第109話 帰る側へ
翌朝、御影ダンジョンの管理棟へ入ると、会議スペースの机には昨日までとは違う道具が並べられていた。
用意されていたのは、小型の音響装置が二つと、遠隔操作で一定時間だけ大きな音を出せる発信器だった。どれも魔物を倒すための装備ではなく、境目の向こうにいる小型魔物をリュシアの進行方向から離すために準備されたものだ。
リュシアがその一つへ手を伸ばす。
「触らないでください」
「見るだけ」
「昨日も似たようなこと言ってましたよね」
「今日は帰る日」
「それは関係ないです」
リュシアは不満そうな顔をしたが、素直に手を離した。
現地救難班長が机の上へ第五層の図面を広げる。
「昨日確認した境目の向こう側には、例の小型魔物が残っている可能性があります。リュシアさんの話では大きな音を嫌うということなので、今日は境目を越える前に発信器を進行方向とは別の場所へ入れ、魔物が反応するか確認します」
神代さんが聞く。
「反応した場合は、その間にリュシアさんを通す?」
「そうです。ただし、音に反応しない個体が残っていた場合は予定を変更します。今日の目的はあくまでリュシアさんを安全に帰すことなので、無理に予定通り進める必要はありません」
「人間側は境目を越えない方針で変わりませんか?」
「変わりません」
昨日までと同じ答えだった。
それでいい。
リュシアを安全に帰すために必要なところまでは行く。ただし、その先へ俺たちまで入る理由はない。向こうに何があるのか知ることと、リュシアを帰すことは別の話だ。
班長が続ける。
「魔物が残っていた場合、神代さんが境目手前から対応できる範囲なら対処をお願いします。ただし、追って向こう側へ入ることはしません」
「分かりました」
リュシアが机の横へ置かれた自分の剣を見る。
「私の剣は?」
神代さんが答える。
「境目で返します。昨日約束しました」
「今でもいい」
「境目でです」
「ミナミ、頑固」
「今日は否定しません」
俺が少し笑うと、リュシアはこちらを見る。
「ナオトも頑固」
「俺まで巻き込まないでください」
「同じ」
神代さんも小さく笑った。
数日前までなら、こういう会話の途中にも互いへの警戒が残っていた。もちろん今も、魔族という存在そのものについて分かったわけではないし、リュシアの話をすべて確認できたわけでもない。
それでも今日は、正体不明の存在をどう扱うかを話しているのではなく、一人の要救助者をどう帰すかを話している。
そこは明らかに変わっていた。
医療担当者からも最後の確認が入る。
「右脚は昨日より安定しています。脇腹の傷にも悪化はありません。ただし、帰ったあとすぐ長距離を走ったり、長時間戦ったりするのは避けてください」
リュシアが頷く。
「分かった」
「本当に?」
俺が聞くと、リュシアがすぐこちらを睨んだ。
「ナオト、今日はうるさい」
「帰す日だからですよ」
リュシアは少し黙ったあと、仕方なさそうに頷く。
「なら許す」
どうやら許されたらしい。
打ち合わせの最後には相馬さんから通信が入った。
『準備できたか』
「できてます」
俺が答える。
『今日こそ帰せそうか』
「今の条件なら、その可能性は高いと思います」
『その言い方ならいい』
「リュシアには嫌がられてますけど」
『知らん』
相馬さんらしい返事だった。
『向こうへ入る必要はないんだな』
「今のところありません。リュシア本人が、境目を越えれば知っている土地に出られると言ってます」
『なら人間側はそこで終われ。久世、光が向こうへ続いてても追うな』
「分かってます」
『神代さん』
「はい」
『お願いします』
「任せてください」
「俺への信用だけ低くないですか?」
通信の向こうで少し間が空いた。
『帰すことになると、お前は自分まで行きそうだからな』
否定しづらかった。
神代さんを見ると、少し笑っている。
「笑わないでください」
「私は何も言ってません」
「顔に出てますよ」
「久世さんに言われたくないです」
相馬さんが通信の向こうで息を吐いた。
