傾いた岩板の上を滑り、残った安全索が再び強く張った。
そのロープも、崩落した岩と壁の間に挟まれる。
『まずい、索が噛んだ!』
次の瞬間、二本目も切れた。
設備担当者の身体が岩板とともに境目側へ滑り落ちる。
青い膜が脚から身体を覆い、監視映像が大きく乱れた。
『設備担当!』
救難員が叫ぶ。
数秒後に映像が戻った時、そこに設備担当者の姿はなかった。
崩れた床と傾いたカメラ、その先で揺れる青い境目だけが映っている。
先頭の救難員が一歩前へ出ようとした。
相馬さんがすぐ声を上げる。
「御影、現地班を下げろ!」
『了解!』
「境目には近づくな。残った二人をまず戻せ!」
現場へ即座に撤収指示が出る。
救難員の一人が境目を見たまま答えた。
『設備担当が向こうへ落ちた可能性があります!』
「分かってる。追うな!」
相馬さんの声に迷いはなかった。
少しの沈黙のあと、救難員が答える。
『……了解』
二人は境目へ踏み込まず、互いの安全を確認しながら来た道を戻り始めた。
一人が行方不明になったからといって、状況の分からない場所へ二人まで入れば、救難対象を増やすことになる。その判断が正しいことは分かっていても、監視画面の向こうから人が一人消えたという事実は重かった。
俺は画面へ目を戻す。
境目の向こうには黒い地面と低い植物が映っているが、人影は確認できない。監視カメラの向きも事故でずれているため、向こう側の左右までは見渡せなかった。
「宮坂さんが向こうへ行ったかどうか、映像だけじゃ分からないですよね」
神代さんが言う。
相馬さんが頷く。
「ああ。最後に見えたのは境目側へ滑ったところまでだ」
青い膜を通過したようには見えた。
ただ、映像が乱れているため、その瞬間を完全に確認できたわけではない。
行方不明者が一人出た。
それだけで救難へ切り替える理由には十分だった。
相馬さんが御影側へ指示を出す。
「現地班は亀裂入口まで撤収。追加の救難班を準備。境目周辺には誰も近づけるな。設備担当者一名、事故後に所在不明。境目の向こうへ移動した可能性あり」
御影の管理責任者が答える。
『了解。救難体制へ切り替えます』
ついさっきまで設備点検だった現場が、その瞬間から救難現場へ変わった。
俺も立ち上がる。
「行きます」
相馬さんが俺を見る。
「ああ」
今度は止めなかった。
神代さんも立ち上がる。
「私も行きます」
「お願いします」
俺は必要な装備を確認しながら、小日向へ聞く。
「リュシアたちは?」
小日向が時間と監視映像を確認する。
「定時連絡までまだ二時間以上あります。境目にも誰も来てません」
人間側の監視設備にはスピーカーがあるので、境目に誰かがいればこちらから話しかけることはできる。
ただし今は誰もいない。
人間側から魔族側の誰かを呼び出す手段はまだなかった。
昨日までなら、当面はそれでも対応できると思っていた。その不足が、こんなに早く問題になるとは思わなかった。
相馬さんが言う。
「向こうが来るのを待って救難開始を遅らせるな。人間側でできることを先にやる」
「はい」
リュシアたちがいなければ何もできない、という形にはしない。
まずはこちらで、行方不明になった設備担当者について分かる情報を集める。
御影ダンジョンへ向かう車の中で、神代さんが聞いた。
「《帰り道》は確認しますか?」
「今は出ないと思います。本人とはまだ合流してませんから」
「事故の映像を見ただけでは、同じ帰還対象にはならない?」
「少なくとも今までの使い方なら、そうです。それに、出たとしても宮坂さんの居場所を探せる能力じゃありません」
神代さんが頷く。
《帰り道》は、遭難者がどこにいるのかを教えてくれるものではない。
本人と合流し、一緒に帰る状態になった時に、全員で帰れる方向を示す。
今回もそこは変わらない。
「まず、宮坂さんがどこにいるかですね」
「はい。境目の向こうに行った可能性は高いと思いますけど、今のところはそれ以上分かりません」
御影ダンジョンへ到着すると、管理棟はすでに救難体制へ切り替わっていた。
現地救難班長が俺たちを迎える。
「設備担当者は宮坂修司さん。三十八歳。御影の設備管理を十二年やってます」
端末に男性の写真が表示された。
短い髪で、作業着姿の男性だった。
事故映像に映っていた設備担当者と一致している。
神代さんが聞く。
「今日の体調や装備は?」
「朝の健康確認では問題なし。作業服、安全帯、ヘルメット、ライト、工具類。飲料水と簡易救急用品も少量持っています」
「携帯通信機は?」
「持ってます。ただ、境目の向こうへ移動したなら使えるかは分かりません」
俺はもう一度写真を見る。
宮坂修司さん。
事故のあと、所在不明になっている。
