第115話 境目の異常
リュシアたちと「向こうにも救難がある」という話をした翌日、御影ダンジョンから連絡が入った。
ただし、救難要請ではない。
午前十時を少し過ぎた頃、救難所へ届いたのは、未記録亀裂に設置している監視設備の異常報告だった。
小日向が端末を持って俺の机へ来る。
「久世さん、御影からです」
「リュシアたち?」
「違います。今のところ誰も来てません」
画面には、御影ダンジョン第五層西側旧採掘区画と表示されていた。
「じゃあ何か出た?」
「監視カメラの映像が今朝から何度か乱れてるそうです。ケーブル側の問題かもしれないんですけど、境目そのものにも少し変化があるかもしれないって」
俺は手を止めた。
「少し変化って、どのくらい?」
「そこを今確認してます」
小日向が映像を開く。
境目手前に設置された有線監視カメラには、青みを帯びた膜のような境目がいつもと同じ位置に見えていた。その向こうには黒い土と低い植物があり、さらに奥には細い木が何本か立っている。
見た限りでは、昨日と大きく変わっているようには見えない。
「普通に見えるけど」
「僕も最初そう思ったんですけど、これ昨日の画像です」
小日向が画面を二つ並べた。
同じ角度から撮影した映像だった。
俺にはすぐ違いが分からなかったが、そこへ来た瀬川が画面の右下を指す。
「境目の端です」
「右下?」
「はい。昨日と今日で位置が違います」
指された場所を見比べると、昨日の映像では青い膜の右端が大きな岩の少し手前で終わっているのに対し、今日の映像ではその端が岩へ近づいていた。
「広がってる?」
「そう見えます。ただ、カメラの角度がずれただけって可能性もあります」
瀬川は断定しない。
そこはいつも通りだった。
小日向が別の記録を出す。
「設備担当が映像上の固定物を基準に比較したら、カメラ自体の位置は大きく変わってないそうです。それでも境目の右端だけ、昨日より二十センチ前後ずれて見えるって」
「二十センチか……」
大きいのか小さいのか判断しにくい。
境目自体、俺たちが仕組みを知っているものではない。
相馬さんが奥の机から声をかけた。
「変わったのは幅だけか」
小日向が振り返る。
「今のところは。あと映像が三回途切れてます。一回目が七秒、二回目が四秒、三回目が十一秒です」
「音声は?」
「映像が切れた時だけノイズが増えてます。有線ケーブル自体は断線してません」
相馬さんが立ち上がった。
「御影につなげ」
「はい」
数分後、御影ダンジョンの管理責任者と現地救難班長が回線に入った。
画面の向こうでは、昨日までと同じ会議スペースが見える。
『こちらでも映像を確認しています。設備担当が亀裂入口側のケーブルと中継機器を調べましたが、そこには異常なしです』
相馬さんが聞く。
「境目手前までは入ったのか」
『まだです』
「それでいい」
即答だった。
『ただ、カメラ側そのものの不具合かどうかは、現地で見ないと分かりません』
「必要なら行く。ただし今日は調査じゃない。設備点検の範囲だけにしろ」
『了解です』
俺は映像を見ながら聞いた。
「境目の向こうは変わってないんですか?」
班長が答える。
『見える範囲では。ただ、昨日まで同じ場所にあった植物が一部倒れてます』
小日向が映像を拡大する。
確かに、境目の向こう側にある低い植物の一部が横へ倒れている。風が吹いただけかもしれないし、魔物が通った可能性もある。それだけでは、境目の変化と関係があるとは言えない。
「リュシアたちが来た形跡は?」
俺が聞く。
『ありません。少なくとも監視映像には映ってません』
「今日の連絡時間は?」
『午後二時から三時です』
まだ数時間ある。
相馬さんが言う。
「それまでは境目に近づくな。向こう側から誰か来るなら、まず話を聞く」
御影側が了承する。
通信を切ったあと、俺はもう一度昨日と今日の画像を見比べた。
差は二十センチ前後しかない。それでも、昨日まで同じ位置に見えていたものが、今日は少し違う場所にあるように見える。
「気になります?」
神代さんの声がして振り返ると、いつの間にか救難所へ来ていた。
「来てたんですね」
「今です。相馬さんから連絡をもらいました」
「仕事早いな」
「境目に変化があったと聞いたので」
神代さんも映像を見る。
俺が昨日との差を説明すると、しばらく無言で二つの画面を見比べた。
「広がったようには見えますね」
「やっぱり?」
「ただ、見えるだけです。現地で測ったわけではありません」
瀬川が頷く。
「そこは記録上も『拡大を確認』じゃなくて、『映像比較上、右端の位置に差異あり』にしてます」
「いいと思います」
神代さんが答える。
最近、全員が言葉に慎重になっている。御影の件が始まってからは特に、一度見ただけの現象をそのままルールや原因に結びつけないようにしていた。
俺は神代さんに聞く。
「もし本当に少し広がってたら、どうします?」
「それだけでは何もしません。ただし、足場まで変わっているなら別です」