『そういうのは帰ってからやれ』
「すみません」
通信が切れる。
リュシアが不思議そうに聞いた。
「今の人、怒った?」
「たぶんいつも通りです」
「ナオト、よく怒られる?」
「そんなに怒られてません」
神代さんが横から言う。
「注意されている回数は多いと思います」
「神代さんまでそっちに行かないでください」
少し空気が緩んだところで、出発することになった。
今日、亀裂内部へ入るのは班長、神代さん、リュシア、俺、現地救難員一人の五人。入口側には別の救難員が待機し、昨日までと同じ体制を取る。
《帰り道》は、管理棟を出た時点から今日も消えていなかった。第五層へ下り、旧採掘区画へ入っても方向は変わらず、未記録亀裂の方へまっすぐ伸びている。
昨日よりはっきり見える気がしたが、それが本当に光の変化なのか、俺自身が見慣れただけなのかは分からない。
亀裂の前へ着くと、班長が全員を見る。
「今日の目的は一つです。リュシアさんを帰す。予定外の調査はしませんし、途中で条件が変われば中止します」
全員が頷く。
リュシアだけは、しばらく亀裂の奥を見ていた。
「リュシア」
俺が呼ぶ。
「何」
「焦らないでくださいね」
「今日は帰る」
「だからです」
リュシアは少し考えたあと、素直に頷いた。
「分かった」
俺たちは順番に亀裂へ入る。
最初の数メートルは、もう何度も通った場所になっていた。それでも人一人が通るのがやっとの狭さは変わらず、装備を岩壁へ擦らないよう身体を斜めにしながら進む必要がある。
今日はリュシアの歩き方も昨日より安定していた。右脚を少しかばう動きは残っているものの、途中で止まる様子はない。
八メートル地点で班長が全員の位置を確認し、十二メートル地点では入口側との通信状態を確かめる。ここまでは特に問題なく進めたが、十五メートルを越える頃から音声に細かなノイズが混じり始めた。
リュシアは何も言わずに前を歩いている。
ただ、進むにつれて表情が少しずつ変わっていくのが分かった。緊張が強まっているというより、知っている場所へ近づいている安心感の方が大きくなっているように見える。
十七メートルを越えると、昨日と同じように周囲の音がおかしくなった。目の前にいる神代さんやリュシアの足音が実際より遠くから聞こえる一方で、自分の呼吸や装備の擦れる音だけが妙に近く感じる。
身体が少し軽くなる感覚もあった。
リュシアが周囲の空気を確かめるように息を吸う。
「何か分かります?」
神代さんが聞く。
「匂い、強い」
「昨日より?」
「うん。近い」
今回は、その言葉を疑う理由も少なくなっていた。
二十メートル地点へ進む頃には、岩壁の青みも強くなり、湿った草と土、それに冷たい水の近くにいる時のような匂いが奥から流れてくる。
昨日までは異質な空気としか感じなかったが、今日はそれがリュシアの帰る場所の気配なのだと分かっている。
二十二メートル地点へ着くと、班長が一度全員を止めた。
昨日、魔物と接触した場所だ。
神代さんが前方と左右を確認する。
「見える範囲にはいません」
救難員も床を見る。
「足跡は残ってます。ただ、新しいかどうかは分かりません」
班長が頷く。
「予定通り、境目手前まで進みます」
俺たちはさらに奥へ向かった。
二十三メートル、二十四メートルと進むにつれて、岩の隙間には黒い苔のような植物が増え、目の前の青い光も少しずつ強くなっていく。
やがて、昨日確認した薄い膜のような境目が見えてきた。
その向こうには黒っぽい土と背の低い植物が広がり、少し離れた場所には細い幹を持つ木々が立っている。昨日見た時から大きな変化はなく、少なくとも境目のすぐ近くに魔物の姿は確認できなかった。
リュシアの表情が緩む。
「帰れる」
俺は今日は否定しなかった。
「そうですね」
リュシアが少し意外そうにこちらを見る。
「今日は言う?」
「昨日より確認できてることが増えましたから」
「ナオト、少し成長」
「どっちが救助されてる側でしたっけ」
神代さんが笑った。