最後に確認できたのは、崩れた岩盤と一緒に境目側へ滑った姿だった。
俺は宮坂さんを帰す相手として意識したうえで、《帰り道》を確認する。
足元には何も現れなかった。
班長が聞く。
「出ませんか?」
「はい。本人とはまだ合流してないので、今はこれで普通です」
「分かりました」
今必要なのは、光を出すことではない。
まず宮坂さんを見つけなければならなかった。
そこへ、事故現場から撤収した救難員二人が戻ってきた。
回収した安全索も運ばれている。
設備職員が切断部分を確認した。
「一本目は擦過して切れてます。二本目も同じですね。こっちは岩に強く挟まれた跡があります」
班長が聞く。
「固定点は?」
「両方残ってます。安全帯側へつながっていた部分より手前で切断されています」
つまり、安全索そのものに不思議な消え方をした形跡はない。
足場が崩れ、岩に巻き込まれたことで二本とも切れた。
事故として確認できる部分はそこまでだった。
班長が言う。
「境目を通ったかどうかは映像だけでは断定できません。ただ、他に落ちた場所も確認できてない」
「今は事故原因より本人です」
神代さんが答える。
班長も頷く。
「その通りです」
その時、管理棟の端末から警告音が鳴った。
御影側の職員が画面を見る。
「監視カメラに動きがあります」
全員が画面へ目を向けた。
青い境目の向こうにある木々の間から、一人の人影が走ってくる。
銀色の髪が見えた。
「リュシア」
俺が名前を呼ぶ。
リュシアは一人だった。
定時連絡よりずっと早い時間に、息を切らしながら境目へ向かって走ってくる。
収音機の近くまで来ると、すぐに声を上げた。
『ナオト! ソウマ!』
御影側が音声回線を開く。
俺が通信機を取った。
「リュシア、聞こえてる!」
少し間があり、リュシアが安心したような顔をした。
『人間、来た!』
その一言で、宮坂さんが境目の向こうにいることが初めて確認できた。
「さっきこっちから来た人?」
『そう!』
「生きてる?」
『生きてる。でも怪我してる』
神代さんがすぐ聞く。
「どこを怪我してますか?」
リュシアは一度後ろを振り返ってから答えた。
『足。歩けない』
「意識は?」
『ある。話せる』
ここで初めて、宮坂さんが生きていることも分かった。
俺は画面へ少し身を乗り出す。
「どこにいる?」
リュシアは境目から見て左奥を指した。
『近い。でも道、壊れてる』
「リュシアが見つけたの?」
『フェナが見つけた。ザイルもいる。私は先に来た』
向こう側でも、すでに救難が始まっていた。
昨日、向こうにも帰れなくなった人を助ける仕事があると聞いたばかりだった。その話が、今日は人間側から境目を越えてしまった一人に向けられている。
相馬さんが俺の横へ来る。
「リュシアさん。宮坂さんのところまで、こちらの人間が行けますか?」
リュシアはすぐには答えず、境目の周囲を見てから険しい顔で首を横に振った。
『今、危ない。境目の近く、地面また割れた』
「こちら側から越えるのが危険?」
『それも。こっちの道も一つ崩れた』
神代さんが聞く。
「リュシアさんたちで宮坂さんをこちらへ運べますか?」
リュシアは少し考えてから答える。
『今は無理』
「どうして?」
『足、岩に挟まってる』
歩けないだけではなかった。
宮坂さんの脚が岩に挟まれているなら、まずその場から動かせる状態にしなければならない。
リュシアが続ける。
『ザイルとフェナ、宮坂のところにいる。私、助け呼びに来た』
俺は画面の中のリュシアを見る。
三日前は、彼女がこちら側で助けを求めていた。
今度は、人間側から向こうへ来た一人を助けるために、リュシアが境目まで走ってきた。
相馬さんが言う。
「久世」
「はい」
「今度は救難だ」
「はい」
今度こそ俺の仕事だった。
ただし、いつもの救難とは状況が違う。
宮坂さんは境目の向こうにいて、こちらから安全にそこまで行ける道は確認できていない。一方、向こう側ではリュシアたちがすでに本人を見つけ、ザイルとフェナがそばに残っている。
相馬さんが全員を見る。
「まず宮坂さんの状態と、向こう側の道を聞く。人間側が越えるかどうかはそのあとだ。助けたいから先に入る、はなしだ」
「分かりました」
俺も答えた。
救助する側まで帰れなくなる入り方をしても、救難にはならない。
画面の向こうでは、リュシアがまだ荒い呼吸を整えている。
俺は通信機を握り直した。
「リュシア。宮坂さんのところまでの状況を、最初から教えて」
『分かった』
昨日まで「向こうにも救難がある」と話していた相手が、今日は人間一人を助けるために動いている。
境目の向こうで始まった救難を、今度はこちらがどうつなぐのか。
俺たちは、そのための情報を一つずつ確認し始めた。