俺は画面を見る。
境目の周囲は、亀裂の奥でも比較的平らな場所だった。そこにカメラや収音機、小型スピーカーを設置している。
「設備の下?」
「はい。境目自体が動いたのか、周囲の地形が動いたのか、それとも映像の問題なのか。原因を分けて考えた方がいいと思います」
その通りだった。
境目が広がったように見えるからといって、境目そのものが変化したとは限らない。
相馬さんが言う。
「午後まで待つ。向こうから来たら聞く。来なければ設備担当を入れる」
「俺たちは?」
「まだ行かない」
「はい」
今回は救難ではない。
俺や神代さんが現地へ行く理由もない。
そう思っていたが、午後二時十二分、監視映像の向こうにリュシアたちが現れた。
今日は三人ではなく、リュシアとフェナの二人だった。ザイルの姿はない。
リュシアがいつもの位置まで来る。
『こんにちは』
「こんにちは」
小日向が回線を開き、俺たちは監視画面の前へ集まった。
相馬さんがすぐ本題へ入る。
「リュシアさん。そちら側で、昨日から何か変わったことはありますか」
リュシアは質問の意味を確認するようにフェナを見る。
フェナが境目の周囲を見回し、それから何かを話した。
リュシアが訳す。
『境目、少し大きい』
俺たちは画面を見る。
相馬さんが聞く。
「そちらから見ても?」
『うん』
「昨日と比べて?」
『昨日より』
どうやら映像の問題だけではないらしい。
瀬川がすぐ記録する。
俺が聞いた。
「何か起きたんですか?」
リュシアは首を横に振る。
『分からない』
フェナが持ってきた記録板を見ながら説明する。
『朝、見に来た。少し変わってた』
「夜の間に?」
『たぶん』
「魔物は?」
『近くに足跡ある。でも関係あるか分からない』
そこも決めつけない。
リュシアたちも同じだった。
神代さんが聞く。
「そちら側の足場にも変化がありますか?」
リュシアとフェナが境目の近くを見る。
二人は近づきすぎず、少し離れた場所から地面を確認した。
『少し割れてる』
「どこです?」
リュシアが地面を指す。
人間側のカメラからでも、境目の向こう側に細い亀裂が何本か走っているのが見えた。昨日の映像にはなかったと思うが、少なくとも今の段階では映像を比較して確認する必要がある。
フェナが何か話す。
『深くない。でも昨日なかった』
相馬さんが言う。
「近づかなくていいです。そのまま離れてください」
リュシアが少し不満そうな顔をする。
『私たちの側』
「分かってます。でも今は、そちらも原因が分からないんでしょう」
リュシアは相馬さんを見たあと、素直に一歩下がった。
『ソウマ、ザイルみたい』
「それは昨日も聞きました」
俺は少し笑いそうになったが、相馬さんがこちらを見たのでやめた。
相馬さんは続ける。
「こちら側でも境目の端が動いたように見えています。それと監視設備の映像が何度か途切れました」
リュシアがフェナへ説明する。
フェナの表情が変わり、何かを早口で話した。
『フェナ、そっちの地面も見る方がいいって』
「こちら側も?」
『境目が大きくなる時、地面変わるかもしれない』
「前にもあった?」
リュシアは首を横に振る。
『こんな大きいのは知らない』
その答えで、部屋の空気が少し重くなった。ただ、危険だと決まったわけではない以上、相馬さんもすぐに結論は出さなかった。
「分かりました。こちらでも足場と設備だけ確認します。境目は越えません」
『こっちも見る』
「無理に近づかないでください」
『分かってる』
リュシアの返事は少し不満そうだった。
通信が終わったあと、相馬さんは御影側へ連絡した。
「設備点検を入れる。境目の手前までだ」
『了解』
「人数は」
『設備担当一人、救難員二人で考えてます』
「ロープを使え。境目の周囲に足場変化がある可能性が出た」
『分かりました』
俺が聞く。
「俺たちは行かなくていいですか?」
相馬さんがこちらを見る。
「何しに行く」
「いや、念のため」
「救難対象はいない」
「ですよね」
「ただし、現場で何かあれば話は別だ」
その言葉が少し引っかかった。
神代さんも同じだったらしく、相馬さんを見る。
「救難員を二人付けるなら、現場対応はできますね」
「ああ。久世を最初から何にでも出すな」
それも以前から決めていることだった。
俺がいなくても回る救難を作る。
御影だからといって例外にする理由はない。
午後三時過ぎ、現地班が未記録亀裂へ入った。
俺たちは救難所から映像と音声だけを確認する。
境目までの道は、すでに何度も通った場所だった。十八メートル付近から通常の通信が不安定になるため、現地班は有線の補助回線を伸ばしながら進んでいる。設備担当者の身体には安全帯が付けられ、救難員二人もそれぞれロープを確保していた。
『十八メートル。異常なし』
御影側から中継された音声が入る。