それでも班長は気を抜かず、予定していた確認へ移る。
「発信器を使います」
救難員が小型の音響装置を取り出した。
境目の向こうにいる可能性のある小型魔物を、リュシアが進む方向から離すためのものだ。
リュシアが境目の向こうを確認し、一方向を指す。
「あっち。右の岩の向こうなら、獣が音へ行っても私の道から離れる」
神代さんが距離を確認する。
「ここから届きます」
「お願いします」
班長が答える。
神代さんは発信器を三十秒後に作動するよう設定し、境目の手前から投げた。装置は青い膜をそのまま抜け、向こう側の黒い土へ落ちると二度ほど小さく跳ね、リュシアが指定した岩の近くで止まった。境目を通過した瞬間にも、見た目で分かるような抵抗や変化は起きなかった。
全員で周囲を警戒しながら待っていると、設定した時間になったところで、向こう側から金属同士を強く打ちつけたような大きな音が響いた。発信器は数秒おきに同じ音を繰り返し、境目を挟んだこちら側まで十分に聞こえてくる。その音量で、周囲の低い植物がわずかに揺れる。
神代さんは剣へ手を添え、リュシアも向こう側を注意深く見つめた。
最初の音が止まり、少し間を置いて二度目の音が鳴る。
しばらくすると、離れた茂みから小さな影が飛び出した。
昨日見た三本指の小型魔物だった。
最初の一体が音のした岩へ向かって走り、その直後に同じ茂みからもう一体が続く。さらに少し離れた植物の陰から三体目も姿を現し、二体を追うように発信器の方向へ走っていった。
三体とも、リュシアが進む予定の方向からは離れていく。
リュシアがその動きを最後まで確認してから言った。
「今なら行ける」
班長はすぐには動かさなかった。
「もう少し待ちます」
「行ける」
「残っている個体がいないか確認してからです」
数秒待つ。
発信器は間隔を空けて音を鳴らし続けている。
周囲の植物に新しい動きはなく、別の魔物が現れる気配もない。
神代さんが境目の向こうを確認した。
「今のところ、他には見えません」
班長がリュシアを見る。
「ここから先、本当に一人で帰れますか?」
リュシアは迷わず頷いた。
「帰れる」
「道は分かる?」
「分かる」
「怪我が悪くなったら?」
「休む。全部走らない」
「魔物が複数出たら?」
「避ける。無理なら隠れる」
昨日までより答えが具体的だった。
勢いで戦うとは言わず、自分が負傷していることも理解している。
班長は少し考えてから神代さんを見る。
「武器を返しましょう」
神代さんがリュシアの剣を外す。
「約束通りです」
リュシアは両手で受け取った。
少し重そうには見えるが、柄を握った瞬間に立ち方が変わった。初めて会った時から近くにあった武器が、自分の手へ戻ったことに安心したようにも見える。
神代さんが念を押す。
「無理に戦わないでくださいね」
「ミナミみたいに?」
「そうです」
「逃げる獣は追わない?」
「追わないでください」
リュシアは少し考えてから頷いた。
「分かった」
この数日で、こちらのやり方を少しだけ覚えてくれたらしい。
俺は《帰り道》を確認した。
淡い光は青い境目を越え、その先へ続いている。人間を帰す時と同じように一本の道が見えているが、今回はその道の先が地上ではない。
俺はリュシアを見る。
「光はまだ向こうへ続いてます」
「町まで?」
「そこまでは分かりません。でも、リュシアが言った方向とほぼ同じです」
「なら大丈夫」
「途中で無理だと思ったら、こっちへ戻れそうですか?」
リュシアは境目を見たあと、少し考えた。
「境目が残ってたら」
その答えを聞き、全員が少し黙った。
一度向こうへ行けば、確実に戻れる保証はない。
だからこそ、俺たちまで一緒に入るわけにはいかなかった。
班長が改めて確認する。
「この境目を越えたら、こちらから助けに行ける保証はありません。それでも行きますか?」
「行く」
リュシアの返事に迷いはなかった。
俺は少し息を吐く。
「じゃあ、俺たちはここまでですね」
リュシアがこちらを見る。
「ナオト、来ない?」
「行きません」
「本当に?」
「本当にです」
俺は境目の向こうを見る。
何があるのか気にならないわけではない。
リュシアの町がどんな場所なのか、魔族がどう暮らしているのか、この境目がどうして生まれたのか。知りたいことを挙げればいくらでもある。
でも、それは今の仕事ではなかった。
「ここから一人で帰れるなら、俺たちまで付いていく必要はありません」
リュシアはしばらく俺を見たあと、神代さんへ視線を移す。
「ミナミも?」
「行きません」
「強いのに?」
「強いから行くわけではありません」
「人間、難しい」
「それはもう何度も聞きました」
神代さんが笑う。
リュシアも少し笑った。
班長が時間を見る。
「発信器が動いているうちに行った方がいいです」
リュシアが頷き、青い境目の前へ立った。
そこで一度、こちらを振り返る。
「ナオト」
「はい」
「帰してくれた」
俺は少しだけ迷った。
町まではまだ距離があるし、完全に帰ったところを見届けられるわけでもない。いつもの俺なら、まだ終わっていないと言っていたかもしれない。
それでも今日は、細かいことを言うのをやめた。
「無事に帰ってください」
リュシアは少し笑う。
「うん」
今度は神代さんを見る。
「ミナミ」
「はい」
「強かった」
「ありがとうございます」
「次は戦う」
神代さんの表情が少し変わった。
「次?」
「また会ったら、比べる」
「戦わなくても話せますよ」
リュシアは少し考えた。
「じゃあ話す」
「それなら」
二人のやり取りを聞きながら、俺は少し気になった。
リュシアは当たり前のように「次」と言った。
また会う方法を知っているのか、それとも単にそうなればいいと思っているだけなのかは分からない。
今は聞かなかった。
リュシアは剣を腰へ戻し、青い境目へ足を踏み出した。
右脚が薄い膜を通り抜け、そのまま向こう側の黒い地面へ着く。続いて身体全体が境目を越えたが、水面のような揺れも強い光も起こらず、見た目だけなら普通の場所を一歩またいだだけにも見えた。
俺はその間も《帰り道》を確認する。
光はまだリュシアの進む方向へ続いている。
向こう側へ出たリュシアは、その場で一度こちらを振り返った。
青い膜一枚を挟んでいるだけなのに、声も姿も急に遠く感じる。
「ナオト」
少し聞こえにくいが、名前は分かった。
「聞こえてます」
「ミナミ」
「はい」
神代さんが答える。
リュシアは二人を見たあと、日本語ではっきり言った。
「ありがとう」
神代さんが少しだけ表情を緩める。
「無事に帰ってください」
俺も頷いた。
リュシアはもう一度笑うと、向こう側へ身体を向けて歩き始めた。
最初は右脚の様子を確かめるようにゆっくり進み、境目から少し離れたところで一度立ち止まる。何かを見つけたらしく剣の柄へ手を置いたが、抜くことはせず、しばらく先を確認してから進行方向を変えた。
低い植物を回り込み、別の場所を通っていく。
「避けましたね」
俺が言う。
神代さんが頷いた。
「みたいですね」
戦わずに済むなら戦わない。
こちらで覚えたことを、ちゃんと使っている。
リュシアはさらに離れていき、細い木々の間へ入っていった。
もう少しで姿が見えなくなる。
その時、《帰り道》の光に変化が起きた。
俺は足元を見る。
境目の向こうへ伸びていた淡い光が、少しずつ薄くなっている。
「久世さん?」
神代さんが俺の様子に気づいた。
「光が変わってます」
「どう変わってます?」
俺は光とリュシアを交互に見る。
リュシアの姿はまだ見えている。
それでも、俺の中ではもう、彼女を一緒に連れて帰る感覚がなくなり始めていた。
境目を越えたからではない。
人間ではないからでもない。
リュシア自身が、自分の知っている場所へ戻り、ここから先は自分の力で帰れると俺が認識したからだと思う。
ただし、それも今は推測でしかない。
しばらくすると、境目の向こうへ伸びていた光が完全に消えた。
「向こうの光が消えました」
班長がすぐ聞く。
「全部ですか?」
「いえ」