現地班はそのまま慎重に進み、二十メートル地点では床面に大きな変化がないことを確認した。さらに既設ケーブルへ近づくと、設備担当者が外傷や固定具の状態を一つずつ確認していく。
『二十一メートル。ケーブル外傷なし。固定具も問題ありません』
次に、監視カメラの設置位置へ近づく。
『境目確認』
画面が一度ノイズに覆われ、数秒後に戻った。
現場側の補助カメラには、青い膜と既設の監視設備が映っている。
『右側、昨日より広がって見えます』
設備担当者の声だった。
救難員が聞く。
『測れますか』
『境目に近づかなくても、壁の固定点からならいけます』
メジャーのような器具を伸ばし、壁側の基準点から距離を取る。
しばらくして報告が入った。
『昨日の設置記録と比較して、右端が約二十三センチこちら側へ移動しています』
相馬さんが小日向を見る。
「記録」
「はい」
原因はまだ分からないが、映像上だけの差ではないことは確認できた。
設備担当者は続けて、カメラの台座と周囲の床を調べる。
『こっちは……少しありますね』
俺は画面へ目を向けたまま、次の報告を待つ。
少しして、現場から説明が入った。
『カメラ台座の右側、床に細い亀裂があります。昨日の設置写真では確認できません』
神代さんが画面へ少し近づく。
「境目側から伸びてますね」
確かにそう見える。
青い膜の近くから、人間側へ向かって細い線が一本伸びていた。
現地の救難員が言う。
『設備担当、そこから下がってください。一度確認します』
『了解』
設備担当者が後ろへ下がり、救難員がライトを近づけて床の状態を見る。
『幅は数ミリ。今すぐ崩れるようには見えません。ただし、下が空洞かどうかは分かりません』
相馬さんが御影側へ言う。
「今日はそこまでで戻せ」
御影の管理責任者が答える。
『設備の確認は?』
「映像は生きてる。原因が足場側なら、そこで人を置いて直す必要はない」
『了解』
現地へ撤収指示が届き、設備担当者も反対せず、三人は来た道を戻り始めた。
現地班が亀裂の外まで戻ったことを確認したあと、相馬さんが瀬川へ記録内容を確認するよう指示した。
瀬川が端末を見ながら読み上げる。
「監視映像比較上、境目右端に位置変化あり。現地計測にて、前回記録位置から約二十三センチ人間側への差異を確認。監視設備付近の床面に、前回設置時には確認されていない細い亀裂あり。原因不明」
「それでいい」
相馬さんが答えた。
俺も異論はなかった。
今回確認できたのは、境目の右端の位置が前回より人間側へ約二十三センチずれていたことと、監視設備付近の床に新しい細い亀裂ができていたことだけだ。そこから「境目が広がり続けている」「地面が崩れ始めている」「二つの世界が近づいている」といったところまで話を広げる根拠は、まだどこにもなかった。
神代さんが聞く。
「明日はどうしますか?」
相馬さんは少し考える。
「監視を続ける。床の亀裂が広がるなら、カメラをもっと手前へ移す」
「設備担当が入る?」
「必要ならな。ただし次は固定点を二重に取る」
俺は画面を見る。
現地班が戻ったあとの監視映像には、青い境目と、その向こうの黒い土や低い植物が静かに映っていた。昨日までとほとんど変わらない景色に見えるが、実際には境目の位置に差が出ており、こちら側の床にも新しい亀裂が確認されている。
俺たちは昨日、境目を勝手に越えないと決めた。
だから今日も誰も越えなかったし、原因を知りたいという理由だけで向こうへ入ることもしなかった。
それでいい。
ただ、こちらが動かなければ何も変化しないという保証まであるわけではない。
相馬さんが俺の方を見る。
「久世」
「はい」
「また顔に出てる」
「何がです?」
「何か起きそうだって顔だ」
否定しようとして、やめた。
「少しだけ思ってます」
「起きる前から話を作るな」
「分かってます」
今はまだ、誰も帰れなくなっていない以上、俺が救難員として動く場面ではない。
そう思いながらもう一度監視画面を見ると、映像の端でわずかな動きがあった。
「今、何か動きませんでした?」
全員が画面へ目を向ける。
小日向がすぐに映像を止め、数秒前まで巻き戻して再生した。
青い境目の手前、人間側に設置された監視カメラの台座がわずかに傾いている。台座そのものが動いたというより、その下の床が少し沈んだことで傾いたように見えた。
瀬川が直前の映像と並べる。
「位置、変わってます」
相馬さんはすぐ御影側へ連絡した。
「監視設備の周辺、立入禁止範囲を広げろ。今日はもう誰も入れるな」
『了解』
通信を切ったあとも、画面には青い境目が変わらず映っている。
見た目だけでは静かだが、境目の位置が変化したのか、周囲の床が動いた結果そう見えているのか、それとも両方に変化が起きているのかは、まだ判断できない。
相馬さんが画面を見たまま言った。
「明日、足場を確認する」
次にあそこへ入る時には、昨日までと同じ場所だから安全だと思って歩くことはできない。
少なくとも、そのことだけは今回の確認で明らかになった。