俺の足元には別の光が残っている。
さっきまでとは反対方向へ伸びていた。
青い境目から離れ、俺たちが通ってきた亀裂の入口へ向かっている。その先にあるのは、御影ダンジョンの地上だった。
「向きが変わりました。今は地上です」
神代さんも俺を見る。
「私たちの帰り道?」
「そう見えます」
俺はもう一度確認する。
見間違いではない。
リュシアを含んでいた時には境目の向こうへ伸びていた《帰り道》が、今は俺たち残った人間を地上へ帰す方向へ変わっている。
その時、遠くまで進んでいたリュシアが一度振り返った。
声はもう届かない距離だった。
それでも、こちらへ向かって手を上げているのは見えた。
俺も手を上げる。
隣で神代さんも同じようにした。
リュシアはしばらくこちらを見ていたが、やがて前を向き、木々の奥へ歩いていった。
姿が完全に見えなくなるまで、誰も境目を越えなかった。
班長が息を吐く。
「帰りましたね」
俺は足元に戻った光を見る。
いつものように地上へ続いている。
「町に着くところまでは見てませんけど、自分で帰れるところまでは戻せたと思います」
神代さんが少し笑う。
「今日は『たぶん』じゃないんですね」
「これくらいなら言ってもいいかなって」
「リュシアさんに少し鍛えられました?」
「何をですか」
「言い切るところを」
否定しようと思ったが、少しくらいはそうかもしれない。
班長は端末へ簡単に記録を入れる。
「事実としては、リュシアさんが境目を通過し、本人が既知の土地として認識している方向へ移動。その後、《帰り道》の表示が地上方向へ変化、ですね」
「それでお願いします」
「理由は?」
「書かないでください」
「ですよね」
いつものやり取りだった。
今確認できた事実は、それだけでいい。
魔族でも《帰り道》の対象になる。
境目を越えれば帰還完了になる。
異世界へも《帰り道》が使える。
そんなところまで、一度の出来事で決めるつもりはない。
今日分かったのは、リュシアを一緒に帰すつもりで見ていた《帰り道》が彼女の知る土地へ続き、彼女が自分で帰れる場所へ移動したあと、残った俺たちの光が地上へ向いたことだけだ。
班長が言う。
「俺たちも戻りましょう」
「はい」
俺たちは青い境目へ背を向ける。
もう向こうを調べる理由はない。
人間側の地図へ続きを書く必要もない。
今回の目的は未知の土地の調査ではなく、リュシアを帰すことだった。
亀裂を戻りながら、俺は何度か足元の《帰り道》を確認した。
二十二メートル地点を過ぎても、光は地上を示している。十八メートル付近まで戻ると通信機にノイズが入り始め、さらに進むにつれて入口側からの声が少しずつ聞こえるようになった。
十五メートルを越えたところで、通信がはっきりつながる。
『こちら入口、聞こえますか』
班長が答える。
「聞こえます。こちら四人、全員無事です。リュシアさんは境目を越え、自力で帰還可能な地点へ移動しました。こちらも帰還します」
少し間を置いて返事が入る。
『了解』
短い返事だった。
それで十分だった。
八メートル地点を越える頃には音の距離感も元に戻り、やがて亀裂の入口が見えてきた。
外へ出ると、待機していた救難員が人数を確認する。
「四人ですね?」
「リュシアさんは帰りました」
班長が答える。
救難員は一瞬だけ亀裂の奥を見たあと、すぐに頷く。
「了解。こちら四人、全員無事を確認」
昨日までなら、一人少ない状態で戻ってくれば救難失敗だった。
今日は違う。
一人がいなくなったからこそ、俺たちの仕事は終わった。
俺は足元の《帰り道》を見る。
今度こそ迷うことなく、地上へ続いている。
今回初めて、俺たちとは違う場所を帰る先に持つ相手を助けた。
人間ではなく、帰還先も地上ではなかった。
それでも、最後までやったこと自体はこれまでと大きく変わらない。
帰れなくなった相手を見つけ、その人が自分で帰れるところまで安全な道をつなぐ。
そこから先は、本人が自分の帰る場所へ歩いていく。
今回の救難も、それで終わりだった。




